「東京駅にコンサートを聴きに行きませんか?」
「東京駅でコンサート?」
「ええ、東京駅でコンサート、です」
 にっこりと笑う僕に、恋人は怪訝に首をかしげた。

 秋も深まったある日、僕こと桐ノ院圭は、自分が常任指揮者を務める富士見二丁目交響楽団――通称フジミ――のコンサートマスターであり、最愛のバイオリニストである恋人の守村悠季を伴って東京駅を訪れていた。
 目当ては、誘いの言葉通り、クラシックコンサート。
 “音楽出張出前論”を提唱してきた作曲家、團伊玖磨氏の援助を得て1987年よりスタートした東京駅コンサートこと「とうきょうエキコン」。
 春と秋、毎週火曜日の夜、東京駅北口ドームにおいて無料で催される、小さなクラシックコンサートである。
 
「うわぁ……」
 東海道線を降りて北口改札を抜けたところで、隣の悠季が感嘆の声をあげた。
 ルネッサンス様式の色濃い、八本の柱でぐるりと囲まれた丸の内北口ドーム。八角形を構成する二階部分のクリーム色の壁には各々三つの窓が覗き、三階に当たる部分には綺麗な放射を描いて広がるオレンジ色のドーム天井が見て取れる。
 その北口ドームいっぱいに満ちるテノール。
 ピアノ伴奏のみの殆どア・カペラと言ってもよいその歌声には、帰宅を急ぐ通勤客もつい足を止めて聴き入ってしまうほどの魅力があった。
「人間の声に勝る楽器はないと言いますが、これはまた――」
 黄金のトランペットと讃えられたマリオ・デル・モナコ。僕がその存在を知ったのは彼の没後であったので肉声を聴く機会には恵まれなかったが、現存するCDで歌声は知っている。
 この歌声は彼を彷彿とさせる。
 現代最高のテノール、“キング・オブ・ハイ・C”の異名を持つパヴァロッティのような澄んだ高音ではないが、華がある。
 時折危うさを見せながら、けれど決してそれが不快ではない、地中海の風を思わせるような爽やかな歌声だ。
「素晴らしいな」
「本当だね」
 傍らの悠季が溜息混じりに頷いた。
「ほう」
 『オ・ソレ・ミオ』が終わって、『歌の翼に』が流れ始めて、僕はまた思わず目を細めた。
 先程とは打って変わった思索的で味わい深い歌声。
 ドイツ歌曲の魅力を余す事なく伝えるこの技量には、正直、畏れ入る。噂を聞いて聴きに来たが、まさかこれほどとは思わなかった。
「これは、次に何を唄うのか、楽しみだ」
 『愛の喜び』、『わすれな草』、『衣裳をつけろ』と聴き終えて、ブラボーの歓声が響く中、僕は隣の悠季をそっと振り返ってみた。
「あ……。いやだな、圭、そんなふうに見るなよ」
 まじまじと見つめる僕に、眼鏡を拭く仕種でこっそりと悠季が涙を拭う。
「いえ、僕も泣いてしまいそうでしたので、君はどうかと――」
「素晴らしいね」
「はい、本当に」
 本当に、このテノールは素晴らしい。
 『衣裳をつけろ』――レオン・カヴァレロ作のオペラ『道化師』のハイライトで唄われる、世界初のミリオンセラーを獲得した有名なアリアである。
 妻が他の男と密会していることを知った道化師の嫉妬と悲しみ、そして、そんなときですら道化の衣裳を身につけて客を笑わせなければならない男の苦しみを唄ったものだが――。
 この、何とも表現しようのない感情をほとばしるように歌い上げたテノールに、僕も惜しみない拍手を贈りたい。
「僕たちもこんな演奏をしたいね」
「僕のフジミなら、やれます」
「君の、じゃない、皆の、だよ」
「はい……」
 嗜められて、僕はふっと笑みを漏らした。
 この歌声を聴いて思わず涙をこぼすほどの感性を持った君と出会えたこと、また、そんなふうに不遜な僕を諫めてくれる君に出会えたことが嬉しくて――。
「何笑ってるのさ、圭。アンコールが始まるよ」
「――はい」
 自然と緩んでしまう口許を引き締めて視線を戻すと、中央の舞台ではテノール歌手がアンコールに応えて手を振っていた。
「……このとうきょうエキコンに参加できて、また皆様からこのように盛大な拍手を頂けて私は幸せです。いつもお忙しく駅を通り過ぎる皆様が、私の歌で少しでも心休まるひとときが持てたのであれば本当に嬉しい。駅は通り過ぎるだけではなく、出会いの場であり、また、立ち止まって休むことのできる憩いの場所でもあるのですから……」
 挨拶の後、このコンサートを締めくくった歌声はシューベルトの“冬の旅”より『菩提樹』。
 何とも――。
 締めくくりの言葉に合わせたかのようなこの選曲に、僕は正直参ってしまった。
 けれど、本当に気分の良い降参だ、これは。
 
 
「東京駅って、こんなに綺麗だったんだなー
 とうきょうエキコンの鑑賞を終えて、ここは南口ドームを望む東京ステーションホテル内のバー、『オーク』。
 今はもうここでしか飲めなくなったミルク入りのジン・フィズを片手に、傍らの悠季が頬杖をついた。
「何がです?」
「『歌の翼に』が流れてきたとき、吸い込まれそうな歌声に思わず目を閉じて聴き入っちゃって……、ふっと目を開けて見上げたらあんなに綺麗なドームだろ。アンコールの挨拶じゃないけど……、いつも忙しく通り過ぎるだけだから、ここにホテルがあるのも知らなかったし。上京して随分経つのに、北口改札のドームがあんなに綺麗だなんて、今日の今日まで知らなかったよ、僕」
「辰野金吾博士の設計ですからね」
 手元のジン・バックを一口流し込んで、僕は口を開いた。
「詳しいんだね、圭」
 今を溯ること80年前、1914年12月20日に開業した東京駅は、工学博士である辰野金吾氏によって設計された。東京ドームの5倍という敷地面積を誇るルネサンス様式、赤煉瓦3階建ての駅舎は、1923年の関東大震災、そして1945年の東京大空襲の折にもビクともしなかったという。
「そうですか? 誰でも知ってると思いますが――」
 僕の言葉に、バーテンが小さく微笑む。
「僕は知らなかったよ」
 カウンターの内と外とで交わされた視線に、いささか憮然として悠季が口を開いた。雲行きが怪しくなりそうな恋人の気配に、僕は慌てて話題を変える。
「ところで悠季、上京したとき、列車の終着駅はどこでした?」
「新潟からだから、上野だよ」
「それでは帰省のとき、富士見町から上野に出るまで大変でしょう」
「うん、最近、東京駅接続の便もできたけど、やっぱり上越新幹線は上野発が多いから……、上野に着くまでの乗り換えがひと仕事だね」
「東京駅が出来るまでは、乗り換えすらできなかったそうですよ、悠季」
「え?」
 鉄道網が発達した現在からは想像もつかない話だが、明治の頃、中央停車場(東京駅)ができるまで上野・青森間を貫く東北線と新橋・神戸間を貫く東海道線は繋がっていなかった。それぞれの起点となる新橋、上野の両駅は都心からやや離れ、お互いの連絡もなかったというから、当時の人の旅がいかに大変であったか、想像に難くない。
 堅牢さと華麗さを兼ね備え、日本の北と南を初めて一本に繋いだ駅、それが東京駅なのである。しかし、一日180万を越えるという乗降客の、一体何人がこの事実を知っているだろう。
「新橋から上野まで線路がなかっただなんて、神戸から青森まで行きたい人は、一体どうやって上野まで行ったのかな……」
 ざっと東京駅の歴史を話して聞かせると、悠季は小さく溜息をついた。
「さあ、馬車か徒歩か。どちらにしろ、明治の人の旅はさぞ大変だったでしょうね」
「うーん、そう考えると、駅って侮れないな。ただ線路が繋がるってだけじゃなくて、そこに駅があることで人の出会いが広がるんだねー。――これは東京駅に限ったことじゃないけど」
「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみのなかに そを聴きにゆく、――か」
「啄木が、何?」
 ボソリと呟いた僕に、悠季が怪訝に首をかしげた。
「今の君の言葉に、ふと思い出したんですよ。――いつも雑事に追い回されて行き過ぎるだけだから、駅の果たしてくれているこんな大きな役割を、僕達はつい忘れてしまうな、と」
「――東京駅がこんなに綺麗だっていうことにも気がつかない」
 ね? と微笑む悠季に、僕は笑みを返した。
 こんなとき、悠季を愛してよかったと思う。
 いや、愛してよかった、ではないな。
 愛している。
 理屈ではなく、自らの深いところから湧き上がる想い――。
「そろそろ出ましょうか」
 小判型のメダルが付いたキーを手に、僕は悠季を促して立ち上がった。
 
 
「部屋まで取ってあるなんて――」
 あらかじめフロントで指定しておいた三階の客室。
 上着をソファに置いてネクタイを緩めた僕を、ドアの前で佇む悠季が小さく睨んだ。
「贅沢だって叱るのは、これを見てからにしてもらえませんか?」
「え?」
 疑問符を顔に浮かべた悠季を素早く抱き上げて、僕は二つあるうちの窓際寄りのベッドへと歩み寄った。
「ちょっと、圭、何す……」
 ホワイトキルトを施したベッドスプレッドの上に仰向けに投げ出された悠季が、慌てて身体を起こそうとする。させまいと僕は悠季の上にのしかかった。
「いいから。そのまま上をごらんなさい」
「え?」
 僕の言葉に、悠季がふっと天井を見上げる。その視線が天井までの大きなガラス窓に移って――。
「あ――」
 悠季は納得したような吐息を漏らした。
「綺麗でしょう?」
 ベッドの上に投げ出されていた手に手のひらを重ねて、僕も悠季の横に仰向けになった。見上げた窓の向こうには、先程北口改札を抜けたときに見上げたのと同じオレンジ色のドーム。
 北口ドームと対になった、南口ドームだ。
「もしかして、このために――」
「はい」
「バカだ、圭」
「やっぱり叱られてしまいましたか」
 やれやれ、と空いた片手で頭を掻くと、悠季は繋いだほうの手をぎゅっと握りしめた。
「悠季?」
「叱ってるんじゃないよ。ただ、君は僕を甘やかしすぎるから……」
「甘やかしてなどいないつもりなんですが……。ただ、君が気に入るだろうなと思ってですね」
「そういうのを甘やかしてるっていうんだよ」
 半身を起こして覗き込む僕に、悠季が困ったように目を伏せる。
「甘やかしてはいけませんか?」
「だめだよ。……君があんまり優しいから、僕は時々どうすればいいのか分からなくなるじゃないか」
「悩む必要はありません。素直に甘えればいいんです」
「いつも僕だけそんな――」
「君だけではありません。僕も君に甘やかしてもらってますよ?」
「そんな覚えはないんだけど」
「覚えがなくてもそうなんです」
「でも――」
 本当に、この人はどうしてこうも謙虚なのだろう。
 無理矢理に君を奪った僕を許して、ついには受け入れてくれたこと。一緒に音楽の高みを目指して行けること。何より、君が側にいてくれること。
 君という存在が僕にどれほどの勇気を与えてくれているのか、君は知らないのだろうか。
「どうしていいか分からない、と言いましたね。分からないなら教えてあげましょうか? こういうときは、ありがとう、と言えばいいんですよ」
「圭――」
「言って下さい。君が甘えてくれないと、僕も甘えられない」
 ベッドの上に投げ出されていた手を取って、頬に押し当てると、悠季はゆっくりとひとつ瞬きをして、おもむろに口を開いた。
「ありがとう。嬉しいよ、圭」
「喜んでもらえて、僕も嬉しいです」
「圭……」
 にっこりと笑う僕の髪に指を埋めて、悠季が目を閉じる。薄く開いた口唇に誘われるまま、僕はキスを落とした。
 
「……やっぱり、ここ、駅なんだね」
 ひとしきり情を交わし合ったあと、腕の中の悠季がくすりと笑う。
「はい?」
「アナウンス。ほら、聞こえないかい?」
「それはまあ、ここも一応駅構内ですから――」
 何を言っているのかまでは聞き取れないほど微かにだが、なるほど確かに、これは発車ベルの音と構内アナウンスだ。
「今の、終電かなぁ」
 チラリと枕元の時計を見遣って、
「何だか、駅員さんに申し訳ないな」
 悠季はまたくすりと笑った。
「は?」
「だって、まだ働いてる人がいるのに、僕たちはこんなことしてるし……」
「こんなこと、ですか?」
 腰骨の辺りに手のひらを這わせると、
「そう、こんなこと」
 収められたままの僕を刺激するように、悠季はくいっと腰を揺すった。
「何だか、やっぱり駅員さんに怒られてしまいそうですね」
「ほんと……」
 内で力を取り戻した僕に、悠季が頬を染める。
「駅は人が出会って、憩う場所でもあるそうですから、こうやって睦み合うのも理に適ってます。まあそれに免じて駅員さんには許してもらいましょう」
「そう考えると、駅って僕たちの間の音楽みたいなものかなぁ」
「はい?」
「新潟で生まれ育った僕は、音楽をやっていなければ東京の君に出会えなかったかもしれないから」
「それでは、今度は二人で世界を目指しましょう、悠季」
「へ?」
「音楽という駅で出会った二人が今度は世界という駅を目指すんですよ」
 素敵でしょう? と微笑むと、
「もう、キザだなー」
 と悠季は笑った。
「世界まで行けるかは分からないけれど、こんなふうに、ふと立ち止まったときに安らげるような、そんな音楽をやって行こうね」
「愛していますよ」
 肩に腕を廻した恋人に応えて、僕は再度口唇を重ねた。
 
 さらなる高みを目指そう
 ふと立ち止まって見上げたドームの美しさ
 あの美しさを 音楽で伝えるために
 僕たちはさらなる高みを目指そう
 この東京駅が日本の北と南を繋ぎ
 そして 全ての駅が人と人とを繋いだように
 出会って
 愛し合って
 同じ高みを目指して
 二人にとっての音楽を駅と例えるのなら
 この旅には終わりがない
 駅は旅の終着点であり
 また 出発点でもあるのだから
 
 ―― 駅 ―― 了

【コメント】
 当時、一緒にフジミにハマッてた珠里みずきさんからのご紹介で依頼を受けて書いたフジミパロ。枚数が限られていたので、まとめるのに苦労した覚えがあります。
 「コレが終わったら、みずきちゃんちの本にゲストするから」と言いつつ、未だに原稿をお渡しすることが出来ず、私がだんだんフジミから離れ、みずきさんはF1のミカ・ハッキネンの追っかけで忙しくなってしまったため、流れてしまった企画でした。
 当時、みずきさんが予約を取ってた本の顛末はどうなったのだろうか。私のせいで本が出なくて、たくさんの方にご迷惑をおかけしてたらすみません。――と、ここで暴露って謝っておきます。
 ああ、しかし、タクミくんでもお約束したまま、お渡しできない原稿が。そして、自分自身、予約を取って遅れに遅れてる本が――。重ね重ね、本当に申し訳ないです(-_-)。

(1999/09/25)

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