ほら。私の方こそ貴方から、いつも大切な何かを貰っているのだから。


 暗い夜のあぜ道を少女が駆けていく。
 夜目にも鮮やかな煌めく星は所々を薄くたなびく雲に隠れ、月の明かりも僅かばかりだ。ただでさえも暗い上、舗装されていない道のりは体力のない少女にとってかなり辛い道程だろう。のはずなのだが、少女の足取りは全く衰えず危なげなところも何処にもない。まるで昼間の光の中を駆けていくようだった。
 小さな足音がぱたぱたと響く。かるいそれは草にかき消え風のざわめきに消えていった。
 その小さな姿が、こんな夜更けには大人達ですら遠慮する深い森の入り口の中へと真っ直ぐ躊躇わず消えていく。
 遙か頭上で木々達がその後ろ姿を隠すように、人の里から守るように、足跡を葉ずれに消していく。
 この森は確かに少女に好意的だった。
 それは少女自身が持っている、人有らざるもの達が心地よいと思う『場』が木々達にも解る故だろう。一生懸命な気性の少女が、人でも何でも区別無く誰からでも好かれるのはそういった理由もあるのだろうが、それすら少女が磨いた本質故だ。
 そしてそれだけではなく、神に好かれた希有な娘を守ることを、この森はとっくに決めていたのだ。例え相容れぬ人の子だとでも、その決意は固いのだ。
 脇目もふらずに駆けていく少女の髪がふわりと揺れる。一つに括った柔らかな髪に、きらりと紫の髪留めが、星灯りにも似て煌めいて、宵闇の中に散っていった。





星燈の星誓






 森の中へ続くあぜ道を辿って只ひたすらに奥を目指す、息を切らせて走りながら。
 過ぎていく足下を今よりもっと子供の頃に、母が教えてくれた小さな石の家、神様の祠がすぐに遠ざかっていく。
 幼い頃は怖かった、そして今もきっと怖いはずの夜の森の木々の影も、何故か此処では怖くはない。守ってくれるのだと本能が知ってるからだろうか。それとも、此処では何が在ろうと助けが来ると知っているからだろうか。守られているだけでは切ないが、彼は自分を見守ると言って訊かないのだ。逢えるだけでも嬉しいのに。
 困ったときは力を貸したい、痛いときは側に居たい。願うことは我が儘だろうか。けれど側に居ることを許してくれるのならば、側に行くことを願ってくれるのならば、自分は何でもするのだろう。そんなことが解るま程には、こうして逢瀬は繰り返されてきた。
 あぜ道は森の反対側へとまだ続くが、木々に抱かれた最奥であり中心である所はそのあぜ道を折れて、獣道のような、小さな細い一本道を少し行った場所にある。少女一人通るのがやっとのその道は、普段は木々が被い茂っていてきっと誰も気が付かないが、彼女が通るときだけは、いつもはしんと薄暗い森の最奥に関わらず、上天からは太陽の木漏れ日や細い月明かりが見えにくい足下を必ず照らした。太い枝も何故か無くなっていて。
 小さく有り難うと呟きながら、息を整えもしないで急ぎ足で其処を抜ける。
 柔らかな枝をさわりとかき分け、少しかがんで顔を出すと、其処はぽっかりと開けた広場だった。古ぼけた神社が佇み、人の世からは忘れ去られた時間と空間が確かにある。此処の空気がとても好きで、すうっと深く呼吸すると、身体が涼しくなっていった。
 さわさわと梢が揺れている。薄く儚い星屑が、流れる雲に時々隠れて、儚い陰影が空に映えた。
 見上げた上天に煌めく星はとりどりの色で少女を見下ろす。白い星が一際美しくきらりと光ったのを見つけると、再び小さな足が駆け出した。
 その白い煌めきがふわりと風のように具現され、輝く白竜へ転変するのに大した時間はかからない。
 神社の境内の開いた場所に走り込んだ少女が見上げ、竜神に向かって駆け寄って小さなその両手を広げた。
 風を孕んで翻る鬣に美しい翡翠の瞳が見下ろして、人の子に優しく視線を降ろす。深い深いその碧は、どんな色彩も敵わない。世界一綺麗な色だと少女は思う。
 小さな両腕が広げられ、そこに竜が舞い降りる。小さな存在に衝撃を与えないように、羽の軽さの仕草だったが、それにも構わずその竜に少女が背伸びして抱きついた。
 緑色の鬣に柔らかく小さな顔を埋めるとその双眸が安心したように閉ざされる。深く抱きつかれて竜の瞳が星の儚い光に煌めき、光を孕んで穏やかに閉ざされた。
 逢瀬はこうして繰り返される。
 
 
 暫くそうしていた後で、鬣に埋もれながら少女は小さくその竜の名を呼ぶ。
 吐息と共に呟かれた小さな言葉に応えるように腕の中の竜が白く、瞬く間に光に包まれた。翻る鬣が色を深くし、白い煌めきは鱗から、光の結晶に変えて散る。後に残るのは時代錯誤な白の狩衣のその姿。長い髪を背中に流し、古風に紙縒で止めている。瞳を閉ざしたそのままでも美しい作りの顔に、ゆっくりと震えた瞼が開いて瞬くと、美しい翡翠の瞳が露わとなった。鬣の代わりに、白い狩衣の裾をしっかり掴んだままだった少女が微笑みながら青年を見上げた。
 「こんばんは、ハク」
 「こんばんは、千尋」
 衣の裾を掴んでいる少女の華奢な身体を支えながら、美しい竜も微笑んだ。
 
 
 美しく白い竜の鱗を、自分の形代に、と渡されたのはもう随分前だ。この世界で再会したのは二年前。半身を失ったハクが実体を、ヒトの世界で保たせるにはそれだけの月日が必要だった。
 以前千尋が神隠しにあった森は、神の力が宿りやすい。此処で、月に数度竜態への転変を行う。そうした方が身体を保たせるには楽なのだ。人間の世界から離れることも、汚染された空気や水、土壌から解放されると言う意味でもある。八百万の神は元々は自然信仰から成り立っているものが多い。ハク自身、もとこの世界にいたときは、河の化身の神だった。その半身を人の都合で無理矢理奪われてから生きるために力を得ようと別次元へ――別の世界へ。神々が人の世で負った疲労を癒す、その場所へと向かい魔女の教えを請うたのだ。神力は己であり、半身でもある河を失って以来衰えるのは否めない。存在すら消えかけた。補うための新しい力を、魔法で補おうと考えたのだ。魔女を相手にいくら傷ついていたとはいえ、未熟だったと今は思う。この少女が居なければ、折角永らえた命すら消えていただろう。
 そうして生きて、約束をした。魔女の弟子を止め、再び人の子と逢うのだと。
 半身を失った世界で生きて行くには、直ぐさま決別をしたかった魔女の元へ残って教えを請うしかなかった。只、今回は一人ではなく、もう一人。自分が支持した魔女の姉である銭婆にも教えを請うた。
 真名だけはしっかり胸に秘めて。もう二度と、失わないように。二度と失えない。再会の約束を果たすためにも。
 人の世で生きるにはどうすれば一番存在を守れるか、どうすれば少女の側に居られるのか。
 考えた末、思いついたのは人への転生。ただそれは限りないほどの時を生きる神々にとってはあまりに存在が違うから、完璧には果たせない。何かあったとき、少女を守ることも叶わないかも知れない。
 方法は厭わなかった。
 人に成り、神でも在ればいい。
 それにもし、少女が自分の記憶を失っていたのなら、人ならば近づくことも許される。神としての誇りを捨てても変わらぬ程の決意の強さは執着と言った方がきっと近い。
 それでも約束を果たしたかった。それでも側にありたかった。そう言ったら彼女はどうするだろう。
 人であると神の側面である方を損ないやすい。
 楽に神性を保つため、数度の転変はかかさない。その時ばかりは神に戻る。
 それを、何故か忘れるはずだった記憶をあっさりと(本人は絶叫するくらい苦しんだと言うが)思い出した千尋に話した時から、昼でも深夜でも関係なく家をそっと抜け出してくる千尋に、夜の闇からの守りになるからと制止を諦めたハクが渡したのが鱗の一片だ。
 仮の姿を取るときは、どうしたって力は失われてしまうから、良いものでも悪いものでも関係なく好かれてしまいがちな千尋を護るには丁度良かった。下手な存在では近寄ることもしないだろう。
 そういう質に千尋がなってしまったのには幼い頃に体験した、あの不思議な世界での出来事が原因の一つでもある。異世界に入り込んだ人、死にかけた人が戻ってきたら異質な力を得ている事があるのは、元々の素質もあったかも知れないが、人有らざる世界の性質がその魂の形に多かれ少なかれ影響を与えるせいであろう。
 
 
 「本当に吃驚したんだよ」
 境内に小さな足をふらふらさせながら千尋がちょんと腰を下ろした。その隣に寄り添うように、ハクは柱に背を預けて寄りかかる。
 幼い頃の面影を色濃く受け継いだこちらがハクの真性だ。
 苦笑しながら千尋の話に耳を傾けているのを解っているが、あの日のことを思い出すたび千尋自身は頭が痛くなる。
 上級生に、転校生が来る、と、入学したての高校では新学期も早々騒ぎが持ち上がっていた。まだ友人も少ない教室内ではその話題に持ちきりだ。知り合ったばかりの女生徒に、クラス内が落ち着かない訳を聞いてなるほどと思った。普通は学年クラスが違うともなれば関係ない物だが、それは最高学年で入ってくるのだという。
 引っ越しと、学区域の手違いが重なり、わざわざこちらに来ることとなったのだそうだ。此処自体都会でも田舎でもないが、早々成績の悪くないこの学校に、そんな特例が許されるとは、しかも三年時の転校が許されるとは、とはっきりって感心したものだ。それもうわさを聞くうちでは、試験はフリーパスだったらしい。秀才かよほどコネがあるのか。どちらかだと興味本位に噂されていた。そんな話題があったからこそ、クラス内で噂になる格好のネタだった。その転校生が登校の時間を遅らせて最高学年の朝会の時間に紹介されたとき、そんな噂は微塵もなくなってしまった。それより他に噂の種が出てきたのだ。襟足かかる少し長めの後ろで一つに結われた髪、すらりと均整の取れた身体、黒い瞳は冷静で知性を感じさせた。何よりその顔の造形美が、体育館内を沈めたのだ。涼やかな声が挨拶をすますと、次の瞬間体育館内は怒濤の騒ぎに包まれた。主に女生徒の黄色い悲鳴だが、あまりに違う人種に動揺する男子達のざわめきも大きい。たまたまプリント整理を頼まれて、教務室に寄った千尋は、渡り廊下から見えたその光景、その人に、視線を止めていた。何故か視線が離せなくて、隣の友人が声を掛けも息も詰めて見つめたままで居た。
 遠くから確かに黒いその瞳が一瞬深い翡翠の碧と重なって。微かに動いた唇は、久しぶり、と言葉を紡いだ。そのくせ、体育館から出てすれ違うとき、初めまして、と声に出したのだから、ふてぶてしいというか何というか。それでも何しろ先輩だ、無視することは絶対出来ない。その挨拶にちゃんと初めましてと返せただけでも僥倖だろう。
 今までにも、この森を訪れるたび数度襲われた既視感が日常生活でよりいっそう強くなった。愛用しているきらきらとした紫色の髪留めに無意識に触れる時間が多くなった。
 馴染みにくいかと思われた転校生は話しかけられれば誰にでも丁寧に言葉を返すので、呆気ないほど早くクラスに馴染んだようだ。そして秀才かコネか、と言う噂は再び表面に流れる前に、その学期の中間で彼が一位をとることで一瞬にして決着が付いた。
 下級生にまでその人気に火がつくが、そんな中で千尋は冷静に見えた。と言うより、そうやって騒ぐ気力もないほど、その存在が気になって仕方なく釘付けになっていたという方が正しい。
 悩む日々が続いたが、きっかけは唐突に訪れる。記憶の鍵が解けたとき、ぱんっと怒濤のように記憶が頭に流れ込んできた。逢えなかった分の寂然全てを吐き出すように、想いも出せなかった自分を憎むように、ただただ涙が溢れて止まらず宥めるハクの言葉も未だ余りよく思い出せない。
 何より千尋が言いたいことは、どうして姿を偽ってしかも何だか知らないが人間の高校生をやっているのか、と言うことと、何故自分にすぐ話してくれなかったのか、の二つに大きく分けられる。今の白い狩衣の、深い碧の黒髪と、澄んだ翡翠の瞳を見れば、竜の姿を見るまでもなく、一発で自分の記憶は解けただろうにと。話してくれればあんなに苦しかったこともないのに、と。
 「思い出せないのならそのままにして置くつもりだった。記憶の封印が解けたときどんな影響が現れるか解らなかったし、それに側に居ることだけは決めていたから」
 千尋の精神に対するショックを恐れて、思い出すのなら少しずつにと心に決めていたのだ。初めてあったとき、成長しててもあれが彼女だとすぐに解った。同時に、全く知らない顔をされたら、きっと無理矢理にでも思い出させていたかもしれないと思う。彼女にとってあの日々が、それだけの事だったのかと、思ってしまうかも知れない。想いの重さなど関係なく、記憶は全て消え去るのがあの世界とこの世界の律なのだと解っていても。
 それでも、始めてみる目ではなく、ひたすらに懐かしい、哀しさと嬉しさを綯い交ぜにした視線で、確かに自分を捉えてくれたから。だからそう決意できた。
 「それでも忘れていた自分が嫌だった」
 深い碧の翡翠の瞳が、困ったように微笑んで石段に座る千尋を見下ろす。
 「私は千尋から思いだしてもらえて嬉しいけれど?」
 あの世界の律がどれだけ強固か、魔法を行使する者として、知っているから。それなのに、思い出してくれたのだと思うと。
 それにあの調子なら、例え自分が来なかったとしても、あと数年の月日を要したかも知れないが、遅かれ早かれ彼女の記憶はあるべき場所へと戻っただろう。記憶は消えはしないのだから。
 「苦労した甲斐もあったよ」
 くすくすと楽しげな声が響いて千尋が深く溜息を付いた。
 「全然苦労した風に見えない」
 ふくれ面で彼女が言うことももっともだ。とてもそうは見えない。が、心外な、と言う雰囲気を装って軽く腕を組んでみせると、白い狩衣の裾がふわりと軽く浮いた。
 「頑張ったよ?勉強とか」
 そんな仕草で頑張ったとか言っていても、全国の受験生に申し訳ないだけだと千尋は思う。元々勉学は魔法の勉強で慣れていたし、嫌いではないからと本当に一から学んだらしい。漢文古文などがお手の物なのは、あの達筆さを油屋にいたときに見ている千尋にも解るのだが、理数系が得意なのはどうにも納得がいかない。科学、物理などはともかく、数学は経理担当だったから慣れているのだと聞いたが、そんなもので解けるような問題ではないと深く思うのだ。それにも彼は軽く応えてくれた。筋道を立てて論を組み立て考えているから、結果が分かりやすいのだと。結果とはつまり答えである。妙にこの答えには納得してしまったものだ。企むことが酷く上手い性格だと思う今日この頃だからだが。何しろげんについ二年前、千尋自身を謀ったのだから。
 所詮人の考える事など、神にとってはたわいない謎解きのようなものなのだろうか。それともハクが特別なのか、余り精神の安定上は深く考えないことにはしているが。
 因みに昨年、見事国公立に合格していたりしてちゃっかりと通っているのだから手に負えないと思う。神様が勉強してどうするのだろうとしみじみ千尋は不思議だ。けれど人の側からでも、こちら側からでも、彼女を守れる立場であるにはそれが有利だからだと、ハクは話していなかった。それなら今更幾つ歳を誤魔化したところで変わりないと思うから、こちらのことを調べたときに千尋と同学年にしようとも考えたが社会的に少しばかりの地位と自由を得るなら、今の状態では僅かに年上の方がいい。
 護ってくれなくても良い、と千尋に言われたことがある。側にいてくれるだけでそれ以上のことは望まないからと。けれどそれは了承できないことだった。
 この世界で、今すぐ命の危険を失う様な危険はない。それは千尋が紫の髪留めが守りの代わりになっていたからだ。
 記憶を思い出した後は例え何らかの影響が出ても、ハクが鱗を与えてあるから滅多なことは起こらないだろう。
 それでも確実に人の世界には悪い何かが巣くい始め、同時に神性が失われつつある。神の守りが少なくなる、と言うことに同時に繋がり、物の怪達も減るだろうが、同時に悪い何かも増える。
 記憶を思いだした千尋にはあちらの世界にいた証が間違うことなくついて回る。今までは本人が覚えていなかったためと、髪留めの守りがあったためぼやけていた印がはっきりと出る。彼女の両親は全く何も覚えていないため影響は殆ど無いが、神々の近くにいて、多くの魔法に触れた千尋は多分、悪目立ちするようになるだろう。髪留めの力でも隠しきれないくらいには。
 そう思えば、彼女が記憶全てを取り戻す前にこちら側にこれて良かったと言えるのだろう。
 何の変哲もない普通の少女がその特性を持ってしまって、幸福になり得る可能性を模索するにはあまりに神性が壊れ往く世界だから。
 そう思うたび、胸は痛むけれど。
 さらりと流れた碧の黒髪のその影で、綺麗な翡翠がしんと強い。落ちた髪を綺麗な動作で振り払って、碧の瞳が千尋を見下ろした。
 「解らなかったら教えるよ?」
 う、と言葉と呼吸を詰めて、千尋の瞳がふらりと明後日の方を彷徨う。
 はにゃ、としおれてしまったように情けない千尋がとても可愛く目に映った。あの時より伸びた髪がさらりと肩の辺りで揺れて落ちてしまうと、小さな横顔も隠れてしまう。寄りかかっていた柱から音もなくすっと身を起こし、静かな動作できざはしに座り込んだ千尋に合わせて視線を落としてかがみ込む。白い繊手をのばすと白い袖の衣擦れが微かな音と共に生まれた。
 「ハクは、厳しいもん」
 俯いたまま真正面の小さな唇が少しだけ動いて拗ねたような声を出す。落ちかかるふわりと柔らかくしなやかな髪を絡ませて、そっと避けてやりながら上目遣いに見つめてくる千尋の大きな瞳を見つけた。
 「きちんとやらなくちゃ後で大変なのは千尋だから」
 綺麗な面が美しい笑顔となって白く花咲く。切りそろえられた碧の黒髪が頬を白皙を滑って揺れていた。微かに傾いだ顔が真っ直ぐ楽しげに千尋をのぞき込んでくる。
 伸ばされたハクの指は千尋の髪の毛を離さない。軽く頬に触れては離れて、小さな頭を寄せるように優しく撫でていくものだからみるみる千尋の頬が染まった。はう、と息すら詰まりそうだ。
 こんな反応をするものだから、ますます面白がられるのは解っているのだけど、もうこんな風に近い顔にも、優しすぎる仕草にも、慣れてしまって良いはずの年月だってたったけれど、どうしてもどうしても、顔に出てしまう。素直で不器用だけれど真っ直ぐな性格が出ていた。何でいつまでもこんな何だろうと溜息を吐きそうになって、止める。そんなところも可愛いからとかハクに心底楽しげにきっぱり笑顔か真顔で言われるのが落ちだと今までの経験で知っているのだ。
 ハクに勉強を教えて貰うのはとても助かる。学校の先生に教わるよりも数段解りやすかったし、要領の良くない千尋にも、根気よく解るまで教えてくれるのだ。何処が解らないのか、何故解らないのか、どうしたら解るようになるか、一つ一つ積み上げるように。けれどただ教え与えるだけでなく、鍵となるべき箇所を指示して、どんな形でも千尋に解かせるようにする。一つ解けたら、今度は学んだ知識の応用を千尋一人でやってみる。だから自然と、時々厳しくもなるのだ、確かに。
 けれど厳しいからいやだ、と言うわけではなくて。
 俯いたままの千尋の額に、こつんと額を付けると、間近でさらりと黒い髪が流れていった。
 「別に、私は厭ではないよ?千尋に教えられることがあるのは嬉しい」
 そっと目を閉じると、確かに紡がれる吐息が聞こえた。命を紡いでいく確かな風。
 「ん……」
 千尋が何を考えているのかしっかり当てられてしまって、解ってくれているのだと、いつも教えてくれていて。
 呟くように言うと、優しくハクの気配が千尋を包み込んでいくのが分かった。
 頼り切りになるのが厭なのだ。ハクの負担だけになるのは厭なのだ。けれど、この世界で自分がハクに出来ることはなくて、いつも冷静なハクに頼りきりで、これ以上はいやだった。どんな何気ないことでも。何気ないことだからこそ、自分でやらなくてはいけない。それは数年前あの世界で学んだことだ。人に何かを与えられることの喜びはいつも千尋の胸の奥に焼き付いている。それは強い誇りとなって、そして勇気となっている。
 頼り切りでいてはいけない。出来ることは自分でやるのだ。迷惑になりたくない。神の隣にヒトの子の身で立とうと願っているのだから。
 視線をあげない千尋の目尻に、そっと繊手が伸ばされた。そっと触れて離れてく。柔らかな水のように。流れて零れる清流の清い何かの香りが好きだ。
 促されるように微かに視線を上げると、人の時は濃い緑とも見まごう黒瞳、今は何処までも透き通る、何処までも深い深淵の水のその碧。確かに自分にしか向けられないと知る、光を宿して千尋を見つめて、そっと微かに眇められた。
 「いつも、千尋には教えて貰ってばかりだ、私は。だから力になりたいんだ」
 「そんなことない」
 即座に否定するために、ぱっと顔を上げた千尋の瞳と眼があった。一寸見とれた瞳にも、その感情を抑える術はなく。
 「だって、いつも助けてくれる。私ばかり頼ってばかりで」
 必死に言い募る言葉の端々に、思いの欠片が乗っている。千尋が心底そう思っていることが解った。与えられているだけでないことは解りきってはいたけれど、ハクにそうまで言われる価値は自分にはない気がしたから。まだ。
 まだ?
 その思考に、ぱっと大きく眼を啓く。
 まだ。
 そう、まだ、だ。
 もっと。もっと。望むことはたいそれているだろう。神相手には。けれど望まなければ高みには昇れない。想いは力となるはずだ。
 もっと自分を磨かねばならない。ハクが寄りかかったとしても、ハクがとても困ったとしても、崩れず受け止め助けられる、そんな自分になりたくて。きっと時間がかかるけど、変えることなど出来ない望み。
 神様。私は罰当たりでしょうか?それでも私は、望むのだ。
 神の隣に、立てる力を。彼を思う、何にも負けない強い心を。
 どんなに時間がかかっても。
 だから、まだ、だ。
 「ハク」
 開いた瞳をそっと眇めると、以外に長い睫が影を落としてけむるようだった。小さな口元に、可愛らしい笑みがやっと浮かぶ。零れた月の冷たさに、目を覚まして、上天に輝くその白に、まるで微笑みかけるよう。
 「ごめんね。きっと時間がかかると思う」
 浮かんだ笑みの儚さに、けれども確かなしなやかさに、静かな表情が向けられる。一つ一つ区切られるような響きの言葉はどれもが真摯だ。
 「待ってて、くれる?」
 それが、勉強のことを指しているのか、もっと別なことを指しているのか、酷く微妙だった。
 静かな笑みを一つ向け、たゆたう何かごとハクが微笑み包み込む。
 「うん。待つよ」
 こつん、と付けた額から、優しい熱が互いに伝わる。いつの間にか慣れていた、互いの体温は何よりの安堵と安息を呼んでくれる。
 こうしていると思い出すのは、ハクの真名を千尋が呼んだ、あの時の海と空のことだ。落ちていく風の中、互いに微笑んで額を合わせた。あの時からもう、この暖かさに泣きたいほどの優しさを感じていた。
 「ありがとう」
 小さく、零れるように言って千尋が密やかに笑う。吐息が軽やかに踊って、夜の神社の静寂を彩った。
 星が零れるように広がる。その下で静かにハクが立ち上がり、すっと千尋に手を伸ばした。名残惜しげに互いの体を離したときだったから、千尋はその手を無意識に躊躇せず取った。
 柔らかく預けられた華奢な手を引きながら、白い横顔が星空を眺める。あの世界とは星の周りと時差がある。けれどいつの間にか、北に輝く白い星座がくるりとその位置を変えていた。
 いつの間にかかなりの時間がたっている。自分の身体を鑑みて、調子がいいことを確認した。
 この森には未だ神性が残っている。人の手が入らず、なおも畏怖と信仰の対象として捉えられているからだろう。だからこそ、転変の場に選んでもいた。
 「そろそろ行こうか?」
 天に輝く星々の灯りに微かに視線を眇めて、千尋を見下ろす。あの頃と違って、千尋は今はハクの肩の下までしかなかった。
 もう?と千尋の顔が沈む。くるくる変わる表情はいつまでも見ていたい気もしたが、これ以上遅くなると千尋の身体にも差し障りがあるだろう。
 安心させるように口元を緩めて、涼しい美貌が千尋を引き寄せる。自然な仕草で頬に手を寄せて細い腰に腕を回すと、狩衣の袖に細っこい華奢な身体が隠れてしまった。
 「家庭教師に明日行くから。出来るところまでは千尋がやればいい。解らなくなったら手助けをするよ。一人でやるよりきっとはかどる」
 たちまち千尋が情けない顔をしたが、何か言われてしまう前に、綺麗に反論の余地をハクは塞いでいってしまうのだ。言いくるめられて千尋がぱた、と力を無くしたように、はう、とハクの白い肩に小さな頭を乗っけて溜息を付くが、明日も逢えるのだから、と、考え方を切り替えることにした。
 「じゃあ、学校が終わったらお家で?」
 「それで良いかい?」
 聞き返すと、ハクの腕の中で千尋がちょっと沈黙する。微かに俯いた顔をのぞき込もうと近づけたときに、上目遣いの可愛い瞳がハクをそっと見上げてきた。
 「ハクのお家に行っても良い?」
 因みに何処をどう戸籍操作したのか千尋の知るところではないが、ハクには祖父母が居る。子供の居ない家だったから、と聞いたことがあるが、どちらもとても優しい。そのお陰で難なくハクは人の世界で後見を手に入れているのだ。神様なのに良いのだろうか、と呟くがハクにしてみれば確かに神だが、河が無くなったのだから縛られるものがないのだ。埋め立てられた事が悲しいのは真実だ。けれど、それさえ千尋の側にいられる上で都合のいいことの一つになるなら今は構わない。手に入れた始めての家族と呼べるものは不思議な感じだったが学校の都合で其処を離れて今はマンションの一人住まいだ。
 神様がマンション住まい。始めて訪れたとき思わず遠い眼をしたのは千尋のせいではないだろう。けれどハクの居るその空間は、余り物はないけれど、不思議なくらい居心地が良かった。
 以来ちょくちょく遊びに行ってはいる。いるが。
 真っ正面、それも間近から、滅多にない千尋のお強請りを受けたハクは、思わず沈黙した。
 「……千尋の好きにすれば良いよ、私は構わないから」
 ぱあっと千尋が笑顔になって、満面にハクにお礼を伝える。
 「有り難う、ハク!」
 「いいや」
 帰せるかどうか、解らないけれど。
 心の中で呟いた声を聞かずに澄んだのは千尋にとっては僥倖だっただろう。
 
 
 
 
 ふわりと風がハクを中心に逆巻く。足下の木の葉が巻き上げられて螺旋を描いて。
 静かに閉ざした眼。整える呼吸の音と風。靡く碧の黒髪と。
 うっすらと深い碧が開かれて、すっと繊手が音無く上げられ首もとの紙縒をふつんと切った。
 いつも。力の解放は二度行われる。一度目は転変に。二度目は彼女を帰すために。
 この夜道、たった一人で小さな少女を帰すには忍びない。それも大切な唯一の存在ともなれば。
 何の制約も無しに、普段なら行けるが今は神に戻ったばかりだ。力の枷をいったん外した。だからはめ直さねばならない。仮の姿に戻る前に、神として、強すぎる力を少し押さえて、更にヒトに変化して、神としての神性を更に薄める。そうしなければこの世界では存在しづらくなってしまう。
 圧迫された力の解放の目的も、この転変には含まれていて、解放したばかりの力を制御するには少しばかり注意を要する。ハクにとっては容易いが、それが千尋に関することなら念を入れて入れすぎることもない。
 解放された髪が流れて風に浮いて落ちていく。繰り返し繰り返し、深い碧の黒髪が、白い狩衣に流れていく。
 この光景を見るのが、千尋は好きだ。
 腕の中に千尋をしまったまま、感じる風と確かな水の気配。凪いだ湖面、流れる清流、荒ぶる濁流、凍れる水面、全てを内封したこの気配が大好きだ。
 立ち振る舞いは静けさに満ちて、白い顔に落ちる影が、酷く儚く繊細だ。
 その横顔は、一度見たら忘れられないときっと誰もに思わせる。
 ああ、でも。自分は忘れていた。
 忘れていた。
 どうして忘れていられたのだろうか。今と昔で姿は違えど、この静けさに満ちた気配を。
 ふ、と微かに息を吐き、伏せた瞳を一度閉じて、碧の瞳が開かれた。静謐さが消え去ると、穏やかに千尋を見つめてくる。まるで水の変化だった。荒々しく、清涼で、かつ神聖な。彼は神だ。何となくそう思えてしまう。けれど、これだけ綺麗なのはハクだから。きっと。
 じっと見つめてくる視線に気づいていたのか、いつもならこのままふわりと浮かんで、千尋を届けてくれるハクが柔らかく笑って小さな顔を見下ろした。
 「千尋が嫌じゃなかったら、歩いて帰ろうか?」
 その言葉に、大急ぎで千尋は肯く。空を飛ぶことは大好きだ。ひんやりと密やかな空気が肌に触れるのも。僅かに残った家々の光が地上の星に輝くのも。
 けれど歩けば、それだけ長く一緒にいられる。それだけが、嬉しい。
 流石に部屋に帰すときは魔法を使うけれどと、そんな千尋の様子に可笑しそうに、けれど心底嬉しそうにハクが笑い返した。その笑顔が、とても綺麗で、泣きたいほど大好きだと心の中で叫びそうになって、切なかった。
 「ど、して」
 心の中で呟いたはずの声が、微かに声になった。唇が独りでに動いていたことに気が付かなくて、ハクが不思議そうな顔をしてから千尋はやっと自分の口元を手で押さえた。
 「千尋?」
 口を隠してしまいながら、千尋は眼を開いて視線をしたに向ける。狩衣を掴んだもう片手は絶対に離さないで。
 「どうして、忘れてたんだろう」
 呟く言葉に、零れた想いに、呆然とした千尋が瞬くとほろりと涙が落ちていった。
 その透明な輝きに、ハクが微かに目を見開く。
 「ど、して、忘れられてたんだろう、私、どうして?」
 急速に沸き上がる感情に、ただ表層だけがついていかない。絶対にハクは面に出さなかった。覚えていて欲しかったと。忘れないでいて欲しかったと、絶対にハクは完璧なまでに、面に出さずに千尋を責めなかった。決して。裏を返せば、其処まで完璧に隠さねばならぬ程、強い感情だったとしたら?
 ハクを哀しませただろう。そして失望されただろう。それが律なのだとしても。
 失望されて当然だ。それがでなく、ハクにそんな、想いをさせてしまったことが悔しい。そして、こんな綺麗なものを、こんな大切で想い、感情を。忘れてしまっていた自分が悔しくて、後から後から、涙がこぼれた。
 「ごめ、ん、ご、めん、なさ……」
 その謝罪が、突然泣き出したことに対する謝罪なのか、忘却に対する贖罪なのか。
 白い狩衣を掴んだ小さな手は、痛々しいほど強く白く、きつく指で皺を刻んだ。そっと伏せたままの千尋の顔を無理矢理のぞき込みはせず、柔らかく腕が回されて、白い衣にすっぽりと小さな千尋は埋まってしまった。抱きしめながら、この暖かさが胸にあることが涙が出そうなほど、堪らない。
 「謝罪が、欲しいんじゃないよ。それは律だ。仕方のないことだった」
 そう、謝罪が欲しいのではない。自分にとって許せることでないのだから。
 「千尋のせいじゃないよ。それは解っているのだろう?だから謝ることもない」
 そう、千尋のせいじゃない。けれど。
 想い故に。自分を律により忘れていた千尋をきっと自分は許せない。千尋に言い聞かせるように呟いた言葉は確かに小さく。けれどはっきりと明瞭だった。まるで自分に言い聞かせるように。
 彼女のせいでないことは、百も承知だったのだ。それでも。この心は譲れないのだ。千尋を想う、それ故に。
 だから赦して欲しいのは自分だ。この確かに歪んだ心を、赦して欲しい。神のみでありながら歪んだ恋心を、向けることを、強すぎる執着も何もかも。赦して欲しい。
 荒ぶりも穏やかさも、全て内封した、その存在こそが神だ。そして、自分だ。その存在ごと、素直な千尋は認めてくれる。
 これ以上ないものをくれる。そう、貰ってばかり。頼ってばかりなのはきっと自分だ。
 数年前あの邂逅がなかったのなら、自分は確かに腐って死んでた。もはや己を縛るだけだった契約の果てに。愚かに、あの場から動くこともできなかったのだ。それが今はどうだろう。目標を持ち、故に、力を手に入れ、そして彼女の隣を手に入れた。彼女を守れる位置を手に入れた。全て、千尋のお陰で。
 千尋がいるから、今の自分は此処にあるのだ。
 後から後から涙をこぼす、この少女が、細く頼りない少女が、自分に名を与え、目的を与え、力を与えて、命をくれた。そして自分自身の隣すら。
 貰ってばかりなのはきっと自分なのだ。
 柔らかく、強く、抱きしめて小さな頭に頬を寄せるとさらりと長い髪が流れた。狩衣を掴む小さな手が、強く掴み直して、白い胸に千尋は顔を埋める。
 ハクの綺麗な肩越しに、降るような星空が見えた。いつの間にか雲は消えて、北に輝く七つ星が小さな千尋を見下ろしていた。
 何処か懐かしい美しさ。
 それはこの腕の中にいても感じる感情だった。
 幼い頃落ちた水の中で。あの世界での邂逅で。そして今まで、側にいて。
 いつも懐かしいと思える。
 不意に言葉が耳元で甦った。記憶は忘れない、ただ、思い出せないだけなのだと。その証拠に心は正直で、きちんと懐かしさを感じていた。だからこそハクの真名を伝えることもできたのだ。
 要るのは謝罪ではなくて。
 「もう、忘れない」
 小さな声が、不思議な勁さで夜に響いた。落ちる涙は止まらないけれど、健気に顔を上げて。真っ直ぐハクを見上げて。声はもう震えてなかった。
 「ハクのこと。もう、絶対に忘れないから」
 夜の暗闇で向けられる真っ直ぐな視線がとても強く、健気で、儚く。そして強い。人が持つ不屈の精神。千尋が持つ確かな勁さ。
 言の葉の一つ一つの響きが確かに胸を打って翡翠の瞳が微かに瞠目した。
 「もう二度と、忘れない」
 それはまるで、宣誓のようで。そう、確かに千尋にとっては誓いだった。何よりも、ハクと、ハクを思う自分の心に賭けての。自分より大切な感情に賭けての誓いだった。
 呆然とした白い顔が、静かに瞬いて綺麗な翡翠が光を孕んだ。繊細な影を落としながら近づく綺麗な顔には、さらりと、碧の黒髪が落ちていく。
 だんだん距離が縮まって、こつん、と額が合わされた。吐息の触れるその距離で。
 腕の中の暖かさ。どうしても胸を撃って止まない、この少女の存在自体、自分にとっては僥倖だった。
 「千尋」
 要らないのだ。謝罪は。引き替えに何も望まない。ただ共にあることだけを望めば、他には要らない。
 なのに、彼女は誓いをくれた。完璧に隠した自分の心を、きっと無意識に見透かしたのだ。赦されない自分を哀しみ、代価の誓いなどでなく、多分ハクが傷ついたからと、ハクを傷つけてしまったからと。それ故に流された涙と、誓いだった。
 ありふれた言葉などかけられなかった。その想いそのものが詰まったような言葉が、ただ痛くて、切なくて、愛しくて。
 大切で。
 だから静かに真名を呼んで、ありったけの感情を響きに込めた。
 抱きしめて。離せなかった。
 
 
 ほら。私の方こそ貴方から、いつも大切な何かを貰っているのだから。
 
 
 降るような星々と。
 風に流れる密やかな木々の梢の唄の夜の中にて。