--+--+ 彼と彼女と黒猫事情

RRRR...RRRR...
軽やかなベルの音が鳴り響いた。こんな時間に珍しいこともある物だと、風呂上がりの濡れ髪をタオルで適当に拭きながら彼は声高に呼びつける電話に漆黒の視線を寄越す。タオルの隙間から漆黒の髪がさらりと落ち、硝子色の雫がぱらぱらと散っては零れた。
RRRR...RRRR...
ベルは止まない。綺麗な手がすっと伸びて、彼は受話器を軽やかに持ち上げた。頭にかぶせたタオルが少しだけ邪魔だ。

「もしもし?」

鳴りやむベルの音。
涼やかな声に応えたのは、鈴降る愛しい星の声。

「――ナル?」

――こんな時間に、本当に珍しいこともあるものだ。


目の前には黒い固まりがもぞもぞと動いている。それは一見生物のようでもあり、ただの毛玉のようでもあった。『彼』はシャワーを浴びさせられ、しっとり濡れた黒い毛並みを綺麗に乾かされてふかふかしている。上手く歩くことが出来ないのか、フローリングの床の上で時折立ち上がろうとすると、そのまま滑って力つき、ぽてんと床に倒れてしまう。
そしてこちらも風呂上がりでほかほかしている、栗色の髪の少女。
ナルはじっと彼女を見て、そして、黒い毛玉なるものを視て。そして。
溜め息を付いた。
「怒らないって云ったじゃんか」
「怒ってはないが?」
呆れてはいるけれど。白皙の美貌にきっぱりとそう大書して彼は上目遣いに見つめてくる鳶色の瞳を見下ろした。

RRRR...RRRR...
ガチャ。
「――ナル?」
「何だ?」
「怒らない?」
「は?」
「怒らない?」
「――だから何だ?」
「……あのね――」

先程の会話の一部を思いだし、彼は再び溜め息を付いた。そのため息にぴくり、と反応したかのように『彼』は大きな耳を振るわせた。
真っ黒いまん丸な瞳を上に向いて、一声。
「にゃあ」
――そう、鳴いた。


「道玄坂を下ってくる時に、鳴き声が聞こえたの。何処だろうって思わず探したらこの子が居て……」
目があったの。彼女はそう言って、雨に濡れたまま汚い黒猫を抱えこのマンションへとやってきたのだ。
幸い首輪に住所、名前に性別等が書いてあった。(だから『彼』だと知れたのだ)すぐに飼い主に連絡を取り、明後日には迎えに来るらしい。本当は今日明日中にも来たかったらしいのだが、この黒猫の飼い主は今は不在で県外に仕事に行っているのだ。飼い主が留守中にこの黒猫は脱走を謀ったらしい。電話口で聞こえてきた慌てた声に、麻衣はこの猫を後一日と数時間。きっぱりと預かろうと決意したのだ――。
取り敢えず、外に降る生憎の雨にばっちり濡れてしまっている一人と一匹をバスルームに閉じこめて、彼は少量のホットミルクとお湯を沸かすべく、ガスコンロに火を付けた。
猫は小さくて、まだ子供と言っていいだろう。真っ黒い、何処までも漆黒でしかない闇を抱く毛並みと瞳。脱走中食料にありつけなくて、お腹がすいているのだろう。よたよたとした足取りで、それでもしっかりと必死にミルクを舐めている。風呂上がりの濡れ髪のままで、麻衣はそれを安心したように見ていた。
珍しく彼女のからのコールだと思ったら――。そう、珍しいのだ。麻衣は滅多に電話を掛けない。それもこんな非常識な時間には壊滅的といっても良いだろう。
ナルの持っている携帯にもそれは同様だった。
必要なときしか掛けない。それがこちらを気遣ってのことだとは気が付いている。別にそんな気遣いは要らないのだが。それに、話したかったら彼女は直に人の目を視て話したがる。本当に言葉を交わしたかったら、逢いたかったら、麻衣は自分から逢いに来る。それにも関わらずに電話したわけ――それが、この、毛玉モドキの黒猫だ。
と、ふわりと上から柔らかい何かが降ってきて、麻衣の視界を塞いでしまう。それがタオルなのだと気が付いて、麻衣は急いで視界からそれをどかそうとした。
「ナルっ」
ぱさりとかぶせたタオルの下で、小さな頭がもがいている。それに気が付かない振りをして、ナルは背の低いソファに座るとことんと麻衣の前にマグカップを置いた。
柔らかな湯気立つ紅茶が、文句を言おうとした麻衣の鳶色の瞳に写ると、麻衣はむう、と黙り込んでしまう。一生懸命に、子猫がミルクを飲む音だけが部屋に響いた。
「ごめん、ね――」
「何が?」
ぽつりと静寂に墜ちる言葉は、綺麗な響きで沈んでいく。突然の謝罪の言葉に、ナルは視線を向けずに麻衣に返した。
「邪魔だったでしょ?」
それが一番の気がかりだった。自分のアパートの方は猫は飼えないし、その上に壁が薄いので猫を持ち込んでもすぐにばれてしまうだろう。だから此処しかなかった。けれど実際は選択権は此処だけではない。他にも仕事仲間であるイレギュラーズも、麻衣のためなら彼同様なんだかんだ云っても家の中に猫ごと上げただろう。無意識のうちに、狭い範囲の選択で麻衣はナルを選んでいた。
「――別に」
少しだけ気弱な不安げな声に、ナルは数瞬黙って、そして静かに麻衣を見る。鳶色の瞳が上目使いに、濡れた栗色の髪の間から覗いていた。硝子の色の雫が落ちて、フローリングの床に弾けた。大きな瞳がじっと見ている。宿る光には謝罪の意思。ナルの少ない言葉に、真実を見いだすように、真っ直ぐに。
二人の視線があったのは時間にしてはほんの僅かな間だった。漆黒の瞳をじっと見ていた麻衣が、ふっと口元をほころばせ、微笑む。
「ん、ありがと、ね」
「――別に」
小さく吐いた溜め息は、床に沈まず融けていく。いつも通りのやり取りに、無垢な笑顔を麻衣が咲かせた。
「みにゃあ」
優しい空気が辺りに流れる――水を差すのはさらに無垢な、幼い鳴き声。すっかり空になった皿の前にちょこんと行儀良く座った黒猫が、大きな目で二人を見上げていた。可愛くしっぽが揺らされて、『彼』は自分がどちらに甘えるか――見事、瞬時に正しい選択をしてのけたようだ。すなわち、優しい華奢な少女の元へ、自分を助けた彼女のもとへ。とたとたっと小さく歩いてくるとフローリングの床に直に座った麻衣の膝に、とたん、と小さな前足が置かれる。その小さな前足の温かさに思わず嬉しくて笑ってしまって、同時に酷く安堵した。見つけたときは雨でその小さな身体の体温は奪われてしまっていたから、酷く冷たかったのだ。本当に良かった。一生懸命『生きる』事をしている生命を一つ、助ける手助けが出来たのだ。満腹になったのか、先程みたいな弱々しさはもう見えない。
嬉しくなって小さな両手が、小さな子猫を抱き上げた。頭を撫でると手にすり寄ってくるのが愛しい。思わず笑みの浮かぶ愛らしさ。ほのぼのとした空気が流れて、ナルは軽く子猫と戯れる麻衣を見て苦笑した。と、その珍しすぎる類の笑みは、瞬間凍結されることになる。
「ナル、可愛い♪」
無垢な少女の声に応えて、にゃあと『彼』は可愛く鳴いた。思わず意味が解らなくて、ナルは一瞬固まり、そして不可解な視線を向ける。問われる目線の不穏さもそのままに、麻衣は彼に解答を示した。
「この子ナルって云うの」
「――――――は?」
「真っ黒だし、ぴったりだよね。名は体を表すんだねー」
感心したような麻衣の声。
世界で一番美しい猫は、黒猫だと私は思う。そんな言葉を以前聞いたことがある。漆黒の闇を抱く瞳、そして艶やかな、何処までも黒でしかないその毛並み。それに、世間一般の猫基準というのはよく解らないのだが――この子猫は、美人、いや美猫だった。すらりとした姿態。可愛らしい顔立ちは、その後の成長が楽しみだ。しなやかな猫らしい身体に、声は澄んだ高い声。毛並みも瞳もつややかな漆黒。ナルにそっくりだと思った。――だから、あんな道の隅に居た黒猫に気が付いたのかも知れない。実際、ナルに似ていたから自分は拾ってきたのだろうか。例え、そうじゃなくても拾っていただろうけれど、絶対に本人には云えないことである。
「ほらほら、ここ」
と、麻衣が子猫の首に付いている首輪を示してみせる。其処には猫の生年月日と名前。そして飼い主の住所等が記された銀のプレートが付いていた。ちりりと首に付いた鈴が雅な音をたてて鳴る。
『sep,19 Noll』と其処には確かに記されていた。間違いなく。驚いた事に誕生日までも同じらしい。
「――捨ててこい」
「動物虐待」
別に良いんでしょ!むう、とふくれているが、言質を取った麻衣は強い。ねえっと腕の中の子猫に同意を求めると、猫は可愛くにゃあと鳴く。
思わず誘発した頭痛に、ナルは額を綺麗な手で押さえた。
「ねえ、ナル♪」
優しい少女の声に、猫は素直ににゃあと鳴いた。
深々と溜め息を吐いて、付き合ってられないとばかりにナルは硝子テーブルの上の洋書を取り上げた。ぱたんとページを開いて英字を漆黒の視線が追い始める。
「や!」
甲高い、悲鳴と云うよりは喜んでいるような声が耳に届いたのはその時だった。
「きゃ、や、ちょっと、くすぐったいよ、ナル!」
――何処までも無邪気な、白花の声。
「ナル、ナルってば!そんなとこ舐めないで――ん、くすぐったいって」
「……………………………麻衣」
再び漆黒の視線はうつむき、ナルの綺麗な指先は自らの眉間を押さえた。
「にゃーー!駄目だってば!」
「……………………………麻衣」
「え」
そこではたり、と振り向いて、きょとんと鳶色の瞳がナルを見つめた。
「何?ナル?――きゃ」
項を舐めようとする黒猫ナルを必死に制しながら、麻衣は焦る。
「ん、駄目だって、ば」
「麻衣」
瞑目しながら麻衣を、今度は強く呼ぶ。呼ばれた声の通りに、麻衣は黒猫ナルを抱きながらナルの方へと意識を向けた。無垢な瞳は鳶色で――解ってない。と、白い手が伸びてくる。黒猫ナルにナルの白い綺麗な手が伸ばされ。
「にゃ」
しゃ!――引っかかれた。
ちりりと小さな痛みが走り、鋭い爪が閃いて、白皙の肌に赤い三筋の線が引かれる。
「ナルっ、大丈夫――」
この子大人しいのに!酷く焦りながら麻衣が訊く、いや、訊こうと、した。この部屋で、ナル以外に美しい漆黒の色彩を持つ黒猫ナルが麻衣の腕の中から視線を合わせ――ばちばちと火花が見えたのは気のせいだろうか。気のせいだ、気のせいに違いない。其処で麻衣は端と気が付く。種族は違うが所謂これは、同族(?)嫌悪、と呼ばれる物では、無かろうか――?
何処か剣呑とした雰囲気の中、再びナルの白い手が動いた。やはり体格差の勝利か。白い手に黒猫はちょこんと首根っこを摘まれ、優しい白い腕の中からぽてんとソファのクッションの上へと落とされてしまった。
「な、ナ、ル?」
いつのまにやら気が付かなかったが、彼の目は剣呑で――強く、鳶色の瞳を捕らえる。戸惑う麻衣の声に、にっこりと酷く鮮やかに、そして限りなく不穏に笑んでみせると、次の瞬間首筋を引き寄せ華奢な項に強くきつく、唇を寄せた。
息を呑んで、胸が詰まる。強い何かに絡め取られる。鳶色の瞳が強く閉ざされ麻衣はナルの肩に縋った。声すら出ないで、ただ耐える。
息詰まる数瞬の後、ふ、と微かな吐息と共に唇が離された。その吐息にすらも麻衣は震えて、抱きしめられた腕に縋った。
「ナ、ル」
艶やかに彩られた声に、非難の色が見え隠れる。赤くなって睨み付ける麻衣をさらりと無視しながらナルはもう一度麻衣を抱き寄せた。そして哀れに敗れ去ったクッションの上に放り出された黒猫に、自分と同じ日に生まれた同じ名前を持つ『彼』に、視線を向ける。ふたたびばちりと視線があったが、ナルはすぐに逸らしてしまった。今、彼女は自分の腕の中なのだ。
「ナル!はなして!」
真っ赤になって暴れる麻衣の抵抗をあっさりと封じて、ナルは腕を放さない。
綺麗な顔が微かに苦笑して静かな溜め息を一つ零した。本当に微かにだけ変わった表情は、夜に融けて美しかった。
「――馬鹿らしい」
ぽつりと呟く声は暴れる麻衣には聞こえずに、一人と一匹の胸の裡に落ちた。にゃあと可愛く重なる声は、彼の言葉を肯定しているようでも、否定しているようでもあったが、取り敢えず本人に自覚のない争奪戦には一段落付いたようだ。腕の中の暖かさを独占して濡れた髪に顔を寄せて、ナルはいろんな思いの詰まった溜め息を再び、零した。
一生変わらないと思う想いは、自分が認識したよりも、遥かに強い想いらしい。
銀の鈴がちりりと鳴った。



珍しい夜。雨降る夜は、薄いランプに照らされて、酷く静かに更けていく。




homenovel?

□後記
「嫉妬全開のナル」…私が書くと何か間違ってます。222HIT夜珠さんに捧げさせていただきます♪こんなんでごめんなさい。もっとこう、ぼーさんが出てきたりを期待してらっしゃったでしょうに・・・すみませ・・・ゲフゲフ!(吐血)でも久しぶりに何にも考えずに書けて楽しかったです(笑) ちなみに自分設定の中でこれは二人がくっついた(笑)初期の話なのです。何故かというと麻衣が遠慮してるから(笑)これにも話があるのです。こっそり(笑)多分書かないとは思うですが。 目指した物は今度こそほのぼのです。・・・・今貴方の胸の中に駄目じゃんとか言葉が横切った気がしますが、気にしちゃ駄目です(涙)つ、次こそはー!!
世界で一番美しい猫は、黒猫だと私は思う。これは私の言葉ではないですが、そう思います。勿論そうじゃない猫も沢山居ますが♪それにしてもナルと麻衣を争うなんて末恐ろしい子猫です(笑)

ネタかぶりを許して下さったニイラさんへも多大なる感謝を!(すみませんでした、涙)