記憶の果て 想いの彼方



縛られていた。
身動きすら出来ずに。
喪っていた。
何を喪っているかすら知らなかった。

心は病んで身体は蝕まれこのまま何の役にも立たず望みもしない行為と、もはや束縛の証でしかない契約の果てに飛ぶことは二度と出来ず、朽ち果てる道しかないのだと思った。

ヒトの子は突然現れた。此処がどんなに、人間に都合の悪い世界であるか知りもせず、無知な少女が迷い込んできたのは偶然だったのだろうか。
幼げな顔に困惑と少しばかりのおびえを混ぜて、戻れと叫んだ声に背を向けて小さな足音が戸惑いがちに遠ざかる。
元は人を守護する神だったこともその時は忘れていたのに、何故かその少女をあの魔女に渡してはならないと、守らなければならないのだと心の中で何かが叫んだ。
懐かしいのは水の記憶。
弾ける水泡と激しい濁流の流れと、反対に何の音も届かないあの世界。
くるくると翻弄される小さな身体を受け止めて水の流れを操って少女を乗せたあの日のこと。
名前は?
そう聞いたとき、更に幼かった少女はなんと言っただろうか。
真名と同時に、全ての記憶を失っていったはずなのに、記憶は忘れることはないのだと思い知ったあの瞬間。ただ、思い出せずにいるだけで、喪ったわけではなかったと気づいたあの瞬間。
その記憶の欠片が何処でどう、魂に刻まれたかすら解らないのに不思議なほどに鮮やかに、ずっと心の中に残ってた、少女の真名をよんでいた。
自分の名前すら忘れていたのに、彼女の名前は決して忘れていなかった。

同じように、少女も忘れていなかった。
彼女自身、名を奪われ忘れかけていた真名を彼に示されたように、彼女もまた彼の真名を思い出してくれた。
闇の中で訳も分からず震え、脅え、当たり前の寄る辺となる二親を失って膝を抱えて、存在すら消えかけていた、ただ、守らねばならないと決めていた少女に、救われたことにどうしようもなく胸が熱くなって。
果てしなく自分をさいなむあの狂いそうな痛みの中で、人の子ならば恐れて当たり前の竜の姿の自分を抱きしめてくれて、何度も名を呼んで、呼び戻してくれた、救ってくれた彼女のためなら、たとえあの魔女に八つ裂きにされようが少女の望みを叶えたかった。両親と無事、元の世界に戻してやりたいと願った。
右も左も解らない世界で、何の力もない彼女は庇護されて当然の存在だったはずなのに、助けて貰って。
望みを叶えるためならばどんなこともしようと思っていたのに、自分の本当の名すら、彼女は自分に与えてくれた。本当の自分を、覚えていてくれた。
守られるだけの存在ではないことは、あの途方もなく続く魔女の拘束と苦しみを終わらせてくれたときから知っていたはずなのに。
嬉しくて嬉しくて、涙がこぼれた。
守られるだけの、何の力もない少女ではないけれど、守りたいのだと心底願った。

両親を選べと、魔女に告げられ一人で橋の向こうに歩いていく彼女を見送る背中には何の不安もなかった。固唾を呑んで油屋じゅうの目が少女の一挙一足に注目する中彼だけは確信をしていた。
彼女は間違えないと。
純粋で、無垢で、それを頼りなさでなく強さに変える術を彼女は確かに持っているから。
魔女の契約書が消滅し、わっと快哉が弾ける中、また同じように手を握りあって走り出した。


手を、はなしたくないのはどちらにとっても同じで。
けれど離したのは、きっと互いが前へ進むため。
それでもただ別れるのは心がさけるほど辛いことだったから。
約束をした。
また逢えるからと。
握り締めた幼い手は指先が離れるのを惜しむように、最後までふれあったまま分かたれた。

振り向かないで、と言えば、背を向けて走り去る瞬間まで、真っ直ぐ目を逸らさずに翡翠の目を心の底に焼き付けるように瞳が彼に向けられた。
ぐっと唇を噛み締めて少女はきびすを返す。
真っ青な空には何処までも広がる流れる雲と草いきれ。緑色の草原の中に消えていく二度と振り返らない小さな背をいつまでも見送っていた。
空の青さを改めて知るように。
空っぽになった心の中にはただ暖かな想いが広がって、切なさとともにありつづける。

しおれてしまった白い花束を抱いて、柔らかい髪をまとめる、きらきらとした紫色の不思議な髪留めに触れながら。
同じように静かな心で、空っぽの心に空の青さを焼き付けるように、少女はトンネルの向こうで振り返った。