春にきす










春にきす

目次
    はるのよの ………五
    イデア ……………五七
    綿音 ………………一七三
    灰は灰に …………二三一
    君に千年を ………五一九 (書き下ろし)
    二〇一〇年度までに発行したものを再録しています。








 

鳥は古巣に花は根に。――灰は灰に。



* earth to earth;ashes to ashes, dust to dust.







Under the wide and starry sky .  
Dig the grave and let me lie.  
Glad did I live and gladly die,  
And I laid me down with a will.
This be the verse you 'grave for me.Here he lies where he longed to be.
Home is the sailorhome from sea, And the hunterhome from the hill.



灰は灰に










 
序 血


 深い深い、根雪であった。厳冬、まさにこの言葉が相応しい。美しい雪原が世界の全てを染め上げては、一切の音を吸い込み、夜闇を雪灯(ゆきあかり)で照り返す。鈍色(にびいろ)の雲が重く全天を覆い尽くし、山間(やまあい)の郷(さと)は一切の外界から閉ざされ、外の村とは行き来も出来ない有様であった。
 郷(さと)は三方を山に囲まれている。山肌に囲まれた三辺は限りなく三角に近い台形で、僅かに開けた一辺である、山間の隙間が、この郷と外とを繋ぐ細い紙縒(こより)のような道程であった。その道筋ですら、深い深い木々に埋もれて昼でも影を濃く落とす。郷から少し離れれば、道行きはすぐにか細くなり、よくよく見なければ獣道とも思われて、まず間違いなくその先へ進もうとする気の起こる者は居らぬだろうという有様だ。雪が降る季節ともなれば、道そのものが途絶えて消えるから、その郷は、存在すら知る者がほとんど皆無と言っていい様な、小さな隠れ郷だった。
 郷の存在を殊更に隠すような雪の降る冬になると、葉を落とさぬ杉やら松やらの針葉樹が、雪を細い針のような葉に受けてはその太い枝をしならせ、雪原の上に灰色の影を落とす。厚く降り積もる雪の重さに、容赦なく枝は曲がってたわむ。雪の自重に耐えきれなくなると、厚く降り積もるままに受け止めてきた雪をばさりと根元へと落とし、枝はしなって元に戻る。そうして幹のほとんどが雪で埋められていくので大の大人が見上げるほどに高い、天辺が見えないような大樹であっても、真冬には木肌は雪によって隠されてほとんど見えない。
 郷の中にあっても枝から落ちる雪と同じだ。せっせと雪をかいても、音もなく雪が降り始めれば一晩も経たずに、懸命に掘り、踏み固めた細い細い道も、人が行き交った足跡やら轍やらの微かな窪みの跡を残すのみで、杉の枝から雪が落ち、幹が根元から埋まっていく様に、僅かな雪道もまた埋もれて真っ白に染め上げられるという有様であるから、これでは郷の外まで人が通れる道が出来る道理もない。そんな不便な郷であるというのに、郷に住む者達はいっかなその場を動いて、住み良い場所に移住しようとなどとしないものだから、外への道が閉ざされる季節になる前の備蓄は決して欠かせなかった。
 郷の冬は死の季節だと誰もが解っていてなお郷を出ない。隠れ住むことこそが、平穏なのだと、老いた者から年端もいかない子どもまでもが、心の根っこに刻み込んでいた故であった。
 その為に越冬は毎年が命懸けで行われてきた。
 隠し郷なれば、外からの助けを待つ訳にもいかない。そもそもがこの郷の存在を知られていない訳で、助けが来る道理もない。しかし、それを理不尽がって郷を出て行く者は一人も居ない。第一、人間の助けなど望む者など誰一人とて居なかった。何しろ郷人(さとびと)達が助けを求めて、人間に助けられた試しが無い。手を伸ばせば石を投げられ、恐れられ、最後には骨の髄まで利用されて喰い殺される。男は戦場(いくさば)に駆り出されて、女は強い子を産むために連れ去られ、子どもは物心付かない間に懐かせて労せずして戦わせ産ませる為だけに攫われた。郷はそうやって利用されてきた祖先の怨みと悔恨の連なりを決して忘れることなく、用心深い。此処はそういう郷であった。皆がひっそりと息を潜め危うく揺れる無常の世の趨勢を遠くから恐る恐る眺め、観察し、選別して、細く、長く、生きていく。そうしないと生きてゆけぬ――此処は鬼の郷であった。
 郷の誰もがこの小さく豊かとは決していえない住処(すみか)から出て行くことはその身の危機を意味すると厳命され、外を行き来する者は慎重に選り分けられる。例外的に、外へ行くことが決まった者には、終生この郷の在処(ありか)を口にしてはならないと、いずれの例外なく厳命が下る。それは徳川が天下を分けてからようやく定められ、郷を――命を狩られるようなことのない安住の地を守るために、脈々と受け継がれてきた事柄であった。脈々と続く血統を守り、確固とした掟を守り、外を拒んで隠れ住む――そうだ、此処では誰かを傷つけ、殺さなくとも、望まぬ子を産ませられることもなく、ただ日々を紡いで老いていくことができる。血の臭いを嗅ぐことなく、怨みを募らせることもなく、平穏に生きていけるのだ。少なくとも、少なくとも。
 そうしてようやく祖が築き上げた郷と仲間の安住を犯す者どもには、当然のこととして死をもっての制裁が下される。鬼の住む郷を知られることは、郷の死と同義であったから、同じ郷に生まれた同胞(はらから)であっても、死を以てして臨む制裁は当然のことであった。そんなふうにして過ごしてきた幾星霜。
 曇天に覆われた天蓋の下、雪と冷気と鈍色の雲の色彩の中で暮らしていく人々は、皆、寡黙に耐える。耐えているとも思わずに身動きの出来ぬ雪の中で、雪に閉じこめられる神無月(かんなづき)から弥生も下旬、下手をすれば卯月を超えても雪の残る中を春から秋にかけて蓄えた糧食と燃料で、暮らすのであった。
 米に粟(あわ)、稗(ひえ)等の雑穀、薪に藁。氷室に蓄える野菜。それでも足りないときは僅かな晴れ間を縫って鷹を以て兎を捕り、郷人全員で少ない肉を分け合って蓄えに回し、傷んだ家は雪の重さに耐えられるよう、初雪前の秋口の頃に、男衆が総出で修繕に取りかかる。そうして、雪が降っては僅かばかりに家々へと行き来できる細い道を踏み固めて拓き、暖を分けて暮らす。
 特に男手のない年寄りや、女子どもばかりの家には優先的に人手が回され、男は雪下ろし、女は食事や着物の面倒を見る。手の届く範囲で寒さから身を寄せ合い、冷厳とした真白の雪の沈黙の中、命を守り生き繋いでいく。そんな暮らしが、子どもらが外を駆け回りながら、雪解けに蕗の薹(ふき とう)を見つけるまで続くのである。油断すればあっという間に声も無く命を奪って、屍を白く覆い隠していく雪の残酷な無音の中で。
 しかし、その日は僅かばかりに趣(おもむき)が異なった。
 数日ぶりに晴れ渡った天涯は高く澄み渡り、雲が久しぶりの陽光に照らされて白む。晴れ間は珍しくその日一日続いた。日が沈んで、星が瞬く頃から牡丹の花弁にも似た雪が花のように、宵闇の中で舞っていた。
 星の明るい、風花(かざばな)の夜であった。黒の闇に雪と瞬く星々がちらちらと撒き散らされていて賑やかな様子なのに、空が晴れているせいで耳が痛くなるほどしんと冷たくて、静かだった。
 吉兆か凶兆か。夜に咲く風花は不吉さえ感じさせる美しさで、郷中が自然と厳粛な沈黙に包まれた。
 そんな夜に、郷の命運を担ったその子どもは生まれた。
 家康公の御代から続く、由緒正しき純血を受け継ぐ子は、後の人生に待つ苛酷を知りもしないで、静かな夜に産声を上げた。
 小さな小さな隠れ郷は、ささやかなどよめきと歓喜に今宵一夜限りは酔いしれた。郷を継ぐ赤子の誕生は常に喜びに溢れているが、まして郷長(さとおさ)の御方々(おんかたがた)の吾子(あこ)なれば、それはまた格別である。その子は間違いなく純血の血を継ぎし鬼の中の鬼にして、『千』の名を継ぎ郷を導く新たな宗主として、宗家を統べてこの郷を治めてゆくのであるから。しかし、とどまることなく、更に喜びは二重に連なって続いたのであった。郷は沸き返り、越冬の最中であるにもかかわらず、その日ばかりは備蓄を割いて、どの家もささやかながらの祝宴を開いて、郷の吾子の誕生を寿いだ。
 誰もが期待していた男の子だけではなく、誰もが期待していても決して言葉にせず、口を噤んで儚い希望だと沈黙した僥倖が訪れたのである。
 しんと更けたる雪深い夜、その子らは生まれた。
 鬼の郷に生まれたる、鬼の吾子は双児(ふたご)。
 一人は男児。名を薫。
 今一人は女児。名を、千鶴という。


 
 
 その夜から数年を待たずして郷は滅びた。
 冬の始まりの前、今年も何とか冬越しのための備蓄を終えて、皆がひとしきりほっとした秋の終わりであった。例年通り、ささやかながらの収穫奉(まつり)を催し、今年の実りに感謝し、皆が大禍無く無事に過ごせたことに感謝を捧げて安堵する。郷の子ども達も落ち葉の中を楽しそうに走り回って、大人達は、厳しい冬の来る前に存分に遊べばよいとばかりに、今だけはと、誰も咎めずにいた。誰もが森の実りや田畑の収穫の善し悪しに楽しげにさざめき、賑わいでいた。
 
 
 




 乾燥した空気に業火はあっという間に郷を舐め尽くした。骨の欠片も残さずに。阿鼻叫喚の跡を覆い隠すように。
 黒ずんだ焼け跡にはらり、その年初めての雪が降った。
 その年は、殊更(ことさら)に雪が深かった。
 
 
 
 
 そして誰もいなくなった。
 
 



 



二章 日々
 

 蝦夷の玄関口、港街ならではの賑わいの中を、一人の娘が歩いていく。
 箱館もすっかりと雪解けを迎えて季節はもうすぐ夏に移り変わる頃合いでも、日本の最北端の島では京や江戸のような厳しい暑さは訪れない。むしろ微かな潮風に混ざって吹く、さらりと乾いた風が陽差しと相まって心地良い、過ごしやすい初夏の陽気の日だった。
 お天道様を眩しげに見上げて、目を細めた娘がほのかに口元を綻ばせた。つい先日まで雨続きで、中々外出も億劫な日々が続いていたから、久方ぶりの晴れ間が殊更に嬉しく思われる。道行く人々も同じなのか、和洋折衷の服装をした人々が賑やかに通りを行き交っていた。
 時折がらがらと大荷物を載せた荷車が轍を残して通り過ぎていく。ここから少し離れた通りが魚市場に面しているのだ。久方ぶりの陽気に、今日は仕入れの商人、漁師達や、国内、国外を問わず船舶の出入りなども一段と活気づいていることだろう。
 そんな賑わいの中をゆっくり見渡すように歩きながら、娘はほっと息をついた。高揚した気分と、僅かな戸惑いが胸の中を交差する。蝦夷に居着いてからというもの、毎日が穏やかな日々の積み重ねであったから、人いきれに紛れるのは久方ぶりであった。
 箱館そのものを歩くのが久しぶりというわけではなかったが、用がある時は大概、公館などへの公(おおやけ)の用向きであったり使いであったりする。それも、名と身分を偽って、用件が済めば早々と引き上げるのが常であるものだから、民家が並び立つ賑やかな通りを歩くのは本当に久しい。道ばたで遊ぶ子どもたちや、威勢の良い物売り達の声、着物の袂をたくし上げて商売に励む者もいれば、商品の品定めにおっとりと足を運ぶ洋装の紳士が店の前で腕を組む――格好も住む家も暮らし方も、雑多に入り混ざって混在しているのが、住み移った当初は殊更に目を惹いた。
 旧幕府によって開国を宣言された後に、開港した港の一つがこの箱館である。
 海岸からは長く続く豊かな緑の樹木が美しい稜線を描き、西方に聳える箱館山が円形に港を包んでいる。外港と内湾は緩やかな馬蹄形を描く。箱館港は、その接舷のしやすさ、安全性の高さから、どんな風雨であろうとも碇泊による船の破損はないと言われるほど日本でも名高い名港だ。外国船舶が常時入出港していようと、日本の役人の船がするりと接舷してきて対応する。休養と補給、更に交易にはまたとない最適な港で、だからこそ国際港として選ばれたのだろう。
 それと同時に、北へ北へと追われるように北上していった旧幕軍が、本州から乗り込むのにまたとない玄関口ともなったのは何とも皮肉ではあるが。
 開国から数年を経て、様々に入り込んだ異国文化は現地の多様な民族に混ざり合い、複雑な様相を呈している。
 街並みにもそれは顕著に表れて、西洋式の壮麗な建物が次々と建設され、官舎の立ち並ぶ通りは異国情緒溢れた風情となっている。しかし、公館が多い区画を僅かにはずれれば、広い街路には松材で作られた一階建ての木造の民家が軒を連ねる。瓦屋根の建物は、神社仏閣、大家や役所を除いて少なく、長まさに丸石が並べられた屋根が灰色がかった街並みを描く。雨の日や曇りには箱館全体がどこか暗く重い印象だったから、久しぶりの晴れ間は殊更に嬉しい。
 きらきらとした陽差しが眩しくて、空を見上げた娘はほんのりと微笑んだ。
 海に平行した本通りに直角に交差する路地の港側は、路地の先端が船着き場となっていて、頻繁に船が行き来する。箱館港が漁港としても、良い港であることを示しているようだった。
 小さな子どもらが子犬のように側を駆け抜けて、高いはしゃぎ声を上げているのに思わず笑いを零して、いくつか交差する道を折れ曲がっていく。
 前に訪れたときよりどことなく賑わいがあるのは、五月の陽気のせいだろうか。久方ぶりに散歩ついでに、立ち寄った五稜郭も先日の桜の盛りが嘘であったかのように、僅かばかりの花の盛りを過ぎ、散り落ちていた。今は葉桜となって、さわさわと豊かな新緑を風に揺らしている。ただでさえ短い桜の季節だが、それが一層疾く去りゆく季節の流れを思い知らせて切なくなる。
 ――北の春は短い。峻烈な厳冬の終わりに喜びと共に訪れて、惜しむいとまも無く過ぎていく。だからこそ訪れる暖かな季節が殊更に歓びをもたらすのだ。
 娘は過ぎゆく春を嬉しく、大切に想いながら目を細めた。
 育ちは江戸、その後の数年を京都で過ごし、各地を放浪するように点々と北上し、文字通り時代の激動と変遷を身体で味わった。井伊掃部頭(かもんのかみ)の殺害から始まった日本を二分した維新を、慶応四年――明治元年を迎え、徳川勢の崩壊まで、怒濤の変遷を見つめてきた。
 重ねてきた桜の季節は、過ごしてきた場所ごとに、花咲く月(こよみ)すら全く時期が違うけれど、とても愛おしく思える。
 勿論、慟哭を重ねた春もあった。決して歓びばかりに満たされた春だけではないけれど。それでも魂のどこかに、娘にとって春とは短く、そして尊いものだと刻み込まれているのだ。そう、北国の春の訪れは殊更に――。
「あら、おちづさん?」
 朗らかな声が背にかけられて、娘はふと物思いから身体ごと立ち戻された。肩に流して緩くまとめた黒髪が上品に射干玉の流れを紡ぐ。小作りな顔立ちに髪と同じ射干玉の大きな瞳をぱちりと瞬かせ肩越しの声に向かって小柄な姿が振り返る。
「ああ、ああ、やっぱり、お千都(ちづ)さんじゃあないかい。此方(こちら)においではお久しぶりだねえ」
 目尻に皺を寄せてにっこりと笑う婦人は、渋い染めの上品な海老茶の留め袖といい、結い上げた黒髪といい、本土風の出で立ちが、蝦夷に住む地元の人々とは一線を画している雰囲気だった。珍しい瓦屋根の軒先から、千都――千鶴を見つめてにっこりとした目尻には皺が寄っているが、明るい声と物腰がとても若々しい印象を与えるのに、千鶴も思わず笑顔で応える。
「おりんさん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです。ご主人も恙なく?」
「恙ないどころか、女房を放りだして長崎の方まで行っているよ。いつまで経っても腰を落ち着けないで忙しないったらありゃしない」
 気っ風の良いさばさばしたもの言いは、夫への恨み言よりも、日本を北の端から南の端まで、船で飛び回る夫に対する大らかな包容力と愛情が響いているように思えて、千鶴はそっと微笑んだ。長年連れ添ったこの夫婦にある絆の強さはいつ見ても憧憬を抱かせる。
 本州から箱館に移り住んだというこの夫婦の詳しい事情を千鶴は知らないが、本土や外国からの品との交易で箱館に店を建てた。商品はもっぱら政府の高官や大家、外国人相手の御用聞きだ。夫は日本中を一年のほとんどを飛び回り、旅先で買い付けた商品を箱館に持って帰る。そうして仕入れた品物を管理し、売りに出すのがおりんの役目で、女だてらにきびきびとした手腕で店を切り盛りしていた。一年のほとんどを不在で過ごす夫を、寂しいと思わないはずがないのに、辛そうにしているところを表に出さず、いつも明るい振る舞いで周囲を活気づかせるのには、それほどに深い絆があるのだろうと千鶴に思わせた。
「今日はどんな御用で箱館に?旦那さんは?」
 思わず微笑んだ千鶴に、朗らかな声でおりんは首を傾げた。
「今日は主人の用向きに着いてきたんです。私はもう良いと言われたので。夕刻まではまだ時間がありますし、箱館も久しぶりですから、公館の方で過ごすのは勿体ないと思ってしまって」
「相変わらずお忙しそうだねえ。こんな綺麗な奥方を放り出してお勤めかい?どこぞに馬の骨が居るとも知れないんだから旦那さんも気が気じゃあないだろうにお気の毒だねえ」
 さばさばと言われた言葉に、頬を染めて初々しく動揺を示した、自分の娘ほども年下の新妻に、おりんは思わず頬を緩める。
 華奢な立ち姿に、潮風の傷みの無いしなやかな射干玉の髪。北の生まれなのだろうか、色白の肌に小作りの可愛らしい顔は幼さを残すが、大きな瞳は夫への確かな信頼と芯の揺るがない強さを凛と宿らせる。たおやかな風情であっても、背筋の通った佇まいに、年に似合わない落ち着きが見て取れるが、老成しているわけでもなく、不意に見せる初々しさがまたあどけなく、愛らしい。
 淡い紫に千鳥模様の巾着を手に、留め袖は落ち着いた薄色と萌葱で藤の重ねの色目。結い上げずに下ろしたままの髪を、肩で鮮やかな藍染めの幅広の布で緩く止めている様が見苦しく写らない。
 言葉に訛りの無いことといい、明らかに蝦夷に住むものとは一線を画した、美しい風情だった。
 箱館に住んでいる様子は見受けられないのに、ちょくちょくと折を見ては足を運んでいるようで、そのほとんどが夫の用事らしい。それも政府の公館が立ち並ぶ通りに足を向けるものだから、いっそ近辺に住めばいいものを、この夫婦は用が済めばすぐに帰途へと着いてしまう。時折妻に請われてなのか、箱館を並んで散策し、入り用のものを二人で選んで仕入れていく。その夫も背が高く、痩躯でありながらしっかりとした体格で垢抜けて見目麗しい。しかし、切れ長の双眸の鋭さがそこらの男衆とは明らかに異質なものであり、これは本土からの渡り人、というだけの事情では無かろうと思われた。
 千鶴はおりんがそのように察していることを解っていながら、承知の上で何事も問うてこない聡さと機微の良さに感謝と信頼を寄せていた。何しろ、自分達は生涯、公に口にすることの許されない事実を山積させている。事実が白日の下に曝されてしまったときは、相手をどんな手を使ってでも口止めするしかないのである――自分達こそ奇禍が降りかかることになるのを防ぐために。
「馬の骨なんて……私は、その、あの」
 白い頬を赤らめたまま、自分の魅力に全く無頓着な初々しい新妻に、微笑ましさを覚えながらおりんはさあさあと店の奥へと千鶴を誘った。
「立ち話もなんだし、寄っていかないかい?つい先の船で良い反物が入ったんだよ。見ていっておくれね。なあに、お代は気にすることはないさ、あの色男に付ければ良いんだよ」
 うちの旦那もあれくらいとは言わないけれど、もう少し腹のあたりがしゅっとしてくれればねえ。
 袂(たもと)で口元を押さえながらころころ笑うおりんに、千鶴もくすりと笑みを零した。
「はい、お邪魔させていただきます。そろそろ夏が来る前に新しい長着を仕立てようと思っていたんです」
「それは重畳。あの男前の旦那さんに丁度似合いの色目なんだよ」
 店の奥に千鶴を誘いながら笑ったおりんに、誰に長着を新調するのかをあっさりと見通されてまた頬を赤く染めながらも、努めて平静を保とうと努力する。その努力が実ったかどうかは、おりんの楽しそうな表情を見れば易として知れたが。
「……ありがとうございます。此方(こちら)の反物はとても良い品ばかりですから、夫も――隼人さんも、喜んでくれると思います」
 赤らめた顔を隠せない千鶴に、娘がいたらこんな風なのだろうかと柔らかく目を細めた。結い上げた髪に挿したかんざしがさらりと揺れる。
「勿論、お千都さんにもぴったりの反物があるから、楽しみにしておいで」
 優しげな声音に、柔らかに千鶴も微笑んで、はいとにっこり笑って見せた。心の中で、ようやく違和感なく呼べるようになった夫の『名前』に、重ねてきた年月を思いながら。
 
 


 箱館に残るのはあまりにも危うい――。
 大鳥に忠告されずとも解っていたことであったし、事実、戦争で負った傷のため床についた土方が、目覚め、話せるようになってから真っ先に話し合ったことでもあった。銃創に刀の傷、身体に残る変若水の毒。様々なものに命を圧迫され、幾日も目を覚まさなかった土方の枕辺で、千鶴は泣きながら看病を続けた。今までなら寿命を削る代わりに恐るべき速さで傷を癒した羅刹の治癒能力が全く働かなかったのである。その理由は分からない。変若水が効力を無くしたのか、この地では体調が優れていた土方の症状から蝦夷という大地には変若水の効能に対抗があるのか、はたまた土方にはもう消費する生命力もないのか――最後の可能性だけは承伏できなくて、千鶴は意識を取り戻さない土方の側で幾日も泣き続けた。
 宇都宮でも似たようなことがあったが、瀕死の状況であっても、こんなところでこの人が死ぬはずがないと何度も胸に言い聞かせ、泣かずに千鶴は看病を続けた。時代に追い落とされる最後の武士の導であることを、新選組の行く末を最後まで担うことを、中途半端に放り投げて黄泉路へ下る人じゃない。その一念が千鶴を支え続けたのだ。さすがに、目を覚ました時には安堵のあまり涙が零れたけれど。
 しかし宇都宮とでは状況が違った。戦争の終結と共に長年の因縁に決着を付けた土方にはある意味の満足があったのではないだろうか。それは、土方をこの世に繋ぎ止める執着を無くすものではないのだろうか――。
 生きたい理由が出来た、千鶴が居るから生きたいと思った。そう言ってくれたことも本当だった。けれど、それ以上にたくさんのものを喪い、傷つきすぎたこの人を、己の存在だけで繋ぎ止めることがどうして出来るだろう。これまで散々苦しんで傷ついてきたのに、それでも恋しくて恋しくて、逝かないでくれ、生きてくれと願う自分は浅ましいのだろうか。考えるほどに涙が止まらず、寝る間も惜しんで側に付ききり片時も離れようとしなかった。何日も眠れない夜が続いて、疲労のために僅かに微睡む間でさえ不安が襲いかかり、かすかに繰り返される呼吸と脈とを幾度も幾度も確かめた。
 あの時ばかりは看病の間も、その後、土方が無事に目覚めたあとも、泣いてばかりだったと思う。泣くなと言われる端から涙が零れて、仕方がない。土方が目覚めたら、おはようございます、いくら何でも寝過ぎですよ、と笑って言うつもりだったのに、ただただ名前を呼んで手を握りしめて、顔を俯けるしかなかった。怪我のせいで緩慢にしか動かせないのに、ばらばらと散る硝子色の涙を、幾度も拭ってくれた温かな大きな手が、泣くなと掠れる低い声が、胸をいっぱいにしてますます涙を溢れさせた。
 そうやって、ゆっくりと回復していく土方の傍らに居る間にも、色々な話をした。拙い世間話やその日の天気、出来事、そして千鶴が知る限りの政府の動向と箱館戦争終結後の行方。共に戦った戦友達の行く末なども含めて、知る限りを訥々と語った。それらの事情に、土方は何事かを深く考え込むようになったが、それは千鶴も同じだった。
 戦争終結直後――つまり、敗戦の直後だ。土方の側で泣きながら必死に手当をする千鶴の元へ、大鳥が駆けつけたことがある。壮絶な怪我を負った土方と泣き続ける千鶴に、絶句した大鳥はすぐさま頭を切り換えて、あとの全てを請け負ってくれた。その後千鶴が、土方が目を覚ました旨をそっと書状で伝えると、もう一度だけ、大鳥が土方の元を訪れた。
「よくもまあ人を勝手に埋葬してくれたな」
 いまだ包帯の取れない手で苦笑した口元を隠しながら、皮肉さを装っていても楽しげな土方に、大鳥は飄々と嘯いた。
「戸籍ごと抹消するのが一番簡単だと思ってね」
 爽やかに笑って告げるには少々不穏な内容だったが、楽しげな様子は大鳥も同じだった。その後、じっと土方を見つめたあと、掌で目を覆って僅かばかりに息をついた。
「本当に……埋葬することにならなくて……本当に、良かったよ……」
 零れた溜息は心の底からの安堵だった。僅かに大鳥の掌が震えていたのに千鶴は気がつかないふりをしてそっと目を伏せた。迅速に事を運ぶ必要があったあの戦場の混乱の最中、戸籍ごと抹消するのが一番簡単で、一番安全だったのだとは、言うまでもなく分かり切ったことであった。
 その後、千鶴に茶を持ってくるように言いつけた土方が大鳥と二人で話したいことがあると言外に言っているのを諒解して、千鶴は部屋を下がった。箱館に残るのは、現段階では危険に過ぎる――そう告げた、普段の朗らかさに無い厳しい大鳥の声を、部屋を出る間際に僅かに耳にしたのを最後に。その後で、双方にどのような話し合いが行われたかは千鶴のあずかり知るところではない。ただ帰り際に、見送りに出た千鶴に向かって大鳥が悪戯っぽく片目を瞑って笑ってみせた。
「可愛いお小姓さんを一人にするわけにはいかないから、閻魔様を袖にしてきたんだってさ」
 ぽかんとした千鶴がみるみるうちに耳まで赤く染めて、泣きそうになるのに笑いながら、大鳥は双眸に優しさを籠めて千鶴を見下ろした。
「……良かったね」
「……はい」
 満身創痍の土方の側で、今にも崩れそうな様子でずっと泣きやまなかった千鶴の必死な姿が目に焼き付いていた大鳥にしてみれば、ほのかに笑った少女の顔にようやくの安堵を覚えたことだろう。
 その後、もしも必要な事態になったときの為に、双方の連絡手段を千鶴に教えて大鳥は帰って行った。
「土方君にも伝えてあるから、覚えておいて欲しい。万一を考えておくに越したことはないから……何事もなければそれに越したことはないのだけれどもね」
 最後の一言が酷く印象的に心に響いたのを千鶴は覚えている。
 朝敵、羅刹、元新選組副長、蝦夷共和国陸軍奉行並という地位、土方歳三という名、無類の職能の高さと人望の篤さ。
 一つとして露わになってはならない禁忌を幾つも重ねられたのが土方の現状であった。
 土方歳三は弁天台場に向かう途中で被弾した怪我が原因で戦死し、その後官軍に渡すを良しとしなかった部下達が密やかに埋葬を済ませたと聞く。
 大鳥の後始末とは土方の生存を死によって隠蔽することであり、薄氷を踏むような嘘を暴かれれば、政府は土方の処断に大々的に乗り出して来るであろう。薩長に怨みを築き上げた新選組の功労者であり、朝敵であり、反幕勢力の主戦力の一つとして最後まで戦い抜いた人物だ。放っておくには危険が過ぎる。
 また、土方を御輿に担ぎ上げ、箱館戦争の再現を目論む人物も現れるかもしれない。危険なのは政府だけではない――旧幕府軍の人間からも土方は狙われることになるだろう。
 ここに来て千鶴が望むのはたった一つだ。平穏を。安らぎを。あまりに苛烈に生きてきた人に、どうかこの苛酷な生き方の中で取り零してきた平穏を土方の手に取り戻すこと。
 その為にはどうするべきか、考えなくてはいけなかった。大鳥の忠告には従った方が良いだろう。確かに未だ戦争関係者が多く駐在する箱館に留まるのは得策ではなかった。
 土方も同様に考えたらしく、身体を動かせるようになると早々にどこから伝手(つて)を頼んだものか、英国との交易を行っているという人物に話を付けて箱館から僅かに離れた村の大家を頼ってひとまずはそこに落ち着いた。奥方に外つ国の婦人を迎えたという交易商は、彼女の身の安全と信仰上の自由を護るために世間からも役人からも目零れがしやすいだろうと、開国から二年ほどして本土から渡ってきたそうだ。日本中で攘夷が叫ばれていた中で、確かに外国の血を引く女性を妻として遇するには大きな危険が伴ったであっただろう。
 洋風の家屋は五稜郭で慣れていたため、土方の看病をするにも特別に不便とは感じなかった。また、居を移して早々に、大鳥から細かに政府の動向を知らせる書状を受け取った土方は、それを見下ろしながら、前々から考えていたことだが、と口火を切った。
 名を変える、と。
 新選組副長、蝦夷共和国陸軍奉行並土方歳三。また、土方歳三付き小姓雪村千鶴。日本中に名声を轟かせるほどに名を上げてしまった土方や、その比ではないが、常に傍らに控えていた千鶴もまた、関係者に聞けばすぐにも身元が割れてしまうだろう。千鶴は公式記録では男性とされており、また勿論男装を貫いていたが、蝦夷で土方の側に居た千鶴を男と見るような人間は、すでに誰一人としていなかった。
 二人で居るときはともかく、公の場で危険を伴ってまでわざわざその名を名乗り続ける必要は何処にも無かった。
 しかし、いざ変えよう、となっても、ではこれにしようとぱっと思いつく程千鶴は器用な質(たち)ではない。生まれてこの方、ずっと使い続けてきたものを変えるのだ。ただでさえ演技が下手な自覚はあるので、出来れば呼ぶにも書くにも自然と反応できるような響きや字面が好ましい。悩む千鶴とは正反対に、土方の方はあっさりと決めて見せた。
「隼人(はやと)」
 きっぱりと言ってのけた言葉にぽかんと開いた口がふさがらなかったのは千鶴である。
「……ばれますよ?」
 隼人とは、土方家当主に代々襲名されてきた名である。それこそ、関係者が聞けば明らさまと言っていいほどに喧伝しているようなものではないか。しかし土方は眉間に皺を寄せ、面倒くさげに腕を組んだ。
「こういうのは悩むほど逆にぼろを出しやすいんだ。単純で馴染みがある方が良いに決まってんだろうが」
 言い切られて、千鶴はそうかなあと頭の内で盛大に首を捻る羽目に陥った。
「氏(うじ)を変える。そうすりゃ問題ねえだろ」
「まあ、それなら……」
 土方という有名に過ぎる名を隠してしまえば、既に故人となっている人物と結びつける人間もそうはいないと思われた。じゃあ、名字の方はどうするのだろうかと千鶴が聞き返そうとしたとき、今度は土方の方が逆に千鶴に尋ねた。
「お前はどうする?」
「……私もやっぱり変えなくちゃいけませんか?」
「蝦夷共和国陸軍奉行並土方付き小姓雪村千鶴。……お前が盛大に破り捨てたが、辞令書を書いたのは一応は大鳥さん本人だ。あの人のことだ、抜かりはないだろうが、記録が何処に残っているか知れねえ。大体、関係者に鉢合わせてみろ、男のなりをしてようが何だろうがばれるに決まってるだろうが」
 お前が盛大に破り捨てた、との下りで思わず顔を背けた千鶴は、事前に考えた通りのことをそのまま呆れ顔で指摘され、言葉に詰まってふいと視線を逸らしてしまうと、口を結んで黙り込む。膝の上で指を組み、そわそわと落ち着かない。
「そうは言っても、その、すぐには思いつかなくて……一応は考えましたが」
 片眉を上げた土方が、千鶴を見下ろしてくる。
「で?」
「え?」
 顔を上げた千鶴が首を傾げる。その小さな額を軽く小突きながら土方が続きを促した。
「考えたんだろう?」
 言え、と言う無言の圧力がひしひしと掛かってくる。両肩に重石が乗ったような気がするが気のせいだと思い込むことにして、千鶴はもう一度土方から視線を逸らした。口を開いて、閉じて、もう一度口火を切ろうとして、また躊躇う。そんな様子にこつんともう一度土方が小突いてきた額を軽く抑えながら、千鶴は上目遣いに切れ長の双眸を見上げた。
「怒りません?」
「怒られるような名前なのか?」
「それは……その」
 わざとらしく明後日の方をふらふらと彷徨っていた視線が、所在なげに膝の上に落ちていく。しかしそれも土方の発する無言の圧力の前には、屈するべくしかなかった。口火を切るのがこんなに重いと感じることがかつてあっただろうか。必死に頬に集まってきそうな熱を自覚しないように念じながら、心臓を宥めてそっと息を継いだ。
「……ち……よ。とか」
 ぽそり、と呟くような声音で千鶴が零した。小突かれた額を抑える手でそのまま顔を隠し、耳や項まで赤くなった顔を俯かせる。小さな口から出た言葉を、珍しくも即座に咀嚼できなかった土方が、察して虚をつかれたような顔をした後、ごん、と重い音がした。小突くと言うには鈍い音で、土方の拳が小さな頭に振り下ろされたのだ。
「痛……っ!」
「却下」
「ごめんなさいだから言いたくなかったんです……!」
 真っ赤になりながら一息に言い切り、もはや涙目で深く俯きながら謝り倒す千鶴の頭に、深々と溜息が落ちてくる。
「呼べるかそんなもん」
 今度は此方がぼそりと呟くような声音だったが恥ずかしさに俯く千鶴には聞こえないままだ。
 ちよとは、千代と書くのだろう。永に経る歳月(さいげつ)を表す言葉は間違いなく、歳と言う文字から一字を取って形を変えたものでしかあり得ない。千の後に歳と続けても違和感のない名が出来上がるが、流石に偽名を使う意味を考えれば歳という文字をそのまま使うことは諦めざるを得なかったのだろう。土方の周りに歳という名を持つ年若い娘がいるだけで、素性を明らかにするようなものである。それほど言葉に織り込まれた意味の示す所は明白だ。――惚れた女に自分の名前を名乗らせ、それを呼ぶ。明らかに恥ずかしいのは千鶴ではなく土方の方である。
「……他は?」
 やっと包帯も薄くなった腕を持ち上げ、指で眉間の皺をほぐしながら、土方は千鶴に代案を求める。却下させられることが解っていたなら他にも候補を考えているはずだろう。――却下されない一縷の望みを掛けて、歳三の名を籠めた名前が良いと言った一途な娘をどうしてくれようと思いながらも踏み留まって土方は先を促した。
「……呆れません?」
「今度は何だ、呆れられるような名前なのか?」
「そうではないです、けど」
「四の五の言ってんじゃねえよ。さっさと言え、その後で呆れるか呆れないか決めてやる」
 先ほどのやり取りを踏襲しそうな気配に、さばさばと土方が場を仕切る。
「呆れないっていう保障はないんですね……」
 微かに黄昏れた雰囲気で言葉を飲んだ千鶴が、眉根を寄せて切れ長の双眸を見上げた。きゅっと膝の上で両手を組んで、逡巡と躊躇いの後、ゆっくりと口を開く。
「千……に、しようかと」
「却下」
 即座に下された判決とともに千鶴の額が再び小突かれた。
「ちょ、そんなにすぐに却下しなくても、頑張ったのに……!」
「却下、呆れた」
「付け足さないでください!」
 小突かれた額を抑え、顔を赤くして泣きそうになりながら千鶴が土方を上目遣いに睨むが土方にとってしてみれば此方の方が睨んでやりたい。
「俺よりばれそうな名前にしてどうする」
「音は変わってるじゃないですか!」
「字面の問題だ。何処も変わっていやしねえ、お前の安直さには負けた」
 確かに雪村千鶴から鶴が抜け落ちただけでは偽名の役割を果たすかどうかは疑問である。しかし、それを言うなら土方の名乗りなど多摩に戻れば偽名ではなく有名だ。安直さで勝負をするなら土方にだって負けてないと千鶴は思う。
「わ、私も名字を変えるから良いんです……!それに音も変わっているから良いじゃありませんか」
 ちづるとせんでは確かに、名を呼ぶことで周囲に与える印象は変わってくるだろう。しかし土方は苦虫を噛みつぶしたような顔で、千鶴をじっと見下ろした。
「一つ聞くが、お前は何でその名に拘る?」
「……拘っているわけでは……ただ」
 ふ、と千鶴が顔を和らげ、遠くを見るような視線で小さく表情を和らげた。土方に小突かれて乱れた前髪を直しながら、口元が緩く笑みを作る。
「お千ちゃん、元気にしているかなって」
 千鶴がここに来るまでに、たくさんの人から貰った好意の中でも、同じ鬼という境遇を誰よりも憂慮し、その身を預かるとまで言い出したのが京都にいた頃に知り合ったお千と言う娘であった。男所帯に囲まれて、一時たりとも気の抜けない生活の中、年頃の少女と一緒に交わす何気ない言葉や日常が、時折お茶屋で葛切りやお団子を頂いた何気ない日常が、どれほど千鶴の気持ちをほぐしてくれたことか。
 今はもう遠すぎて、会うことがあるかどうかも解らない。
 お千は千鶴の友人でありながら、鬼の一族の中でも相当に高い身分を持った娘であったとは千鶴にも察せられた。折に触れて、様々な情報を千鶴や土方にもたらしており、中にはどのような経路で知ったのかとても解らない様な話を持ってきたこともある。その情報網を持ってすれば、この戦の行く末に起こった顛末など、彼女は既に把握しているだろう。
 旧幕府軍の箱館侵攻と敗戦、更に続く新選組副長にして、蝦夷共和国陸軍奉行並土方歳三の戦死の報。そして、同じく土方付き小姓雪村千鶴の消息不明の報も。
 最後まで土方と共にあった千鶴の姿を、弁天台場へ向かう馬上の土方と共に目撃したと幕軍の兵士が証言していたことから、土方を戦死とする際に、千鶴だけを生存扱いにすることは難しい状況であったのだと、大鳥から事情を説明されて聞いている。
 人の良い顔がすまなさそうで、申し訳ないと思いながらも千鶴は丁寧に頭を下げた。――それで構いません。きっぱりと言い切って。土方の傍らにあるためなら、己の生死が曖昧になっていた方が何かと便利だ。この人の傍らにあるためなら、何も惜しいものはないと、疾うの昔に千鶴は心に定めていた。
 しかし、この一報がお千の耳に入ったら、それを思うと不意に悲しみが胸に押し寄せる。何処までも千鶴の幸せを祈ってくれた大事な友達。千鶴の背を押してくれたお千。その選択の果てに待っていたものが土方歳三戦死と雪村千鶴の生死不明と言う結果であれば、間違いなく彼女は悲しんでしまうだろう。
 それでも今の状況で千鶴が生きて、しかも未だ蝦夷に留まっていることを知らせるわけにはいかない。千鶴が生きていることが解れば、お千はまず間違いなく千鶴を迎えに来てくれるだろう。しかし、千鶴は蝦夷を動かない、としか返答ができない。それは、土方の生存を知らせることと同義だ。聡いお千はすぐに事の真相を暴くだろう。
 それではいけない。今は万難を排し、土方の安全を守らねばならなかった。
 現時点でこの先、お千に会える見通しは立たない。たくさん心配を掛けただろう大切な友人に、会いたいとは思うけれど、それよりも痛切な願いが千鶴の胸を占めてしまったのだから仕方がない。
 何を置いても、ただ土方のかたわらに――ただ一つ、千鶴の望む幸せだ。
 それでも友達を大切に思う気持ちには変わりはない。だからせめて、千の名を借りることで思い出を偲ぼうと思った。
 正直、第一希望は却下されることを承知でいた。土方が、千鶴がその名に込めた意味を悟らないはずがないし、勝手に名を拝借したようなものだ。最初から許してもらえないだろうなとも思っていたから、何処の土地にでもある名前だということも後押しして、千鶴はほとんど千という名を使う心積もりでいたのだ。
 しかし、一生懸命考えたその名前すら許してもらえないとは一体どういう了見だろう。よくよく考えた上で、千鶴が名乗ったところで、お千が何かに巻き込まれる危険は低いと判断したし、友人の名を借りることがそれほどいけないことだろうか。
 俄に郷愁に囚われて、寂しげな瞳を窓の外に向ける。敗戦を迎えてから、季節はもう秋も半ばだ。ここからは見えないが、箱館の常緑樹は海からの容赦ない寒風にざわめいていることだろう。一層冷え込みが酷くなる季節が間近に迫ってきている。蝦夷の厳冬は一度体験しただけだが、身に染みて厳しい。
 京も酷く冷えたが、それ以上にこの土地の冬は凍えて寒い。燃料の確認をしておかなければと、思考の片隅で思ったが、不意に頭をよぎるのは、しんと冷える京の冬、お茶屋で一緒に葛湯を頼んだお千の朗らかな笑顔だ。
 瞬く射干玉の双眸に切なさと、帰ることも出来ない遠い思い出の欠片(かけら)を宿して、千鶴は静かに目を伏せる。元気でいればいい、笑っていてくれればもっと嬉しい。千鶴にとって、京都で唯一出来た大切な同性の親友。
「私は私の望みで此処に居ますけれども。少しだけ、思い出して――」
 少しだけ、と言う表情でないことは明白だった。柔らかな表情に惜別の色を濃く宿し、口元が淡い微笑みを刻む。
 そんな様子に溜息を吐き、土方は腕を伸ばして千鶴の頭をくしゃりと撫でた。
「それでも却下なもんは却下だ。譲らねえぞ」
「……はい」
 ほんのりと不満げ、というより拗ねたような幼い声でぽんぽんと叩く土方の手を享受する様子はしおれた子犬のようで、思わず溜息が吐いて出る。
 お千という名は、土方にとってもある意味で特別である。
 この娘の生まれを明らかにし、そして二度、鬼より弱い己には、鬼に狙われた千鶴を守れないから、護りきることの出来る我らに千鶴を引き渡せと真っ向から新選組に――というよりは、土方に向かって啖呵を切った娘だ。おそらくは、千鶴の、まだ淡かった想いを感じ取って、更に土方ですら一生明かすことはないと無意識のうちに腹に決め、自身すら知らぬと割り切っていた心の裡をも悟っていたからこそ、真っ直ぐに土方に向かって啖呵を切った。
 それをどうしたら忘れることが出来るというのか。最後に千鶴の意思を尊重したのはなるほど、本当に覚悟を決めた千鶴の心と、その行く末を深慮した末のことなのだろうと感じ入る所存である。千鶴の想いの行く先をねじ曲げることのないように、千鶴の心を護った選択を受け入れ、千鶴の危難を承知で、土方の許(もと)に大切な親友を残したのだ。――しかし、それとは別に、千鶴をかっ攫おうとした当人の名で千鶴を呼ぶ気は土方には欠片足りとて無い。ましてや、他の女の名前で千鶴を呼ぶ気も、毛頭無い。
「……ったく、仕様がねえな……」
 大人げないのはどちらなのだと心の中で嘆息しながら、くしゃりと千鶴の前髪をかき混ぜると、大きな手に視界を遮られたままの千鶴がぱたぱたともがく。千鶴が見えないことを承知で、盛大に眉間に皺を寄せていたのだが、その仕草が幼く見えて土方は苦笑した。
「土方さん……っ」
「ちづ」
「……え?」
 不意に零れた土方の柔らかな声音に、千鶴が大きな瞳を瞬かせた。無骨な手が乱していた前髪をゆっくりと梳いて整えるのに任せながら、瞠目した射干玉が真っ直ぐ土方を見上げていた。
「千都、だ。千年の都でちづ。――古都を偲ぶには十分だろうが」
 古都、とは――在りし日の、京の都の。
 様々な思いが呆然と表情の抜け落ちた千鶴の体中を席捲する。冴え渡る月下に閃く白刃(しらは)。翻るは浅葱のだんだら。彼らが背負っていた武士の道標と、出会ってきた沢山の人々。副長を頼む。そう言い残して去っていった人達の、大切という言葉でも尚一括りに出来ない、百万語を尽くしても尚思いの丈に足りない記憶。
「――でも、偽名なんでしょう……」
 瞬きした瞬間、零れ落ちそうになった涙を必死に耐えながら、前髪を梳いた土方の大きな骨張った手を握りしめて、千鶴は大きく息を継ぐ。
「確かにあまり代わり映えはないが、おちづと名乗ればそうそうばれやしないだろうよ。何より、氏(うじ)を変える」
「私もですか?」
「変える。……お前はあんまり変わらないがな。ただ俺の名乗りを全部変えておけば、お前の方はそう心配することもない」
「え?」
 言っている意味が良く解らなくて、ただでさえ溢れそうな感情を抑えるのでいっぱいいっぱいの千鶴の柔らかな頬に、小さな手に握られたままの土方の手が添えられた。呆然とする射干玉が土方の勁(つよ)い視線と確かに合った。
「ゆきむら」
 頬を覆う、固い、大きな手のひらが暖かい。僅かにこすれる包帯も随分薄くなった。日々塞がっていく土方の傷を、確かめることが嬉しくて仕方がなかった。けれど今はそんなことに頭の容量を割ける暇がない。
「幸村隼人。俺はそう名乗る。――世間ってのは大概が家か、あとは男の方の氏を気にするもんだ。お前の方の名前がほとんど変わっていなかろうと、側に千都と名乗る娘がいようと気にしやしないだろうよ。お前の公式記録は男になっていた――女は嫁げば家が変わって当然だからな」
 幸、と文字を指で空気を斬り割く。千鶴が負った鬼の血の凝(こご)りとも言える名前を、あっさりと幸という文字にしてみせた。
「……私も、幸村ですか?」
 呆然としたままの千鶴に向かって何でもないようにああ、と頷く。苦笑しながら、頬の手が滑り無骨な長い指が、千鶴のこめかみを流れる黒髪を梳いていった。
「俺と同じ名は嫌か?」
 土方歳三は苛烈な生涯の中で妻を娶らずに死んだ。ならば妻を娶った体裁を繕えば疑惑の目も向けられにくくなろう、とは千鶴も思う。けれど、同じ名前を対外的に名乗ることを許してくれたのは、きっと千鶴だからだと己惚れても良いと思う。
 偽名は偽名に過ぎず、目の前の男は確かに土方歳三であり、自身は雪村千鶴であり、それ以外の何者でもない。何の約束もない。ただ保身のための偽りの名だった。けれど、同時に土方の言葉は、千鶴がこの後も側にいても良いという、これ以上にもない証に相違ない。
 ほとりと涙が零れて散った。先の未来を貰うことなんて今まで無かった。生きたい理由が出来たと千鶴に静かに零した時でさえ、土方はその先の未来に続くような言葉を口にすることは決して無かった。苛烈な人生の中で、先を決して望まなかった人が、生きたい理由を千鶴に求めて、傍に置くような証となる名前をくれる。これ以上の幸せを千鶴は知らない。
「いいん、ですか……?」
 一つ零れた涙が、次々と白い頬を滑っていく。硝子色の滴がほとほとと溢れて溢れてとまらない。
「これからも。お傍に、置いて頂いても――良いんですか?」
 静かな声音の中に孕んだ痛切な思いが土方の胸を抉る。はたはたと落ちる涙は、土方がこれまで未来を望まなかったように、千鶴も未来を望まず、今をただ土方の傍にあることで精一杯だったことを示しているようで、結構な重みで土方を穿つ。
「――当然だろうが、お前は俺の傍を離れて何処(どこ)に行くつもりだったんだ?」
 童のように結い上げていた髪を下ろし、緩く肩で結んだ千鶴は、もう淑やかな女でしかあり得ない。情が強(こわ)い、一度決めたら梃子でも動かない、一途な江戸の女。
「まあ今更お前が何処に行こうと、行かせはしないが」
 本当は、手を離すのならば今なのだろう。朝敵の生き残りとして、存在が露わになれば土方は決して明治政府の処断を免れ得ないだろう。そんな男の傍にいることがどれほど危険か、解らないほど千鶴は愚鈍な娘ではない。しかし、今更それを言い聞かせたところで離れていくような娘なら、仙台に置き去りにした時を最後に、千鶴は二度と土方に会うことなく、土方も五稜郭で朽ちていただろうと思う。だからもう良い。千鶴が望むなら。土方も望みのままに振る舞う。突き放しても突き放しても追ってきた娘の手を、離す気は二度と無い。
 止まない涙を零し続ける千鶴の頬を拭って小さな頭を引き寄せる。目を見開いたままの千鶴の華奢な肩を片腕ですっぽりと抱き寄せて、怪我のない肩に押しつければ、熱い吐息を一つ零して、涙混じりの声が土方に応えた。
「もう、私の居場所なんて、此処(ここ)しかありえません――」
 零れる苦しい吐息も涙も言葉も何もかも、土方の胸に置き去りにして、箱館戦争を終えてから初めて、寄り添うことを許された熱に、千鶴は心の底から安堵の涙を零した。
 それからは、対外的には千都とだけ名乗った。名乗り始めて思ったが、嘘の突き通せない性格で、演技の下手な自覚のある千鶴にとって、『ちづ』という響きは非常に有り難いものだった。何しろ元々の名前と相違が少ないので、呼ばれても抵抗無く自分の名前だと受け入れて反応できる。
 以前土方に頼んで使いに出して貰ったとき、隊務中に偽名を名乗っていた斎藤を見事に本名で呼んだことを思えば、土方の差配は間違っていなかったのだろうと、己の迂闊さに自覚のある千鶴はこっそりと溜息を吐いたものだ。
 そうして変えた名にゆっくりと慣れながら、移り変わっていく季節の中、羅刹の力を無くしたかのようにゆっくりと傷を癒す土方が、動くに支障のない程に回復する頃、世話になっていた屋敷を辞去し、箱館から少し離れた村にひっそりと身を寄せた。裕福とは言えないが、二人で住むには十二分の家と暮らし。本土よりも土着の人々が多い様な村で会話にも不自由したが、それが幸いして、その村にいる間はほとんど偽名を使わずに居られたことも有り難かった。時折舞い込む土方宛の手紙を取り次いで、用件ができれば箱館に向かい、その時は千都を名乗った。
 土方に向けて宛てられる書状は、大鳥であったり、千鶴も知る五稜郭で投降し新政府に新たに轡(くつわ)を並べた人々であったり、様々だ。
 初めて大鳥以外からの書状を受け取った千鶴は、心臓をどきどきさせながら土方に書状を渡したものだ。土方の存在は公になるだけで危う過ぎる。そんな千鶴の思いを正確に見透かした土方は、千鶴の頭をくしゃりと撫で、何でもないように差し出されていた書状を受け取り飄々と嘯(うそぶ)いた。
「お偉いさん方の中にはこの事を知っている人も少なからず居てな。――特に、羅刹の研究をしていた幕府寄りの連中には、責め問いで非人道な研究成果をこっちに暴露されるよりも、見ぬふりをしておく方が都合が良い人間も少なくない」
 千鶴の父である雪村綱道の仙台での行状は、榎本武揚にその件を任された土方歳三が解決したことは疾うに知られるところとなっているだろう。
 ――しかしそれは、一歩間違えば、羅刹の研究成果を暴かれるくらいなら、土方の存在もろとも死の淵に追いやった方が良いのではないのか、ということにも繋がるのではないか。
 蒼白になった千鶴が何を考えたのか解ったのだろう。苦笑しながら千鶴の頭を安心させるように撫でた。
「あちらさんは自分達で作っておいて、政府(敵)に利用された『不死の軍団』の成果をよくご存じでな。それを退けた新選組の鬼副長と事を構えるなら、相応の規模になるとよおく解っているらしい」
 決して負けないはずの、最も禍々しくも最強であった、あの時点では他のどんなものよりも政府の切り札たる新兵器であった『羅刹隊』を、名目上は土方が一人で退けた事となっているのだ。また、土方を謀殺しようと謀ろうとも、土方自身の人望がそれを許さず、未だ旧幕府(徳川)に根強く賛同を寄せる者達が、あっという間に土方を御輿に担いで、再び戦禍を起こすこととなろう。その中には、新政府に轡を並べた旧幕軍の人間も少なくはない。彼らが相次いで離反する事態となれば、日本は再び二分する。――国外の列強と相対していかねばらなぬ現状で、そのような事態を政府が看過するとは思えなかった。
「まあ、政府の中のほんの一握りの連中が俺を知っていて、且つ大人しくしている限りは、保身を計るために見過ごしている。勿論、大鳥さんのような例外も同じ数だけ居るんだが――」
 それでも、土方自身すら羅刹と知れたら、その僅かな均衡すら崩れるのではないだろうか。旧時代の非人道的な研究成果たる土方(羅刹)を生かしておく道理はないという論に傾くのではないだろうか。
 ――父の研究は何処までこの人達を傷つけて苦しめ続けるのだろう。
 呆然と胸の前で手を組んだ千鶴の肩を、土方が僅かに抱き寄せた。
「……お前が気に病む事じゃないと、言ってなおる性格なら俺も苦労しないんだがな」
「土方さん――」
 微かに震えながら、それ以上言葉が続かない千鶴の唇を言葉ごと塞いでしまうように、頤を傾け唇を塞いだ。
「……お前が気にする事じゃねえ」
 再度、耳に吐息のような囁きが零れ落ちて、千鶴は静かに瞬いた。瞬きと共にぽつりと一つ、涙が、軌跡を描いて溢れて、零れた。
 その時から心の決めた一つの決意が、千鶴の胸に火を灯す。
 ――この人を生かしたい。羅刹の軛をはずしたい。それは、これまでずっと激動の時代の変遷のただ中にあっても、燻り続けた熾火であり、何よりも切実な千鶴の願いであった。
 
 
 
 おりんのところで買い物を終えた千鶴は、手にした風呂敷包みに満足してにこりと微笑む。
 先日来た土方宛の書状の差出人の相手は大鳥であったから、久しぶりに箱館に足を運ぶことになるのでは、と思っていたが案の定。もうそろりと夏に向けて、代えの長着が欲しくなる頃合いだったから本当に丁度良かった。
 渋い藍染めの反物は品が良く、土方によく似合うだろう。生地が少し厚いが、秋になっても使えると思えば好都合とも言えた。結局自分の買い物はまた今度、と見送ってしまったが、予算的に厳しかったこともあるし、土方のための反物は首尾良く手に入れることが出来たので、千鶴に文句は無い。
 梅の重ねの色合いで格子模様に織られた反物は、確かに魅力的に千鶴の目を惹いたが、冬の支度を思えばそうそう贅沢も言っていられなかった。おりんが薦めてくるだけあって、とても良い品だったが、特別に華美な贅沢をしたいとは思わない千鶴は代わりに、彩りの綺麗な端布(はぎれ)を少し仕入れて、また今度、と辞すことにした。折角薦めてくれたおりんには申し訳ないことをした、と千鶴が頭を下げると、帰り際に、あれはお千都さんに取り置いておくから、またこっちに来たら寄っておくれねと朗らかな笑顔で見送ってもらえたのがとても嬉しかった。
 自然と微笑みが深くなる。故郷からこのように遠い最北の地でも、例え自分を偽っていても、優しく接してくれる人がいるのだとありがたさを噛みしめながら、千鶴は足を進めた。
 格子道を過ぎ、公館が立ち並ぶ通りの程近く。土方はまだそこに留まっているだろう。けれど千鶴はそちらには向かわず、一つ手前で角を折れた。
 向かう先には瓦葺きの建物がある。箱館の街中にあって、公館以外に西洋建築や瓦葺きの屋根は珍しいそこそこに大きな建物は、和洋折衷の造りである。風呂敷包みを崩さないように丁寧に運びながら、千鶴は門を潜り、入り口近くで足を止め、観音開きの扉の前に佇んだ。真鍮で出来た扉の取っ手に手を伸ばすとひんやりとしている。回せば、鍵の掛かっていない扉は軋んだ音を立てつつも、すんなりと開いた。
「御免下さい」
 板張りの床に漆喰の壁、左手に小窓と小さな造りの棚があり、そちらへ向かって呼びかけると、窓越しに千鶴を認めた人影がからりと硝子戸を開いた。
「おや、誰かと思えば、お千都さんかい?久しいね」
 白いものがちらほらと混じる総髪に、髭を蓄えた壮年の男性が腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がって小窓から千鶴を見た。くしゃりと皺のよった人の良さそうな笑みに、千鶴も笑い返しながら丁寧に礼をする。
「ご無沙汰しています、藤岡先生。今、大丈夫でしょうか。患者さんは?」
「大丈夫ですよ。急を要する患者は居ない。さて、暫くぶりだ、まずはお茶でもどうですか?」
 着物の袂を押さえながら、千鶴ははい、と頷いた。
「ご相伴にあずかります」
 朗らかな笑顔の優しい壮年の男は、開国と同時に蘭学を学ぶために海の外へ飛び出していったという蘭学医で、在外高官や政府要人などの医者を務めるため国際港である箱館に赴任された、元は江戸の人間だ。元々、箱館には開港と時を同じくして様々な蘭学の知識が流入しており、蘭学が根付くのも早かった土地だ。今は、蝦夷の多くの地域に、民間にも広く開かれた診療所や医療施設を設けられるようにと尽力している。
 千鶴は折り目正しく、朗らかに笑う壮年の医師に道行で買い求めた菓子の折り詰めを、つまらないものですが、と差し出した。
 ――僅かに思い出す、父の面影に蓋をしながら。
 
 
 

 
 椅子から立ち上がり、帰り支度を始める土方は、深く深く溜息を吐いて正面に腰掛ける人物を呆れたように見下ろした。
「書状は百歩譲ってやるとしても、死人に会いに来るような酔狂はもう止めておけよ、大鳥さん」
「久方ぶりだというのに、ご挨拶だね土方くんは」
 繊細な彫刻が施された樫の一つ足の卓に行儀悪く肘をついて、楽しげに笑う洋装の紳士は全く悪びれるところがない。僅かに湯気を上げる珈琲を白磁の杯から優雅に傾けてその薫りを楽しむ姿は西洋文化に馴染んだ雰囲気を纏っていた。ちなみに土方の前には緑茶が用意されている。
「まあ何にしろ、君が色々と話を聞いてくれるから正直助かる……今の政府は内も外も魑魅魍魎の巣窟だからね」
 僅かに疲れた溜息を吐くと、年より若く見える顔が僅かに影を落として苦く笑った。さもあらん、と土方も思う。元々薩長が同盟を組んだのは倒幕という長きに渡る、徳川打倒の目標があればこそだ。幕府が倒れた今、薩摩と長州の間で利害が割れるのは当前のなり行きである。更に国外からの外圧に対応して行かなくてはならず、それには様々な側面での近代化を、急ぎ推し進めていく必要があった。水面下でどのような取引が行われているかは知ったことではないが、時代の変遷の跡継ぎとして立脚したならば、相応の混乱が待っているはずだった。
 しかし土方は頓着せずに、苦く表情を歪めるだけだ。今更、解りきっていることについて、大変だなとも、無理をするなとも言わない。大変なのも無理をしなければならないのも、当然なのだ。
「政権のど真ん中が魑魅魍魎の巣窟じゃなかった時代なんて無いだろうよ……便利だからって使ってんじゃねえよ、ったく……ばれたら首が飛ぶのは俺だけじゃすまねえぞ、大鳥さんよ」
 解っているよ、と言わんばかりに大鳥が苦笑した。
 上層部や軍部の人事編成、予算編成や外務事情、また個々人の政治的手腕について、明らかに部外秘だろうと思われる事柄に意見を求められるのは今に始まったことではない。偽名として受け取る文のうちのほとんどがそう言った事柄で占められており、土方は意見を求められたうち、応えられる分だけに返事を返すことにしている。
 実際、いつ土方の身元が割れるか不透明な状況下で何の手も打たずにいるのは危険すぎる。政府の内情や動向を知っておくことは必要であった。――何もかもを、置き去りにしてきたつもりでも、護るべきものがある故に、置き去りにしてきた残滓を顧みることで保身を図らねばならぬのは、皮肉と矛盾に尽きた。
 大鳥も土方の事情を汲んで、土方にとって必要と思われる、旧幕府や反政府組織の動向や、対応する政府の動きについてなど、細かに事情を明かしてくる。その中で自身が決断に迷う事柄について、土方に意見を求め、応えられる範囲で土方はその文に返事を書いている。他にも幾人か世話になった人物で、箱館戦争後に恩赦出獄を賜り、現政権に登用された見識者も少なくなく、大鳥と同じように文のやり取りをしている者もある。
 やり取りは互いが偽名を使い、更に経路を慎重に選択して行われていたが、危険なことには変わりない。年に数度、十に足りるか足りないか。それが限度だ。
「折角拾った命だからね、首が飛ばないように努力するよ」
 解雇になるのではなく、文字通りの斬首が待っているとは大鳥も重々承知の上だ。
「解っているなら本人が箱館くんだりまでわざわざ来るな、せめて代理を立てろ。そう簡単に動ける立場じゃねえだろうが」
 飄々とした言葉も表情も、苦々しいものに満ちているが内容は大鳥の事情を気遣ってのことで、思わず笑ってしまう。鬼だ壬生狼だ言われようとも、土方が人の内情を汲んで気を回せる人間であると大鳥はよく知っていた。
「今回に限っては無理をしたことを認めるよ。次からはいつもの代理を立てる――万一首を飛ばして、君の可愛い奥さんを悲しませたくないからね」
 百匹ほど苦虫を一気に飲まされたような顔をした土方の目つきが悪くなる。……大鳥に、海外出向の話が出たことはすでに聞き及んでいた。豊富な留学経験と語学力、知識が買われての登用だった。しかし、それは日本との長い別離を強いる。今日、自ら箱館に赴いて、土方に、千鶴を連れてきて欲しいと文に記したのは、長い別離を控えてのことだろう。
 別離を控え旧知の顔を見ておきたかった心境は分かるから、いつもなら突っかかる軽口を右から左に流し、羽織に腕を通す。しかし秀麗な眉間には深く皺が刻まれて目つきが悪くなっている。
「そうそう、久しぶりに君の可愛い奥さんにも会えて折角嬉しかったのに、さっさと帰しちゃうんだから寂しかったなあ。せめて一緒に食事でもと思っていたのに」
 同行してきた千鶴は、大鳥と一通り挨拶を済ませると箱館で用事があるからと言って席を辞した。事前に土方と打ち合わせていたようで、確かに千鶴が居る前では国の守秘を含むような話題は出来ない。そのための配慮であり、有り難かったことも事実ではあるが、それはそれ、これはこれである。未だ初々しさはあるものの、すっかりと子供っぽさが抜けて、可愛らしくも淑やかな新妻の風情の千鶴の成長は目を見張るものがあった。
「……まさかその為にわざわざ来たとか言うこたぁないよな?大鳥さんよ」
「勿論、君に会えることも楽しみにしていたよ」
 そんなことのために命を賭ける危険を冒すなとここは特大の雷を落とすべきか、長旅を控えている事を理由に免除してやるか。本気で悩みつつ頭痛を感じながらも、土方は一刻も早く帰ることだけを優先することにした。昔から大鳥の軽口をまともに相手にして、実りがあった試しがない。
「再会を今生の別れにしたくなきゃ、せめて文だけにしておいてくれ」
「善処しよう」
 からりと軽い口調で了承する青年に何度目かの溜息を吐きながら、辞去の挨拶を口にしようとする。そろそろ千鶴が用事を終えて近くに戻ってくる頃合いだろう。
「……ああ、そうそう。言い忘れていたんだけれど」
 口を開きかけた土方の言葉を遮って、静かな声音が空気を打つ。手元から視線を上げると、真摯な眼差しが土方をひたと正面から見据えていた。
「政府の動きがおかしいんだ」
 唐突な話題だったが、土方は居住まいを正した。大鳥がわざわざ言うからには、見過しては下手を打つ可能性がある。
「政府の、動向?」
 そう、と頷いた大鳥自身も得心がいかないように、眉間に皺を寄せて腕を組んで思案する。
「……正確には、土佐藩出身の要人の動きがおかしい、ってところかな。しきりと旧幕軍……特に箱館戦争に関わった人物に探りを入れている。生死を問わずに」
 怪訝そうに眉を寄せる大鳥に倣(なら)って、土方も視線を据わらせた。
「箱館は終結した。それを今更探って何の益がある」
「解らない。榎本さんの所にも来たらしい。つい先日、僕の所にも来てね。岩國縁(いわくにゆかり)の元土佐藩士だったかな。当時の様子や戦死者について事細かに聞かれたよ。素性を調べてみたけれど明らかに囮でね、裏は取れなかった」
「……当時の様子ってのは蝦夷共和国の様子のことか?」
 いや、と大鳥が首を振る。
「五稜郭陥落の時の、戦場の状況を。――政府側で参戦した人の消息でも知りたいのかと思って、身内でも居たのかと聞いてみたけれど、これがのらりくらりとしててね」
 僅かな沈思の後に、土方が今度は否と首を振る。
「政府側について参戦したなら、幕軍側で戦っていた人間に話を聴こうなんて思わねえだろ。下手すりゃ仇が目の前にいることになる」
「仇討にしても遂に政府の公許が降りなかったからね。まあ、それで妙だと思ったんだ」
「……生きている旧幕府勢力の現状を探るなら益はある。今の日本に政権を二分するような余力はない、不穏な芽があるなら芽吹く前に摘み取るのが良策だ。なのに知りたいのは生死を問わず、か」
「むしろ戦死者について聞きたがっていた印象だったかな。僕は海上にいたから、陸のことはさっぱりと正直に答えておいたけれど」
 重い雰囲気を軽やかに流して大鳥がいつも通りに笑ってみせると、黙したまま思考に入ろうとしていた土方も、肩をすくめた。
「もっともだ。居なかったものを答えられる道理はない」
 自身も弁天台場の状況については、伝令を受けたこと以外に一生語れることはない。土方はあの場に辿り着けなかったのだから。
「……そろそろ時間かな、可愛い奥さんが待っているのに引き留めて悪かったね」
 努めて明朗な態度を取った大鳥に、土方は羽織の襟を正しながらさらりと嘯いた。
「全くだ。さっさとあいつの所に帰ることにするさ」
 否定も何もあったものでは無い堂々たる土方の振る舞いに、今度こそ何の含みもなく、楽しそうに大鳥が笑い声を上げた。
「それは済まなかったね、可愛い奥方にもお詫びをしておいてくれるかな。今度はお食事でもご一緒しましょうって」
「それの何処が詫びだ。さっさと仕事に戻りやがれ」
 長身の人影が今度こそ部屋をあとにしようと背を向けて歩き出す。窓から降りる陽光に黒い影が長く伸びていた。
「そうするよ、君のお陰で捗ったしね。――土方くん」
 足音が止まって、肩越しに切れ長の瞳が大鳥を振り返る。朗らかな表情ながらも、眼差しは酷く真剣だった。
「気をつけて」
「……解っているさ」
 大鳥に不敵に笑んだ口元を見せて、再び背中を向けた土方が視線を落とす。絨毯(じゆうたん)の途切れる床板に落ちた影が黒い。板目の線の一つ一つを数えながら、土方は思考を回す。切れ長の双眸の眼差しが酷く鋭く影を撃った。
 
 
 
 

 その日も、これといった進展はなかった。零してしまいそうになる溜息をぐっと唇を噛んで耐える。
 海を渡って蘭学を修めた医師の話は殊更千鶴の役に立った。父の手伝いをしていたとはいえども、本格的に医学を修めたわけでもない千鶴に出来ることは限られている。それは医学書を読むこと一つとっても、専門的な言葉が少しでも多くなってくると千鶴には読み進めることすら難しくなってくる。こんな事で父の残した変若水や羅刹の研究資料が読めるはずもなかった。まず、医学の基礎知識からして、圧倒的に欠乏している。これでは実家に残してきた資料を紐解くことすら出来ないだろう。
 ――その点で言えば、箱館という土地は千鶴にとっては僥倖と言えたであろう。開国と同時に開かれた港は、同時に多彩且つ豊富な知識をこの土地にもたらした。蘭学もその一つであり、当然医学方面にも影響を色濃く残している。まずすべきことは、蘭学の知識に明るくなること。そうと決めてから、千鶴の行動は早かった。
 時折土方に着いて箱館に向かう折々に、時間の空きを見計らって箱館にある診療所に文を書いて送り、その後で直接赴いたのである。江戸――東京の実家に置いてあった父の医学書を手に。これは羅刹の研究とは関係なく、戦場で少しでも役に立てば、と思って千鶴が京都から江戸へと戻った際に、持ち出した一冊である。一年以上をかけてこつこつと読み進めてきた医学書だったが、それでも理解の及ばない箇所が多く、挫折しかけていたものだ。この程度すら理解できないようでは、千鶴の求めるものはいつまで経っても手に入らない。
 そこで出会ったのが藤岡医師であった。常に人手の足りない診療所で千鶴にも出来る手伝いをする代わりに、時間のある時は蘭方医学を教授する。もともと、千鶴がどの程度医学の知識に通じているかを、事前の書状で把握していた藤岡医師は、その程度ならば向上の余地があるだろうと千鶴が来ることを許してくれた。土方の用事が無いときには書面でやり取りし、ようやく覚束無(おぼつかな)かった知識の土台が、少しずつ固まってきたところだった。
 日々をのんびり暮らすだけの今、動乱の時代だった頃に比べて穏やかな時間は山ほどあった。常に土方に寄り添う傍らで、千鶴は少しずつ医学の知識を蓄えて、世話になっている村人達にも簡単な怪我の手当や、病の予防方法などを教えられるようになった。いっかなじっとしていない質(たち)であった千鶴のことを良く解っている土方は苦笑したものだが、もしかしたら気づいているのかも知れない。千鶴の本当に求めていることに。それでも敢えて何も言わずにいるのかも知れない。
 診療所を辞して、小さく溜息を吐いたのは、変若水の解毒について一向に進展がないからなのか、こうしている間にも波に攫われる砂のように土方の命の刻限が迫っていると感じるからなのか――何が理由か解らない。
 さわりと吹く風に混じる潮の香りにつられるように落ちていた視線を上げると、防砂林の向こうへと傾き、落ち行く斜陽がゆっくりと空と家並みを赤く染め始めていた。灰色の街並みが秋の紅葉(もみじ)のように色付いていく。あと一刻もしないうちに、宵闇が東の空を一気に染め抜き星屑を夜空一面に散らばせることだろう。
 夕餉の匂いにつられるように子どもたちが歓声を上げながら傍らを走って通り過ぎていく。大人達も早足に家路を辿り、早々に店じまいの支度をする商店もあった。甲高い可愛らしい声を微笑ましく見送りながら、土方が居るだろう公館の通りの側、今晩宿泊する予定の宿に足を向ける。
 こうして日々は終わりを告げ、繰り返し始まりを迎える。無駄な努力かもしれない、それでも千鶴は諦めたくない。ならば諦める道理はない――。さわりと袂を揺らす風が微かに冷たい。重ねていく日常を攫うように。けれど諦めないならば、日々を続けていくしかない。いつか、土方の命を掬い上げることが出来るかも知れないならば、この日々を千鶴は重ねていく。一瞬強く瞑目して、噛みしめた唇にきゅっと力を入れてもう一度視線を上げた。躊躇うことだけはしないと決めた。ならば進むだけだ。そうやって、揺らぐ心を固め直す。こんな時は無性に土方の顔が見たくなる。そうすれば心は揺らがなくなるから。
 ざわめきが行き交う夕暮れの近い街を心持ち急ぎ足で通り抜けながら、風呂敷包みを持ち直しふと思いつく。一つ角を曲がって真っ直ぐ向かえば土方の待つ宿があるが、その前に丁度おりんの店があるのだ。どうせ次に来るのは時間が掛かるに決まっているのだから、おりんにもう一度挨拶をしていくのも良いかもしれない。何しろ土方に似合いの反物を勧めてくれたのはおりんなのだ。
 土方に早く会いたいと思う心も本当だったが、不義理をしても申し訳ないと、苦笑しながら足を緩めた。その時、客の見送りに戸外に出てきたのか丁度顔を出したおりんが、少し距離があるにもかかわらず、聡く千鶴に気がついて、相好を崩した。
「あら、お千都さん?わざわざ寄ってくれたのかい?」
 朗らかな声が聞こえる。
「はい。次に来るのはいつになるか解りませんから、ご挨拶にお伺いしてからと――っ」
 その途端、言葉を遮るかのように、俄に強い風が吹いた。風に流される髪を押さえる。藍染めの布が柔らかに手のひらの下で踊った。どこからか飛ばされてきたのか、木の葉と砂塵にとっさに目を閉じて、腕の中の風呂敷に包まれた荷物を守って身を竦めた。その、視線を落とした先。
 不意に足下に、斜陽に照らされた黒く長い影が伸びていた。つられるように視線を上げれば、俄に強い風に、千鶴と同じように、袂で庇った顔を伏せた人物が道の向こうに立っていた。
 長着の下に襟の付いた長袖の洋装を着込んだ黒い袴の立ち姿。織り込まれた暗紫色の格子模様が、藤の重ねの千鶴の着物と間逆の様相を呈していた。総髪を襟足で短く切りそろえた青年の、赤い夕焼けに浮かぶその顔を見た瞬間、世界が揺らいだ。
 くらりと視界が一気に傾ぐ。目眩がする。
 一瞬の浮遊感、足下が覚束無くてふらりと細い身体が揺らいだ。ああ、倒れると思って、半ば無意識に荷を抱き込んだ次の瞬間、強い力で腕をつかまれ引き寄せられた。背に回される腕。倒れ込もうとする自重に逆らって身体を引き上げる、痛いと感じるほど二の腕に食い込む指の力。
「大丈夫ですか?」
 気遣うような声がすぐ真上から降ってくる。固く閉じたままだった目をそろりと開く瞬前、どこかで聞いたような声だと感じた。
「大丈夫ですか、怪我は?」
 声がもう一度尋ねてくる。ふらついた足下を立て直して、大丈夫です、と言って笑おうと顔を上げた瞬間、千鶴の中の時間が止まった。
 総髪を短く切りそろえた、少し幼く見える容貌の青年が、千鶴の顔を覗き込んでいる。心配そうに寄せられた眉に、気遣いの色が手に取るように見えた。先ほどの青年だ。――もっと離れたところに居たと思ったのに、いつの間にこんなに近くまで来ていたのだろう。
「い、え。……此方こそ、すみませんでした……」
 凍り付いた時間がゆるゆると溶けていくように、地面に座り込んだまま、千鶴がゆっくりと瞬く。
「私は、大丈夫です。すみません。ご迷惑をおかけして……」
 区切るように謝罪を口にする千鶴に、ほっとしたように青年は微かに笑った。年の頃は丁度千鶴と同じ頃合いだろうと思われた。笑うと小作りな顔立ちが手伝って、ますます幼く見えるのが千鶴とどこか似ていた。
「それは良かった」
 頽(くずお)れた背中から受け止められるように回された腕がゆっくりとはずれて、離れていく。それでやっと、自分がこの人に受け止められたのだと千鶴は自覚した。
「急に倒れられたんですよ。少し、休んだ方が良い――ご主人は何処に?」
 え、と一瞬不思議に思ってから、袂を風が揺らしていくのに気付いて千鶴は納得した。髪を結い上げることもせず、また、年より幼く見られがちの千鶴はまず初対面で既婚者と見られることが無い。しかし今日は留め袖を着ていた。だからすぐにそうと知れたのだろうか。
「いいえ、あの……」
「お千都さん?……お千都さん!」
 動転した声を上げて向こうからおりんが駆け寄ってくる。……ふと奇妙に感じた。どうして挨拶に寄ろうと思っていたおりんの店からあんなに離れているのだろう?ふわりと身体が揺れる。どこか幼い顔立ちの青年が、気遣うように千鶴を少し高い位置から見下ろしていた。その射干玉の双眸に心の底まで覗き込まれているような感覚に襲われて、ふらりと頭の底がしびれる。
「お千都さん、大丈夫かい?今、店のものを使いに走らせたからね――ご主人はいつものお宿で良いんだね?」
 駆け寄ったおりんが親切に訊いてくれるのに、頷きながらも視線がどうにも離せない。赤い、赫(あか)い夕日が家々を、千鶴を、青年を、双眸の黒を染め抜き、呑み込んでいく。一面の緋色に覆われて――その瞬間、千鶴の意識はぷつりと絶えた。逆光に陰った総髪の青年の、朱い唇が酷く優しげに、嬉しそうに愛おしげに――禍々しげに、微笑んだ様な気がした、その記憶すらも緋い深い闇に呑まれて。
 その日から始まる悪夢の代謝だと、今はまだ、知る術すらなく。
 
 
 

   



 







謝辞 表紙、扉絵 無名様    文責 柳瀬  二〇一一年八月