過去より未来へ渡るもの、今に届かぬ白日夢。



Day dream.  sample as interlude. 



 大通りから少しそれると人の数は少なくなる。閑散とした横道の通りが多くなるけれど、休日のせいか途切れることは余りない。枝分かれした道に入って歩道を歩く。少し行って左に折れた。
 紅茶の店からは迂回する遠回りの道になるが食後の散歩とでも思えばいい。そのうち目的の本屋が見えてくるだろう。
 煉瓦道のコンコースを踏みながら、上機嫌に麻衣が歩いていく。白いトレンチコートの裾がひらひらと浮かれるように冷えた風に舞っていた。見上げる空はうっすらと水を掃いたように凪いでいて、陽射しの穏やかさが心地よい。陽光に色素の薄い瞳は少しだけ眩くて、目を細めながら麻衣はふわんと微笑んだ。
 排気ガスに塗れた、ビルのモノリスに囲まれた、東京という街だけれど、壁影に切り取られた四角い空はそれでも確かに尊くて愛おしい。
 祖のみ上げた視線に影が落ちて、麻衣が瞬く。視界の隅に黒衣の人影。孕んだコートの漆黒が麻衣の半歩手前を歩いていた。
 思わずぱちっと瞬きして、首を傾げる。先ほどは麻衣の右側を黙々と歩いていたのにいつの間にか、左側を陣取っている。特にお互い賑やかに会話をしながら歩いていたわけでもないし、麻衣が無理矢理仕事を切り上げさせて外に連れ出したものだから、不機嫌だろうとは思っていたのだが、口数が少ないのはいつものことだし、今更ナルの不機嫌を気に掛けるような殊勝な正確は残念ながら破壊されて久しい。
 麻衣より少し先を行く白と黒のコントラストの美しい横顔は唯黙々と歩いている。このまま置いて行かれるのだろうか、それほど不機嫌だったろうか、はて、と首を傾げるものの、とことこ歩いているペースは一定で離れることは終ぞ無い。
 人通りの少ないコンコースを歩きながら、出会った頃より広くなった肩越しにナルの後ろ姿を麻衣がじっと見つめた。その視線に気が付いたのか、冷たい風をはらんでさらっとナルの前髪が揺れる。射干玉の双眸が無言で、何だ?と訊いてくる。それに、何でもない、と細い首を振ることで応えながら麻衣はナルの後ろにくっついていく。
 休日の人混みを避けた通りに行き交う人はまばらだ。けれど、目抜き通りほどとまでは行かないがこの通りにも様々なカフェや小物店など、目に賑やかな店が所狭しと並んでいて歩いているだけで十分楽しい。視線を誘われながら、麻衣は上機嫌で久しぶりの外出を堪能することにする。些細な疑念はこの際おいておくことにしよう。ナルと二人で居るだけで、おいて行かれないだけで、――多分、これ以上ないほど麻衣はご機嫌だ。
 栗色の髪を歩く風にふわりと靡かせ、少しだけ俯いた顔の影で麻衣がくしゃりと小さく笑った。単純な自覚はあれど、ナルの傍に居られるのならば、それだけで。
 その視界の隅を、鮮やかな極彩色が彩ったのはその時だ。思わず顔を上げて色の源を探し出す。白いコートがふんわりと細い足下で翻った。
「麻衣?」
 急に立ち止まった麻衣が、肩越しに振り返った。しかし、麻衣の視線は真っ直ぐ他の方向を向いていてナルの方を見ていない。ふっと溜息を吐きながら、鳶色の瞳が釘付けになっている先を漆黒の瞳が追いかける。
 そこに咲き乱れるは極彩色の花の色。可愛らしいながらも、品の良いディスプレイが一見して、お洒落なカフェのようだ。けれど飾られているのは美しい、とりどりの花々。赤いひさしの下にお洒落な小さな鉢が幾つも並んで、とりどりの花が咲いている。ポインセチアの赤も鮮やかだ。硝子張りの店内に透けて見えるところには見事な白いカラーが大胆な花瓶に飾られていた。一際目を惹くのは今が盛りと咲く美しいスウェーデンアイビー、玉簾、可愛らしい秋海棠の小鉢もあった。その奥には、温室で育てられたのであろう、カーネーション、薔薇、胡蝶蘭にカサブランカ――絢爛の花々が咲き誇る。
「……寄るのか?」
「……ちょっと見ていきたいなー……とか」
 駄目?とお伺いを立ててくる鳶色の瞳が上目遣いにナルを覗き込む。細い項でさらりと栗色の髪が流れて麻衣が小さく小首を傾げた。甘えることが苦手な麻衣が、珍しく甘えたがったり寂しがったりするときに良くする仕草だと解っている。解っていて、ナルは興味なさそうに漆黒の瞳に瞼を下ろした。
「だめ」
 がん、と顔に大書して麻衣の気配が一気に強ばる。
「ちょ、けち!ちょっとくらい考えるそぶりくらい」
「時間の無駄」
「今日は外出、ゆっくり散策、そう決めたの……!」
「せっかくの散策なら有意義に書店で文献を漁りたい。時間を無駄にするような社員教育をしたつもりはありませんが、谷山さん?」
 立て板に水とばかりに冷酷な言葉を次々吐き出されて麻衣がきっとナルを睨み付ける。
「あたしにとっては無駄じゃない」
 溜息をついて、ナルが麻衣を見もせずに軽く肩を斜に構えた。
「買うのか?」
「え?」
「花」
 視線で促す先には、全面硝子のディスプレイ越しに可愛らしいガーベラが咲き誇っている。
「買う、かは、見てみないと、解らないけれど」
 そう、とナルは冷静に頷いてから先を続けた。
「このあとの予定は?」
「え?本屋に行って、紅茶見て、雑貨店行って、あと」
「……帰った頃にはしおれている花を、部屋に飾る趣味があるのか。ついでに言うが、荷物は増えるし最たる弊害は移動に邪魔。よって却下」
 立て板に水とばかりに蕩々と語り終わるとナルはくるりとせをむけて、さっさと歩き出そうとする。あまりの正論に思わず反論も出来ないまま、麻衣は一瞬凍り付いたが、それで怯んでいてはナルと付き合っていくことなど出来るはずもない。対ナル戦略に関しては英国の上司に次いで麻衣の年期は筋金入りだ。
 歩き出そうとするコートの袖口を、その瞬間にはっしと掴む。
「か、買わない!見るだけ、ちょっとだけ……本当にちょっとだけ!時間的には十分から二十分、それくらいなら時間の浪費ではなく適切な息抜きだと思う!」
 ――此処で、駄目?と小首を傾げて強請らず、ナルの主張に理路整然と反論してくるのが、甘え下手な麻衣の所以であるのだが、そこの所を知り尽くしているナルは別段可愛くない、とも思わない。むしろ麻衣らしいと思う。
 ただ、それは彼女の生中でない生い立ちに起因した独立心に寄る態度なのだと思うとそれを時折突き崩してやりたくなるけれど。
「……二十分」
 とたん、ぱっと、それこそ花咲く笑顔で麻衣が笑った。きゅっと掴んだ袖口に小さな指先が力を込める。甘えられない麻衣の、言葉にならない精一杯の甘え。
「じゅうぶん!ありがと」
 ぱっと笑って、何を買ってやるでなく、してやるでなく、それだけで彼女は笑顔を見せる。心の底からの信頼を寄せて。
 本当に欲しいものが在れば言えばいいのに、麻衣は、掌にあるものだけで満足するから――ナルが麻衣のためにしてやれることなど実は何も存在しないのかも知れない。
「ナル、どしたの?」
 栗色の瞳がナルの漆黒を覗き込む。傾げられた項に零れる栗色の髪が陽に透けて淡い。何でも、と短く首を振ってナルはガーデニングショップにむけて足を運んだ。それを追いかけ、追い越して、上機嫌に麻衣がたったか跳ねるように歩いていく。燕のように白いコートが弧を描く。
 硝子張りのディスプレイの前、煉瓦色のタイルを踏んで、一際目を惹く赤と白とオレンジの色彩に、麻衣がふわんと微笑んだ。硝子のフラワーポットに飾られている、すっと伸びた茎とが印象的な、真っ直ぐな花。ガーベラの細い花弁が幾枚も連なってまあるく円を描いて薄い陽光を弾いていた。
 それを見止めた麻衣がにこっと笑ってナルを見上げた。
「ナルみたいだねえ」
「……花に例えられて嬉しいと思うか?」
 軽やかな笑い声を上げながら、可笑しそうに麻衣が後ろ手で可愛らしく手を組んでナルを振り向く。
「ぜんっぜん思わない!」
 許可を出したことを軽く後悔しながら絶対零度の視線が栗色の瞳を冷酷に睨むが麻衣は気にした風もない。ディスプレイに視線を戻しながら、ただね、とその先の言葉を続けた。
「花言葉がね、ナルだなーって」
「はなことば?」
「花の一つ一つに付けられた格言、と言うか、メッセージみたいなの。英語ではなんていうか知らない。でもフォアゲットミィノットって言う花、しらない?あれ花の名前だけれど、そのまま花言葉だよ」
 ああ、と頷く。ザランゲイジオブフラワーズの事だろう。
「あたしもよく知らないんだけれどね、色によって言葉も意味も変わってくるし。綾子が詳しくってね。……ルエラにもこの前英国行ったとき教えてもらったの。花言葉じゃなくて育て方だけど」
 そういえば、息子よりよっぽど仲睦まじく母娘に端から見える二人が、ガーデニングで一緒に作業をしていたことを思い出す。ふう、と溜息をつきながら、わざとらしく麻衣が肩をすくめた。
「せっかくの休暇なのに、誰かさんが構ってくれなかったものでーお花のこと、無駄に詳しくなりましたっ」
「ああそう、良かったな」
 さらりと枠にも引っかからず流される話題に麻衣は軽く抱いた殺意を黙殺し、いつものことと念仏を唱えながら会話を続けようと努力を試みることにする。何より、愛らしく絢爛豪華な花々の前で不毛な言い合いは無粋に過ぎるというものだ。
「で?」
「え?」
 見下ろしてくるナルに、心の中を落ち着かせていた麻衣が突然の声に首を傾げた。
「花言葉。これの」
「ああ、これね」
 可愛い顔がナルに向けられ、満面の笑みが花咲いた。
「究極美」
 輝く笑顔がもの凄く嬉しげにナルに告げる。
「インパクトある花言葉で覚えてたんだー究極の美。ナルシストっぽいところがあーナルだなーって。ね?」
 激しく傍らの温度が下がっていくのに気が付きながらも麻衣は全く頓着せず、可愛らしく指を立て、にっこり笑って先を続けた。
「もひとつあって。これはあたしかな」
「……へえ、それはそれは」
 美を花言葉に持つ花が、自分に相応しいなど自意識過剰なと言いかけるのを遮って、無敵の笑顔が宣った。
「我慢強さ、辛抱強さ」
 きっぱり言い切る麻衣の言葉に胡乱な仕草でナルが首ごと麻衣を見下ろす。既に態度は斜に入っていた。
「ナルを相手に人付き合いするのに、これ以上の花言葉はない。断言する」
「前言撤回。今すぐ本屋に行く。ちなみにもう一件書籍を注文した書店にも寄る」
 目を見開いた麻衣が、ばっとナルを振り仰ぐ。
「ひど……!横暴、傲慢!」
「何とでも?」
 鼻で笑って見せたナルは歯牙にも掛けずに既に踵を返していた。その背に追いすがってたかたか走りより、コートの裾をはっしと小さな手が掴む。
 やっと振り向いた冷徹な射干玉に、栗色の瞳の必死さがじりじりと迫った。そのまま暫し、無言の攻防が続く。
「……………人は真実を指摘されると逃げに打って出るんだってさ」
「このまま帰るのがお好みですか?」
「…………滅相もございません」
 ぐっと詰まった麻衣が、忸怩たる思いで歩き出すナルをとぼとぼと追い始めた。吹き出した風が少し冷たいのが更に身に染みる。その、風の向かう先にいつの間にか、麻衣にとって何よりも大きく広い背中がある。華奢な部類にはいるだろう、男性としては。けれど、どんなに寄りかかろうと決して頽れることは無いのだと、麻衣は知っている。どれほど重い責任を背負おうと、全うすることを解っている。
 ああ、そうか。と気がつく。ナルが歩くのは車道側で、そして風上なのだ。
 何も言わずして此処に居る。唯それだけで麻衣を護る人。
 一瞬、泣き出しそうに麻衣は顔を歪めて目を閉じた。目頭がじんと熱い。泣く必要など無いはずなのに、オーバーラップする今朝の夢。
「……ほんとは、ね」
 小さな、風に攫われそうな声で、麻衣が言葉をほろりと零した。
「ガーベラの花言葉。常に前進、っていうのが、一番似合うと思う」
 学者畑にいる人で、人付き合いは嫌いで、でもたゆまぬ努力で前に進む人。
「真っ直ぐな花でしょう?」
 茎も花弁も、すっとしていて、立ち姿の美しい花。
「だからナルに似てるって思ったんだ」
 くっついて離れない、小さな手のひらがコート越しに温かい。馬鹿正直にそんな言葉を言えてしまえるような厚顔無恥さは互いに持ってない。けれど麻衣の心が今、揺れていることがナルには手に取るように解って嘆息する。
 変わりゆくもの、離れていくもの、それを恐れているような。違う、まるでおいて行かれるのを怖がるような――小さな手のひらに籠められた、小さな心の叫び声はESPなど無くとも、言葉以上に雄弁にナルに語りかける。
 冷えた風から護るように、ナルは無言で麻衣の小さな手のひらを袖から離させた。途端、揺らいだだろう鳶色の瞳など見なくとも解る。その不安定な色を払拭するように、開いた片手を握りしめた。冷たいナルの手と、暖かな麻衣の手の温度が混じり合う。驚いた気配が半歩後ろで吃驚したようにぴくんと跳ねた。
 すぐに枯れてしまう切り花は、今、麻衣が恐れている何かに繋がる気がして花屋になど本当は寄りたくなかった。だからさっさと切り上げた。そんなこと口が裂けても言わないし、麻衣は知らなくて良いと思う。
 一瞬、強く力を込めて離す。振り向いた横顔で漆黒の瞳が麻衣を見下ろすと、小さな顔がふわりと微笑んだ。
「行くぞ」
 声を掛けるだけで、麻衣は着いてくる。そうして嬉しそうに笑うのだ。
「ん」
 満面の笑みで無邪気に笑って、小さな足がステップを踏むような上機嫌で、煉瓦道のコンコースを辿っていく。違う足音を響かせながら、二人一緒に。
 
 
 わかりにくい優しさを言葉にせずとも伝えればいい、真っ直ぐに。
 ガーベラのように。
 それで良いんだと、麻衣は笑った。
 


 
 
 
 


全ページ、ナル麻衣デートなお話からページの都合で削除した途中の抜粋をサンプル代わりにあげました。現在拍手にも使っております。後々に編集をして小説ページに載せるつもりです。
新刊の方ですが、大体こんな感じでだーっと全ページナル麻衣です。昔書いたものをがつんと書き(直しつつ)足しました。倍以上に増えました…。