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「すみません。天真楼病院の医局はこちらの入口でよろしいんでしょうか?」
霧雨の降る中庭で、桜を見上げて佇む黒づくめの男に、明るい色のスーツを着こなした男が尋ねる。 「ああ」 黒づくめの男の返答は極めて短かい。どれくらいの間そうしていたのか、男の肩にはうっすらと花びらが積もっていた。 「ありがとうございます」 スーツの男が丁寧に礼を述べると、持っていた傘を男に差しかけた。桜並木を歩いて来たのか、この男の傘も、花びらで薄紅に染まっている。 「使って下さい」 「……」 「桜が綺麗なのは分かりますが、あまり長時間雨に濡れては風邪をひきますよ」 男は傘を手渡すとパッと身を翻して扉に駆け寄る。 「おい」 「傘なら後で医局のほうに返して頂ければ構いません。僕は今日からここに勤務する石川、……石川玄と言います」 この出会いの数時間後、二人は入院患者の病室で再会する。その時、石川が傘を差しかけたこの男――司馬弘太郎――は、入院患者と賭けマージャンの真最中であった。 「石川先生、何なさってるんです?」 中庭を見下ろす病棟の渡り廊下で、窓の桟に肘をついて佇む石川に、同僚の医師、峰春美が声を掛ける。 白衣姿の石川がゆっくりと振り返った。 「雨見てるんです」 何ともとぼけた男である。 「雨、ですか?」 「おかしいですか?」 「じっと雨だけ眺めて、仕事さぼってる人は珍しいですね」 やんわりと咎めて、けれど彼女も、ここを離れるつもりはないようだ。石川と並んで外を眺める。 「緑が綺麗ですね」 「でしょ?」 中庭に植えられた桜の幹が、雨を含んで黒く艶めいている。生い茂った若葉も、静かに降る雨に洗われて鮮やかだ。 「強いですよね、植物って」 石川が呟いた。 「昨日まで埃かぶってしおれてた葉っぱが、もうあんなに元気になってる」 「そうですね。でも――、これからの季節、草取りが大変だって、事務長が嘆いてましたよ」 ひと雨ごとに緑が濃くなるこの季節、刈っても刈っても生えてくる雑草に手を焼くのも事実だ。 「草取りね〜。僕も子供の頃は大嫌いだったなー」 今もキライだけど――と、くったくなく石川が笑う。この男、笑うとまるで子供のようだ。とても凄腕の外科医には見えない。 「――あんなふうに、患者さんが元気になってくれるといいですよね」 適度な雨が植物を育てるように、自分の治療で元気になってくれる患者が増えれば……。石川は降る雨を眺めてそう思った。 「峰先生、朝顔育てたことありますか?」 石川が峰のほうに向き直って尋ねる。 「朝顔、ですか?」 「そう、朝顔。小学校に上がるとすぐ、植木鉢の土にこう――、指突っ込んで種蒔いて、パラパラって土かぶせて……。やらなかった?」 種を蒔く手振りを含めて、石川が峰に説明する。こんな素振りも子供っぽくて……、でも峰は、そんな石川が好きだった。 「始めて迎える夏休み、終業式の日に『お家に持って帰って観察日記をつけましょう』って、アレなら私もやりました」 くすくす笑いながら、峰が答える。 「観察日記、書いたの?」 「ええ、しっかり。『今日は花が3つ咲きました。でも、昼にはしおれてしまいました』って、毎日書きましたよ」 「そうか、いいなー」 「え?」 「僕、花が咲かなかったんですよ」 「あら……」 「育たなかったんだなー」 石川がうーんと一つ伸びをして、再び窓の外へ目を向けた。 「――朝、学校に着くと、毎日ジョウロで水をやるでしょう? 植木鉢の土がだんだん盛り上がって来るの見て、わくわくしながら水やってたんだ……。芽が出たとき嬉しくってねー。もっとおっきくなれー、もっとおっきくなれー、って毎日たくさん水をやってたら、……根腐れしちゃったんですよ。――水、やりすぎちゃったんだな、きっと」 「……」 「3日にいっぺんくらいしかやらない子のほうが綺麗に花が咲いてたりしてね。毎日水やってた僕のは途中で枯れちゃって……。全然水なんてやらない花壇の雑草だってどんどん伸びてるのに、何で僕の朝顔は? って、子供心に悔しかった。――そういう訳で、僕は夏休みの観察日記は免除。得しちゃったかな?」 ふふっと笑う石川は、少し寂しそうだ。 「僕は何でもやりすぎちゃうのかな……。過保護過ぎて、よかれと思ってしたことで、全部ダメにしてしまうのかもしれない」 「石川先生……」 それが朝顔の話ではないことは、峰にも理解っていた。けれど、接いでやれる言葉が見つからない。やるせなさに、峰は口唇を噛む。 「司馬のやり方のほうが、患者の負担にならないのかもしれない」 『どうせこいつは助からない。このまま死なせてやれ』 司馬が口癖のように言うセリフが、抜けない刺となって石川の胸に刺さっていた。 現在の末期医療は、患者にとっては金食い虫だ。生死の境をさ迷うとき、一本何十万単位の薬が集中投与される。保険対象外の新薬などを使われた日には、金額は何倍にも跳ね上がる。――患者の家族はそれがどれだけ高価なものであるかは知らない。知らされないから当たり前だ。病院というところは、客にメニューも見せずに高価な料理を提供するレストランのようなものだ。もちろん、後日、支払いは強要される。 金銭的な負担だけでなく、病人を抱えた家族の心理的な負担も小さくはない。 呼吸困難に陥れば気管を切開され、生命維持のために身体中にチューブが繋がれる。薬剤投与のために、最初は腕、そこが硬化して針が入らなくなれば肩、次は手の甲、最後は足の甲まで……、点滴の針は容赦なく突き立てられる。――スパゲティ、死を間近に迎えた患者がそう揶揄されるほど、患者の体中はチューブで覆われて行くのだ。 こういった延命治療は、患者にも患者の家族にも余計な負担をかけるだけのもので、徒に命を引き延ばす効果しかない。石川にもそれは理解っていた。司馬の言う通り、どうせ死ぬのなら、遺族の負担を軽くしてやるほうが……、何度そう考えたか分からない。 それでも……、それでも、今出来る最大限の努力をしたい。万に一つの可能性があるのなら、患者の、そして家族のために、出来うる限りのことをしたい。 医療に従事する者なら誰でも思うことだ。現に石川もそう思っていた。この気持ちが揺らぐことはないと思っていた。 少なくとも、司馬に出会うまでは――。 「司馬君にも困ったものだ」 「困ったこと、と言いますと?」 外科部長の中川が、問い返す。相手は当天真楼病院の理事長のようである。カルテを手に、石川はドアを開けてよいものか、一瞬迷った。 「――確かに腕の良い医師だということは認める。政治的手腕も大したものだ。私もオットーの一件では儲けさせてもらった。しかし、患者を安楽死させるような真似をしてもらって、スキャンダルを起こされてはたまらないからね」 「マスコミのほうは、司馬君に辞めてもらうことで治まりがつくでしょう」 笹岡という末期ガンの患者に、司馬がペタロルファンという劇薬を使った。鎮痛効果を目的とした薬剤だが、心臓への負担が大きい。体力の落ちた患者にワンショットで使用すれば死に至らしめることは、もちろん司馬にも分かっていたはずだ。安楽死させることが目的で使用したことは明白だった。 石川は、この一件で司馬を辞職へと追い込んだのである。 「それもあるが――。末期の患者に投与する薬品の、国への薬価請求が病院を潤してる事実はあなたもご存知でしょう? あなた方への給与も、病院の設備投資も、とても普通の診療報酬で賄い切れるものではないんだ。末期の患者は病院にとってドル箱なんですよ」 「だから、司馬君にこれ以上患者を殺されては困る……、ですか。まさしく、辞めてもらって正解、ということでしょうか?」 中川が理事長の言葉を接いだ。 「しかし、そういうことになりますと、石川先生のように延命措置を施してくれる医師が、病院経営のためには最適な人材、ということになりますね?」 「医は仁術などというのは幻想だ。医は算術ですからね」 くっと、理事長がうそぶいた。 偶然とはいえ、一部始終を立ち聞いてしまった石川は、カルテを手に踵を返す。何かがグラグラと音を立てて崩れて行くようだった。 ――足元がふらつくのは、自分の体を蝕むガンのせいだけじゃない。 中庭の緑を眺めながら、昨夜の事務長と中川のやり取りが、石川の胸をよぎる。 自分のしてきたことは患者のためではなく、徒に患者や家族への負担を増すばかりだったのか。司馬のほうが、医師として患者のためになるのか? ――そんなことはない。そんなことはないと信じたい。でなければ自分は何のために司馬と闘ってきたんだ? 『生きることと、死なないってことは違うんだよ。体中にチューブ着けられて、ただ息してるだけだ。それでもいいのかって、家族に訊いてみろ』 再度司馬の言葉が頭をよぎって、石川の胸に苦いものがこみ上げた。現代医療の抱える大きな矛盾。自分と司馬は、まるでその象徴のような気がして、石川はやりきれなかった。 「――僕は、一人でも多くの患者の命を助けたい」 呻くように、石川の口から言葉が漏れる。 「一日でも長く――。生きていれば、生きてさえいれば、いつか有効な治療法が見つかるかもしれない。そう思って頑張ってきた。だから、司馬のように安易に患者を死なせるような奴は野放しにはできなかった。彼のやり方はすべての可能性を奪ってしまう。そんなことは許されない。許しちゃいけないんだ。だから……、だから僕は……」 窓の桟を握り込んで言い募る石川の指先が色を失ってゆく。指先に込められた力と同じくらい、口調も激しかった。 「石川先生……」 「――僕の望み通り、今、司馬はこの病院を辞めていく。……なのに。なのに何故、こんなにも辛いんだ?!」 それきり、言葉は途切れて、雨だけが変わらず降り続けた。 「辞めるの?」 残務整理のため立ち寄った医局で、司馬は大槻沢子から声を掛けられた。 「お前には、関係ない」 答える司馬には、とりつく島もない。自らの去就ですら、この男にかかるとまるで他人事のようだ。 「MRD、せっかく入るのに、治療に使えなくて残念ね?」 医局に掲げられた来月の予定表を見遣って、沢子が続けた。 「――俺にはもう、関係ない」 「そうね。……でも、安心して。膵臓ガンの患者さん、あれ使って私たちがじゃんじゃん治療しちゃうから」 弾むような沢子の物言いに、司馬が片口を歪める。湿っぽく語りかけられるよりも余程気持ちがいい。 膵臓という臓器は、胃と肝臓・脾臓などの裏側に、腎臓と前述の臓器に挟まれるような形で位置している。膵臓に疾患があり手術が必要とされる場合、背中側から切開するのがいちばんてっとり早い、と思われるであろうが、外科手術というものは、背骨および骨髄の手術を除いて、背中側から施されることは殆どない。背骨には全身の神経が集中しているからだ。少しでも神経を傷つければ体の何処が麻痺するか分からないからである。 膵臓を手術する場合、まず、胃の殆どが切除される。場合によっては肝臓、脾臓なども取り除かれるので、術後の食生活に大きな影響を及ぼす。胃が半分切除された場合など、1日の食事を6回に別けて取らねばならない。このように栄養摂取もままならなくなるので、術後の経過は思わしくない。また、初期の段階では自覚症状がないので、病気がかなり進行してからでないとガンの発見が難しいのである。これも、膵臓ガンの治療を困難にしている一因である。 しかし、MRDが導入されれば開腹手術なしに治療が行える。たとえ開腹手術を施した場合でも、MRDによる付加治療によって術後の五年生存率はグンと跳ね上がる。 大抵の細胞は摂氏40度を越える熱に晒された場合、死滅する。これはガン細胞も例外ではない。この性質を利用してガン細胞を死滅させるのが、温熱療法である。正常細胞の場合、温熱療法を施しても血液循環によって熱を発散させることができるので、細胞が死滅することはないが、ガン細胞は血管が未発達なため血液循環による放熱ができない。こうして、ガン細胞は徐々に縮小してゆく。もちろん、コバルト照射のような副作用もない。ガン治療にはこれ以上ない治療法と言える。 司馬は、どうしてもこの治療が行える機器を導入したかった。過去、彼の父親が、やはり膵臓ガンで他界したからだ。彼が医師を志したのも、父親の死が大きな影響を与えていた。 ――もういい。自分がいなくても、ここにはMRDが入る。 チラリと掲示板を見遣って、司馬はひとつ溜め息を吐いた。 「お前には、世話になったな」 「お世話させられました」 沢子がふふっと笑う。――と、司馬に傘を差し出した。 「はい。傘、持ってないでしょ? あげるわ」 「いや、いい」 片手をあげて、司馬がそれを制す。 「外、雨降ってるのよ? 濡れちゃうわよ?」 「雨は好きだ」 沢子の言葉を遮るように、司馬が短く言い放つ。 「――雨は好きだ」 「好き、なの?」 好き、などという単語は、この男の口からはついぞ聞いたことがない。そういった感情がないとは言わないが、極めて縁遠い男だと思っていたから……。 「雨は、優しいからな」 司馬が続けた。 好き、の次は、優しい――。 普段と違う雰囲気を感じ取って、沢子はいぶかしんだ。漠とした不安が体を包む。――これ以上、聞いてはいけない気がした。 「憶えてないか? 初めて会ったのも、こんな雨の日だったろう?」 司馬が沢子に促す。 「もう、五年も前のことよ……。そうね、でも、憶えてるわ。あなた、ケガしてて、しかも、道端に寝っ転がってたのよね」 「寝っ転がってたんじゃない。あれは、倒れてた、と言うんだ」 司馬が苦笑する。付き合いを解消した後でも、こんなふうに相変わらず自分に応じてくれる沢子が、今の司馬には有難かった。 五年前の秋、所属していたサークルのコンパ帰り、沢子が新宿歌舞伎町辺りを歩いていたときのことだ。 「あんまりナメた真似してんじゃねえぞ」 いかにもチンピラといった風情の男達が2〜3人、路地裏に向けてそう吐き捨てて、表通りを歩いていた沢子にぶつかった。差していた傘があやうく飛ばされそうになる。 「きゃっ」 「気をつけろ」 捨てゼリフを残して去る男達に、失礼しちゃう気をつけるのはそっちでしょ、と思いながら、沢子がくだんの路地を振り返る。と、男が一人、バタリと路地に倒れ込んだ。 「大丈夫ですか?」 思わず沢子が駆け寄る。 「……っ…」 薄暗く差し込む街灯に、仰向けに寝返った男の顔が浮かぶ。その顔に沢子は見覚えがあった。 「……司馬君?」 「俺を……、知ってるのか?」 「あなたと同じ学部の大槻沢子よ」 「知らない」 「でしょうね……」 あなた、同期の誰とも親しくなろうとしないものね。沢子はひとりゴチる。 「――でも、私はあなたを知ってるわ。学年トップの司馬弘太郎君?」 傷のせいで動けないのか、それとも動く気がないのか、バッタリと大の字になって落ち掛る雨を浴び続ける司馬に、しゃがみこんだ沢子が傘を差しかける。 「ケンカしたの?」 「お前には、……関係ない」 強がってはいるが、かなり辛そうだ。先ほどの男達にやられたのだろう。司馬は、剥き出しの顔や腕にかなりの傷を負っていた。 「関係なくても、私は放っとけないわ。――とにかく、病院に行きましょ。さ、立って」 「病院は駄目だ。俺は保険が利かない」 「……え?」 「タクシーを拾ってくれ。……家に戻る」 お客さん、困りますよ。シートが濡れちゃって……。――と、文句を言うタクシーの運転手に、料金よりも幾分多い札束を握り込ませて、沢子は司馬を自分のアパートに連れ帰った。 司馬をこのままにしておけない、自分の部屋に来れば手当もできる、そう思ったからである。実際、傷に響くのか、司馬は、車が揺れるたび呻きを押し殺していた。自分の部屋に戻っても、果たして彼自身適切な治療ができたか、疑問である。 「服、ハサミで切られたくなかったら、おとなしく脱いでね」 「襲うなよ」 自分の家に戻る、と先程まで言い張っていた司馬だが、放っておけない、と言い張る沢子にとうとう観念したらしい。今ではこんな軽口をたたいている。 「ケガ人が何言ってるの……」 治療をするにも、泥と雨に汚れていてはままならない。風呂場でシャワーをあてて、とにかく血と泥を落としてしまわなければ……。と、司馬の体に湯を浴びせかける沢子の手が止まった。 「……」 服をすべて脱いで下着姿になった司馬を見て、沢子が息を呑む。 「どうした?」 「……これ……」 服に隠れて見えなかった胸や背中に、打撲の跡と、打撲とは明らかに異なる、一目でそれと分かる痣がいくつもあった。多分、出血したのだろう。下着にも赤黒いシミが着いている。 「犯られたんだよ」 他人事のように司馬が言う。 「――どうして……」 沢子の声が掠れて響く。余程ショックだったのか、手に持ったシャワーノズルから噴き出す飛沫が自分に降りかかるのにも気づかない様子だ。 「俺が流しで売春してたのが気に入らなかったんだろう。俺のせいであいつらの経営してる店の客が流れちまったんだ。ヤキ入れられたってだけさ。それに――、後ろ使われるのはこれが初めてって訳じゃない」 さすがに一度に三人もってのはキツイけどな、と吐き捨てるように司馬が続けた。 「どうして……?」 同じセリフを繰り返す沢子に、 「どうして売春してるかって?」 くっと、頬を歪めて司馬が言葉を接ぐ。 「あんたらと違って俺は貧乏学生だからな。そうでもしないとバカ高い医学部の学費なんて払えない。――金のためなら、厚化粧のババアだって抱くし、どんなエロジジイにだって抱かれてやるさ……」 茫然と湯を浴び続ける沢子の腕から、シャワーのノズルを奪い取って、司馬が蛇口を閉める。 「……ごめんなさい」 司馬が両親を亡くして、奨学金を受けて大学に通っていることは知っていた。製薬会社の新薬テストなどのかなり危険なバイトをやっているらしいとか、ホストクラブで働いているとか、沢子も噂には聞いていた。――それが真実だとは思っていなかったけれど……。 司馬がクラスメートに馴染まない、のではなく、他の学生と馴れ合う暇もないほど、彼は学費を稼ぐために働いていたのである。 「あんたが謝ることじゃない」 「ごめんなさい……」 家に戻る、そう言い張る司馬を無理やり自分の部屋に連れてきた。そうして、恐らく彼自身がもっとも口にしたくなかったであろうことを、結果的に白状させてしまったのである。 ごめんなさい。――そうとしか言い様がないではないか。 「何で泣くんだ? 同情ならごめんだぜ?」 「泣いてない。これはお湯がかかったのよ」 可愛くないなお前、司馬がそう言うと、あなたも相当よ、沢子がそう答えた。 これが、二人の出会いだった。 「知ってるか? この地上に平等に降り注ぐのは雨だけだって……」 出会った頃を思い返していた沢子に、司馬が問いかける。沈みかけた意識が引き上げられて、 「あら、でもお日様だって同じじゃないの」 咄嗟にそんな言葉を返していた。 「太陽は違う。陽の当たるのは裕福な奴等だけだ」 「そうかしら……」 「そうだ」 きっぱりと司馬が言い切る。 「少なくとも、親父が死んでからの俺はそうだった。――お前と出会った頃、昼は大学の研究室、夜はバイトで、碌に陽に当たったことなんてなかった」 「でもそれは……」 口を挟む沢子の言葉など聞くつもりは司馬にはない。 「明け方アパートに帰っても、俺の部屋には陽が当たらなかった。――近所の高層マンションの影になるからだ。陽の当たらない、じめじめした自分の部屋からビルを見上げて、いつかあの部屋に住んでやる、あいつらを見返してやる、そう思ったよ」 「司馬君……」 もうやめて、そう続けようとして沢子は言葉を飲み込む。聞きたくない、けれど、聞かなくてはならない、そう思った。 「俺が銀座のクラブでボーイをしてた頃の話だ……」 その店で毎月七桁強の金額を落としてゆくという大得意の男が店から帰る段になって、司馬がホステス連中と一緒にその男を見送りに出たときのことだ。玄関先で突然、にわか雨が降り出した。咄嗟のことで傘は間に合わない。客も、通りに横付けされたタクシーまでは数メートルだからと傘を断った。司馬が客のカバンを抱えて一緒に車まで走り寄る。 座席で雨の滴を拭いながら自分の手からカバンを受け取る男、雨を受けながらカバンを捧げ持つ自分。――同じように雨に濡れていた。 その時俺は気づいたのさ、そう司馬が言った。 「――雨だけだ。雨だけは、どんな場末の路地裏だろうと、金持ちの家の庭だろうと、同じように落ちてくる。相手が誰だろうとお構いなしに、容赦なく降り掛かる。だから雨は優しい」 司馬は窓のブラインドに指を掛けて、見るともなしに外を眺めている。窓の外では雨に打たれて緑が揺れていた。 「――雨は好きだ」 見せかけの優しさは要らない、司馬の背中がきっぱりとそう告げていた。 沢子に言葉はない。 「俺は石川が嫌いだ」 ビシリとブラインドを弾いて、司馬が沢子に向き直る。 「安っぽいヒューマニズムを振りかざして、患者や家族の負担には一切お構いなしだ。末期の患者にどれだけ金が掛かるのか、病人を抱えて、しかも働き手を失った家族がどれだけ苦労して医療費を稼ぐのか、お坊っちゃまのあいつには想像もつかないんだろうな……」 父親が亡くなったとき、司馬の胸を覆ったのは悲しみだけではない。もうこれで夜も昼も母が働く必要はなくなったのだと、正直、父の亡骸に安堵した。その時、熱く潤む瞼の裏側で、自分の中の何かが凍りついた。 石川はあの冷たさを知らない。何の曇りもない純粋さで、患者を救う、ただそれだけの思いで治療に邁進している。――それが一層司馬を苛立たせた。 『君のやり方は間違っている。君は患者の可能性の全てを奪うつもりなのか? ――僕は認めない。断固として君を認めない!』 司馬がとっくに失ってしまった真っ直ぐな情熱で、石川は何度も司馬を糺した。石川は頑なに不正を拒んだ。患者にも、そして医師としての自分にも、真摯な気持ちで対峙していた。 そんな石川を疎ましく思う反面、司馬は彼にいつまでもそのままでいて欲しいと願っている自分がいることを知っていた。そうありたいと願い、けれどそうはなれなかった自分が、石川の中にいる。 石川への、胸が焼けつくような嫉妬と、憧憬にも近い想いが、司馬の胸にあった。 けれど、その彼ももう、じきにいなくなる。自分のように職場を辞するのではない。ガン、などというつまらないものが、永遠に石川を連れて行くのだ。 「――あいつはバカだ。自分の体も碌に治せないくせに、患者の命を徒に引き延ばして自分の命を削ってる。大バカだ!!」 「司馬君!」 石川を傷つける言葉を吐き出しながら、その言葉に傷ついているのはほかでもない、司馬自身だった。たまらず、沢子が声をあげる。 「喋りすぎたな……」 ふっと口唇の端を歪めて、司馬が黒いアタッシュケースを手に取る。 「お別れだ」 そう呟いて踵を返す司馬に、 「待って!」 沢子が傘を差し出した。 「持って行って」 持って行かないと、あなたがこれを受け取るまで追い掛けて行くわよ、そういう目付きで沢子は立っていた。 「雨の日には傘を差すものよ」 この傘を拒んで、司馬はまた雨に濡れて行くのだろうか。雨は優しいと、雨は好きだと、そう言って、また冷たい雨に濡れて行くのだろうか。――雨の降る日には傘があるのだと、傘を差せば雨はしのげるのだと、沢子は言いたかった。 そんな沢子を、苦笑混じりで司馬が見遣る。 「俺に傘を差しかけるようなお節介は――、沢子、お前と……、あの大バカ野郎だけだったよ」 傘を受け取って部屋を出て行く司馬が、最後にこう言った。 「よく降りますねぇ。これでは、せっかく咲いた桜が散ってしまう」 外科部長室の窓から中庭を見遣って、中川が誰へともなしに呟く。 雨の午後は人を物思いの淵へ投げ込む。今日の中川もその例外ではない。 『戻ってこい! 戻ってこい、石川!!』 手術の甲斐もなく心停止した石川の胸を叩き続ける、あの時の司馬の叫びが、今も中川の胸を塞ぐ。 『今日のオペのミス、君がやったことにしてくれないか……』 一言で自分が壊してしまった司馬の心。 その司馬の心を、唯一繋ぎ止めていた石川が、司馬を置いて逝った。 そしてまた、遺された司馬も平賀の刃に斃れた。 あれから幾月経ったのか――、ここにはもう、司馬も石川もいない。彼等が務めたポストにはカンザスから招いた別の医師が着いている。 彼等二人は、中川にとっては夢だった。 医師を志したときの情熱を失い、外科医としての盛りも越してしまった自分が、日々を流されてゆく自分が、唯一現実に描くことのできる夢だったのだ。 司馬と石川――、“患者のために”という同じ情熱を抱きながら、“人の死”に対する考え方の違いのために、真っ向から対立せざるをえなかった二人。 彼等二人の対立に巻き込まれて自らの立場が危うくなったときでさえ、中川はその状況を愉しんでいる自分を感じていた。 失いたくない夢だった。 けれどもう、彼等はいない。 「あの二人のような医師には、もう出会えないのかもしれませんね……」 中川は、手にしたカップのコーヒーを一口啜って、室内に視線を戻した。 雨は降り続ける。 あの日と同じように、花も辺りに雨と降る。 中庭で桜を見上げる男も、その男に傘を差しかける男も、今はもういない。 受け止めてくれる者を亡くして行き場を失った花びらが……、花が辺りに雨と降る。 ―― 雨 ――了【コメント】 (1999/09/25) | |
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