がた、といささか乱暴な音がして落としていた視線を上げるとさらりとその漆黒がゆれた。細い髪質はどんなに邪魔にならないようにしても、癖がないことが災いして何度も同じように視界を塞ぐ。わざと前髪を伸ばしているのだから仕方がないとは言え鬱陶しいことこの上ないのだ。
デスクの上に散らばったアルファベットのプリントアウトを視界の中で確認し、ひらりと一枚を脇へ寄せる。添削に使っていたペンを片手に持ったまま、デスクチェアの上から綺麗な顔が無表情のまま後ろを探るために振り返ろうとした。そのときだった。
がし、と筋の綺麗な首に腕が回される。そのまま抱きつかれるように体重をかけられ思わず体が固まった。
そこを見逃すような甘い相手ではなかったのが彼にとって不幸だった。そのまま有無を言わせず抱きついたままデスクチェアから彼を引っ張り、部屋の隅のベッドのほうへと首を引っつかんだまま倒れこむ。ばさりとほこりの舞う音と、薄いブランケットの端がひらりとひらめき落ちていくのが思わず眇めた瞳の中に移りこんで消えていく。
「っつ、ジーン!」
いきなり押し倒された少年は絶世の美貌に不機嫌さを色濃く乗せて、未だ後ろに引っ付いたままの自身の兄へとげのある言葉を投げつけた。
「お前、何……取りあえずどけ!」
どけ、とは実に乱暴な言葉だったが頭の上の兄が、がしっと掴んだままの腕は未だ首から解かれず、横倒しになった体制のまま、柔らかなベッドの上で力ずくでとにかくそれだけは離そうと彼はもがいたが、両腕で持ってしっかりと抱きつかれた自分の体型と全く変わらない人物に、上からのしかかられたままなのだからはっきり言って大変不利だ。
「眠い…………」
「は!?」
「煩いよナル静かに……僕眠いんだから……」
じたばたと暴れる弟に一切かまうことなく、ベッドの上で起用に抱きついた頭を抱え込んで寝ようとする兄に、一瞬弟の毛が逆立った。
ばちん!
青白いライトニングの明滅の後で、激しい静電気にあったように手のひらに鋭い痛みが走る。
「っつ!」
たまらず兄は身を固くしたが、それでも腕は離れない。
「痛いよナル!っていうか力使うの駄目だって言っただろう!……ああ眠い……」
「故意に使ったんじゃない、条件反射だ!眠いなら自室で寝ろ、ここは僕の部屋だろう!」
「って、条件反射って酷いなあ……」
だが確かに、実の兄弟に、しかも同性に押し倒されたら条件反射で手(この場合は手じゃないが)が出ても押し倒したほうに文句は言えないだろう。もし自分が同じ目にあったら、迷わず同じく手を下すはずだ。もっとも、この弟が自分と同じように抱きついてくることなど地球が逆転したとしてもありえることなど無いことなのだが。
兄の口調はいかにも眠たげでぴくりと弟の眦が引きつる。勿論そんなところを兄は見えない。
「……ジーン」
しん、と絶対零度の触れれば火傷をおこす声。凍れる雰囲気が彼から放たれるのが解る、けれど兄は勿論そのことに慣れているのだ。でなくては彼と兄弟などやっていられない。
「なんだい?」
「出て行け」
「うん解ったお休み……」
解ってない。むしろそのまま彼は眠る気満々だ。ぷつりと頭の中で何かの配線が切れた。抱きつかれたままの体制にかまわず、無理やり腕を振り解くと体を起こして引き離す。上半身を意から任せに引き離しながら肩やら胸やらを体重かけてわざと肘で踏み潰して報復を済ませた。
「っナル、ちょ、痛い」
勿論痛くしているのだから当たり前だ。ついでとばかりに枕元におきっぱなしになっていた、古い紺の表紙のハードカバーを綺麗な指が持ち上げた。500ページはあったはずの本の角で容赦なく頭を狙う。
さすがに身の危険を感じたのかごろりとやっとジーンが離れて転がっていった。
「……殺す気?」
「因果応報という言葉を知っているか」
「過剰防衛って言わないかな?」
「防衛じゃない、報復だ」
じゃれ付くことはよくあるが、そのたびに絶対零度のブリザードを食らう事にも慣れた。何しろ生まれた時から共にいる片割れなのだ。慣れなければやってられないし、弟自身もいきなり抱きついてくるのには今はかなり慣れたようで全力で鬱陶しげにするのだが、諦めた様子も多分に含まれるようになった。が、今度は本気で怒らせたらしい。少年期にありがちの不安定な高さの声は、その年齢からは普通は感じられない冷静さが宿っている。普段から子供らしからぬ落ち着きを持つ弟は、今は絶対零度の不穏な空気を身にまとって決定的に兄を排除にかかったらしい。
「本を大事に、って言ったのナルだろう」
「それはお前が僕の本を枕にするからだろう。それに安心しろ。屑論文だった」
とん、と本の装丁のふちを綺麗な指先が叩いていく。
年若い少年に完膚なきまでに、たった一言の元ばっさりと切り捨てられた本の内容は、彼にはお気に召さなかったらしい。
ベッドの上に座ったまま真っ黒な瞳が冷機を宿してポーカーフェイスで見下ろしてくるのにため息をついた。
「つまり、何も気にせず惜しむことなく、凶器に使えるわけ?」
ころんと上掛けのブランケットの上に横になったまま上を見上げると手にした本に目を走らせた弟が居た。
先ほどのじゃれ合いで(弟にとってはただの一方的な障害物でしかなかっただろう)乱れてしまった前髪をさらりと無造作にかきあげると、一瞬その綺麗な顔があらわになって、また落ちてくる髪の毛の向こうにその瞳は翳ってしまった。
「してほしいか?」
「遠慮する……眠い」
それまで何とか普通の声で話していた声のトーンが一気に眠気に落ちていく。窓から差し込む明るい光に微かに目を眇めて乱れた髪をかきあげた仕草のままぱたりと手のひらがしわだらけのブランケットに落ちていった。
「一昨日からね……寝てない……眠い」
「一昨日?」
人一倍の眠たがりの珍しすぎる発言に、心底訝しげな色にその綺麗な顔を染めた。
「数学と、化学と……歴史?それに他の教科のテストと…日程間違えちゃっていて、勉強しなおしだったんだ……」
「間抜け」
嘆息と共に再びばさりと切り捨てられる。ひらひらと手を振る様子も力がない。
それにしても珍しいのは徹夜してまで彼が勉強に時間を割いたことだった。
特にやらなくても学校の勉強に困ることは弟にはなかったが、興味のある方面の勉強は殆ど趣味ともいえたので弟の成績は素晴らしくいい。兄も似たようなものだが、彼には好きで勉強する趣味が弟ほどになかった。が、どちらも得にやらなくても平均以上は普通に行くのだ。その兄が睡眠を削ってまでやるというのは異常事態に他ならない。
デスクの上でカレンダーの細い銀色のスタンドが光る。シャープな陰影に白いカレンダーのカードをはさむタイプのものだ。
もう既に学期末で、あと数日の登校が終われば待っているのはロングホリデイだ。
それで納得する。
彼はこの国を出て、たった一人で長い休みを海外で過ごすことになる。休みの間中居るわけではないだろうが、数週間の日程は既に組まれていて、そこに行くことは決定していた。兄を信じてはいても養父母に心配をかけることはやはり疑いようもない事実で、それなら今は彼らに自分の『隙』を兄は見せない。自分達の養父母が、学校の成績を特別に気にする人ではないものの、少しでも心配をかけまいと。心配の火種を減らそうと。
「でね、ここで寝ていい?一緒に寝てなんていわないから……」
「言ったら蹴倒す」
本気を込めた言葉ににこりと笑った兄が、同じ色をした不思議なほど黒い瞳を瞬かせた。眠そうながらも同じ顔は変わらない。驚くほどに互いの雰囲気は違うのだけれど。
「凄く疲れたから多分一人で寝たくないんだ」
透明な、穏やかな笑顔だった。
さわりとした風が窓ガラスをかたかたと叩いていく。さわりと庭の緑がうたってさわめく音がする。
ほんの一時、横目で兄を見下ろして弟は不思議な沈黙をした。
「夕食に起こして欲しいから一人で寝ないだけだろうが」
「今日はグラタンだってさ」
その言葉を全く否定せずに上機嫌でくるりと皺だらけになってしまったブランケットを持ち上げてくるまる。
ひらりと柔らかな布の端が少しだけ頬にかかって滑っていった。
「おやすみ」
「……」
白い瞼を眠たそうに瞬かせて、ことりと兄は眼を瞑った。そのまま呼吸が穏やかになり、あと数分もしないうちに眠ってしまうことだろう。諦めのため息をつきながらベッドから立ち上がると、微かにスプリングがきしんだ。
そのままデスクにとって返そうと枕元に元のように本を投げ出しながら顔を上げると、きらりと窓辺の日の光にまぶしく目を射られる。寝転がる兄と硝子の向こうに好ける風景とを交互に見やった後、諦観のため息を吐きつつ窓辺まで歩いていって薄いカーテンを引いてやった。しゃっと掠める音と共に、煌く白と金の日差しが、薄い影へと静かに転じる。
痩躯の後姿を眺めて、口元だけで兄はベッドの中で微笑んだ。
「ありがとう」
その声は完全に黙殺することにした弟は、今度こそ背を向けてデスクチェアへと向かっていく。兄に引きずられたときにそれはころころと中途半端にフローリングを滑ってしまって、デスクから少しはなれたところで寂しげに主を待っていた。
疲れすぎたときは一人じゃないほうがいいのだ。魂を預けられる人のそばで静かに眠ったほうが、きっと疲れは取れるし明日はまた元気に笑える。本当は一緒に寝て欲しいけれどそしたら今度は命がないと思われるのでそこら辺は諦めた。それに実の弟にこの年齢で頼んだら、取りあえず世間的に問題があるだろう。
疲れを癒すような窓の外の風のざわめきを聞きながら、今度こそ深い眠りへたゆたう。
社会人さん、学生さん、受験生さん、苦しんでる方、大変な方、辛い方、一緒にめげずに頑張りましょう。
螺子が一本、外れていたのだ。
"Eat me!"
その紙切れにはダークブルーのインクで、見慣れた筆跡が綴られていた。誰もがどこかで子供の頃に、見たり聞いたりする有名な文句は、小さなカードの中に納まり、行儀良くきちんと端座している。かしゃん、とリターンを押した直後、思わず彼はその手を止めた。
柔らかく揺らぐ紅茶の薫りはふわんと空気の流れに乗ってブレイクタイムを促している。ブラインドから零れる光に透き通った水面がスペクトルを散らして煌めいた。
白磁のティーカップはシンプルな流線型のデザインで、触れる手触りがどこか優しい。お茶の時間ごとというわけでもないが、時々温かな紅茶だけでなく僅かばかりのお供が付く。お茶請け代わりの小さなお菓子や仕事片手に摘める程度軽食が主だ。が、今回は如何やら趣が違う。ティーカップとセットの小皿に乗せられているのはマッチ箱程度のペーパーボックス。カードに書かれたインクの色彩と丁度合わせたかのような、濃い群青にシックな銀糸のリボンがかかったほんの手のひらに乗る程度のものだ。
……また何を企んでいるのやら。
秀麗な眉根が微かによって、漆黒の瞳が胡乱な色で視線を送るがそこにある事実はいくら見つめていようとも、変わるものでもないものだ。
丁度切りの良い時に、視線を上げてしまったのもまずい。暫しの観察の後に、時間の無駄だとため息をつきながらも彼女の仕掛けてきた何かに乗ることにした。
銀のリボンをするりと解いて、ボックスのふたをぱかりと開ける。長い指がはらはらと指から銀色のリボンをデスクの上に落としながら、ボックスの中を検めると、ちょこんと品良く並べられた小さな黒と、白のそれが一つずつ、収められていたのだ。
二月十四日のチョコレートは高い。綺麗にされた包装や、少しずつ凝った内容のせいで、普段のチョコより二割り増しは高い。ただそれは、一晩たって日付が変わると、丁寧に棚に並べられたカラフルな大小の箱たちは、一気にワゴンに乗せられて、隅のほうへと寄せられる。勿論値段は比べ物にならないくらいに安いのだ。
今年はバレンタインも何も、自分には関係ないだろうと思っていた。何しろ上げる相手は甘いものが苦手な上に、ただ今切羽詰りまくっているのだ。
ちらりと壁にかかっているカレンダーを色素の薄い鳶色の瞳が一瞥した。さらりと首の動きに従って栗色の髪も一緒に揺れる。
ナルのコンピュータがブラックアウトし、曰く『里帰り』、もしくは『強制送還』なるものをなされてから既に三日がたっている。突然のことだったのだ。全く何の理由も解らず、ぷつんと切れてもう終わり――全く電源が入らなくなった。これでは中にバックアップをとっていても、電源が入らなければデータを取り出すことも出来ない。勿論修理することも不可能だ。思わず鋼鉄の美青年が本当に凍り付いて、ソファの上で動けなくなるのを麻衣は見た。それもそのはず、ただ今このオフィスの誇るメカニックは英国に仕事で里帰り中で、急遽診てもらおうにも術が無い。その上原稿の締め切りは、既に片手で数えるほどには日数が無いときてるのだ。ソフト面での故障でなく、ハード面での故障ならますます手におえない。しかもその可能性が高い。何かの部品が故障してれば、どう考えても、メーカーへ送るしかなく、この素晴らしいまでの故障っぷりでは『里帰り』は免れない。
彼の行動は素早かった。自失状態から即座に立ち直るとこちらが怖くなるような、絶対零度の冷気をまとって即座に海外へと国際電話。メカニック専門の部下と、無敵の上司となんらかなのやり取りが会ったらしいが特に後者のほうはあまりに怖くて麻衣は聞いていない。ただ一言、無茶な日程を押し付けてきたのはあちらだからそれ相応のリスクは負ってもらうと微笑みつきで言った黒髪の美青年に、海の向こうへと深く同情の念を送ったのだ。
試せることをすべて試した後、どうにもならないと見切りをつけると即座にメーカーに強制送還。後、休日返上でオフィスに籠り事務員の応援を急遽要請。
白紙になったのは原稿だけではない。コンピュータの中にあったデータベース化されたものすべて、電子の彼方に塵となり、手の届かないものとなった。再びの情報など諸々、人手が入用となったのだ。いつもなら彼の助手である調査員がやることを一手に引き受けながら、こちらも勿論休日を返上してやって来てくれた実に有能な青年は、彼女から事の顛末を聞かされ思わず一瞬絶句した。それというのも、上司からの電話は彼のそのときの精神状態も勿論あっただろうが、いつも以上に愛想と情報と人間味が欠損していたから、訳など知らされぬままだったのである。
思わず眼鏡の向こうの知的な瞳が遠い目をして、ため息をつく。
「それは……恐ろしいですね……」
この場合、コンピュータを使う者として突然それまで積み重ねてきたデータを消失する危険性が恐ろしかったのか、自身も学生として論文執筆と縁が深かったからなのか、かの上司の機嫌を考慮し、絶対零度のブリザードを危惧したからなのか、実に曖昧で、何が恐ろしいのやら、麻衣には終ぞ分からなかった。
オフィスのデスクトップのパソコンに論文のデータが少なかれ、残っていなかったらと思うと本当に怖い。バックアップを一台だけで取っていなくて良かったと取りあえずほっとしたものであるが、それでも半分近くは消えていて、時間が無いのには変わりなかった。
まあそんな訳で、バレンタインなどという雰囲気とはかけ離れすぎた日々を過ごしているわけなのだが――そう、わざわざこんな時に彼があまり得意としない甘いものの代表格のようなチョコレートを贈るなど自滅行為とはっきり言って相違ない。
それでも、今日の電車のラッシュを抜けてやっと降り立った駅地下で、ワゴンに詰まれた彩りも賑やかなチョコレートを目にすると、まず節制生活で身に付いた値段の安さに目が行き、次いで先日のテレビの特集を思い出す。よって購入となったのだが――。
「やっぱり、嫌がらせでしかなかったかな」
ぽつんと呟きついでに溜息をつく。かしゃんとティーポットの中の使い切ったお茶っ葉を水と一緒に流してしまうとオレンジペコの残り香がふわんと辺りに広がった。すぐに流れる水の中にかき消されていきながら、シンクの中に散らばった残りの葉っぱに水をかけて綺麗に落としておいた。洗い終わったポットの水気を軽く切り、水切り籠の中に丁寧に置くとかしゃんと高く陶器の音が一人きりの給湯室の中に響いた。
肩の辺りまで伸ばした栗色の髪を今は後ろでひとまとめにする。さらりと残った後れ毛がうなじの辺りで揺れていた。
捲り上げた袖を戻そうとしながら小さな足がターンを踏んでくるりと出口のほうへと向かう。伏せた鳶色の瞳がふと前方に落ちた陰の中に入って、何気なく顔を上げる。
「――何が、嫌がらせなんだ?」
絶対零度の凍れるテノールが狭い空間に、奇妙に明瞭に、しん、と響いた。給湯室の丁度出口に、黒衣の痩躯が寄りかかり腕を組んで立っている。さらりと無造作にかかり落ちた眺めの前髪が一見物騒な漆黒の瞳を隠しているが、その下の視線の鋭さは最早疑いようも無く、あまり広くない給湯室の中、彼が落とした影の中で途端少女は硬直した。
後ろで一つに縛られた、解こうとした栗色の髪は中途半端に伸ばされて、そのまま凍りつき空中で止まってしまった手の先で、さらりと空気を孕んで揺れる。
「………………………………………………
………………………………………………
………………………………………………
……………………………しごとは?」
いつの間にそこにいたのか、全く何の気配も物音も感じなかった。息を呑むほど驚いたが、次の瞬間凍りついたのは、紛れも無くかの人が放つ冷たすぎる気配のせいで。
たっぷりと、数人ぶんは沈黙した後何とかソプラノの声が固まったままの表情で、どうにか返事を返してみる。
「勿論、まだまだ終わってませんが」
まだまだ、というところに微妙なアクセントが付けられた気がする。
にこりと絶世の美貌が、酷い不穏さを孕んで笑う。そう、笑う。この世にこれほど怖いものがどこにあろうか。
「愚問でした……」
上げたままの手を下ろせもせず、固まったままの麻衣が身動きないでその漆黒を見上げた。
彼女のシックスセンス、主に直感などだが、人のそれよりは鋭い。特に危険に関しては彼女の上司もお墨付きの鋭敏さを誇ってるのだ。その第六感がひしひしと危険を伝えてきているのが麻衣には良く分かっていた。いや、例え彼女じゃなくとも、この彼のそばにいるのはどんなに鈍感な人であろうと遠慮したいと思わざるを得ないだろう。拳をまわして力説できる程度には現在のナルの存在は不穏だ。
「で、これは?」
静かに見下ろす視線の先にしっかり鳶色の瞳を捕らえながら、黒衣の腕が涼しげに伸びて、彼の手のひらに収まった小さなダークブルーのボックスを鳶色の視界に映し出させた。
ぱかりと空けられた箱の中身は、モノクロームのシックな色合いでホワイトチョコとブラックチョコが、一つずつ並んでいたはずだったが今彼の手の内にあるのはころんと寂しげに転がっている黒い塊がたったの一つ。
「食べた、の?」
栗色の髪がさらりと零れる。ノーブルホワイトのフレアスカートが膝の辺りでふわんと揺れた。
「見れば分かるだろう」
身動きもせず、酷く静かで、静か過ぎて不穏な黒衣の青年は腕を組みつつ、片手を差し出したままとん、と床を爪先で蹴る。そんな仕草まで様になるから美形と言うのは恐ろしい。
口元に何とか笑みと思われるものを刻んで、少しだけ首を傾げてみせつつ、上目遣いの鳶色の瞳がかかり落ちる前髪の下から見上げてきた。
「どうだった?」
「甘い」
怖い。
偽ざる感情の全てだが、それを彼のように口にするだけの度胸も勇無謀さも、勿論麻衣の中にはない。勇気あるものを勇者と讃えるなら今彼の前でそう言える人間こそ勇者だ。
「その、う、あのね」
思考が回らなくなってくるのがしみじみと恐ろしく感じる。何を口走るか分からない、錯乱状態にだけはなってはいけない。それイコール、自身の破滅に相違ない。それでも嫌がらせなのか、と聞かれて、用意されている答えは取りあえず、麻衣には一つしか残されていないわけで。
外されもしない漆黒の瞳が突き刺さって痛い。
「昨日売ってたチョコがね、安くてね、あの大きさならね、平気かなって思ったしね、それで、テレビ見たのを思い出して」
「テレビ?」
少しだけとげを引っ込めて、その代わり訝しげにこちらを見下ろす黒瞳にうん、とどうにか麻衣は肯く。
「山で遭難してた人がチョコをかじって生き延びたってやつ」
思わず手元を見下ろしたナルが、静かに首をかしげて再び麻衣を見下ろした。
「何の番組だ?」
「九死に一生スペシャル」
きぱ、と子気味良くソプラノが帰ると綺麗な顔の青年が沈黙した。その沈黙に気が付かない振りでそのまま麻衣は先を続ける。
その間にもどうにかこの狭い給湯室という空間から抜け出せないかと考え、自分と青年の立ち居地を図る。向こうに行けば、資料室に入った安原を呼び戻すことも可能だからだ。巻き添えを食う彼には申し訳ないが致し方ない。諦めてもらおう。
「ということはね、栄養価の高い食べ物だし。倒れると厄介だし、だからね、栄養補給」
暫しの沈黙の後、深い深い溜息が上から降ってきた。来るとは思ってたが、あまりに露骨な表現のため思わず麻衣も沈黙する。
「嫌がらせとそう違いないな、僕にとっては」
「ちが、違う!だって疲れてる時って甘いもの必要でしょう!」
確かにチョコレートは必要以上に当分は含まれているし、麻衣が言ったとおり非常食にも使われる栄養価の高い食べ物だ。疲労回復の応急処置にはもってこいの物だろう。が、それは甘いものが好きな人間に限るのだ。叫んで嫌がるほど苦手というわけでもないが、好きでもない物を食べさせられるのは機嫌を低下させてくれと言っている様なものである。
「うーあー、って、いうか、ね、あー」
ぐるぐると百面相をしていた麻衣が、ぴたっと呼吸を止めてから、一気に溜息と共に吐き出し中途半端に止まったままだった手のひらでくしゃりと自分の前髪を混ぜた。華奢な指の間から、さらさらと日本人離れした、薄い色素の栗色の髪が音もなく零れ落ちていく。
「はっぴーはっぴーばれんたいん」
ぜんぜん全く、ハッピーではない状況下なので渡すのをためらっていた、というのもある。こういうイベントは大好きだが、今更改まるというのも酷く照れくさい気がしていた、というのもある。
頬を染めてうつむくと、白いうなじにさらさらと後れ毛が流れて散っていた。
「Eat me...ね」
至極有名なその文句は、カードに書かれたその一言。
うつむいた視界の中、テノールが狭い室内に低く響いた。ぱちり、と大きな瞳が瞬いて、次の瞬間その音が孕んだあまりに物騒な響きに凍りつく。
ぱっと栗色の髪が宙に散って麻衣が慌てて顔を上げ、取りあえずここから出ようと声をかけ、脱出を図ろうとするまさにその直前。
照れ隠しに手持ち無沙汰で一つにまとめた髪の毛を解こうと、伸ばしていた華奢な手首を、ぱしっと簡単に捕まえられ、心の中でひときわ大きく警告の鐘が鳴り響く。
「ナル…っ!」
いつの間にか詰められた距離を離そうと、反射的に退きかけた華奢な足でフレアスカートが風を孕んでふわんとゆれた。
しっかり掴まれた手首は離れず、いつの間にか腰に回った手が麻衣の自由を上手に奪った。
心臓の音が大きく、一つ、頭の中で響く。
振り仰いで、落ちてきた影に手首を捕らえられたまま、呼吸をそのまま攫われた。
重なった柔らかさに、掴まれたままの手首の手のひらを反射的にきつく握った。それでも捉える腕は少しも緩まず、幾度も口角を変えて繰り返される行為に眦が淡い朱を孕んでわなないた。
与えられる感触に頭が飽和状態を起こす頃を見計らって唇に柔らかく濡れた物が押し付けられる。そのまま割り開いて、その熱に殻娶られると息を継ぐのも難しくて、がくんと足から力が抜けた。捉えられた手のひらはいつの間にか下がってしまって、黒衣の肩にすがりつき、切れ切れの呼吸は切なげな熱を帯びる。
唇と唇の間を縫って、何かが押し込まれたのに朦朧とした頭で何とか気が付いたけれど、何の抵抗も出来はせず、それが酷く甘く、苦い何かであると分かっただけだった。
「ん、は……んん!」
最後の力を振り絞って精一杯首を振るがしっかりうなじに手をまわされて身動きすりこともままならない。髪留めがするりと引っ張られて、風をはらんで栗色の髪がふわりとうなじに落ちてくるのを最後に、やっと影は麻衣から離れていった。
ナルに解かれた髪の毛がほてった肌にまとわり付く。けれど払う気力もなく、くたりと黒衣の方に麻衣は額を預け、口の中に押し込まれた何かの塊を何とか飲み下した。
「甘い」
酷く近い場所から聞こえる声は、その音の振るえまでが体に伝わる。どくどく鳴ってる心臓の音と、うるさい吐息とどちらともで頭がいっぱいで、体に響くような距離から零れたテノールの声に、やっと今、自分が飲み下したものが甘い御菓子だった事に気が付いた。
そして今更ながら、自分が何をしたかも。
このオフィスには今現在自分達以外の人間がいるのだ。人前や人の居るところで触れるのを好まないナルがまさかこんな行動に走るとは、追い詰められた精神とは何をしでかすか分からずはなはだ恐ろしいが、あまりのことに飽和状態だった麻衣が涙目のまま勢い良く、力いっぱい平然とした漆黒の瞳をにらみつけると、顔を上げた勢いでぱっと栗色の髪の毛も浮く。
「……仕事は!?」
暗にこんな事している暇があるのかと叫ぶが、もちろんナルは痛くも痒くもないらしい。
「切りの良い所までは何とか終わらせた。何とかする」
ソプラノがそれ以上、盛大に文句を言う前に、綺麗な長い指先が、ぴっといつの間にかカードを挟んで麻衣の目の前に示して見せた。”Eat me!”と小さな
少女を誘った文句が。勿論、書かれた。
書いた本人はそれを見て次に綺麗な絶対零度の美貌の青年を見上げる。
「カード通りに」
綺麗な綺麗なその笑顔の瞳の物騒さが少しだけ薄れていたのに気が付く訳無く、少女がぷつんと切れたのは言うまでもない。あとには空っぽになった小さなペーパーボックスが、銀のリボンと一緒に残る。
この出来事以降、仕事で切羽詰まりどうしようもない程進退窮まっている時に、出来る限り麻衣はナルの扱いに注意しようと決意した訳だが、その決意が実っているかどうかは、神のみぞが知っているのだ。
だから多分、螺子が一本、外れていたのだ。
およそ十分の短文。私も螺子が外れていたんです……。
うつらうつらと閉じた視界に、ひやりとやわらかく冷たいものが触れた。その冷たさの下で思わず瞠目するほど驚いてだらりとたらしたままだった手を上げると柔らかな感触が触れる。
「ごめん、起こした?」
ひそやかなソプラノは耳に震える鈴のように響く。小さな音の連なりが言葉として意味を持つまでに僅かながらのタイムラグがあり、自分の疲労の蓄積具合を少し笑った。
「いつ来たんだ?」
「いま。気づかなかったの?珍しいね」
デスクチェアに腰かけながらパソコンに向かっていたのはいつからだろうか。そんなことすら覚えていない。記憶をたどってもどこかあいまいなのは仕事にばかり気が行ってしまっていたからだ。それでも人の気配には敏感で、他者がボーダーラインを超えることに酷く過敏な自分が、彼女の来訪に気がつかない程疲れていたのは彼女を心配させるだけだろう。
だからいつもより心持ちポーカーフェイスを強くする。内心の感情や状態を面に出さないのは慣れたことだから難しくは無かった。
目元に当てられたタオルは冷たく冷やされて、じんとしみて気持ちいい。長く綺麗な白い指先がタオルの端をつかんでずらすと、上から自分を覗き込む淡い鳶色の瞳が見えた。
その視線の色が酷く自分を心配しているもので、鉄壁の無表情も彼女には利かないのだと思わず心の中で諦観してしまった。こうやって視線が近くにあるだけで今は心地よかったから。
「どう?今日は寝れそう?」
「何とか」
きしりと背もたれが音を立て、首をあお向けたまま小さな顔を見上げた。さらりと落ちる栗色の髪は自分と違って色素が薄い。白い人工の照明に照らされ、どこか不思議な色をしていた。漆黒の髪も首筋をすべる気配がする。いつの間にか伸びたな、とおもう。
「目処はついたから……まあ、間に合うかどうかまだ怪しいけど」
「仕事好きなくせに、何でいっつも切羽詰るかな……そのたびに重なる精神疲労とか、考えてくれたことある?」
「僕がなぜ麻衣の心配をしなくちゃならない?」
「うわ、むかつくなー」
小さな柳眉が潜められて麻衣の手が伸びる。軽く白いほほをつねると漆黒の目が眇められ、綺麗な無表情が顰め面をし、鬱陶しげな顔だった。そんなことに頓着せずにぱっと華奢な手が離されて、白い目元にそっと触れた。冷たくぬらしたハンドタオルはまだ冷えていて、タオルをずらしていた手の甲に華奢な少女の手のひらが重なる。
そっと一回り大きな手のひらを動かして、もう一度漆黒の双眸を白いタオルで覆ってやると微かなため息をナルが吐き出した。
「ね、何か食べる?」
再び閉じた視界の中でソプラノの声だけが響いた。白いタオルが薄い影を落とすのを見ながら目を閉ざしてしまうと、あとは震える空気だけが世界のすべてとなり、遮断された外界がどこか遠い。
「いらない……」
つぶやいた声に疲れが乗ってしまって、思わず舌打ちした。
鉄壁のポーカーフェイスを誇る自分をどんなときでも看破する彼女にこの状態をどんなに取り繕っても、心配をかけるなというほうが無駄だというのは解っている事だった。それでもせずに居られないのは、自分の矜持と性格と、僅かばかりの気遣いのためだ。
「うん。食べたくないのは、解るよ。切羽詰ってるときって何も食べたくなくなるからね、でも」
そっと手のひらが冷たいタオルの上に乗る感触がした。柔らか過ぎる抵抗が心の底までも沈んでいきそうな気がして、嵌められた枷が音を立てて一つ壊れる。
「食べなくちゃ、体を壊すの。体が壊れたら今頑張っていることも無駄になるの。今頑張っていることを終えて、ゆっくり出来ても気が抜けたとたんに倒れちゃ駄目なんだよ」
大丈夫とも、手伝うよ、とも、言えない。それだけの力が今の自分には無く、気休めを言って楽になるような人でもないから。どんなに追い詰められても結局はやり遂げてしまう人だから。
「気を張ってばかりじゃ倒れるよ。例え何があったって、どうせ地球は何億年か後には壊れちゃうんだからきっと瑣末なことなんだよ。こうやって生きていること自体、頑張っていること自体。いい意味でね?あたしたちは小さいから」
だから、と小さな唇が僅かに額に触れて離れていく気配にため息をついた。
「どんな風に生きても、結局は大丈夫なんだと思うよ」
タオルと額に触れる手から、淡い熱が広がって融ける。さらりと僅かな衣擦れの音が張り詰めた何かを優しく包んだ。
「……話が、飛んだな」
「そう?うんでもそれも結局どうでもいいことだよ」
にこりと笑う鳶色の瞳が、その声の調子からまるで見えるようだった。
この馬鹿みたいな明るさは、どうあがいても自分には持てるものではない。似ていなかった兄に良く似た少女の、それでも違う存在の彼女はいつだって笑っていた。
それでも、明るくいいながら自分に寄り添ってはなれない華奢な手のひらの上をぽんと軽くたたく。
「スコーン」
「うん、あと紅茶ね?」
いつもなら、もっと食べろと叫ぶ少女が素直に肯くのは酷く珍しい。珍しい、といえば仕事中の部屋に自分から入ってくることも、珍しい。麻衣は自分の領域を、土足で荒そうとしない。出会ってすぐのころ気がつかなかった、聡い彼女の一面だった。
いつの間にか時間がたった。ここまで傍に来ても、人の気配を感じないくらい。
「紅茶はいつものでいいよね?」
そういいながら、なかなか小さな手のひらは離れない。
僅かに苦笑して、黒衣の腕が上へと伸びた。見えない視界の中でそれでも気配をたどりながら、白い指先が柔らかな頬に触れる。
彼女はいつも笑ってる。
陰を抱きながら、それでも微笑む強さを忘れない。寄り添って居たいのだと、思った。
そう思えるほど時間はたって、これからもきっと重ねていくのだ。その時間の流れを思えば、確かにすべては瑣末なことなのかもしれない。いつかは風にすべては溶けて、風花の堕ちる大地にかえる。
だったら、自分の心のままにしたい。努力は無駄にならないだろう。そう思って、積み重ねる過去と紡いで行く未来をいつも手にして居たい。
柔らかな感触に温かなあの麻衣の笑顔に触れる。僅かに寄り添ってから、そっと小さな手のひらが離れた。
パタパタと小さな足音が遠ざかる。
耳の中に響いて木霊するそれに意識を傾けながら、今まで華奢な手のひらが触れていた部分が酷く暖かく感じた。
頑張れ受験生フェア開催中だった気がします。
曙光。
空を昇る。
「月陰の朝、か。王を討つ事は天命に背いたことになるのだろうか。人のため、民のため、と思っても簒奪と言われるなんて」
「それもまた、必要なことでしょう」
長い袖に手を隠し腕を組みながらちょうさいが窓の外を眺めている。淡々と下語り口は彼の性格を律儀に顕わしている気がした。
「王が人道に悖れば民は生きるために王を屠る権利があると私は思う」
紅い髪を無造作に括り、長く流しながらちらりと横目で怜悧な横顔を見上げた。その顔を見上げても、感情が読めることは極端に少ない。ただ静かに瞳を伏せるが、その仕草が窓外の明暗を眩しく思ってのことなのか、判別はつきがたかった。
「王に仕える
僕として、言明は避けたく存じます」
「なのに否定はしないんだな。らしいけど」
苦笑する陽子を、慶東国の冢宰はちらと横目で眺める。見事な緋色の髪を、端座した椅子の背もたれと肘掛けに流し、緑の瞳は波濤を寄せる空を眺望する。
蒼天は何処までも高く、迫りつつある夜の帳の気配を悟って紫の帯が東端に掛かっており、その相違がますます遙かに空を高く透き通らせた。
この王は、自分のことに時折酷く無頓着だと浩瀚は折々に思う。我々が戴く王として、陽子を必要としているに関わらず、自らの進退を陽子自身が時折投げ出す様な言動を取る。今もそうだった。
人道に悖る王を討つ権利は民にあるのか。
人道を知れば自ずと答えは見えてくる、民のために王は居て、民のためにならない王はもはや玉座から引きずり降ろすしかない。絶対の権限を持つ者に、恐政を執らせては朽ちる命と国土と、踏みにじられる人の心が幾万あっても足りないのだ。
だから彼自身は、どうしようもなく進退窮まった場合には民のために、王を討ち、偽王を立てる必要性を認めている。必要性を認めているだけで、浩瀚自身にその道を取る覚悟があるか、と問われれば、答えには窮するが、歴史は昏君の執政の残虐さをかたり、民のためには王を討つ道を裏付ける。
臣下にとってどれだけの暗愚であろうと、王は絶対なのだけれど。ある意味で、延命が叶えば次の王を選べる麒麟以上に。
弑逆の道を執ったその覚悟はいかばかりか。芳を思えば浩瀚は瞑目するよりほかにない。……浩瀚には結局、王を討つことは出来なかったから。
ただそれは、彼の王自身に言うべき事ではなかった。浩瀚の頭で解っていれば良いことで、改めて突き付ける必要性は感じない。
けれど陽子は往々にしてこういった言動を取る。そこが陽子の強さであり、危うさなのだろうか。
道を知り民を知り
政に通じ、それでも、王を臣下は討ちがたいのに、この王は自ら投げだそうとする。それがただの自暴自棄や投げやりと呼ばれるものでないことくらい、とうの昔に見抜いていても『陽子』を知らない他の官吏達には聞かせられないやりとりだった。
今また翡翠の瞳が自ら治める国を見下ろす。陽子には、自分が治めている国、と言う自覚がまだ乏しいに違いない、緑の少ない国土を。
窓枠には瀟洒な紗が垂れ下がり、漣を寄せる雲海を透かして、雲の晴れ間から微かな地表が見てとれた。
田畑は荒れ、今年の収穫はあまり期待できそうもなく、王の在位ゆえに、減ったとはいえ妖魔が跋扈する地も未だ存在する。白雉が落ちた巧国側から、国境沿いの道を行き来する難民を妖魔が襲うのだ。
慶東国の前王が、恋慕から国中から追い出した女達が漸く戻り始めてきたが、巧を頼って国を出た女達が襲われるのや、功を出た難民がむざむざと殺されるのは忍びないと、慶も僅かなりとも兵を配備しているが、巧州国の凋落は激しく、妖魔は絶えることを知らない。
国は滅ぶ。王は死ぬ。麒麟が生まれ育つまでの時間の間に人は飢えて死に絶える。その絶望を漸く超えたとはいえ、まだまだ人の嘆きは深い。しかし、その絶望を覆せねば国が生き返ることはない。
特に、慶は殊更民の絶望が深いから、並大抵の努力では追いつきはしないけれど、彼女なら、と浩瀚はふと思う。この王ならば、硬直した朝廷や各州の根強い派閥や狡吏の跋扈、何より、民の絶望の全てを、吹き飛ばす力を持っているのではないかと。
「――道を外れれば人道に悖ります。王を討つことは王道に背くが、昏君を討つのは、道に適った行為なのでしょう。麒麟や大綱は、王が歩むべき道を定めています。慈悲をもって民を治めるべし。これに背けば天運は喪われ、王は身罷られる。大綱、即ち人道に背くことこそ天命が尽きたとき。
……太陽を討つことを罪と言えばそれは簒奪と言えるのでしょう。どのような光でも太陽は太陽、光無しには民も、草も根付かない。そう考える者もおりましょう。しかし、歴史に語る昏君の所行を鑑みれば、一概にこれを人道に悖るとは到底言えず、また、そうと決めつけるのは狭量というもの。あえて王道に背き、人道を辿り、太陽を討ち、月で国を照らすことを簒奪というかは各々の裁量で決まるのでは?」
うん、と陽子が肯いた。
月陰の朝、今朝方
青鳥を運んだ鳥は、王を討った偽りの朝廷を、偽朝ではなく、月陰の朝と名付けた。武官にしてはずいぶんと詩的な表現だな、と苦笑を浮かべたのは仲間内の秘密だった。太陽ではなく、月で国を照らす覚悟をした芳。その前王の公主は、あと数日で慶東国へ参じ、仙籍を並べることとなる。
――良かった。祥瓊の減刑を青鳥に告げられた時、陽子は思わずそう呟かずにいられなかった。
同時に思う。王の亡い国は確実に沈み逝く、月明かりだけで生きていくには限界がある。まだまだ微力な慶には、助ける余力を持たないことを悔やんだ。月影だけで生きる過酷さを選んでまで、太陽である王を討ったその臣の心中に瞑目を捧げた。
そして今、隣に立つ浩瀚の心中は如何ばかりであろうか。――暗愚の王に苛まれたのは慶とて同じである。浩瀚も芳と同じく、予王に忠誠をもって使えていたのだ。
慶の前王、予王を討たなかったこの冢宰は道を知っていると陽子は思う。それでも王を討たなかったのは、やはり彼らにとって、王という存在が特別であるからだろうか。王である陽子には察することはできないが、少なくとも陽子自身は臣下である彼を喪えないし、かけがえがないと思っている。臣下にとっても、王は、例え愚かであっても、失えない、かけがえのない者だろうか。
芳国の州候が、真実、どのような決意をし、王を討ったのかは想像も付かないけれど、人民を救うことを願ったのならば、どうにか芳が良い方向に留まりつつ向かってくれればと願う。恐らく芳の王もそれが悲願であっただろうから。
「…………月に乗じて、暁を待つ。か」
「其れが、必要なときもありましょう」
恐らくは、と静かな響きが静寂に落ちる。内心と同じような答えを返され、ふと考え込むように陽子の視線が彷徨った。考えると言うよりは戸惑うように。
ゆっくりと夜の帳が降りてくる空のかなたを見上げながら、透徹する天海のそのひとときを、緑の眼差しが眩しげに見た。
「じゃあこの国は、もう暁を得て居るんだろうか」
微かに傾いだ首筋から紅い流れが上着の上を滑る。深まっていく蒼天の色が、そのくれない色をも深めていく。陽子が今まで流してきた、血のように紅く。
「私はまだ何もできていない。一つとして成されていない。功罪の両方とも。これから歩む道筋の端近を、やっと見つけたところに今居るんだろうと思う。未熟なばかりで、国のためにやるべきことは山積しているのに、その一つも、終わらせられないのに、それでも」
苦笑すら漏れず、ただ生きるため己に救いを求めているはずの民達を探すように、大木すら針の穴程度にしか見えぬ高みから陽子は瞳を強く眇めた。
「それでも、お前達は、王を暁と呼ぶのか」
苦渋に満ちた声だった。己の力の無さ、堅固で朝廷を愚かな縄張り意識としてしか認識していない臣下、それを是正できない自分の力無さ、正そうとしても分かり合えない――そんな人間がどうして人と国を導けるのかと陽子は思う。その時、闇の中の思索を切ったのは、冷淡とも言える、怜悧な声音だった。
「主上はまだ、暁で御座いましょう」
淡々とした声が座す己の紅い頭の上から振ってくる。
「新王の即位が新たな朝廷の始まり、夜明けとすれば主上はまだ生まれたばかり、空に登り切ってすら居ない暁の陽。陽が空に昇るのは自然のことわり。高みを、恐れられますか?」
はっとして見上げた翡翠の瞳は、もはやいつもと変わらぬ強さを熾火のように取り戻している。眼差しの強さは日々強くなり、自身と同じようにその光を見いだして、この王に傾倒していく臣下もきっと増えるだろう。誰もが、支え、力となり、ついていきたいと願う王に、陽子はきっとなるだろう。
「いや」
短い否定は恐れることを知りつつも、尚高みを目指し恐れずに見下ろし、更なる高みを見上げることを決意する響きを感じさせた。双眸は、残照の紅に染まり、波濤を寄せる雲海の切れ間から王の治める国を見下ろす。緑の双眸は強く、見定める国土を臨んでいた。
薄く瞬きして、まだまだ若い王を横目に、浩瀚は己の心と忠誠の在処に静かに頷く。
「ならば暁でよろしいでしょう。これから南天の陽のように国中を照らしていただかなくては」
空の高みを恐れることなく、王を助ける麒麟や、民や臣下の手に縋ることもあるだろうけれど、恐らく寄りかかりきることはなく。目指す方向に確実に、歩いて行けたら、この王はきっといつか空に昇る南天の陽光となる。
「……太陽か。何だか自分には似合わないな。この髪の赤は太陽と言うより血に思えるから。戒めみたいに」
今まで殺めた人々、己の醜さを見せつけられた旅路、信じてくれた友すらを裏切ったこともある。即位に先立っては自国の民を討って、乱を治めるのに己の不徳で尊い人命をたくさん損じた。陽子はすでに綺麗ではない、血と泥濘にまみれたものだ。それこそが王だと、隣の男は言うだろうけれど。
「ご自分に謙虚なことはよいことです。その戒めを忘れずに、民を助ければ自ずと光となりましょう」
「うん。私を討とうと思うまで存分に扱き使ってやってくれ。今のままのお前に討たれるならその選択の正しさを信じられるから」
信頼を向けられた言葉だった。自分が道を正すならば、陽子はその行いを信じられると言うのだ。けれど物騒さが相変わらず抜けていないのは何故なのか。こういう信頼を受け取っても嬉しいとは普通、到底素直には思えない。
小休止に卓に放られたままの書簡を再び手に取りながらため息をつき、視線の一瞥すら陽子に向ける事無く連なる文字を怜悧な横顔が既に辿り始めている。
「寝覚めの悪いことを仰られるより、全力で黄昏を迎えぬよう尽力なさって頂きたい」
無表情の怜悧な横顔がすげなく言うが、陽子は楽しげに笑っただけだった。
「私は嘘は言ってないぞ」
明るく笑った少女の強さは陽の光のように眩しかった。
王は国にとっていつだって光なのだから。
十二国記アニメ放送記念。カップリングなし、って結構好きだったりします。それだけが。恋愛や友情や、そういうことで、測れないもの。そんな雰囲気が好きです。
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□後記
閲覧率が高いものから順に上げてみました。結構、全部読んだことがある、という方が多いのではないかなと思います。トップに上げたものだけでなくいつも呟いている某所に載せた小話も、今後多くなりそうです。
03/02/21掲載。 10/12/04 再掲。