「忘れないよ」 記憶の行方 この世界での朝の訪れは同時に、眠りの訪れでもある。 輝く光が東の空を曙のその色に染める瞬間、美しい紫と深い藍が混ざり合う。西の果てには星を残して、空はゆっくりと青に染まりひどく透明な一瞬を迎える。 まだ日の光が夜の支配の中でまどろんでいるような、空白の一瞬。空は白く、うす青く。 地上を支配した宵闇の河原は消え去って、雨が降っていなければ、また遥かな緑の草原が地上に鮮やかに現れる。 一日の始まりそう言われる日の光が世界を照らすころ、夜の間中眠らずに赤々と闇を照らしていた塘路の明かりはくすぶりながら消えていく。神々すらも寝静まり、夜通し騒いだ享楽の宴も、落とされる明かりと消えていく。 従業員たちも各々の部屋へと引き上げながら疲れた体を解し、欠伸をかみ締めていた。 朝の柔らかな光に照らされながら、眠り始める静けさに小さな足を音がひとつ、響く。ぱたぱたと急ぐような足取りだ。しゃがみこんで裏戸を潜り抜け、手のひらについた朝露をぱっと払うと、開いたままの扉をぱたんと閉じた。屈んだ腰をよっと立ち上げると朝の光が眩しい。空には東風が吹き、東へ東へと千切れたくもが生まれたばかりのような白さでゆっくり飛んでいっていた。 あの雲の彼方を誰も知らない。きっと神様でも。 落ちてくる薄く白い光に幼い顔が照らされる。静かに翳っていく雲の下を、たっと小さな足が大地を蹴って駆け抜けて行った。 崖の淵、厩舎、両親はそこで寝転んでいた。 ごろんとだらしなく鼻を鳴らしてそれはそれは幸せそうに、というか何を考えているかさえ千尋には解らないのだが今現在の自分と比べて、あまりに平和な感じだった。今現在の自分の事情と比べても、あまりに平和すぎる気がする。けれどそれが現実の深刻さと異様さを表しているようで、胸の中がしんとした。 両親は豚にされてしまった。異常な現実に心が慣れてしまった時、果たして人はどう変わってしまうのだろうか。 小さな影を翻らせて千尋は厩舎の外に出る。狭いところに押し込められた獣くさいにおいから、一気に晴れやかに草の海を渡ってきた青いにおいが千尋を包んだ。そしてむせ返る花の香りも。 牡丹、桔梗。椿に躑躅に、鳳仙花――極彩色の花々の垣根、季節のすべてを無視してしまって狂い咲いている美しさ。まるで迷路のように密集して入り組んで、さまよう人を誘うようだ。誘いの果てに何が待ってる? ここは人の世界の感覚をひどく狂わせる場所だった。朝と夜は逆転し、宵闇の訪れと川の氾濫、そして神々の在るところ――遥か高みの存在なのに、ひどく近いから。その至高の存在と。愛すべき、忌むべき、敬愛と畏怖の対象。そば近くにあり過ぎるから、あまりのことに感覚すらも麻痺している。 美しさと狂気は、いつだって紙一重なのだ。 極彩色の花の垣根の迷路を抜けて、少し広がる場所に出る。ぽっかりと空いた小さなスペースを赤と白と黄色の花の垣根が囲い、どこか秘密めいて見えた。そこに、待ち人、一人。 自分の気配に気がついていたのだろう、花々の間をすり抜けて千尋が顔を出したとき、彼は振り返りながら微かな笑みを載せていた。 肩の上で切りそろえられた髪の毛がさらりと白い衣に映える。時代錯誤な風体でそれが奇妙によく似合う。美しい顔が微かに和むのは、自分の前でだけなのだと千尋はなんとなく理解した。仕事中の彼は感情すべてを廃している気がしてならない。何でだろう、いつもこんなに優しければ怖がられることもないのにと、千尋はいつも不思議に思った。 幼い子供の無邪気さだ。 けれど、自分だけには優しい、絶対の味方なのだとしっている。それは不思議と心に馴染んで、心を満足させた。子供らしい独占欲が、その中に混じっていることを千尋は知らない。 「会ってきたかい?」 首を傾けて問う。立ち姿の綺麗な少年に、千尋はうんと肯いた。 「寝ていたの、二人とも」 ふうっと疲れたみたいに息を吐いて、すとんと生垣の影に腰を下ろした。さわりと背後で躑躅が揺れて、甘い匂いがふわんと広がる。むせ返るような花の庭も、柔らかな香りに今だけは包まれている。 小さくなって膝を抱くと、疲れた頭がちょんとそこに乗っかった。 父も母も豚にされて、それが当たり前だからと思ってきてしまって、慣れてしまったら父と母のことも解らなくなるかもしれない。そう感じる時が一番怖い。二人を助けられるのは、自分しか居ないというのに。 寄り添うように、綺麗な少年も内面を見せない笑みをかすかに浮かべながら千尋の隣に腰を下ろした。 それは確実に人間性を外見的にも内面的にも、失ってしまった人間たちへの同情なのか、掛ける言葉が見つからないゆえの繕いなのか。小さな千尋には解らなかったけれど、自分の味方だと言い切ったその人の笑顔はとても暖かく心に馴染んだ。 多分、この人に自分はとても救われているのだ。 そんなこと、解っていたことだけど。 膝に顔を埋めてしまった千尋に言葉を掛けるでもなく、促すでもなく、ただ寄り添うことが優しかった。 ふわふわなせいで縺れやすい千尋の髪が膝の上でくしゃくしゃになってしまう。白い指がそれをかきあげてやりながら、手のひらに触れる少女の髪の柔らかさに心が温かかった。こんな心の感触は、いったいいつ以来だろう。 ひんやりとした指がほほを滑って、耳の辺りでほつれてしまった髪の毛を梳いていく。その仕草につられるように、膝の上から、ちらりと瞳だけが上がった。 「疲れただろう?」 優しく翡翠の瞳が和む。紛れもない、自分に向けられる優しさと気遣いになんだか涙が出そうになった。 どうしてここまで優しくしてもらえるのか解らなくて少し苦しかったけれど、いつもいつも張り詰めている精神が、ほうっと息をつくのを知った。張り詰めていることすら、自分では解らなかったのに、何でこんなに簡単に、自分はほぐれていっているのだろう。いつだって湯婆婆の監視の目はあって、父も母も捕らえられ、しかも豚にされていて、自分だって働かなければ同じ命運が待っている。命の危険、存在の危険、何一つ状況は変わっていないのに。 髪に触れるひんやりとした手が疲れて火照った肌には心地いい。 さわさわと躑躅の濃い桃色が揺れて涼やかな早朝の風に狂い咲く花の香りが混ざって二人の肌をなでていった。 「疲れただろう?少しお休み、ここにいるから」 その優しい言葉に、千尋は駄々をこねるように首を振った。 眠いのをぐずる子供のような仕草に困った様にハクが苦笑する。 「今日も仕事がある。眠らなくちゃ体のほうが参ってしまうよ」 頑なに首を振って口を結んでいた千尋が、繰り返えされる言葉と何度もなでていってくれる手のひらの感触に少しずつうつらとしてくる。 「ハクは?ハクは眠らないの?眠らなくて大丈夫なの?」 小さな少女の心遣いに、ここまで自分が追い詰められているにもかかわらず人を気遣える少女の強さに白い面が美しく微笑み、翡翠色の目が瞬いた。 「じゃあ私も少し眠ろう。千尋が眠ったら、私も眠る」 寄り添うように二人の子供は躑躅の生垣の中で話をしている。かすかに響く声すらも、風に流され散らされて後はどこにも残らない。空の青と白がまだ柔らかくて、静謐さが凪いだ海のようだった。 ちいさな子供が夜じゅう慣れない労働をしているのだ。疲れてあたり前だった。そろそろ体力的にも限界なのか、小さな手のひらが瞼を擦りながらハクの肩にもたれかかった。 「ハクも休む?」 繰り返す言葉に、うんとハクがうなずく。 「ここに、いる?」 「いるよ、ずっと千尋の傍に居るから心配せずにお休み」 今度は千尋がうん、と肯いて絶対の安心を得られる肩に頭を預けて目を閉じた。さらりと細くて、綺麗な緑にも見えるハクの髪の毛が千尋のほほを掠めていく。目を閉ざすと、風の音だけがとても耳についた。瞼を降ろして視野が閉ざされたせいか、それ以外の感覚が鋭敏になって隣のハクの感覚が確かに魂に沁みてくる。 ふと、薄目を開けると白い横顔が見えた。翡翠の瞳と視線が合うと、無条件に微笑んでくれるから、無条件に微笑み返したくなるあの瞳。肩越しに見える空のなんと高いことだろう。遥かな上天には凪いだ雲。数刻も立てば、空は鮮やかに青く染まって東風が積乱雲を乗せてくる。草原にはあの美しい、緑と雲の濃い影が落ちる。 どこまでも続く地平線を、彼方までも果てない天境線を、千尋はこの世界で始めて見た。 そしてこんなに美しくて優しい存在を、初めて得た。 まどろむように瞼を閉じて、開いて。少女の声がささやく。 「あのね、ハク」 ん、と声が返る。聞いているかいないのか、千尋はそうっと瞼を閉ざした。 「忘れないよ」 突然のその言葉に、ハクが千尋を見下ろした。視線に気がつかないで千尋は言葉を紡いでいく。 「千尋?」 「この場所とか、絶対忘れられないと思う」 目を閉じて繰り返す少女のふわふわとした髪の毛をハクがなでた。 訳も解らず死にそうなほど怖い目にあって、頼るべき寄る辺の両親を失って今まさにたった一人で、理不尽に立ち向かわねばならない小さな小さな少女の心を思う。確かにそう、忘れられるような事ではない。 けれど千尋はハクの気配を察したのか、軽く頭を振りながら違うの、とつぶやいた。 「違うの、怖かったけど、でも違うの」 繰り返す言葉は花の香りに埋もれていく。吹き散らす風が涼しく千尋の前髪を揺らした。まるであやすように。小さく膝を抱えたままの少女の肩は頼りなさげで。 それでも、言葉のうまくない自分の意思を伝えようとする意思だけは一生懸命だった。それはひどくけなげで。 「この世界のこと。雨が降ると海ができるとか、すごく広い原っぱとか、川の向こうの大きな船とか、神様が傷ついてしまう訳とか」 指折り数えられるだけ、心をうがった出来事に数限りはないけれど綴って。 「それからね、逢った人たち。おじいさんとか、リンさんとか、仕事を教えてくれた湯女の人たち、兄役、父役の人、怖いけど湯婆婆も、それにね」 ふわりと柔らかな髪の毛がハクのほほをくすぐった。綺麗な面から表情が消えると不思議な感じの無表情になる。 「ハクのこと。忘れない」 ふわりと風が。髪を揺らして空へと舞い上がる。果てを追いかけながら。 しん、と心の静まる風だ。ここには二人以外何もない。 「――もう、お休み、千尋」 うん、と声にならずに、肯いたか肯かないかもわからないうちに、暖かい場所で千尋は眠りに落ちていった。 小さな体がもたれかかってくる。力の抜けた体を膝の上にそっと倒してやりながら髪の毛をなでた。ふわふわの柔らかな髪。自分の髪はまっすぐだけどこういう感触は不思議と心地よい。千尋だからだろうか。 何の不安も持たないで、絶対の安心を預ける少女。 心を預けることと、預かることの不安も微塵も知らないのは、幼さゆえだろうか。愛すべき稚拙さ。 風が指先に触れる。膝の上で頭を預ける千尋の髪の毛を揺らした。体を丸めて、まるで猫のようだ。 少しだけ笑みを浮かべて、見つめてから綺麗な綺麗な竜の顔から表情すべてが消え去った。 忘れない、と少女は言った。 忘れてしまったほうがきっと楽なはずなのに。 でも少女がこの世界を離れれば、存在は隔たれる。いっそつなぎとめておきたいと願うけれど人にこの世界は優しくないから。 「そうだね、忘れないと、いい。」 忘れなければいい。たとえ世界が隔たれようと。 唇だけがつぶやいた。 同時にその偽りに苦笑すら、もれず心の中であざ笑う。それでもそう願ってしまう自分は何て愚かなんだろう。 泣きたいほどの素直さと心を預けてくれるこの少女に、癒されているのはきっと自分だ。失った何かが悲しくて切なくて悲鳴を上げてる。そして同時に和らいでいる。今まで軋んだ欠片でしかなかったのに。 偽善でしかない。きっと自分の心など。 この少女を癒してるつもりで、きっと自分が癒されている。 翡翠の瞳が瞬いた。見えない泪をたたえながら。 「此処に、居るよ、安心していい」 どうせ眠るつもりもない。千尋を守るために辺りへ警戒は怠らない。それに、眠りよりも何よりも、少女を見つめているほうがきっと自分には癒しになるから。 「お休み。千尋」 ささやく言葉は風に乗って、千尋に届いて消えていく。 優しく頬を撫でながらその吐息の柔らかさに、泣きそうな笑顔で竜が笑った。 この記憶をたとえ少女が失っても、きっと自分は覚えている。 天壌無窮、忘れない。 風は優しく。空は遥かに。 |