自分にすら解らない、想いの重さをどうやって量るの? いきつく場所にて 自分の感情全てを悟れるほど年を重ねた訳でもないし、器用な訳でもない。胸の辺りが痛くて苦しくて切なくて、泣きたいこともあるけれど、それ以上に幸せをくれるのだと言うことも解っている。自分より大切にしたい存在なのだといつか知った。そんな存在が出来ることを、身をもって実感するとは思いも寄らなかった。 上昇気流に乗る。見下ろせば果てはなく何処までもまっさらな海原が、寄せては返す波の音に青い空を映している。深く透明で透き通るのに、何処までも光を通して静かに暗くなる。彼処に落ちていったなら、光の稀少さが解るだろう。その水の尊さをずっと前から知っていた。 続く海原がふつりと途切れる先に細波のように波打った、草の地平線を見つけた。森は遠く、山はない。北へ向かえば緩やかな谷がある。其処を吹き抜けてくる風は涼やかに髪を揺らしながら、首筋を通り過ぎ行った。 波打つ碧の真ん中に、小さな少女がぽつんと見える。こちらに気が付いたように立ち上がって手を振るのが遠目からも解って、少しだけ笑いながら鱗を煌めかせた。 近づいていくと鮮明になる景色と、遠ざかっていく景色の速さが生まれたときから馴染んでいる本能に刻まれた視界だった。海の途切れる小さな海岸は少し歩けば途切れてしまう程度で、草原から降りてきた小さな影が白い砂に足跡を付けながら上を仰いだ。その頭上で旋回しながら綺麗に軌跡を描き白い竜が降りてきた。 地上に足をつける直前、煌めく鱗が白く輝き、転変、光跡をまき散らしながら長い髪を風に舞い上がらせて、翻るのもそのままに真っ白な狩衣を纏った青年が、重さを全く感じさせずに柔らかな砂の上に降り立った。 「待たせたかい?」 「ううん」 風に乱れた服の裾を払って笑いながら告げると、可愛い少女が迎えてくれる。 「お帰りなさい」 そうして笑う千尋の頬に手を伸ばしながら、翻る髪の毛が緩やかに肩の辺りで落ちていった。 「ただいま」 少しの間離れていた互いの顔は不思議な懐かしさに満ちている。 油屋から少し離れた草原は雨が降っても海に沈まない所がある。家畜小屋の隣、花々の垣根を越えて少し行ったところの断崖を下る急な坂道を辿ると、一面の草原が広がっていた。緩やかな急流を地平線の方に向けて行くと、小さな河が走っており、雨が降った翌日は川原の砂地までもうち寄せる海の領域となる。いつもは平野が広がる視界も、境は海原が何処までも天境線を作っていた。 ハクは自分が不在の間を千尋に出来るだけ隠すようにしていた。いらぬ心労をかけて、仕事に一生懸命な千尋を煩わせてはならないと。けれどどんなに早く帰ってきても、不思議なくらい千尋はすぐにハクの不在に気づくのだ。営業時間は大勢が入り乱れて顔を合わせられないことも珍しくはない。その営業時間中に帰ってきてさえ千尋は気が付いて、お帰りと言ってくるのは流石に驚いた。 居なくなるときは言って欲しいと小首を傾げながら願ってきた千尋に、心配を掛けたくないとは考えながらも伝えることにしたのは、酷く淋しそうだったからだ。 そんな風な約束が、二人の間に交わされる前から、時々千尋はこの草原でハクの帰りを待っている。じいっと瞳を凝らしながら彼方の空を見上げて陽の下でも月の下でも、煌めく白い鱗を探すのだ。 仕事に疲れた従業員達が休息の眠りにつきながら、束の間の静けさが油屋を包む頃、煌めく太陽が白い朝を告げる。記憶が途切れているのは少し眠ったからだったが、それでも深くは寝なかった。寝静まる部屋から抜け出して、小さな裏戸をくぐり橋を渡って咲き乱れる花の垣根へ。百花繚乱の極彩色の花弁の合間をすり抜けて、家畜小屋を横目にしながら急勾配を駆けていく。さあっと広がる草原が咲き狂う花の香りを吹きさらして青々とした匂いを纏って全身隅々を雪いでく。咲き乱れる花々もそれはそれは美しいが千尋はこちらの方が好きだ。遙かに高い空の蒼と、地平線の果てまで続く海原と草原の草の匂いの方が。 其処で時折竜を待つ。 ハクが何をしているか千尋は何も知らなかった。千尋に難しいことを話さないから、ただ話されることを待っている。話したくない事柄を、無理矢理聞き出すことだけは強要したくはなかったけれど、同時に何もかも話してくれることを願って止まないのも本音だ。千尋から見て今はハクが苦しそうな顔をしていることはない。幼い頃の思い出のように。 だから聞かないで居られるのだ。 もし苦しそうだったら何がなんでも聞き出して、絶対助けになるのだ。何もできない自分が出来る、僅かなことでも探すのだ。 そのためにただ何も言わずに側にいる。 綺麗な白い手のひらが小さな頬に伸ばされる。少女の肌に触れるとき、くすぐったそうに微かに首を引っ込めるけれど柔らかな仕草で笑いながら撫でると、千尋がほのかに頬を染めることをハクは知っていた。 肌に馴染むような感触に、心の中の枷がとけ、少し離れていただけなのに彼女が居なくて気を張っていた自分にいつも気が付いた。 綺麗な面にさらりと碧の黒髪が揺れる。背中で紙縒に一纏めにされた長い髪が、一房白い衣の肩からさらりと衣擦れの音を立てて流れた。 無意識なのか意識的なのか千尋には解らなかったがハクは千尋の頬に安心させるようによく触れる。そして自身も安心感が得られるみたいに表情を緩めた。 けれど、優しい手のひらに思わずほっと息をつきそうになったとき、見つめられている翡翠の視線に違和感を感じてはたっと瞬いて千尋がハクを見上げた。幼い頃は殆ど無かった互いの身長差も今は歴然としていて、至近距離からだと首を傾げねば互いの視線は合わない。 「千尋」 優しく笑っていた顔が、今はしんと何処か静かだ。いや、いつも静かなのだがこれは何だか種類が違う。 呼ばれた声音に本能的に何かを悟ったのか千尋が首を竦めかけた。引っ込めようとした小さな身体はいつの間にか距離を詰めてるハクに許されなかった。 「何?」 辛うじてそう返すと、白い美貌がにこりと笑んだ。 「いつから此処に居たんだい?」 綺麗すぎる笑顔が、その発言に完璧逃げようとした千尋を竦ませた。 犯罪的に優しい手のひらがもう片手も伸ばされて、両方でやんわりと千尋の動きと視線を制した。すぐ間近の翡翠の瞳は揺らぎもせずに見つめてくるけど、それは少しだけ(多分少しだけだ)怖かったりした。 触れた柔らかな小さな頬は、ふわりと融ける暖かさ――でなく、ひんやりと冷え切った体温だった。それはいつも触れている少女の体温のそれでなく、長時間の間冷気に晒されたせいのものだったのだ。 雨が降ると朝と夕、冷えることが時折ある。日の出と日の入りに陽光が儚くなるのが原因なのかも知れない。 昨夜雨が降ったせいなのか露に濡れた草原は早朝の青い光の中でしんとひんやり冷えていた。葉ずれの儚い音と一緒に落ちていく硝子色の雫は綺麗で、風に舞って散っていく様は光と水と碧の乱舞だ。美しいその光景の中、彼女はどれほど待っていたのか。たった一人、この草原で。 高いとは言えないものの、今やしっかりと陽差しは登り、蒼穹高く照らしている。上天から降り注ぐまだ薄青いような早朝の光は朝露と海原、水に満たされたこの世界を静かにゆっくり暖めていく。 察するに、日の出前とは言わないが、日の出直後から彼女は此処に居たのではないか。 至近距離で深く静かな翡翠の瞳が強く見つめてくるけれど、出来る限りの抵抗に千尋は精一杯口をつぐんだ。胸の辺りで手のひらをきゅっと固く結んで無意識に抵抗の意志も硬かった。が、そういう志全て、にっこり綺麗に微笑んだハクに千尋が敵ったためしはないのだ。 「千尋?」 頭一つと少し高いところから、見下ろしてくる白い面に古風な髪が風に揺れた。固定された視線の先には、決して崩れぬ美しい笑み。間近で見ると心の中が思わず慌ててしまう位で。 「お、お日様は」 小さな顔を挟まれるようにされて、にっこり笑った強い瞳に千尋はとうとう陥落した。それでも、はっきりと答えを言えるほどの勇気だって持てなかったが。 「お日様は、昇ってた」 「昇ってた?」 「と、思う」 ぴくん、と美しい柳眉が揺れた。白い親指が千尋の目尻をなぞりながら不穏な気配が膨らんでいく。 「……へえ?」 綺麗に微笑むばかりだったハクが、一瞬口元を歪めて見せた。それはそれは怖い笑顔だったのだが、美しさが微塵も損なわれないどころかぎりぎりの引き絞られた造形美にぞくりと千尋の背筋が冷える。但しそれは一瞬のことで、再び元の綺麗な笑顔にしっかり転変していたのだが。 その向けられた一瞬の視線に身体を硬直させた千尋が離されていく手のひらに我に帰ったのはその時だ。馴染んだ指が両頬からふわりと解けて思わずぱちりと目を瞬かせる。今まで包まれていた場所に初めてふわりと風が触れ、柔らかな髪をさわさわと揺らした。 ほっとした、と言う感情ではなく、一気に何かが心に押し寄せ胸の辺りできつく結んでた両の手にきりりと微かに力がこもった。 「ハク」 おどおどとしていた少女の声が泣きそうな響きに彩られ側に立つ青年を見上げた。 長い黒髪が風に翻り美しい顔に儚い陰影が微かに踊った。隠された表情に不安が押し寄せたその時に、さっきまで自分に触れていた手が華奢な背中に回されて、次の瞬間千尋の視界がくるんと軽く反転した。 確かにさっきまで、多少の高低差はあったとはいえ対等の高さにあった視界が今度は全く違った角度で、ハクの顔を見上げてた。地平線の向こうまで広がる波打つ海原も草原も見えず、綺麗な青年の向こうには遙かに高い蒼穹が広がる。 いつの間にかちょこんと横抱きかかえられていたことにはっと気が付いたときには既にすたすたとハクが歩き始めてしまっていた。 余りの唐突さに呼吸すらも忘れていたような千尋の瞳が、今度は不穏さは見あたらないが、にこりと笑った強情な綺麗すぎる笑顔を捉えて瞠目した。 「ハ、ハク!」 「降ろさないからね?」 さらりと先手を打ってから、駄目押しに軽く眇めた翡翠の瞳が千尋を真っ直ぐ見下ろした。 勿論沈黙する以外、他に術はなかったのだ。 頬から手のひらが離れていったとき、怒ったのか、と思ったのだ。 ハクが怒ったのは訳がある。以前も同じように冷え込む早朝、草原でハクを待ってた千尋が少し体調を崩したのだ。ハクが怒ったのは、自分のためだ。 嫌われることはとても怖い。けれどそれよりもハクが居なくなることの方が怖い。だから朝早く、彼処で待つことを止められない。その日の仕事が辛くなると解っていても。 向ける感情を言葉にする事は出来ないだろう。言葉にしてしまえば簡単な、明瞭な気がとてもするのにそれでもそれは出来ないのだ。そんな風な言葉で表せるほど簡単な感情じゃない気がするし、心の全てを表せるほど言葉に万能な訳でない。 不器用な自分を大切にしてくれるハクが、時々とても不思議なくらい泣きたいと思わせた。 「身体が冷たくなるほど待って無くても良いのに」 それでも、待っていてもらえることはとても嬉しいけれど、とさっきまでの怖い笑みをどこかへやってしまいながら困ったようにハクが首を傾げて千尋を見下ろした。さわりと風が長い髪を翻らせると深い碧にも見えていた。それはハクの瞳の色にも似通っていて綺麗だった。 「……身体は大丈夫だから。それに、一番最初にお帰りなさいって言いたいの。それだけだよ」 さんざん降ろしてと暴れてみても、ハクにしてみれば儚い抵抗だ。全く意味のない体力を使い果たしてしまった後で、やっと千尋は諦めた。毎回のことなのだ。いい加減悟ればいいものを、自分でもそう思うのだが赤く染まる頬を隠したいためにどうしても諦めきれない。 それでも一通り暴れてしまうと、早朝から此処に居た疲れも伴って冷えた身体をハクの胸に預けることにした。ことん、と小さな頭が肩の辺りに寄せられると、軽くハクが千尋の髪に顔を寄せてくれるのが心地よかった。 「でも御免なさい。心配かけて」 いつまでたっても自分は子供で、情けなくなる。 幼い頃からハクは大人びていたけれど、年を経てからもそれは全く変わりなく、力を付けた分確かな自信に繋がってよりいっそう研ぎ澄まされている気がする。 それにあの頃は思い出してみても二人で並んでいてもそんなに身長だって代わりはなくて、少し高いだけだったのに今は見上げなきゃ視線が合わない。いつも一歩も二歩も先にいるような気がしてしまって、一緒にいたいと願うのにいつまでも変われない、子供のままのような自分に少し心が痛いのは何故だろうか。 小さな重みが肩に寄せられるのにハクが静かに目を細める。 背中に回した腕を抱き込むように伸ばして、微かに千尋の頬に指先が触れて撫でていった。白い手のひらを追うように薄く目を開けた千尋が綺麗な指の軌跡を眺めた。その視線が上に行くと、微かに伏せられた深すぎる翡翠の瞳を捉えて。 追いかけられないならば、待っているしかないのなら。自分はずっと待っていよう。 そうしていつか待ちきれなくなったら、追いかけよう。今も必死に追いかけてるけれど、どんな手を使おうと、隣にいられるように。痛いとき、苦しいときに支えられるように。 「心配するのは当たり前だよ?」 穏やかな声が風に乗る。白い狩衣の肩を滑り落ちてきた長い髪が千尋の頬をくすぐって、ふわりと再び風に靡いた。小さな手のひらに絡め取りながら真っ直ぐでしなやかな、深い碧の髪を見つめた。 あの頃はまだ肩までしかなかった髪の毛はいつの間にか長く伸びた。 「髪、伸びたね」 真摯な瞳に、微かに困ったような色を乗せて千尋が首を傾げる。静かに怒られるのも怖いけど、そうやって言われるのも自分は弱い。でも、彼処で待つことを止めたくはないから。 見下ろしてくる翡翠の瞳が千尋の答えを待っていると知っていたけれど、誤魔化したのは外見は柔な人間の小娘でしかない彼女の持つ、一本芯の通った強情さ故だった。決めたことを、どうしても簡単に曲げたくない。それが重要なればこそ。 微かな沈黙の後で、小さくハクが溜息を付いた。 「あの頃と比べて?」 確かにね、と頷きながら口の端に苦笑が浮かぶ。少女の性格を熟知した上で、千尋を大切だと思ってしまった時から負けることは決まっているのかも知れない。最も、千尋自身に関わることだから、この場だけ退くだけだ。 「あの頃私は半身を失ってしまっていてその上真名を封じられ力自体を削られていた。今は属性は違っても、力を取り戻すことが出来たから、器がそれに対応しているだけだよ」 髪と同時に身長が伸び始めた。封じられてた真名を取り戻し、力と命自体の枷だった湯婆婆の術を解かれて、ぐんと力は伸び始め、小さな器では力の方に対応しきれなくなったのだろう。 失った半身はもう戻らずとも、新たに手に入れたものがあるから何も後悔はしていない。河の神の性として、悲しみと痛みは本能に刻まれ永久に消えることはない。けれど何より腕の中には千尋が居るのだ。そしてあの時彼女が居なければ、今の自分はあり得ない。 「千尋が居てくれたお陰だ」 それは本当に真実だ。 「私何もしていない」 白の狩衣を裾を強く握り締めながら、瞠目しながらぶんと千尋が首を振った。柔らかな髪が肩の辺りでふわりと揺れると微かに風を孕んでく。 「私は千尋に命を救われたのだけど?名前すら千尋に貰ったようなものだ」 「ハクだって同じ事をしてくれたでしょう?それにただ、痛そうだったから、それが凄く嫌で許せなかったから、だから出来ることをやっただけだよ」 そうやって一生懸命暗闇の道をひたすら走って、出口を見つけることが出来るのは凄いことだとハクは思う。千尋と再会する前までは、ただ望まない命を受けながら命を磨り減らしていくのだと、それ以外に考える結末は何処にもなかった。それがたった一人のヒトの子のお陰で、今此処でこうしていられる。 それを、同じ事をしてくれただけだと言いきる強さが尊い。 「他にも色んな沢山のこと、貰ってるから。だから」 向けられる想いの稚拙さが酷く切なくて、純粋で。少し泣きそうな顔をして美しい竜が笑う。そんな彼女に、自分の存在はきっと重いだろう。受け止めきれずにつぶされて、闇の中に落ちていくのを容易く想像できるのが厭わしかった。 「私の方こそ、沢山のものを、もらっているよ」 酷く深い声が響いて、翡翠の瞳が遠くを見つめた。風に掻き消されるような大きさで。 深い碧に宿る影を、いつか千尋に見せることになる。それでも側にいてくれるだろうか。待っていてくれるのだろうか。 お帰りと一番に言って笑ってくれるのだろうか。還る場所と定めて、帰りの挨拶を口にすることを許されるだろうか。 解らない。けれど離せない。 ふわりと髪に遮られ、微かに伏せられた翡翠の瞳を海からの風が優しく撫でた。潮の匂いと海の音、草の細波が涼やかに遠く近く響いていた。 少しの間二人して耳を澄ませていた。 風は穏やかで、凪いだ海に薄い雲の影が落ちている。光の零れてるその場所の深い深淵の水の陰影が微かな波に揺れていた。 風に流れたハクの声がよく聞こえなくて、求めるように見上げてくる幼い瞳に、今は凪いだ湖面のような翡翠の瞳が向けられる。 「……心配するのは当たり前だよ?けど私も、千尋に一番に、そう言って貰うのは嬉しい」 繰り返し告げる声は少し低く心地よく、響く風の音にも似ていた。 抱き上げた軽い体がまだ少し冷えているのが切なくて、小さな千尋を抱き込んで。 「此処が私の帰る場所だから」 落とされた呟きに、驚いたように目を見張りながら幼い少女のその顔が無防備に息を継いでから、こくんと大きく肯いた。 「じゃあ、ずっと待ってるよ。ハクが帰ってくるならずっと」 酷く真摯に、それでも少し泣きそうに、胸が詰まる。こういうときに何かを貰っているのだと感じるのだ。言葉に出来ない大切な何か。敢えて言うなら信頼とか、愛情とか、きっとそれに近いもので、それでも確かに何か違う、形に出来ないもっと心の奥底で、静かに確かに繋がっているのだ。 「冷たくならない程度でね」 しっかりと釘は差していつもみたいに少しだけ意地悪くハクが笑うと、千尋が少し言葉に詰まった。くっと、表情を固まらせたが、それでも次の瞬間には負けじと果敢に言い返す。 「凄く遅くなるなら追いかけていくし、ついてくし。だから、冷たくならないうちに、帰ってきてね」 あれこれ悩んだ果ての答えだったらしいが、全くの逆効果に他ならなかったのは次の瞬間本人が一番よく知ることとなる。今度こそ上機嫌に彼の人はこう宣ったのだ。 ふわりと翻る髪の毛に風が遙かに過ぎていく晴れやかな空が高かった。 「ああ、冷たくなったら、私が暖めて上げるから大丈夫」 因みに冷たくなるたびに暖めるからときっぱりはっきり言いきって、その言葉と同時に、たん、と大地をハクの足が軽く蹴り、さわりと草葉が足下で揺れた。風の軽さで高々と跳躍して、ひゅうっと吹き付けてくる風に、千尋が盛大に遠慮する声は綺麗に遮られることになる。 綺麗な跳躍のその後に、高い油屋の彼の人の部屋へと続く露台へと二人が降り立ったのはあまりに自然なことだった。 千尋が努力の実行を真剣に考え始めたのは次に目覚めた時、冷えるたびに必ずやるからと再び綺麗に微笑まれてからのことだ。 油屋が再びその喧噪を取り戻すまで、しばしの休息の時間が必要となるのは、日々の営みの必然なのだ。 この空と風のように、想い果て無く、彼方まで遙かに。 |