空を見上げて思うこと。叶うならば飛んでいきたい。君の元へ、いついつだって。





眠りの風






昨夜降った雨で出来た海原が広々と遙か遠くまで広がっている。
何処までも蒼く、何処までも澄んだ。
海は碧い色をしているのだと、この世界に来て千尋は初めて知った。祖国で見た海はどこか寒々しい青灰色で、硬い波と白い波頭ばかりが目立った。
さわりと風が彼方から吹き上げて後ろで一括りに結った、千尋の髪を揺らしていく。それがとても気持ちが良くて、波打つ海を見ていた瞳がそっと静かに閉ざされた。胸一杯に吸い込む空気は、運ばれてきた潮の匂い。
降った雨が塩っ辛いわけでもないのに、海の水はやはり潮の香りがした。
欄干に華奢な身体をもたれかからせて、ぶらんと宙に細い腕を降ろしてしまう。
太陽が顔を見せるほんの直前、油屋はやっと眠りにつく。数刻前までは暗闇の中、明々とともった灯籠が此処が不夜城であることを、確かに告げていたにもかかわらず今はもう灯りは落とされしんと静けさに満ちている。
ただ、遠く深くくり返す、波と風の音だけがささやく。
一晩中動き回っていて、もうくたくただ。それは働いているみんなが同じ事で、気怠く優しい微睡みの中で今はたゆたっているのだろう。閉じた障子戸の向こうではひそやかな寝息が続くばかりで、誰一人として起き出してくる気配はなかった。
不意に目が醒めたのは数刻前。太陽が顔を出す少し前のことだった。
疲れているのは確かなのに、何でだろうか、眠れなくて隣に眠る姉貴分のリンを、起こさないようにそうっと布団の中から出てきた。部屋を出てすぐに、欄干が廊下を兼ねてずうっと続いている。客部屋のような装飾は何もない、古びた建造物だったが、装飾華美でぎらぎらしている金箔貼りの部屋とかよりはよっぽどこっちが落ち着いた。
立て付けの悪い硝子戸をがたがたと言わせながら引く。出来るだけ静かに、それでも一人分身を乗り出せるスペースを作ってしまうと、そこから香る涼しい風が千尋の頬をゆっくり撫でた。さわり、と風が髪をふわんと浮かせて、気持ちがよくって目を閉ざす。潮の匂いのこの風の匂いにいつの間にか慣れてしまった。竜の背中に良く乗るようになってからだろう。良く海の上を飛翔するから。風は潮の匂いがする。
駆けていく景色が美しく、それを見る暇もないくらいに強く羽ばたく風の音と遠くに見える蒼穹と凪。積乱雲の向こうまでも駆けていきそうな勢いだ。それで海の向こうの友達や、おばあちゃんに会いに行ったり、見たこともない島に一緒に遊びに行ったりする。
きらきらとした白い鱗も思いの外柔らかな鬣も美しい姿も、みんな大好きだ。何より深く透き通る、薄く綺麗な翡翠の瞳が千尋を映してくれるのが何ものよりも代え難い。
この場所でこうやって、外を見ていると思い出す。もう遙か昔に思えるあの日を。
あの美しい竜をこの世界で初めて見たときのこと。
思い出すと同時に、胸に走った苦しさに微かに柳眉を千尋は潜めた。詰まりそうな息を押し吐いて、ぱちりと目を瞬かせて深呼吸する。記憶と共に甦ったのは苦しみのたうつあの姿だった。一面の蒼と碧に映える身体の白い鱗が煌めいて、取り巻く式神の鳥との飛ぶのは乱舞のように綺麗だったけれど。傷つきすぎて我を忘れて、千尋のことすら彼は解らなかった。どれほどの痛みと苦痛だったのだろうか。あんなに強い彼が、自分を忘れてしまうくらい、見失ってしまうくらいに強い酷い苦痛だったのだ。
いきなり放り込まれた世界で、自分はたった一人だった。突き付けられた理不尽に、たった一人で立ち向かうしか他になかった。もしも自分だけだったら、きっと泣いて何も出来ずに終わっていたに違いない。
力をくれたのは彼だった。自分は千尋の味方だと、強く真摯に言い切った。それにどれほど救われたのか、きっと彼は知らないのだろう。
今もずっと胸に刻まれた宝物の言葉なのだ。
だからそんな言葉をくれた人が、何も持たない自分のことを何の見返りも期待せずに守ってくれた彼が、傷ついて苦しんでいるのは、許せなかった。自分の方が痛かった。
どうか元気に。どうか楽に。どうか苦痛が和らぐように。
願って願ってやまなくて。
遙かに青い空に薄く白い雲が流れていく。射し込む光の粒子がきらきらと、新しい陽の光にまるで踊るように欄干へ斜めの影を落とす。手すりに突いた肘の先をぶらぶらと持て余しながら彼方の天境線を見つめていた千尋の華奢な手が突然強く欄干を掴んだ。
たん、と、中段に足をかけて、勢い良く小さな身体を外へ乗り出させる。そのまま華奢な身体が勢いも良く欄干の外に躍り出た。


油屋の外に面したこの廊下はかなり上階にある。外側、というのは勿論何もない。でこぼこと不格好に出っ張っている用途も良く解らないパイプやら、作業用の錆びた梯子が付いてるくらいで、遙か下方に微かに見えるのはうち寄せては壊れる白い波頭だ。正に相応しい言葉は、崖っぷち、その一言である。
すうっと息を吐いて逆巻く風に押し上げられる肺に抵抗する。あまりの勢いに目が痛くなって少ししばしばさせるが、今、真っ逆様に遙かな高見から視界一杯を埋め尽くす碧が綺麗で思わず嬉しくなった。
場違いな感情を抱きながらも、空中で何も抵抗の出来ない華奢な身体が風に煽られる。このままでは海面に叩き付けられることは想像に難くない。誰にだってそう思えただろうその瞬間、ふわりと柔らかい風の抵抗が千尋の身体を受け止めた。激しくはためいていた髪の毛が、耳の辺りで今度は柔らかく揺れる。唐突に緩やかになった落下速度はそのままふわんと千尋の身体を運んでいって、油屋の小さな硝子戸すらも無い欄干――千尋がいた辺りから三階分は下だろうか――目掛けて近づいていく。
従業員だって誰も通らないような小さく裏さびれたその欄干に一人の人影が見えている。手すりに肘を預けて、じいっとこちらの方を見ているその瞳の色は翡翠の色だ。
千尋はふわふわと運ばれてる風の中で、途中、ちょんと居心地良く膝を抱いて居直した。柔らかな風のクッションに包まれているような感じだ。
手すりに寄りかかっていた人物は、そこに肘を突き、手のひらに頬を埋めて綺麗な顔を斜めにこちらに向けている。呆れたような綺麗な翡翠色に、千尋は少しも動じなかった。
ふわふわと風に運ばれ目の前にまで千尋が移動すると、手すりを隔てたあちらとこちらでそのまま真っ直ぐ目線があった。数瞬視線が行き交った後、沈黙を破ったのは目の前の彼の人、ハクの綺麗な声だった。
「どうしてそういう無茶をするかな?」
深々と溜息が今にも漏れそうな声なのに、そんなことはせずそれより効果的にこちらを非難している。
千尋は何でもない顔で、一歩間違えれば死んでいることは確実だったのだというのに至極当たり前に言い切った。
「無茶じゃないよ、ハクがいること知ってたから」
知ってたからって身体の脆弱な人間のする事じゃない気がする。けろっとしている千尋より、上から降ってくる華奢な身体を視界より先に、風の中で感じた自分の方がよっぽど怖かったのだが。当たり前のように反射的に呪を紡いで小さな身体をふわりと浮かせながら、見上げる視界に落ちてくる千尋の姿に溜息を付いても仕方がないだろう。
それにしても疑問が残る。この時間、仕事に慣れたと言っても小さな身体で過密労働に耐えている千尋はいつも深い夢の中だ。油屋にとってはこの時間こそが深夜なのだ。誰も起こすことのない眠りの中で、彼女は安らかに微睡んでいるはずなのに。それに加えて、この場所は、本当に誰も来ないような場所なのだ。何故此処に、自分が居ることが解ったのだろう。
問いかけても居ないのに、ハクが何を考えたかを悟ったのか千尋が小さく小首を傾げる。可愛い仕草で綺麗な翡翠を斜めに見つめた。
「何となく。勘かな。ハクが此処に居るって、何となくだけど解った」
勘で自殺まがいのことは出来ればやらないで欲しいものだが、頬杖を付いたのとは反対の左手で綺麗な指先が額に添えられる。何でこう言うところで彼女は思い切りが良すぎるのだろうか。思わず深く溜息が漏れる。
無表情の綺麗な顔が少しだけ融けて僅かばかりの笑みが覗く。
「出来れば、私が居るって事をちゃんと確かめてからして欲しいんだけれど」
いや、それ以前にやらないで欲しいのだが。
「大丈夫。ハクのことだもん。解るもん」
至極当たり前のことを、何故言わなければ行けないのかと千尋自身は不思議に思ったが苦笑していたハクの身体から思わず力が抜けた。少しの間沈黙してから、何とか顔を上げると、少女がこちらを覗き込んでいる。
不思議そうな瞳が心配の色でかげる前に、ハクは今度こそ笑みを返した。
未だ風の揺りかごの中、空中に留まっている千尋に綺麗な手を伸ばす。白い手のひらが小さくて柔らかい、少女らしいまろみの頬をそっと優しく触れていく。
いきなりそういうすっごく優しい顔をしながらこういうことはやらないで欲しい。反射的に退きかけた、身体をにっこりと有無を言わさず許さない。綺麗な顔だからこそ迫力があって、ますます千尋は固くなる。柔らかい翡翠の瞳が自分に向けられるときだけの色を浮かべていることに、気が付いているからこそ逃げられない。
と言うか、千尋が逃げられないことを見越してハクはこう言うことをしている節があるから。
思わずわたわたとしながらも、風の呪の中にいるのでは余り激しい動きもできない。きっとそんな事まで、微笑む竜は計算ずくに決まっていた。
けれどその笑みを見ながら、照れていた千尋がだんだんと大人しくなる。相変わらずふわふわと風に揺れてる髪の毛が、幼い顔を縁取っていた。
あの頃よりは大人びた、それでもまだ子供と大人の狭間をたゆたう不安定な時期の少女。
いつの間にかじっと見つめられていることに気が付いて、ハクが今度は不思議そうに千尋を見返した。頬にかかる髪の毛を梳いてやりながら首を傾げる。
「千尋?」
呼びかける言葉に、千尋が少し目を伏せて、それからそうっと手を伸ばした。小さな指先が白い頬に触れて流れていく。壊れ物を扱うように、それでも優しく触れてくる。
「千尋?」
呼びかけに、答えはなくて。もう一度、自分がしていると同じように海からの風に靡いていた濃い緑の様な黒髪を梳く小さな手と少女に問いかける。
「眠れなかったの」
風の音が莢かに囁いていく中で、微かな声が沈黙を破った。
「だって、夜ハク、居なかった。だから」
眠れなかった。と。千尋は呟いた。
小さな声を風が運んでハクの耳に届けていく。
微かに眼を開いて、気が付かれていたことに驚いた。
働いている間は役職が全く違うせいで逢えないことも珍しくはない。その後、千尋がハクの部屋を訪れることが時々あったりするが。
逢えないと言うだけで、自分の不在が千尋に気づかれていたとは思わなかった。
微かに目を見開いたハクに、千尋が戯れのように長い髪を梳いていく。さらさらとした手触りが酷く心地よかった。
昨日の昼までは確かにいたのだが、確かに夜は不在だった。それでも、自分の不在を父役には口止めをして置いたのだ。
長い髪を梳きながら、千尋がそっと静かに瞬く。
「ハクが、痛がっていたから」
風が髪を後ろに追いやり流していく。海の音が何処か遠くて。朝の光は薄くまるで影ってくようで。
「ねえ、お願い。独りで痛がらないで」


優しく笑うハクがいつもより千尋に触れたがってるみたいだったことと、その瞳の色を見てああやっぱりと心の中で繰り返した。その、傷ついた色に。
湯婆婆との契約は何とか決着が付いたらしいが、詳しいことは千尋にはハクは何も話していない。何があったか伺い知ることすら難しい。けれどもう一度こちらに千尋が来るときに、何らかの形でハクも縛られる事になったのは解っていた。それを感じさせないハクは優しい。そして愚かだ。知らせないことは時に痛くて。泣きながらごめんと謝ってしまいたくなる。けれど、想いを踏みにじることはしたくないから、泣きそうになるたび、白い胸に顔を寄せて埋めるだけに留めている。たとえ自分が言ったとしても、気にしなくていいの一言で、彼は晴れやかに微笑むだろう。
それほど理不尽な仕事をさせられている様子はないが、様子が見えないだけだ。
此処にいる以上、使える手駒を湯婆婆が遊ばせておくはずもない。綺麗事だけじゃ立ち往かない。
胸が痛む。もしまた前のように苦しむことになってしまったら?傷ついて、我を忘れるような痛みを受けることになってしまえば?その時何もできなかったら?
自分は自分を許せない。
そう。今みたいに。
ふわりと頬を風が過ぎる。千尋の後ろから。ハクの前から。そうっと顔を近づけて、囁く声すら聞こえる距離で。
「独りで、傷ついてないで」
しんとした瞳が、翡翠の双眸を見つめてくる。
何故。これほどまでに隠しておこうと強く決めた心すら、彼女の前では明らかになるのか。何故、彼女は全てを見通してしまうのか。
綺麗事だけで済ませるような甘い雇い主ではない。ただ、理不尽なことはしていない。こちらにはしっかり真名があるから。けれど契約の隙を巧妙について、回されてくる仕事は素直に承伏できるような物ではなくて。
そんなことを悟られたくないと思って願っているのに、ただ、守っていたいと願っているのに。何故彼女には隠せないのだろう。
ああ。
そっと静かに瞳が閉ざされ、千尋がこつんと額をくっつけてくる。
「此処に、居るよ。側に」
繰り返し繰り返し響く懐かしい水の音と。少女の声と。
「此処にいるよ。ずっとずっとハクの側に。だから独りで、傷つかないで」
呆然と開かれた翡翠の瞳に目を閉じた少女の顔が間近で映る。小さな手が耳元に手を添えていて、温かかった。
竜は優しく、愚かだ。それ故捧げる想いの深さは、海より深くそして暗い。
その執着の激しさも深さも、千尋はまだきっと知らない。それなのに、何もかもを自分に委ねてる。命も、存在も、そうしてずうっと側に居ると。
この想いは自由でしなやかな、千尋を縛る鎖にしかきっとならないのだろう。
切り花がやがて枯れるように、せめて優しく枯らすように、この鎖を自分も千尋に絡めていくのだろうか。そうしていつか自分も縛られ。この想いの底に落ちていく。
傷つける刃を向けている。喉元に銀の切っ先を。
微笑みながら。
想いの深さに傷つけて、傷ついて。いつか壊れるのだろうか。
執着も想いの深さも何も知らない。それなのに。
千尋は自分の側に、居るのだと繰り返す。
割れては還る、波のように。
繰り返し繰り返し響く波濤に、感情を消した綺麗な竜が無表情のまま瞬いた。ふわふわと揺れる柔らかな髪の毛に綺麗な手のひらを埋めながら。
「叶えよう」
風がかき消す大きさなのに、綺麗な声は真っ直ぐに千尋の耳まで届いてた。そっと眼を開くと、間近に綺麗な翡翠色。酷く真摯なその色が、この世界の景色より、何より美しいと思った。
「叶えよう、其方の、想いも、願いも。千尋が望む限り必ず。例え」
柔らかな髪に指を通す。ふわふわとした感触が心地良い。
「例え、亡びを願おうと」
命、尽きるまで。
翡翠の瞳がそっと閉ざされる。
「約束だ」
誓いだ。宣誓のように。例えそれが自己満足だろうと、この想いを抱く自分の側に、居るのだと言ってくれる彼女の事なら、何でも出来る自分を知ってる。
「なら」
再び開かれた瞳が逢う。こつんと額をくっつけて、潮の匂いの風に包まれながら。
欄干の影が薄く濃く、奥の方へと伸びている。空の雲が千切れて飛んで、光の筋を落としていた。
ふるり、と首を振りかけながら、それを止める。
「ずっと側にいる。他には何にもない」
そんなことを、して貰うほど自分は大切な存在ではないと思った。けれど、それ以上に願いを叶えてくれるのならば、これほど叶えて欲しい願いは自分の中には存在しない。ただ側にいたいのだと。
想いの形は言葉に出来ない。酷く簡単な気がするのに、そうしてしまうことは何故か出来ない。けれどこの想いは本物だから。側にいたいと言うことだけが、大切な願いだったから。
「欲がないね。折角だから我が儘を言って欲しいのに」
微笑む綺麗な顔に、千尋も笑い返す。綺麗だからハク、なのではなく、ハクだから綺麗なんだと脈絡無く思えてしまった。
少し頬を染めながら、それでも視線は離さない。
「欲なんか要らないよ。側にいたいだけだもん」
側にいたい、と言うことが、最大の自分の欲なのだ。
ああでも、と小さく小首を傾げながらハクの瞳を千尋が覗き込んできた。
「独りで傷つかないで。そういうときは、独りで居ないで」
繰り返す千尋に、いつものようにハクが苦笑した。その瞳に、あの痛さが無くて千尋はほっとする。
「努力するよ」
さらりと頬を撫でて、額をくっつけたまま聞こえた笑う吐息を風が吹き散らしていく。
「でも、私ばかりがそれでは特をしている気がするのだけど?」
今度はハクの方が千尋の瞳を覗き込む。綺麗な瞳の至近距離に、はっと気づいた千尋が退こうとするのをぐっと押さえつけて、にこにこ笑いながらハクが見つめてきている。もしかせずとも、自分から捕まりに言った様な物なのだが、慌てている千尋はそんなことすら気が付けなかった。
夜の間のハクの不在が気になって、眠っていなかったせいもある。体力が回復していない。
多分ハクは今油屋に帰ってきたところだろう。目覚めるとき、窓の向こうに白い鱗の煌めきが見えたような気がしたのだ。疲れていると思うのに、こういうことを頼むのは気が引けるけど湯婆婆もまだ戻ってきてないから、今のうちなのだというのもあった。
「じゃ、じゃあ、外、行きたい」
半ば離れる口実のためだった気もするが、とっさに口をついて出たのはそんな言葉だった。
今外へ行ってもどこもかしこも水だらけで、海原が果てまで続いているのだがと首を傾げたが、思い至るところがあってああとハクが肯いた。以前千尋を連れて、同じように雨が開けた朝に外に出たことがある。海原に落ちる雲の影が美しかった。千尋を連れていったのは、高台にある、珍しく海に沈まない、その時は小島のようになっている草原だ。二つの丘分、ぽっかりと海に顔を覗かせている。水の碧に空の蒼穹、流れる草と風が心地よかった。
それすら、我が儘といえる物ではなかった。叶えて、守ると誓っても、千尋は何も言わないだろう。そんなことは百も承知している。本当に自己満足にしか成らないから、自己嫌悪と共に沈めておくだけの誓いだとしても。
「解った、行こう」
片方の手を離すと、千尋が少しほっとしたようだ。そのいつまでたっても慣れない様子に苦笑しながら髪を結う紙縒に指を伸ばす。ふつっと紙縒を切ってしまうと、さらりと風に長い髪が舞い上がる。一瞬強く白く、そして美しい翡翠の色に毛先が光を弾いて靡いた。落ちかかる髪を首振る動作で払いのけながら白い狩衣の青年が消えて、竜が静かに現れた。
その美しさは変わらぬまま、呪を解いて風の守護を失った少女を柔らかく受け止めながら。


解いた長い髪を風に遊ばせながら竜が見守る海に浮かんだ草原の丘に、眠りをヒトの子が享受している。
膝で丸まる、絶対の安心を寄せてくる少女に微笑みながら風に包まれて。
白い美貌がやわらいで、風にふわりと揺れて舞う優しく柔らかな髪を撫でてやった。翻る長い碧の黒髪と白い衣のその影にうっすら縁取られる様が綺麗だ。
過ぎゆく雲が、波打つ海の青さに影を落として彼方までへと流れてく。