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1, Unsquare Dance
「『アンスクエア・ダンス』を」
(通好みなリクエストをしやがる)
一体どんな奴がこんな事をするのか、と生島高嶺はピアノのキイに落としていた視線を上げた。
けれど見渡した客席は、照明が絞られているせいで薄暗く、ステージからはそれらしき人物を特定することはできない。
焦れた生島が、チッと舌を鳴らす。
「誰だ、リクエストの主は?」
生島が声を掛けると、すっと長身の男が立ち上がった。人種のるつぼと言われるニューヨークでは2メートル近い男など生島を含めて掃いて捨てるほどいるが、東洋系の男でこんなに背が高いのは珍しい。
ヒューッと生島が口を鳴らした。
「チャイニーズ・ボーイ、粋なリクエストだが、お前ェ、手拍子はできるのかい?」
「それは――、僕に舞台に上がって来いということですか?」
訛の全くないキングス・イングリッシュで答える男に、生島は、やはりな、と鼻を鳴らした。
黒のタートルに黒のスラックス、その上にアースカラーのジャケットという、シンプルだが仕立ての良い服。加えて、肩までのオールバックの髪に縁取られた端正な容貌に漂う、幼い頃からそれなりの教育を受けた者でなければ醸し出せない、どことなく高慢で近寄りがたい印象。
男がハイクラスの人間であるということは、一目で見て取れた生島である。
「ここにはベースとドラムしかいねェ。手の空いたヤツはいねェんだ。しかし、『アンスクエア・ダンス』には手拍子がなくちゃな。リクエストしたなら、それくらいやれるだろ、――チャイニーズ・ボーイ?」
「生憎ですが、僕はジャパニーズです。君と同じにね、生島高嶺君」
チャイニーズ・ボーイ、とわざと連呼する生島に、男はフッと口の端を歪めて舞台に上がった。
「何でオレの名前を――」
「僕だけでなく、ここにいる皆さんにも参加してもらいましょう」
「何っ?」
問い掛けた生島の言葉を無視して、男はくるっと客席に振り返った。
タンタン・ン・タッタ……。
男が8分の7拍子で、手拍子を打つ。
「分かりますね? 皆さん、僕に合わせて、このリズムで手拍子をお願いします。ダメだなと思われる方は叩かれなくて結構。では行きます。――ベース!」
くっと男が右手を振って、思わずその動きにつられたベーシストが、最初のピチカートを弾いた。それに合わせて男が手拍子。追いつくように観客のそれが重なって、男はくっと生島に向けて手を振った。
チッと舌打ちをひとつ漏らして、生島が最初のフレーズを弾く。
何小節かピアノの音が響いて……。
ピアノは休み、と手で指示を出した男がすかさず、ドラム!と目で合図する。
指示通り、ピアノのフレーズが途切れてドラム・スティックの乾いた音が弾ける。観客の手拍子とベースのピチカートの上で、気持ち良さそうにスティック音がダンスする。
ドラムとベースは休み、次はピアノ!
くっと男が生島に手をかざして、苦虫を噛み潰したような顔の生島が最後のフレーズを弾いた。
「グッド!」
コンダクターがタクトを収める仕種そのままに、男は手のひらを小さく握り込んだ。
シンと場内が静まって、やがて弾けるような歓声。ブラボーとアンコールの声が狭いバー一杯に響く。
本来なら演奏に手出しできないはずの自分達がミュージシャンとともに音楽を作り出したのだという興奮が、客の表情から見て取れた。
(何モンだ、こいつ)
生島が、観客に応えて手を振っている男を怪訝に見上げる。
『アンスクエア・ダンス』。――変則拍子の楽曲を得意とするデイブ・ブルーベックの作曲である。ベースとドラムとピアノ、そして手拍子のみ、という至ってシンプルな編成の短い曲だ。
生島は、この曲をリクエストした客に、からかい半分で「手拍子してみろ」と言ったのだ。誰も指揮までやれとは言ってない。
けれど、この三分弱、この男は完璧にステージを自分の物にしてしまった。しかも、観客全てをもオーケストラの一員に変えて、だ。
「いつからここはメトのオペラハウスになったんでェ」
皮肉を漏らす生島に、
「しょってますね。――カーネギーを蹴った君が、一体いつからメトでやれるようになったんです?」
冷ややかな視線で男が答えた。
「何っ?!」
「クラシックの世界から引退して、こんなところでピアノを弾いて満足してる君は、らしくない、と言ったんですよ」
「言わせておけば、この野郎!!」
190を優に越える、熊のような体つきの生島の拳が男の顎に命中する。
「信じられないな。拳で殴るなんて、君はピアニストとしての自覚があるんですか?」
突然のことで口の中を切ってしまったのか、男が手の甲で口の端を拭う。
「うるせェ」
「僕は滅多に指を傷つけるようなことはしないんですが、これが君の挨拶の仕方ならしょうがない。――僕も倣いましょう」
言い終わらないうちに、男のパンチが生島の顎に炸裂した。ひょろ長い体躯に似合わず、男から繰り出された拳はかなりなもので、生島の身体がぐらりと揺れる。
「よくもやりやがったな、テメェ!!」
ペッと血の混じった唾を吐く生島に、
「お互い様でしょう」
フンと男が鼻を鳴らす。
「もっぺん殴る前に名前くらい訊いといてやる。――テメェ、なんて名だ?」
「桐ノ院圭」
「桐ノ院か。……上等だ」
吐き捨てた生島のブローが今度は桐ノ院の腹に命中する。それに呼応するように桐ノ院が拳を返して……。
その先はお定まりの乱痴気騒ぎ。止めに入ったベーシストやドラマー、血の気の多い客まで巻き込んでの大乱闘に発展した。
――これが、生島高嶺と桐ノ院圭の、最初の出会いであった。
2, Cleopatora's Dream
「よう、タカネ、その後、キャノンボール・アダレイはどうしたい?」
「アダレイ?」
「ステージに飛び入りして、あっと言う間に自分のものにしちまった男がいたって聞いたが?」
キャノンボール・アダレイ。一夜にしてスターダムにのし上がった、ジャズ界伝説のサックス奏者だ。
1955年――、フロリダから出てきたばかりのアダレイは、ニューヨークの“カフェ・ボヘミア”でオスカー・ペティフォードのグループの演奏中にアルトサックスで飛び入り参加した。
居合わせた客だけでなく、飛び入りされたメンバーでさえも虜にするほどの素晴らしい演奏で、翌朝の新聞はこの話題で持ちきりだったと言う。
その後のアダレイの活躍は、今更書くまでもなかろう。
「だからアダレイってか? ――アダレイが生きてたら怒って目ェ剥くぜ、マル。あいつはただの棒振りなんだぜ」
「ほう……、指揮者か。それでどうやって客を唸らせたのか、興味があるね。――いや、惜しいことをした。わしの留守中にそんな一大イベントがあったとはな……」
「すまん。オーナーが出稼ぎに行ってるうちに、騒ぎを起こしたのは悪いと思ってるよ、マル」
マル、と呼ばれた男が、構わんよ、と口の端を持ち上げた。
「なかなか楽しい晩だったそうだな、タカネ。そういうファンキーなステージは、ここ20年ばかりやっとらんなぁ。――わしもあと30若けりゃ仲間に入ってやっとるのに……。のう、ベン?」
「そうですね」
ベンと呼ばれた初老のバーテンがにこやかに笑って、マルにグラスを差し出した。
“ビッグ・ベン”という名のこの店は、名義上はジャズピアニストであるマルの持ち物になっているが、実質的にはバーテンを務めるベンが切り盛りしていた。カウンターに十席、テーブルが五つという小さな店だが、店の奥にはちゃんとしたステージがあって、デンとグランドピアノが据わっている。
夜毎ここで繰り広げられるジャム・セッションには、名前を上げるだけでビックリするような連中もたまに参加するのだが、いつもそんなすごい演奏が聴けるという訳でもない。基本的にノーギャラなので、普段は無名の、上を目指して頑張ってる若手がほとんどなのだ。――だからこそ、この店は面白いとも言えるのだが……。
店の名の由来が気になるという人は、一度“ビッグ・ベン”を訪ねてみるといい。ニューヨーク一のカクテルを作ると評判の、黒い衝立のように立ちはだかるバーテンの姿を見れば、一目で納得するだろう。
「ベン、オレにももう一杯。――ブランデー・ジンジャー、ミストでな」
ちゃっかりマルに便乗しておかわりを頼む生島に、頷いたベンがクラッシャーで氷を削る。クラッシュドアイスが満たされたグラスにブランデーとジンジャエールを注いで、マドラーで軽くステア。
全く無駄のないベンの動きに、頬杖をついた生島がニヤリと笑う。
「うまいな」
差し出されたグラスに口をつけて唸る生島に、目尻の皺を微かに深めてベンが微笑んだ。
「ところで、そいつはお前さんに何を弾かせたんじゃね?」
マルが、手元のバーボンを一口含んで、元は肌の色と同じく黒かった、今は殆ど白髪になってしまった髭を撫でつける。
「『アンスクエア・ダンス』さ」
ケッと吐き捨てるように言って、生島が目の前のグラスを一気に干した。
「ブルーベックの、かね」
「そうだよ。リクエストしてきたんで、手拍子打てよって言ったら、あいつは観客まで巻き込んでまんまとオレ達を指揮していきやがったんだ。ここはメトじゃねェんだって皮肉ってやったら、カーネギーを蹴ってこんなとこで弾いてるオレは何だって言いやがった」
「だから、喧嘩したのか。タカネ……」
「そうさ。顔、ぶん殴ってやった」
「お前――」
「分かってるよ、ピアニストなんだから指は大事にしろってんだろ? でもな、こんなとこ、なんて言いやがったアイツは許せねェ。オレはピアノが好きだ。だから、ピアノがあってスピリチャルな客のいるとこなら、オレはどこでだって弾くぜ。だがな、メトやカーネギーなんていう、着飾った上流の人間がステイタスのためだけに聴きに来るようなところはゴメンだ。それに、ここは死んじまった親父とおふくろの愛した52丁目なんだ。こんなとこ呼ばわりされて黙ってられっかよ!!」
「それは失礼しました。ぼくはそういう意味で言ったんじゃなかったんですが――」
カランとドアに着いた鈴を鳴らして入口から現れた男の声に、カウンターに腰かけた二人とベンが一斉に振り返った。
「何だ、またお前ェか」
生島の言葉に、こいつか? とマルが目でベンに問うて、ベンが静かに頷く。
「この間の非礼はお詫びします、高嶺。――『クレオパトラの夢』をお願いできますか?」
生島の隣に陣取ってそう告げる桐ノ院に、
「イヤだね。まだ営業時間じゃねェんだ。オレのピアノが聴きたかったらもっと遅く来な。もっとも、そん時はリクエストなんか受けつけねェがな」
元来、生島はリクエストは一切受けない。自分の弾きたい曲を弾きたいように弾く。先だっての夜、桐ノ院のリクエストに生島が応えたのは、ほぼ奇跡と言っても差し支えなかった。だから、普段は決しておしゃべりではないベンが、公演旅行から戻ったマルにあの夜の出来事を漏らしてしまったのだ。
「タカネ、弾いてやりなさい」
突っ撥ねる生島に、マルが促した。
「マルの頼みでも弾けないね」
「わしの頼み、ではない。客のオーダーだ。そして、お前の仕事は何じゃ?」
この店でピアノを弾く。それと引き替えに衣食住を保証する。そういう契約だった。
父親と母親を亡くした自分を拾ってくれたマルは、オレは乞食じゃねェ、と訴える十五の生島に、それならわしの代わりにピアノを弾け、と言ったのだ。くだらない意地を張って、マルとの約束を破る訳にはいかない。
「――分かったよ」
チッと舌打ちをひとつ漏らして、生島がピアノスツールに腰掛ける。
「お若いの、何を飲むね?」
ポロンと生島が指ならしをする間、マルが桐ノ院に酒を勧めた。
「サラトガ・クーラーを」
桐ノ院のオーダーに、ライムジュースを絞ったベンが、氷の入ったグラスにシロップとジンジャーエールを注ぎ入れる。軽くステアしたグラスに、キュッとライムを一絞りして、ベンはグラスを桐ノ院へと差し出した。
「おやおや、わざわざバーに来といて、ノンアルコールかね?」
「酒はピアノを聴き終わってから戴きます。――アルコールに邪魔をされる訳にはいかない」
真剣な瞳をした桐ノ院に、マルは、おや、と目を細めた。
「そろそろ行くぜ、いいか?」
指ならしを終えた生島が振り返って、どうぞ、と桐ノ院が答える。と当時に、コロコロと転がるような音で始まる、クレオパトラの夢――。
ペダルを全く使わず、右手でホーンライクなアドリブ、左手でコードを鳴らすという、ブロック・コードの典型的なバップ・ピアノ・スタイルで、生島が馴染みのスタンダードナンバーを奏でる。
やがて最後の一音を収めて、どうだい、とでもいうように生島は振り返った。
「今度はエバンスの……、そうだな、『コムラード・コンラッド』がいい。――お願いします」
すかさず、桐ノ院が二曲目をリクエストする。
その桐ノ院の横顔を面白そうに眺めて、マルは干したグラスをベンに差し出した。そんなマルに応えて、ベンが薄く微笑む。
後ろでやり取りされたマルとベンの様子にも気づかずに、生島は二曲目を弾き始めた。先程とは打って変わった、フル・スケール・スタイルの奏法で、ロマン派と讃えられたエバンスのオリジナル曲を奏でる。
「やはりな」
「何が、やはり――、だ」
二つの曲を聴き終わって呟く桐ノ院に、生島が思わず問いを漏らす。
「君はやはり、クラシックに向いてますよ、高嶺」
「何言ってやがる。そんなことが解る訳――」
言い掛けて、生島はハッと口をつぐんだ。
まさか――。
「お前ェ、オレを試しやがったな?」
ジロリと見上げる生島に、
「試されたことも解らないような君だったらどうしようかと思いましたよ」
しれっと桐ノ院が口の端を歪めた。
ジャズピアノ史上、大きく並び立つ二人の巨人、バド・パウエルとビル・エバンス。
“モダン・ピアノの開祖”と呼ばれるバド・パウエルの奏法は、ペダルを全く使わないブロック・コードで、対するエバンスはピアノの機能を全て使うというフル・スケール・スタイルである。どちらがよりジャジーであるかという命題はさておき、どちらがよりクラシックの奏法に近いかと問われれば、エバンスの方に軍配が上がる。
(オリジナルに忠実に弾くんじゃなかった。『クレオパトラの夢』、思いっきりフル・スケールにアレンジしてやりゃ良かったぜ)
二つの全く異なるタイプの曲をリクエストした桐ノ院の意図を今更ながらに読み取って、生島は舌打ちを漏らした。
「高嶺、どうしてクラシックの世界から退いたんです?」
今度はジン・バックをお願いします、とベンに告げて、桐ノ院がカウンターのスツールに腰掛けた生島へと向き直る。
「オレはもうごめんだ。あんな、高い金取る音楽だけが高尚で面白いモンなんだ、なんて勘違いしてる連中とは、金輪際一緒にやりたかねェんだ」
ベン、オレにはブランデー、ミストでな、と告げて、生島は桐ノ院へと出されたナッツの皿を引き寄せた。
「君の『耳が腐る』の一言で楽器を捨てた連中の話は聞きましたよ。ヤコブ・マイヤーですら袖にしたそうですね。――そんなに下手でしたか、彼らは?」
「下手以前の問題だ。マインドが感じられねェ。いくら技術があっても、あんなのは音楽じゃねェ」
ケッと吐き出した生島に、フッと桐ノ院が目を細める。
「僕も君と同じです。僕のオーケストラにはスピリッツのあるピアニストが欲しい。噂を信じてニューヨークまで来た甲斐がありました。君に出会えて僕はとても嬉しいですよ。――高嶺、是非、僕のオケに来てくれませんか?」
「お前のオケって、一体何処でェ? ニューヨークフィルか? ボストンか? バーンスタインや小澤が常任を下りたって噂は聞かねェな」
「まだありません」
からかう生島の台詞に、ゴクリとグラスの中身を一口流し込んで、桐ノ院が口を開いた。
「そんなこったろうと思った。――帰んな。お坊っちゃんの道楽につきあって遊んでる暇はねェんだ」
「これから作るんです」
「二人だけのオーケストラか? へっ、冗談はよせよ、ピアノとコンダクターだけのオケなんざ、聞いたことがねェぜ」
「諦めませんよ、僕は。君がOKと言うまで何度でも通って来ます」
「無駄だ、無駄だ。とっとと日本に帰んな」
「どうしたら僕のオケで弾いてもらえますか?」
ひらひらと手を振る生島に、桐ノ院が真剣な瞳を向けた。
「そうさな、一週間でオレより多くのヤツをモノにできたら考えてやらんこともないな」
ニヤリと親指を立てて笑う生島に、
「それは、僕に男の恋人を作ってこい、ということですか?」
桐ノ院が眉を寄せる。
「男と寝るなんざ、お固いジャパニーズの坊ちゃんには無理だろ。――話は終わりだ。帰った、帰った」
してやったりと口の端を吊り上げる生島に、桐ノ院は考え事をするような格好で指を顎に当てた。
やがて、うん、と一つ頷いた桐ノ院が、生島に向かって口を開く。
「一週間に君より多く男の恋人を作ったら、僕のオケに来てくれるんですね。――高嶺、男に二言はないですね?」
「おうよ!」
「――やりましょう」
「何?!」
「女を口説いて来い、と言われたらどうしようかと思いましたよ」
フッと口の端を歪めて、椅子から立ち上がった桐ノ院が自分の前髪を掻き上げる。
「また来週会いましょう。――僕のオケの専属ピアニストになってもらいますよ、高嶺」
自信たっぷりに言って、桐ノ院は踵を返した。
「――マジかよ、おい」
「しっかり、マジだったな、やっこさん」
桐ノ院の出ていったドアを茫然と見遣る生島の一人言に、今まで二人のやり取りを無言で聞いていたマルが答える。
「あいつかい、例のアダレイは……。いや、面白い、実に面白い。――なあ、ベン?」
はっはっはっ、と高らかにマルが笑って、口許に笑みをたたえたベンが、おかわりのグラスをテーブルに滑らせた。
3, Comrade Conrad
「くっそー」
一週間後の夜、生島は“ビッグ・ベン”のカウンターで、熊のように唸っていた。
信じられないことだが、例の“男の恋人作り競争”で、生島は桐ノ院に負けてしまったのである。
『わりーな、タカネ。でもこいつも巧くってさー。オレ、腰が抜けるまでやっちまったよ』
――と、馴染みの男にまで言われてしまった生島の気持ちを察して頂きたい。
まあそんなこんなで、生島には気の毒だが、“生島高嶺候補、一票差で落選”と相成ってしまったのである。
「約束ですよ、高嶺」
「何がだ」
「僕の専属ピアニストになる約束です」
うるうると唸り続ける生島に、涼しい顔をした桐ノ院が追い打ちをかける。
「へっ、そんな口約束、オレが守るとでも……」
「君は一見いい加減そうに見えますが、約束を破る人ではない。――でしょう?」
振り返って同意を求める桐ノ院に、マルとベンが静かに頷いた。そんな二人に、桐ノ院がほっと息をつく。
「知らねーよ」
桐ノ院から顔を背けて、駄々っ児のように生島がふて腐れる。
「待ってますよ、高嶺。――僕は日本で、君を待っています」
「行かねーよ」
桐ノ院の言葉に、生島がフンと鼻を鳴らす。
「来ますよ、君は。君も僕と一緒に音楽をやりたいはずです。本当の音楽をやるために、君はきっと来る」
自信たっぷりに言ってポンと生島の肩を一つ叩くと、ごちそうさまでした、お元気で、とマルとベンに告げて、桐ノ院は踵を返した。
「日本になんて絶対行かねーんだからな、オレはー」
戸口に向かって叫ぶ生島に、待ってますからね、と目の端で笑って、桐ノ院は“ビッグ・ベン”のドアを閉じた。
「行かねーよ。……行けねーんだよ、オレは」
ボソッと呟いて、生島はテーブルの上のグラスを干した。
4, We will Meet Again
「久しぶりに、わしも一曲リクエストさせてもらおうかな、タカネ」
桐ノ院圭がニューヨークから去ってほぼ一ヵ月が経った頃、店が引けて明け方近くなった“ビッグ・ベン”で、客の残したグラスを片してテーブルの上を拭いていた生島に、カウンターでバーボンのグラスを舐めていたマルが口を開いた。
「マルがリクエストくれるなんて久しぶりだな。――いいぜ、何を弾く?」
「『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』を」
「辛気臭ェ曲、リクエストすんなぁ、マル。知り合いの誰かがおっ死んぢまったのかい?」
ゲラゲラッと冗談を吐きながら、生島がピアノの蓋を開けた。
『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』――“また逢えるさ”。ジャズ・ピアニストのビル・エバンスが亡き兄ハリーに捧げて作曲したスロー・バラッド。クラシックで言うならレクイエムだ。
「死んじゃいない。だが、暫くここを離れる友達がいるんでね」
「誰だい、そいつは?」
「タカネ・イクシマ」
「何言ってる……」
マルの言葉に、生島が指ならしに弾いていたピアノの音が途切れる。
「行くんじゃろう?」
「オレが? 一体どこへだい」
「日本」
「何を言うかと思ったら……。もうボケたのかよ、マル。トシはとりたくね――」
へっと笑いかけて、生島は思いついたように口をつぐんで振り返った。
「だからか?」
「何がじゃ?」
「だから、“また逢えるさ”をリクエストしたのか、マル? オレに、あいつに会いに日本まで行けって言ってんのかよ?!」
「わしは、わし等も“また逢えるさ”と言ったんじゃよ」
「マル……」
「年寄りをいたわってくれるのはありがたいが、生憎わしもベンもまだ若いんでな、お前がもう一度“世界の生島高嶺”になってカーネギーに戻って来るのを待つくらい、屁でもないぞ」
「そんなんじゃねェよ!!」
自分がニューヨークを離れたがらなかった理由の一つをズバリと突かれて、生島はぷいとふて腐れるように横を向いた。
「そうか。――タカネはもう世界一のピアニストになる自信がないんじゃな。いや悪かった、悪かった。年寄りは欲が深くていかんな」
やれやれとマルがかぶりを振る。
「しかし、もうここでは弾くことはならんぞ。わしの店はスピリッツのないプレーヤーの演奏はお断わりだ」
「オレがいつ、そんな演奏したよ、マル?!」
いきなり真剣な瞳で告げたマルに、生島は噛み付いた。
「わしは嘘は言っとらんぞ。ここ一ヵ月のお前の演奏は丸っきりうわの空でなっとらん。心ここにあらず、が見え見えじゃ。それはお前がいちばんよく知っとるだろう?」
「ファッキン!」
図星を指されて、憤った生島がガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。その音に、カウンターの中で黙ってグラスを磨いていたベンが、ピクリと指の動きを止める。
「何故追い掛けて行かん」
怒って戸口へと出て行き掛ける生島を、マルが呼び止めた。
「ヤツはオレのタイプじゃねェんだぜ、マル。タイプでもねェ男のために、捨てられた女がノコノコ男の尻追っかけるようなマネができっかよ!!」
両の拳を握り込んで、生島がマルへと振り返った。
「誰が性嗜好の話をしとる。――ヤツと一緒に音楽をやりたいんじゃろう、タカネ。やっと同じスピリッツを持つヤツを見つけたというのに一体、何をグズグズしとるんじゃ」
「らしくないですよ、タカネ」
追い打ちを掛けるようなベンの言葉に、生島はダーッと床を踏み鳴らした。
「あぁ、もう!! 分かったよ、なってやるよ、世界一のピアニストになって戻ってくりゃいんだろ! あの棒振り野郎と世界一のオケを引っ提げて、この店で凱旋コンサートやってやる! ――マル、その時まで、このオンボロピアノ、スタインウェイに替えとけよ!!」
「C型でいいのか?」
逆上して吐き捨てる生島に、マルがしたり顔で微笑んだ。
「Dだ! いちばんデカいD型のスタインウェイだ。とびきりの調律師手配して、首を洗って待ってろ!」
「楽しみにしとるよ」
スッと、笑顔のマルがカウンターテーブルの上に滑らせたのは、日本行きの航空券。
「マル……」
「どうせ、日本までのチケット買う金も持っとるまい、お前さん。出世払いで貸しにしといてやる、持って行け」
「そしてこれは私から……」
チケットの上に重ねられた、厚めの封筒。共に差し出された、生島の好きなブランデー・ミストのグラス。
「ベン……」
生島が顔を向けると、私も出世払いで結構ですよ、とベンが微笑んだ。
「こんなことしやがって……。オレが日本でのたれ死んだらどーすんだよ。戻ってこねーぞ、この金。知らねーぞ、老後の蓄えをこんなことに使っちまって……。あぁ、もう、ホントに、どいつもこいつもバカばっかで、参っちまうぜ!!」
ガラにもなくこみ上げそうになった涙を押し留めようと、生島は額に手を当てた。
「お別れだ、タカネ。――さ、またここでお前に逢えるように、弾いておくれ……」
バカみたいに突っ立ったまま、ブツブツと一人言をくり返す生島に、歩み寄ったマルはポンポンと背中を叩いた。
「今度会うときは世界一のオケと一緒ですね」
マルに促されるままピアノスツールの腰掛けた生島に、カウンターの中からベンが微笑む。
「ホントに……、おめーら、バカだよ」
悪態という名の最大の愛情表現を漏らして、二人のリクエストに応えるべく、生島はピアノに指を落とした。
指先から紡ぎ出されたメロディは、――エバンスの『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』――“また逢えるさ”。
ニューヨーク最後の夜。
生島はピアノを弾いた。
ここで自分の成功を待っていると告げた老ピアニストと、馴染みのバーテンと、しばらく会うことは叶わない大きな林檎の木――ビッグ.アップル――へ、同じ思いを込めて……。
きっとここに帰ってくる。
だから――、
また逢えるさ、と。
――また逢えるさ――了
【コメント】
これを書いたのは、まだフジミ本編の第1部も終わっていない頃、まだ、毎隔月に小説JUNEを購入していた頃だったと思います。NYから来たという天才ピアニスト、生島高嶺登場の回で、一発でこの人に惚れこんだ私が、未だ明らかにされない高嶺の過去にアレコレ思いを巡らせて書いたのが、この話だったのです。
という訳で、原作で、その過去が明らかにされた今、「コレは一体なに?」と、フジミをご存知の方は思われるかもしれませんが、たかのの思い描いていた高嶺は、容貌や言動は粗野だけれど、スピリッツのあるスマートな人だったんですよ(笑)。
出身がNYということで、私の好きなジャズをバンバン出しまくりました。この中で登場してるピアニストのマルは、ジャズファンなら一目でおわかりの、マル・ウォルドロンです。
フジミには関係ないですが、ブルーノート福岡で見た彼の演奏は、多分、一生忘れられないですp(>_<)q
バーテンのベンは、九州一旨いカクテルを作る北九州のバーテンさんのお店、『ビッグ・ベン』から拝借しました。タクミくんでもしょっちゅう登場するカクテルのイロイロは、この方から教わったのですよ、私は(笑)。
おつまみのガーリックトーストとピッツァを頑固に手作りし、カクテルに必要なハーブまで栽培する頑固職人のような彼のカクテルが飲みたい方は、是非一度、北九州においでください(^-^)/~
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(1999/09/25)
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