Air gatto sul G.
弱さを繰り返し繰り返し。おそらくはアリアの如く。
新聞を見ているとほんの少しばかり世の中で起こった事象が覗ける。いつの時代だって殺人や贈賄や――平たく言えば犯罪で、紙面は殆ど埋め尽くされてる。変わり映えしない事象の、本質的にはほんの些細な変化を伺えるだけの新聞を読む価値は、広い目で見ればないのかもしれない。人の世界――歴史自体が、人間が『罪』と定めた倫理を踏み越えている。『罪』で歴史は埋め尽くされている。おそらくは変わることのない人の世界の業を見つめ続けることに有益があるように思えない。
ぱらりと新聞を捲った。一面に政治家の汚職の記事が大々的に報じられ、続いて国際情勢。国内の社会的な関心が大きい事件の報道。地元で起こった事故や事件。小さな投稿のコラム。
新聞はあまり見ない。もともと活字を積極的に読むほうでなかったし、一人暮らしを始めてしばらく後に取った新聞の用途はテレビ欄だけのようなものだった。大きなニュースになった記事には目を通すこともあるけれど、高校生の関心なんて所詮今夜のテレビと通学時の天気予報くらいなものだ。
歳を経ることにだんだんと読み始めるようになったが、それは別に社会に不安があるとか、大人としての自覚とか、そういったものではまるでなく、仕事で新聞に目を通す機会が増えたからだ。
優秀な事務員がオフィスに来るまでは、日々の新聞をこまめに調べるのは下っ端バイト員たちの仕事だった。安原が来たあとも、新聞を調べる仕事がなくなったわけではないがそのとき目を通すのが癖になってしまったようで、オフィスのテーブルの上にぽつんと投げ出されていると、手持ち無沙汰に読んでいることがある。イレギュラー図の面々にはらしくない云々言われているが、政治家が自己責任が明確なのに何処まで言い訳言い逃れができるかデスマッチを繰り広げているのはある意味感心して思わず読んでしまうものだ。読んだ後にあきれ返るとか、腹が立つとか、色々有るけれど。
フローリングに片膝を立て行儀悪く両腕を乗せる。鳶色の瞳が明るい色のリビングに広げられた新聞をじいっと見ていた。すぐ傍に置かれた白いマグカップにはさめかけた紅茶が、くすんだ琥珀色の水面を窓からの日差しに不透明に照らし出していた。
「……麻衣」
「なに?」
「読めるのか?」
すぐ後ろからかけられた声に麻衣は視線すら向けない。栗色の髪の毛がふわりと揺れて、タンクトップを着たむき出しの腕が少し不満そうに揺れた。
「……見出しくらいは」
ソプラノとため息が同時に響いて、麻衣はぱたりと腕の中に頭を倒した。呆れた気配が頭上でしているけれど、反論しても事実は変わらないので黙っておく。
ちなみに、麻衣が読んでいた――否、眺めていた新聞は、日本語ではなくアルファベットがぎっしりと詰まった英字新聞である。
日本人が英語読めなくて何がおかしいと声を大にして叫びたいが、頭の上で腕を組み見下ろしている絶世の美貌を保持する日本語万能の青年の国籍が元アメリカ現在イギリスであるので叫ぶことも何だかむなしい。
高校レベルの英会話なら何とかなるだろう。(かもしれない)でも例えばthe International Criminal Police Organization 何て書かれている英語を瞬時に日本語に判別できるだけの力はない。ちなみに国際刑事警察機構、通称ICPOである。全部を読もうと思ったら一日がかりでまだ足りない。
「意味のない無駄なことをするなら、読んだ後にするんだな」
軽く腰を屈めて麻衣の前から、黒衣の腕が新聞紙をさらっていく。
手にしたマグカップを傾けながら、ひらりと紙面を押さえて一面に目を通しているナルの足に麻衣は背中をとんとつけた。
「無駄じゃない、語学力向上の努力。片言だけれど意味解る所だってあるし」
「へえ、例えば?」
抑揚のない声の中に何処はかとなく人を馬鹿にした雰囲気があるのは気のせいではない。いちいちそういったことに付き合っているとこちらの神経が持たないのでさらりと無視する癖がすでに麻衣には付いていた。ナルと同じようにマグカップを口元に寄せて、首をかしげながら自分が最前まで読んでいた単語を思い出した。
「murderとか?rigor mortisとか?」
「……もう少しましな意味の単語を覚えたらどうだ?」
「安原さんが貸してくれたのに載ってたんだよー」
さめかけた紅茶はまろやかなロイヤルミルクティーだ。カップを傾けかけてナルは足元に寄りかかっている栗色の頭を見下ろした。
「借りた?」
麻衣が口に出したような単語がわらわら載っているものとは……彼は何を貸し出したのだろうか。そんな内容を麻衣が喜んで読むとも思えないのだが。
「うん。SPR過去録」
こともなげに、資料室から安原が持ち出したのを見せてもらったのだと麻衣は肯いた。ああ、と首肯するが、簡単に納得できる辺り、かなり特殊な現場で研究をしているのだなと改めて思った。思ったところでなんら影響を受ける神経も何も持たないのだが。
「何だか日常会話に必要ない単語ばっかり増える気がする。あれ読んでると。thermostatなんて学校で行ってもきっと友達わからないよ…」
半ばぼやくような口調がマグの中へと落ちていく。
確か霊現象時に起こる気温変化のリサーチだったか。あの辺の論文は出来がいい。
「増えないよりはましじゃないのか?」
人事のように肩をすくめて、フローリングの床に腰を下ろした。長い足に寄りかかっていた麻衣が、ころんとそのまま転がりそうになって慌てて起き上がる。
「マシな単語、覚えろって言ったくせに!」
「本人の努力でな。環境に耽溺するな」
「こんな語句ばっか増える環境にも問題があると思うし」
まあそんな環境に自分は好きで身を置いているのだから、誰に文句を言える立場でもないのだが。
転がりそうになった麻衣と一緒に、転がっていきそうだったマグカップを、小さな麻衣の手より一回り大きな手が取り上げる。倒れそうに揺れた上体を起こしながら、麻衣は片手でマグカップの取っ手を受け取って、『その環境』に自分を引っ張り込んだ元凶を見上げた。端正な白い顔はもうアルファベットの海へ向けられている。綺麗な造作の上に、うっすらと落ちる影が印象的だった。
好きでこういう現場に麻衣は身を置いていた。好条件なバイトは文字通り死活問題に直結することだったから、我侭を言うより他に行き場が無かったというのも在る。ただ、宣言できるのはこの青年とは、『好き』の種類が違うということだ。彼は学者として事象を追っている。麻衣は死の現場にある普段は忘れそうになっている、人が抱く強くてどうしようもない感情や出来事を、忘れたくないからだ。せめて心の中に留めておきたいからだ。
死は、悲しい事ながら自分にとっては身近なことだ。それはナルにとっても同じだ。そんな人間世の中に、ごまんといるのだろうけれど、同じように喪失を体験したもの同士が同じ『現場』にいることが不思議な感じがしていた。ナルも、自分と同じ思いを抱いているからこそ、此処に居るのだろうか。
こくんと飲んだ紅茶は苦味がある。冷めかけているからなお強い。舌に残った味に眉をしかめながら、甘味料を入れなかったことを後悔した。波打つ琥珀に日が反射して陰になったところとのコントラストが透き通って綺麗だった。
ナルの横に座り、背もたれにしてやると当たり前のように互いの体重を預けてバランスを取り合うことが、自然になったのはいつからだっただろう。視線を合わせるとき見上げるようになったのは。荷物を運ぶ量に歴然とした差がつき始めたのは。昔とは、確実に変化を遂げて今がある。自分も変わった。ここにいることがそのまま変化だ。
そういえば新聞を読み始めたのも、職場に勤め始めてから。視線を落とした綺麗な横顔はフローリングに広げられた記事を追っている。彼に受けた影響は無意識に宿るほどおそらくは強い。
捲るたびに紙とインクの匂いがした。かすかに響く紙の音だけが、穏やかな空気を揺らしていた。
そっと目を伏せて、伝わる暖かさだけを感じる。暗闇で聞く調べのように。夜に聴く音楽の、一音を追う様に。
人は弱い。変わらないものはない。こうしているだけできっと何かに影響を受けて、そよ風に揺れる水面よりもうたかたに波打つ。変わらないものはない。それなのに日々に殺人が耐えることはなく、戦争が堪えることはなく。変わらないのは人の弱さばかりで、名にしおう歴史に血の匂いが耐えることはない。
時の流れが変えないものはないのに時に抗うが如く罪ばかりを踏破する。人が弱いせいだろうか、変わりやすいせいだろうか、ならば弱さこそ罪なのだろうか。
どこかゆがんだ世界が今更ながら軋みを上げている気がするのは、近年異常に増えている犯罪件数のせいだった。張り詰めた弦を緩めることを知らないで此処まで来たのだとすれば後は切れるだけだ。切れてしまった例を麻衣は幾度となく見てきている。いつだってそれが、死後まで及ぶ辛い悲劇を呼んでいた。切れてしまった弦をより合わせるのは人の手で、なのにその人の絆がこの時代は希薄すぎるから危うい。
「……アリアみたいならいいのに」
ぽつんと呟くソプラノは、高く響いた紙の音より、明確に空気を騒がせた。
「アリア?」
落ちかかる黒髪がさらりと揺れる。軽く顔を上げた涼しげな瞳が麻衣を見た。
「G線上のアリア。バッハ…かな?ドイツのヴァイオリニストが編曲したやつ」
名高い曲だが古典音楽にあまり詳しくないと、作曲者と繋ぐことが慣れていない人間には難しい。
「弱いから、だからこの曲みたいだったら、いいのにって思ったの」
こだまするヴァイオリンとピアノの二重奏。追いかけ、途切れ、重なり、辿る。響く音の連なりが、心の奥から体まで広がる。閉じた瞳のその奥で、一つ一つが音を踏み、響いて初めて流れになる。
珍しく文章を辿る視線を止めていたナルが眉間にしわを寄せた。
「人に通じる会話をしようとは思わないらしいな」
珍しく静かだと思えば、なにやら考え事をしていたらしい。思考が帰結すると、結論だけが口から零れる、だから周りから見れば唐突で何の脈絡もない。時折麻衣はそんな風に言い出すことが間々あった。
口元だけで麻衣が笑った。幼く見える容貌が、そんな笑い方をすると酷く大人びて見えることに麻衣は気が付いていないだろう。
「張り詰めてたら切れちゃうよ。そうしたら何するかわからないってこと。緩める方法が解らないのは、多分死にたくなるほど辛いんだろうなって」
鳶色の瞳が落とされた。目で追うのはイタリックのレタリング。色素の薄いまなざしがMurderという文字をなぞった。一瞬よぎった瞳の色が、酷く痛そうだったことが不思議と鮮明に灼き付く。
「この曲はG線だけで弾けるんだよ。G線は一番強い弦なんだって。他の弦が全部切れても、それでも演奏できるようにってかかれてあるの。だから」
薄い瞼が瞬いた。栗色の細い髪の毛がさらさらと項を滑っていく。華奢な肩越しに小さな顔が振り返って、真っ黒な瞳とはたと見つめた。
「あたしが張り詰めすぎて切れたら、ナルが繋ぎとめてくれるんだろうって思う」
柔らかに鳶色が笑うと、落ちる日差しが酷く鮮やだった。ふと、ため息を吐く。
「張り詰めて切れるほど繊細な人間だったのか」
「……何気に酷いね」
笑った顔がくるりと変わって、可愛くすねて不機嫌を装いながら、麻衣は片手を伸ばした。ナルの空いた片手をとって、握ると、自分にはない硬さと、少し冷たい暖かさが確かな存在を教えていた。
絆とか、そういう。
「繋いだ手がさ、離れても。また繋がるよね」
そっと目を閉ざすと、明るい光から隔離されて闇の中に沈みこむ。閉ざされた視界の中では月より星より、つないだ手の暖かさだけが鮮明で。
「また、繋いでね」
うっすら瞳を開いて微笑う。影と光を孕んだ鳶色の目が真っ直ぐに見つめていた。
言葉にも、瞳にも何もナルは答えず視線を再びアルファベットに戻していく。繋いだ手を指を絡めて繋ぎなおして、ぽんとフローリングに投げ出したまま。そのことに酷く安堵して、当たり前の、けれど奇跡のような幸せをかみしめてそっと麻衣が頭を預けて目を閉じた。手のひらの力強さが、言葉よりずっと確かに思えた。
一番強度のある弦だけでも弾ける曲。聞き覚えのある名高いエピソードと曲が重なる。この曲のことかと思い出す。人の弱さを補い合うように、繋いだ手が互いのG線であれば護れるものがきっとあるのだろう。安らぎとか、暖かさとか。瞼を閉じてまどろむような、幼い顔をちらりと眺めて、子どもみたいに繋いだままの手に暖かな陽が降りるのを見た。
切れてしまった弦をつなぎとめることが出来るのは人の手だ。断ち切ることも出来るのに、繋ぐことができるのもまた人の手でしかない。
心の中で音が響いてる。
弱さを繰り返し繰り返し。おそらくはアリアのように。
互いの心を繋ぐ。離してもまた、手を繋ぐみたいに。
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* 後記
人づてに正式名称を教えてくださった某方に密やかに感謝、ありがとうございました。