短編小説「雨」



 男の名前は、サエキといった。年は私と同じか、二つ三つ下かも知れない。
 「…で、どこまで話したっけ?」
 「その女性が、お兄さんしか身寄りがなかった、というところですね」
 先を促すために、男のグラスに酒を注ぐ。店はもう、私たち二人だけである。
 「セツコはいい女だったよ。いずれ入籍するつもりだった。でも、子供は早すぎた」
 タバコの煙が円を描く。もう私の顔など見てはいない。ただその煙に向かって、つぶやくように話している。
 「あいつは最後まで堕ろすことには反対だった。俺の子が欲しかったんだ。だけど、俺はかなえてやれなかった」
 「なぜです?」
 「なぜかな…なぜだろう。こんなことになるって分かっていたら…」
 唇を噛む。酒を一気にあおると、私にも勧めてきた。手を振ってそれを断る。
 そのセツコという女性は、流産し、それが原因で死んだ。そういうことらしい。
 初対面の私に、長い時間をかけて、それを語った。
 「お葬式には、行かれなかったそうですね」
 「たぶん…耐えられなかったから。いや、違うな。忘れようとしたんだと思う。逃げ出したのさ」
 こちらを向いて、力なく笑った。初めて見る、表情らしい表情だった。
 私は男に尋ねた。
 「その女性を、愛していましたか?」
 男の視線は宙を漂い、その手の先のタバコで止まった。
 「…愛していた」消え入るようにつぶやいた。
 私は財布から紙幣を取り出し、カウンターに乗せた。もう終電はないが、タクシーを捕まえることはできよう。
 男の背中に声をかけた。
 「遅すぎましたね」
 「ああ。遅すぎた」
 コートを羽織る。外はまだ、雨が降っているのだろう。
 「遅すぎたのは、そのことではないのですよ」
 男が振り向く。
 「その酒には、毒が入っています」
 扉に手をかける。静かな雨の匂い。きっと朝まで降るのだろう。
 背中を向けたままで、言った。
 「私がセツコの兄です」
 店を出ると、灰色のアスファルトにネオンが揺れていた。



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