逢魔が刻。
 遥か彼方までも波打つ緑の草原に立ちつくし空を見上げると高く高く吹き上げる東風に千切れ雲が怖いくらいの美しさで流されていく。届きそうなほどなのに、決して届かない積乱雲の果ては、誰が見ることも叶わない。常は真っ青の高い空が視界の全てを埋めるけど、もはや深い藍色に変わりつつある上天には陽が支配する刻の終焉を告げていた。
 地平線が闇に沈む瞬間、世界には夜が訪れる。
 この世界の夜の訪れは同時に神々の訪れでもある。






宵闇の降りるとき






 「千尋!」
 いつも優しい、けれど時々厳しい彼が、鋭い声で少女を呼んだ。
 仕事の始まる数刻前、どちらが誘ったわけでもないが何となく外へと散歩へ出た。営業時間外のことではあるが、何を言うわけでもなく自然に寄り添っていたりするから、彼らを良く知る本当に一部分の人々は、呆れたように見やってくる。特に、この竜の青年の普段を知る人々には。千尋にとっては何ら違和感のないことだが、周りにとっては星を飲み込むような違和感があるらしい。確かに、油屋で働いている従業員に知られたりしたらもしかしたら凄いことになるかも、とは思っているのだが。
 外に出る、と言っても温泉街は皆休業中であり、街を出れば他は何もない原っぱが、ただっぴろく広がっているだけである。
 ただ、風が吹いて揺れながら歌う碧の草切れが波のようになびく草原は地平線まで広がり、空との境目から目もくらむ様な青一色、そして流れる雲の積乱雲は何処か重そうで、薄く陰影が何処か優しい。その大きな雲の影が、草原に落ちるその様が、流れ移動していく影と雲、深い碧のその色が、彼方まで続くのを見るのは大好きだ。隣にいる人が大好きな人なら、大好きは乗算して倍加する。
 涼しい風が、心も体も爽やかに草のにおいを纏いながらさわっと遙かに吹き抜けて空のかなたに舞い上がり、再び雲を旅へと誘った。
 仕事中は厳しい彼が今は酷く安らいだ雰囲気で自分と同じ空と草の海を見つめているのが嬉しくて、自然に柔らかな笑みも浮かんでしまう。
 その雰囲気がさっと消えたのは、急速に訪れようとする夜が、世界を包み始めた直後だった。
 黄昏色に世界は染まる。逢魔が刻が訪れる。
 透き通る深さの翡翠の瞳を、空と隣の少女に交互に視線を落としていたが、一際濃い雲の影が頭上を通り過ぎていった瞬間、彼は厳しくその雲が流れた方向、風の行方を見晴るかした。和らいだ雰囲気が一瞬にして消え去って、張りつめた、酷く冷静な視線が真っ直ぐに訪れつつある暗闇を見透かすようだ。
 突然の豹変ぶりに驚いた少女が首を傾げ、可愛い顔に疑問視を張り付かせた。
 「ハク?」
 いつもならすぐ視線を合わせてくれる少女の声にも応えない。彼方を見やる瞳が、一瞬鋭く光を孕んだ。そして鋭く息を飲み、途端腕を伸ばして隣の少女の身体を浚う。
 「千尋!」
 強くハクが叫んだ次の瞬間には千尋はハクの胸の中に囲い込まれ、更にその突然の事態に千尋があわてふためく暇もなく、二人を飛ばし散らすような強い風が押し寄せてきたのだ。
 ひゅうっと耳元で風が渦巻き、足をすくうように逆巻き、二人を凄い速さで吹き抜けてはあっというまに空のかなたへ飛んでいく。
 草が耐えきれずぱらぱら千切れて、二人を強く弱く撃つ。小石や砂も混ざってくる。白い顔にぴしっと何かが当たってちりっと熱い。掠ったのは小さな石だ。それでも見据える瞳の力は欠片も揺るがず、それらが腕の中の千尋に当たる前に、華奢な身体を抱いた腕の指先が軽く印を結んで、低く何事が呟いた。呪の言霊に、風の勢いこそ弱まらないが、飛んでくる物は二人に触れる寸前に、見えない障壁と風の勢いにつぶされるようにぴしっと弾かれた。微かな音すら風の中に消えていく。千尋を庇うように小さな頭を抱え込みながら、ハクの目の前でまた一つ、小石が弾けて飛んでいった。
 いつもは優しいばかりの声がどうして緊迫感に満ちて自分を呼んだのか解って、声も出せないような強風の中で白い狩衣を千尋は強く掴んだ。こうなることをハクは知っていたのだろう。
 軽い千尋の身体など浮き上がって飛んでいって仕舞いそうだ。言に足下から地面が離れ掛けたが、そのたびにそれ以上に強く、腕の中に抱き込まれ、ハクは身体を盾にして千尋を出来るだけ風下の方へと庇った。
 目も開けていられない。それでも何とか認識できる視界には、白い狩衣の肩越しに見える不思議なほど透き通った空とぐんぐんと追い越し遠ざかる雲。落ちる影も、藍色の黄昏と染まって酷く暗い。
 夜が訪れる。空の色は深く蒼になり世界は夜に染まっていく。
 ぱちっと背中で何かが弾けて、途端深い碧にも見える黒い長い髪が広がった。風に翻り流される。
 髪を留めていた紙縒が弾けたのだ。
 背を覆った髪が荒ぶる風に流される。
 思わず、舌打ちするが、強い視線も千尋を抱く腕の力も変わらない。
 暮れゆく空に雲は流れ、草は果てまでも波打ちさざめき風が真っ白い狩衣の裾を激しく靡かせた。強く口を惹き結んで、絶世の美貌も翡翠の瞳も、何かを見極めるように視線を離さない。はためく髪にたとえ視界を遮られようと、腕の力もゆるまない。


 いつもながら、この世界は夜の訪れが突然だ。今空が青かったのに、瞬きをしている合間に空は蒼になりしんとなる。煌めく星が雲の影に身を潜め、雲は自らの影を深くして身を潜める。
 夜に影があるのは不思議な感じだ。だが、夜の闇は完全な暗闇ではない。
 しんとした夜更けに出る雲と風、月と星、落ちる影は全てが蒼く、切り抜いたような黒さで綺麗だった。
 やっと風が緩くなり、少し強い風、といえるくらいまで落ち着いてからハクはやっと腕の力を弱めた。が、華奢な少女の身体に回った腕は完全に融けることはない。まだ油断はしないのだ。いつでも腕の中に戻せるように、守れるように、備えは怠らない。こうしているのが好きだから、と言う理由には反対は出来ないが。
 きつく抱きしめていた性なのか、吹き荒れる強風のせいなのか、ぷはっと詰めていた息を吐きながら、千尋が小さな顔をハクの胸から上げた。
 幾度か深呼吸を繰り返し、茜色から夜色に素晴らしいグラデーションの果てに降りた夜の空気を思い切り吸い込む。そこにはいつの間にか潮の香りが混ざっていて、ひょいと腕の中から彼方を見やると、地平線は水平線へと変化を遂げていた。草は川に沈み、河は海となり、海は波の音に沈む。凪いだ気配は酷く静かで遠くで聞こえる水の音が優しい。夜の訪れと共に出来たこの海から、神々がやってくるのだ。
 ふうとようやく落ち着いたのか、唐突に起きた出来事を一応頭の中で理解してから、千尋は上を見上げた。白い顔が月明かりの下でひっそりと咲く月下美人のような風体だ。服装が、白いから、と言うのも拍車をかけていた。
 あまりの近さに思わず動揺しそうになりながら、それでも首を傾げた。
 「ハク、大丈夫だった?」
 突然の事態の説明を聞くより先に、自分の心配をされてしまって綺麗な顔が苦笑する。さらりと乱れてもまっすぐな髪が白い肩を滑った。
 「平気。これでも一応竜だから、風とは相性がいいんだよ」
 水に属する性質ではあるが空を飛ぶ力故、風と相性はいい。それに一応神の端くれだ。こんな事くらいではどうこう成りようがない。
 「千尋は?痛いところとかないかい?」
 「ううん、無い、ハクが守ってくれたから」
 そういいながらも、小さな手のひらが片方だけ狩衣から離されて、白い頬に伸ばされる。綺麗な顔に触れる華奢な指先に、好きのない翡翠の瞳がそっと和んだ。
 「平気じゃないよ、怪我している」
 白い肌を走る朱線は綺麗な顔に痛々しく、千尋の瞳には映った。
 「すぐに治るよ。心配要らない」
 竜は治癒力が高い。それ故、竜の血を浴びたり、生き肝を食らったりすると永遠の命を得られるなどとヒトにまで伝承が残るほどだ。
 軽く小さな手のひらに、頬を寄せる仕草をしながら安心させるように、ハクが笑うと、千尋もやっと納得して小さな手のひらを引っ込めた。
 どちらが痛いのか、解らないようだった千尋の瞳が和んで、少しだけハクの笑顔に応える。それでも完全に憂いが拭えることはないけど。
 ハクは自分を庇って怪我をしてしまった、その事実には変わりないのだ。
 ハクの手のひらが千尋の髪をふわふわと撫でる。慣れた仕草に深層心理が落ち着いてきて、やっとこの状況を聞こうと思えた。
 「ねえ、今のはなあに?」
 軽く首を傾げると、結び上げられた髪がふわんと軽く揺れていた。ハクの手のひらをくすぐっていく。
 「神が来たから」
 八百万の神々が、傷つき疲弊した心身を和らげに来るこの世界、その温泉街。
 風はもう、いつも通り柔らかく静かだ。涼しく二人の髪を揺らす。解けた碧の髪の毛をそのままに静かな声が告げると、千尋は不思議そうな色を瞳に浮かべた。その色の意味が解って、微かに首を振る。
 今まで何度もこの世界に夜が訪れる場面を千尋は体験し見つめてきている。自分ほどではないとしても、重ねた日々は少なくない。まさに初めての邂逅で、この草原近くで二人揃ってのこの世界の夜を初めて迎えたが、神々の訪れと黄昏と、同時に吹き荒れる強風はあの時は確かになかった。この強風が神の訪れと共に在るというのならば、何故あの時はなかったのか。
 視線だけで何を考えたか大体解るようになっているこの少女の疑問に、ハクは応える。静かな夜に静かな声が響いて風と過ぎていく。
 「強い力の神が来たんだ。格も高く、そして長く生きている、未だに信仰の薄れない神が」
 人間の思いこみは人を変え、心を変える。精神の持ち方次第で人はいくらでも変わっていく生き物だ。それは偏に、想いの強さにあるのでは無かろうか。人の思いは力だ。信仰は想いそのもの、畏怖、敬愛、そんな心が多くの人の心に宿り、古くから絶えることなく続けられた。
 信仰から力を得ない神もいるが、殆ど、多かれ少なかれ、人と神は影響しあうのだ。遙か高見の存在だけれど本当は何より人に近い。
 「そういう神が不安定なこちらとあちらを結ぶ道を通ってしまうと、世界が揺れる。時々荒れる。だから風が起きたんだ」
 そうか、と素直に肯く。余り難しいことは良く解らないけれど、力の強さに敏感に反応した世界が吃驚してしまう、と言うことなのだろうと思っておく。違うかも知れないが、多くは外れていないだろう。
 そこではっと千尋は気が付く。そんな強い神様の来訪に、神々の憩いの場、油屋を仕切るこの青年がいなくて良いわけがないのだ。自分にも仕事がある。契約と報酬の代わりに、責任があるのだ。
 夜と同時に油屋は戦闘態勢、湯婆婆いわくの商売人の腕の店藍が始まるのだ。
 風の訪れと去り際と共に、世界は夜に満ちている。
 「大変、戻らなきゃ!」
 ばっと途端慌てたように千尋が視線を彼方に向ける。此処からは見えようもないが、そちらの方には確かに油屋があるはずだ。油屋の中で特殊な存在の自分たちなのに、そんな大物――つまり上客――の来訪なのだ。湯婆婆に二人の不在がばれていないはずがない。
 くるりと鮮やかに変わった千尋の表情に可笑しそうにわらいながら、そうだねとハクは相槌をうった。それでも、かの神が来た際の力と世界の均衡の歪みに巻き込まれたのだと言えば、不可測の事態として咎めは免れることだろう。
 柔らかく華奢で温かい、少女を腕から手放すのはかなり悔しいけれどその気になればまたいつでも出来ることだ。
 ふわっと頭を振る動作は獣のそれで、さらりとさやかな音を立て、長い髪が滑り落ちる。
 竜に変化するその一瞬、直前に小さな暖かさが頬に触れた。
 あの頃は同じくらいの視線だったのに、いつの間にか合わなくなった視線を思わずその融ける温度に釣られて向けて、真摯な瞳と出逢った。
 「髪、ばさばさだね」
 紙縒で後ろに一つに束ねていた長い髪は、今は風に吹き散らされたまま乱れてほつれてしまっている。それでも細い髪はさらさらで綺麗なままなのだが。さらりと小さな手に黒髪を梳かれるのが気持ちいい。
 「そう簡単に切れるのじゃなかったんだけどね」
 「紙なのに?」
 ハクの髪をまとめていたのは紙縒だ。結び方が特殊なのだといえ紙には強度の問題で著しく下がるのではと、自分の世界を知る千尋は思う。
 「あれは封印みたいな物だから」
 髪の毛には魔が宿る、と伝えられるがそれは本当のことだ。特に女人はその傾向が強い。髪は女の命、とはよく言った物だが神の御髪となるとその意味はいっそう強まる。ハクにとっては鬣ともなる。だから安易には短くできない。それに、鬣は力の象徴のような物の一つでもある。強い力を持つ神は存在だけで他を圧してやまない。或る程度は何らかの方法で強い神は力を押さえる。自制だったり、暗示に頼ったり、禁忌を定めたり、封印に頼ったり。
 元々竜は力が強い。寄り代を失ったが、半身をえぐられても本質は変わりない。竜は竜だ。それでも、一時期存在すら危うくなった自身を留めるために新たに得た力、その力を磨くうち、元の力と乗算し、ハクは封印を自らに施した。強すぎる力は周りを歪める。
 従業員のためだ。ただでさえ威圧する様な役職なのに、これ以上相手に警戒されては仕事もやりにくい。何事も程々が一番だ。
 人間である千尋のためでもあるのだが、彼女の場合幼い頃未熟だったとはいえ本来の力を持った自分と出逢っているからなのか、生来の気質なのか、やたらと力に免疫が強い。封印が解けた今は自制で力を押さえているとはいえ、さっきの力を使っている状態でも千尋に何の影響もなかったのがその証拠だ。全く、油屋で働くのにこれほど都合のよい体質はない。
 この強風に弾けたのか、押し寄せる力の奔流に弾けたのか解らないが、先の程度の術を使うくらいでは融けることはないだろう。その位には頑丈だ。
 融けた紙縒は風に吹き散らされ呪も消えただろう。今はもう無い。
 「そうなの?」
 良く解らない、と言ったように千尋が首を傾げるが詳しくは説明しないで、ハクは少し笑って肯いただけだった。
 「さあ、そろそろ行こう。リンも待ってる」
 「うん」
 姉貴分の同僚の名を出されて、今度は大人しく同意したが、それでも何だか決まり悪げだ。何かを迷っているらしい。
 不思議に思って千尋?とハクが声を掛けたとたん、小さな爪先が背伸びした。
 そのまま、白い頬を走るひんやりとした肌に柔らかな感触が触れて、離れる。
 ぺろっと舌先で傷口を嘗めてすぐに千尋は顔を離した。白い狩衣を精一杯握り締めて、耳まで真っ赤にしながら俯いてしまう、けれどその前にちらりとハクの翡翠の瞳を捉えて確かに呟いた。
 「ごめんね、ありがとう」
 自分のせいで怪我をさせて、ごめん、と言う意味。
 守ってくれて有り難う、という意味。
 いつもは全くの逆の立場が不意に逆転し、思わずハクが動きを止める。見つめる翡翠の視線に、俯く千尋は気が付かない。それどころか、未だ自分はハクの腕の中にいるのだと気が付いてしまい、今更ながら慌ててしまった。
 「行こう!ハク」
 「千尋」
 「な……」
 に?と言葉は続かない。
 強く抱き寄せられた一瞬のことだ。その一瞬、思わず千尋は絶句して、首筋まで赤くしてわたわたしたが、竜にがっしり捕まえられてて動けるはずもない。さらりと流れる黒髪に、小さな少女は覆い尽くされた。
 さわりと波打つ草陰に、小さな影が落ちていく。世界は蒼く包まれて、深く夜に抱かれながら。吹き往く風は遙か彼方へ。
 月と星、夜を泳ぐ竜が、細波の遙か上空を過ぎていくのはもう暫く後のこと。




映画感想について沢山あるけれどただ一言。触りすぎ。ハク様千尋に触りすぎ。 そう突っ込んでいたのは私だけなのだろうか(遠い目)