邂逅の後手放してしまった小さな手のひらの暖かさを思ってどれほどの寂然を募らせただろう。あの世界に帰したことを後悔すらしそうなたび灼けつく想いの痛さと記憶だけが鮮やかで曖昧で稀薄な過去を確かに現実だったのだと真実を見据えるために幾度その証を手のひらに握り締めて見つめただろう。覚えてもいない位に。数える事など出来ぬ位に。 存在の正銘 書き物をしていた顔をふと上げる。 燭台の明かりがじりりと揺らいで白い面に落ちた影が、薄く縁を揺らした。 自分の管理するこの空間には機密を要する書物や書簡などが多くあるため、不用意に誰かが入ってこないよう幾重かの結界を張ってある。 機密保持のために竜を番犬に置くには勿体ないことだけれどね、ぷかりと葉巻を吹きながらハクに部屋を与えたときの湯婆婆を思い出す。 ただ見られてはいけない、と言うだけではなく、力のある言の葉を記した書物は時間を経ればそれ自体が力を持つことも少なくない。書物に触れただけで存在が抹消してしまう事すら在るのだ。読み上げただけで辺り一面を火の海に変えてしまう事も、土塊を際限なく財宝に見せかけてしまう事すら可能な力のある言の葉ならばそれも仕方ないのかも知れない。 魔女の力と知恵の一端を与えられた部屋の階層の一端で垣間見て戦慄したことを今も覚えている。数え切れないほど山と積まれた古い埃と紙のにおいに天地を揺るがす力があると、確かに自分は知ったのだ。そうして今は、それを身に宿す器を自分は持たないと。 己の不甲斐なさに歯噛みをするより先に、純粋な知識欲にはうち勝てず許しの出た書物は片端から読みあさった。仕事さえ完璧にこなせば湯婆婆はそんなに煩くは言わなかった。 触れれば触れるほど、知識の奥の深さを知っていく。再現のないそれらに最初は呆然とした。 一番最初に覚えたのは自分の存在を有利に働かせるのに必須の空間を構成する術だった。その応用をこの階層に張り巡らせた結界に利用している。 揺れた燭台には木枠と和紙で四角く被いがしてある上に、付けた炎は小さくとも魔法で灯した灯りだったから揺らぐことはない。 それなのにこんな風に揺らいだのは結界内に誰かが入り込んだことを意味している。 夜、仕事が一段落つくと自室に引っ込んで帳簿付けや書物の整理、読書をしていることが多くて神経の全てをそちらの方に集中させておきたいし、灯りにもなるからと炎に結界を織り交ぜた。これなら媒介無しに結界を作るよりも楽な上に簡単に侵入者が解る。 揺らいだ炎に綺麗な面を上げる。 魔法で作った灯りは一瞬の揺らぎの後にはすぐに、再び赤々と部屋の隅々を照らしていた。小さな炎の灯りとしては不自然なほどに明るいが、これも意識のうちで調節できるからだ。 一瞬の透き通った炎の揺らぎを見落とさず、端座したまま翡翠の瞳を音無く細める。俯いたまま、書きかけの紙面に落とされた視線は今は其処を見てはいなかった。さらりと解いた長い髪が灯りに照らされ深い深い碧を弾く。 落ちる黒髪の衣擦れのような音の影で、全てを見通す翡翠の瞳がふっと静かに和まれた。 思った通りの来客に、綺麗な竜が微かに微笑みそっと指先が曲げられる。白く節のない指先が印の形を結んでいた。 ふっと闇の降りる暗い廊下に灯りが灯って千尋はぱっと顔を上げた。皆が部屋に引っ込む混雑の中、そうっと抜け出してエレベータに乗ったのはついさっきだ。姉貴分のリンに見つかると呆れたように絶対に、あんなのの何処が良いんだと言われるし、からかわれるから細心の注意を払った。 その行動すらも見通されているはずで、少しだけ頬を赤らめて息を吐く。 何処が良いんだって、全部良いんだけれど。 綺麗な黒髪が時々深く彩なる碧に見えて、それより更に深くて薄い美しい翡翠の瞳も大好きで。覗き込んでくる綺麗な顔は時々近すぎて困るけど。 それに、寄せられる心と、寄せることの出来る心の在処、互いの居場所と存在の在り方もとても大切で大好きだから。 他の誰かが聞いていたらのろけにしか他ならない、ただどこかの竜が聞けばかっさらって二日ぐらい戻ってこなさそうな事を胸の中で呟いて、素足には少し冷たい廊下を急いだ。 深い赤の蔓草模様の描かれた絨毯が敷かれる通路を右に曲がると、その奥で淡い光が灯り、薄暗い廊下の隅の闇が濃くなると同時に、辺りがふわりと明るくなった。 顔を上げて、小走りにとたとたと走っていって、そっと入り口の扉に手を掛ける。 暗い足下を照らしてくれる灯籠に有り難うと笑って、静かに部屋の中に入り込んだ。 「ごめんね、迎えに行けなくて」 古い和綴じ本から巻物書簡、それに分厚い洋書まで、埃の匂いのするほんの山を相手に座ったハクが穏やかに灯りの中で微笑んだ。 それにふるりと頭を振って、千尋も顔に笑みを浮かばせる。仕事中のハクは徹頭徹尾油屋の帳簿役に徹している。上を束ねる者は下の者を一人だけ、贔屓をしては他の者の不満に繋がる。だから仕事中は『ハク様』になるのだ。とても冷静で少し怖い。けれどこうして千尋を前にすればいつも優しくて嬉しくなる。それが自分だけだと千尋は知っている。 けれど油屋の従業員には物珍しいヒトの小娘を上司の竜が特別扱いしているのは周知の事実だったりしている。確かに公私は混同していないが、時折意図的に職権を乱用していたりするのだ。 それでも不満が募らないのは、この人の小娘が物珍しさを通り越して油屋の従業員連に一目置かれているためである。 第一に人間にしては度胸もあるし、努力もある。そして素直で、時折思わず力の抜ける所もあるのだが接していると何処かほっと出来てしまうのだ。何より、湯婆婆から一本取った事と、この融通の利かない冷徹な上司に取って特別な存在であることだ。 風変わりな存在として常連客の神々からも何かと好かれているし、その気性も好ましく油屋の者達は一様に本心では千尋の味方だ。 ただ、其処まで好かれているのが実はハクにとっては余り気分は良くないのだが、知らないのは当の本人、ヒトの子だけだ。 とたとたと近寄りながら作業を邪魔しない位置にでちょんと止まる。 「此処に来るのも慣れたよ。だから迷わないし、灯りをつけてくれたから、大丈夫だった」 はらりと手元の紙を払って、筆を執りながらハクが笑う。 「千尋が迷わないか不安だった。油断すると、すぐ別の方向へ行ってしまうから」 古書の保管のために、一層複雑に迷いやすいこの階はただでさえ感覚を攪乱させる。似たような通路や扉や襖もそれに激しく拍車を掛けて、普通の油屋の客室等でも迷いかけた千尋が迷子になるのは必然だった。そのために、と言うわけでもないのだが千尋がこの階に入ったとほぼ同時にハクが千尋をよく迎えにいくのだ。今日は直に行く代わりに、導の灯火を点けたのだけれど。 「そんなに子供じゃないよ」 むっと膨れて不機嫌になるが、幾重幾年も生きている神に向かってそんなことを言っても比べものにはならないだろう。 くすくすと密やかにハクが笑うが、綴る文字は揺れもしない。 いつもこんな風にからかわれて、ちっとも対等じゃない気がして内心悔しい。 ハクは凄い。神様でしかも魔法使いなのだから凄いのは当たり前だと言ってしまえばそれまでだ。けれどでも、それでも彼の隣に一緒に立っていたいと思うのは、無謀で我が儘なことなのだろうか。 そこら中に転がっている書物には古い力が宿っていることも少なくはない。安易に触れないように、と言い渡されているがその中の一つが千尋の目を引いた。 鮮やかな極彩色の絵巻物だ。長く伸ばした髪をひき、十二単も華やかな古い時代の姫君が射千玉の瞳を静かに伏せてる。その隣には琵琶を奏でる烏帽子の君。その隣に、紺の袴も鮮やかな扇を持った白拍子が羽の軽さで舞い踊る。 幾つもの時代を経ているように思えるのに、その絵筆は色褪せることを知らないようだ。 平安時代、と呼ばれる時代のものだろうか。この世界にそんな時間と歴史の概念があるかどうかは不明だが、余り歴史に明るいわけでもないがその位は解る。 その絵巻物の美しさが目を引いた理由の一つではあるが、楽を奏でて舞い踊る人々の衣裳がこの油屋でよく見かける類の服装だったからだ。 千尋にはあまり馴染みがない、古い時代の衣裳達。ハクが着ている物も、給仕をしている係りが着る物も、お客の前で余興を披露する踊り子達も、皆同じ様な服装をしている。 以前姉貴分のリンが紅を塗って白拍子の格好で舞ったことを千尋は思いだした。こういう場所で働く者達にとっては踊りと楽は嗜みだと言われたから、いつかは千尋も習わなければならないかも知れない。ハクも踊れるかは解らなかったが、それはとても綺麗だろうなと千尋は確信していた。 「ねえ、これ、見ても良い?」 手を止めて振り返ったハクが千尋が指さした絵巻物に視線を向けた。 「ああ絵巻だね。うん、構わない」 普通に触って鑑賞する分には何ら危険のない巻物だ。読み上げたり、術の応用に利用すれば話も変わってくるのだが千尋には読めない文字だろうから。 「ん、ありがとね、ハク」 今まで不機嫌だったことも忘れたように興味津々とそれに見入る。流麗な筆跡で綴られた文字は千尋には読めない。どう見ても、三歳児が書いた方がきっとまだ日本語なのにと思えてしまう。少しずつ教わって読めるようにはなっているが、書けないし、初心者程度の力量で何とかなる簡単な文章でもなさそうだ。 文字の方は端から諦めて、鮮やかなまでの絵に見入る。 少し前までからかわれて不機嫌だった少女のころころと変わる感情に、微かに笑って一刻も早く仕事を終えるために手を早めた。 絵巻物に彼女を独り占めされることは自分でも愚かだと思う感情ではあるが、はっきり言って愉快なことではないのだ。 感情豊かな少女が自分に向ける心を知っている。だがそれをずっと、と望んでしまうことは、果てのないくらいの時間を生きていく自分の生と比べて、彼女にとって幸せだろうかと考える。それでも解ってる事は、解ってしまっている事は、この暗い想いは決して彼女を放さないのだと言うこと。彼女の幸せより、自分の望みを、しかも最悪な方法を取ってしまいそうな身勝手さに嘲笑の笑みすら浮かばずに、暗闇からただ静かに見下ろすのみだ。 仕事も後一息、となったときさらりと落ちる髪の毛が視界の隅を遮った。煩わしげに瞳を眇めて白い綺麗な手が無造作に髪を掻き上げた。長く綺麗な髪の毛は、碧の光を漆黒に弾いて指の間を滑り落ちていく。 いつものように紙縒で結んでしまえばいいのだが、面倒臭くて解いたままでいたのだ。溜息を付いて何か髪の毛を止めるものを、と辺りを物色するが在るのは積み上げられた古い書物や仕事用の書簡ばかりで適当な物が見あたらない。 仕方ないかと溜息を付いたとき、つんと後ろの方で髪を引っ張られて思わずハクは振り向いた。 寝所の方に絵巻物を持ち込んでいた千尋がいつの間にか戻ってきていて、ハクの髪をひいたのだ。 気配に聡いハクが、この部屋にいるとき、千尋に限り気配を読み違えることがある。それだけ側にいる証なのだろう。最も、この部屋にいるハク以外の存在など千尋の他は皆無なのだが。 「先に寝ていても良かったのに」 少し驚いたような表情は他の誰にも解らない程度だった。 「眠くなかったから」 それにどうせ寝ていても起きてしまうし、起きても寝ててもその後の結果は変わらないしと思ったところで、意図的に思い切り思考を振り払う。これ以上考えて、ハクの顔すら見れなくなる事態は遠慮したい。 首を振りながら、そろそろと積み上がった本を避けてハクの側まで行こうとする千尋に綺麗な手が伸ばされる。白い狩衣を纏った腕にしがみついて、とんと小さな足をハクの隣の少し開けた場所に降ろした。 小さな手を伸ばして軽く引っ張られたハクの髪はまだ千尋の手の中にある。 「どうしたんだい?」 綺麗な顔が傾げられ、翡翠の瞳が千尋を見下ろす。あのね、と深い碧の髪に小さな手を伸ばして軽く手櫛ですくとさらさらと指先から落ちていく。まるで音を立てるみたいに。 「迷惑じゃない?」 少し首を傾げたハクが、上目遣いに見上げてくる千尋に苦笑した。 「別に?」 ハクが何か難しいことをしているときに、可能な限り千尋は声を掛けない。迷惑になってしまってはならないから。だからこういう時に声を掛けてくるのには、何かあると今までの経験からハクは知っている。 お伺いを立ててから、許しを貰ってほっとした千尋が少し笑って、白い肩からさらりと落ちた髪の毛をそっと指に絡めた。 「髪の毛邪魔じゃない?」 「ああ、だから今紙縒を探そうと思って」 きっちり纏めてしまうのは仕事の間だけにして、今は息抜きも兼ねて解いていたのだがこれでは書き物に支障が出る。 小さな手が髪を梳くのに任せてハクが応えると、千尋がハクの肩を押した。 「ちょっとあっち向いてて」 狩衣の肩を押しながら、ハクの背中の方に千尋が回る。 「千尋?」 取り敢えず言われたままになりながら背を向けるが千尋が何をしているのかは完全に視界の外になった。ぱちりと瞬きしながら、背後の気配を伺う。 「ハクは、踊ること出来る?」 手では作業を進めているようなのに、いきなりハクの気を逸らすように質問されて面食らう。それでもすぐに先ほど千尋が見ていた絵巻のことを思い出してああと納得した。 「楽と舞いは、一応は並みにね」 並み、と言うには語弊がある。至高の存在である神の前で舞える存在は限られる。神以下の者ならば、はっきり言ってまだ楽なのだ。存在の違いという者がある。神にも矜持があるのだから、目下のことにいちいち目くじらは立てないのだ。けれどハクは神だ。例えその半身を無くしてしまったのだとしても、根本に代わりはないから。同等の存在の煩わしい舞いなどを見せられて黙っている神々の方が少ないだろう。それなのに、滅多にないとはいえ上客の方から望まれる程の腕の持ち主だ。並み、と言う言葉では些かどころかかなり足りない。 「凄い、ねえ、今度見せてくれる?」 感心したような気配と歓声が背中で賑やかに沸き上がり、その素直さに苦笑する。 「千尋にも教えるよ。それで千尋も舞ってくれたら、私も見せよう」 思わず浮かんだのは美しく扇を閃かすリンの姿だ。とても出ないがそんなことは絶対と言っていいほど無謀だ。神楽舞いなども、千尋が知っている踊りとは果てしなく違いすぎる。 「――ハクの前で?」 「前で。やってみれば難しくないものだよ?」 見た限りではそんなことはない、と絶叫したくなる。普段の自分の立ち振る舞いを考えると、とてもでないが指の先まで優美で優雅なリンのようには千尋は絶対なれないだろう。リンもまあ、普段の様子と比べられないほど、雰囲気がかけ離れていたきらいがあったが。 ただ、ハクの踊りはかなり見たい。 美しい青年が剣舞や弓、扇で舞う姿はきっと絵になると思われた。白い立ち姿も翻る髪も、きっと綺麗に違いない。 「リンも確か名手と聞いたが」 思い出しながら軽く口元に手を当てると、後ろの方から肯定の声が直ぐさま即座に帰ってきた。 「凄く凄く綺麗だった」 大きく肯きながら力一杯言葉に感嘆を込める。 「無理だよ、あんな風に出来ない」 素晴らしい舞いだったのだ。それなのに何故下働きをしているのかとリンに聞くと、舞いをするのは嫌いではないが、接客には向かない性格なんだときっぱりと千尋の言い分を下してしまった。確かに気っ風が良すぎる気もするが、いざとなったら彼女は何でも手段を厭わないとも感じていたりする。 「私もあんな風には舞えない。個人個人の個性を大切にして舞えば自ずと磨かれるものだよ。真似ばかりをして上達するのは最初のうちだけで、後は自分のやり方を大切にしなければいけないのだから」 少しの間沈黙して、髪を梳く音だけがささやかに響く。戸惑う気配が小さな手のひらに現れるように、さらさらと髪を指で流した。 「リンさんにも習うけど、上手くなるまで待ってくれる?」 かなり真剣に考慮黙考して、何とかの妥協点が其処だった。下手なことをしてどじばかり踏む姿は今も昔も余り見られたくない。 それでもハクの舞いは見たいのだ。その一心で努力しようと覚悟を決めた。 「良いよ、待とう。千尋が私のために踊ってくれるなら。ただし、一番に見るのは私だからね」 しっかり釘を差しながら、笑ってハクが快諾する。どんなに下手でも、千尋が自分のためにするのなら関係はないのだ。 強請って、自分の方が乗せられた気がするのは気のせいだろうか。大変なことを約束してしまったとはう、と心の中で溜息を付くがそんなことを意に介す様なハクではない。特にこういったことに関しては。 悔しいなと頬を染めながら、華奢な少女の手のひらが、細くしなやかな碧の黒髪を一つに纏めて軽く梳いていった。櫛も必要ないのではないかと思えるほどに綺麗で何処もほつれていない。ふわふわとした髪質の千尋の髪とは違って、真っ直ぐで肌触りが少し冷たくて気持ちいい。 初めて邂逅したときは、肩の上で綺麗に切りそろえられていたけれど、今は背中まで伸ばされていて綺麗で長い。 簡単には切る事が出来ないのは鬣だからだと以前苦笑しながら教えてくれた。 それに、名は体を表し、同時に本質を顕わす、すなわち体は本質を含みそれは名で示される。無闇に簡単に、形を変えることはしない方がいい。特に髪には力が宿る。竜にとっては鬣であり、力の象徴でもある。竜への転変に外見自体は余り代わりはないのだが、それでも力への歪みが生まれることもある。強い力を持つ故だが、詳しいことを千尋は知らない。いつも紙縒で一つに綺麗に纏められているのは、そのせいでもあるのだ。 ただ、この部屋で、千尋の前ではハクは時々無防備に髪を解く。 紙縒の髪留めには封印の意味があるという。それなのに髪を解くのはこの部屋にハクが敷いた結界が、封印の役割を果たしているのだろう、けれどそうした無防備な姿を自分の前でだけ見せてくれるのは、気を許されているみたいで嬉しかった。 警戒する必要のない存在なのだと、体現されているようなものだから。 首もとで纏めた髪を滑って毛先近くまで手を下ろす。小さな指先がさらさとした髪を分けて、緩く編んでいくと、細く真っ直ぐ過ぎた髪が纏められた。 手首にしていた赤い髪留めで、最後に止めてしまって出来上がりを見聞する。器用な方ではないが、ずっと小さな頃から千尋は自分の髪を自分で揺っていた。このくらいは慣れているのだ。 「はい、これで大丈夫」 綺麗に纏められた毛先を引いてハクが髪留めを見下ろした。 自分がこの髪を邪魔に思っていることを見抜いて此処までわざわざ来たらしい。 赤い髪留めには見覚えがあった。 ヒトの世界で作られた物に髪を縛られるという意味を考えるが、それ以前に千尋の物で在るという意味の方が強いらしく不快感は感じなかった。何より、この世界に幾年も残っていた物だったからこちらの気配に、と言うより、ハクの手元にあった物だからハクの気配に馴染んでいた。 銭婆の元に残された、千尋が確かに此処に居た証。赤い髪留めは再び再会するまで、ずっとハクの側にあった。もう二度と会うことは叶わなかったかも知れないのに、それでも捨てることなど出来るはずもない。幾度見つめたことだろう、幾度其処に在ると確かめたろう。 微かな書物の古い匂いと、灯籠の中で少し暗く光を押さえた炎が見下ろす少女が自分の反応を不安そうに見守っているのが見えた。 今は千尋も、いつも使っている紫色の髪留めを外して、ふわふわとした髪の毛が小さな顔を縁取っている。肩の辺りで揺れる髪に手を伸ばしながら綺麗な顔が、微笑んだ。髪が綺麗な手のひらに梳かれるのを心地よく思いながら口を開く。 「使ってて良いよ。ずっとハクが、持っててくれたものだから」 この世界に再び来たとき、ハクに返されたものだったから。小さく小首を傾げる仕草に、ふわんと肩で髪が揺れた。 千尋に返すことなど出来ないと思っていたから。何をしてでも会いに行こうと思っていたけれど、彼女が自分の存在すら忘れていたら、確かにこの手を繋いでいた記憶の証を、多分自分は手放せなかった。返すことが出来たのは何にも代え難い僥倖だった。 小さな手を引いて、膝の上に引き上げる。華奢な身体を少しの間抱きしめた。 落ちる髪が髪留めで揺れる。 「もうすぐ終わる。それまで此処に居る?」 耳元で囁くように言われて、わたわたと抜けだそうと慌てたが、いつもの如く抜け出せなくて撃沈する。それでも、対する答えは決まっているのだ。 こくんと小さく肯く千尋に、ハクが千尋にだけ見せる表情で笑った。 「有り難う。千尋」 その声が、自分の名前という言霊を告げてくれるのが大好きだった。 ハクしか呼ばない。他に真名を知っている人物はいるけれど、皆この世界での呼び名で呼ぶから。銭婆は時折千尋と呼ぶけれど、それでもいつもは『セン』だから。 多分魔女が人の子の真名を呼ぶと何らかの問題があるせいだろうとハクにいつか聞いたことがある。 今は自分の存在全てを許せる存在しか、千尋と呼ばない。ずっと離れていたけれど、この髪留めを大切に持っていてくれて、そして返して貰ったときに自分が忘れられていなかったと思わず泣いてしまったことを思い出した。確かに千尋を覚えててくれた。千尋という存在の証が自分なら、その存在の証明が出来るのは、真名を呼ぶハクだけと、まるで心に決めてるように。 酷く真摯な囁きが、ハクの心を千尋に伝える。なんにも大したことは出来無いのに、何故そんな風に温かい言葉を向けてくれるのか解らなかった。けれど、暖まる此処がとても嬉しくて、腕の中で少女が白い胸に顔を埋めた。 もうじき夜も明けるだろう。明け方の薄紫が世界を被う頃、優しい眠りが訪れる。 青い空が待っている。 とあるサイトさんで拝見したイラストの長髪ハクがあまりにもぐはっ!と来てしまったのでうちの大ハク(何だそれは)は長髪です。格好良かったです、めろめろです、至福でした。ので神様はぽんぽん成長せんだろとか突っ込んだらいけません。なりません。(駄目すぎ) |