どんな夢を見てるか。
見つめるだけで解るよ。
疲れているな…
解りきったことを頭の中で反芻させてナルは自宅のマンションのエントランスをくぐった。パネルランプが明滅して、エレベータの到着がもうすぐだと知らせている。
疲労の溜まったからだからため息が吐き出されて、無表情な白皙の美貌がほんの少しだけ俯いた。
ちん♪
古風なベルの音が響いて、エレベータの到着を告げる。両開きの扉が開くと、僅かに薄暗いエントランスに白い光が影を作った。
モノトーンのコントラストを乗り越えて、ナルはエレベータに乗り込むと、光るパネルランプを操作する。扉が閉まり変化する重力の中で、白い光を遠ざけるように微かに薄い瞼を落とした。
マンションのセキュリティシステムのお陰で扉の鍵はオートロックだ。鍵を閉める手間はないが、鍵を忘れて部屋を出てしまえばお手上げでもある。そういう場合は管理人からマスターキーの役割をする鍵代わりのカードを借り受けることになっている。
カードキーも持っているが無くしたときが不便だし、普通の鍵なら合い鍵が作りやすいとの理由からナルはそちらを使っている。
かちゃり、と鍵を回すとしんとした無人のマンションの廊下に、僅かな金属音が沈んだ。
開いたドアを開けて、ナルは部屋に入り込んだ。
無人のはずの部屋の中には何故か灯りが灯っていた。
リビングの方からの淡い灯りは、普通の蛍光灯の無機質な照明ではなく、幾分柔らかいナイトランプに切り替えられた灯りだろう。ナルは目を眇めてそれを見た。
リビングに行ってわざわざ覗かなくても解るほど、慣れた気配がこの部屋に入った当初からしている。それでもそれを確かめないわけにも行かなくてナルはそちらへと足を進めた。
この家には最低限の家具しかない。
この家に住む住人が無駄な物を好まず、また、この家に通う少女が無駄遣いを嫌う性格であると、それは当然と云えた。
フローリングの床には背の低い白いソファが置かれている。シンプルな硝子テーブルの上には白磁のカップが置かれたままで、飲みかけの紅茶がそのままだった。所在なさげにその横には、硝子のティーポットが置かれている。ナイトランプの光を弾いて、それは薄く煌めいていた。
手に荷物を抱えたまま、漆黒の姿がリビングを横切る。ハイコートの裾が、彼の歩く速さと同じに風を孕んで閃いた。
漆黒の瞳が部屋を見はるかし、その一点に焦点を絞る。
白く背の低い、ソファの上。
横たわった華奢な体。
ソファに散らされた栗色の髪。
微かに息を継ぐ唇は薄く開いて。
鳶色の瞳は、今は瞼を降ろしていた。
「……」
思った通りの存在に、秀麗な顔が呆れたように溜め息を吐いた。
いつも返事も期待せずに、帰宅した青年に声をかけるこの少女の気配はしているのに声は聞こえないことに不審を抱いてはいたが。
これでその謎は氷解した。
くうくうと安らかな寝息を立てている少女に、ため息以外の何を出せというのだろう――?
それにしても一人暮らしの男の部屋に入り込んであまつさえ寝ているとは。無防備というか――いや、天然といえよう、この少女の場合は。
この報復は後できっちりさせて貰おうと彼が決意したかどうかは定かではないが、ナルはいったん書斎へと引っ込み荷物を置いてくることにした。
黒衣の姿が踵を返す。が、その足が不意に止まると、眠り続ける少女を見下ろした。
あどけなく眠る少女。酷く、無垢な。
零れるため息を止めようともしないでナルは自分の喉元に手を伸ばした。
コートのボタンを外し、ぬぐと、ばさりとそれを少女にかける。いくら何でもこの時期に何も掛けないで寝ていれば、風邪の一つも引くだろう。
盛大な文句は少女が目覚めたその後だ。
膝を突いてかがむと、小さな顔を視る。漆黒の瞳は、薄く瞬いた。
ふと、手を伸ばす。
白い綺麗な指が、少女の栗色の髪に、触れる。
ひんやりとした指先が触れると、微かに白い瞼が瞬く。小さく身じろぎ、起きるかと一瞬思ったがそれは無用に終わった。
穏やかな呼吸は繰り返されたまま。
無敵の鉄面皮を僅かに崩してナルは微かに苦笑を漏らした。そしてそのまま離れ、書斎へと向かおうとする。
けれどその視線はそのまま書斎へ向かうことはなく、凍った。
小さな頭が身じろいだ。
無垢な少女の顔が、哀しみか、憔悴か、焦燥か。
歪む。
淡い唇が、微かに、動く。
刻んだ言葉は音になることはなく、宙に沈んでいくだけだった。
誰の耳にも届かないまま。
「――」
小さく動いた唇の形は、ナルの視界からだと読めなかった。
零されたと息が、酷く痛いと何故か思った。
薄い瞼が震える。
冷たい雫が、少女の白い頬を、滑った。
漆黒が見開かれ、視線はそれからはずれなかった。思わず手を伸ばして涙を拭うことを思ったが、触れようと伸ばされた白く綺麗な手は寸前でぴたり、とその動きを、止めた。長い指先が戸惑う。漆黒の瞳は見開かれたまま、密やかなナイトランプの明るい光を闇の中に吸い込んで底光った。
「――」
再び、何か呟かれる。今度は視ようと思えば、視ることが出来た。唇を読もうと思えば、読めた。
それでも、ナルは動かなかった。動けなかった。
苦しそうに寄せられた柳眉が微かに震える。するとそれがすっと治まる。
奇妙に白い無表情を浮かべて、絶世の美貌は少女の寝顔を見つめていた。
凍り付いた指先を下げる。ことん、とフローリングの床に置かれる。
黒と白のコントラストが、ナイトランプに酷く鮮やかに浮き上がっていた。
触れられなかった。
触れれば、彼女の見ている夢を、視てしまうことになるかも知れないから。
それは彼女のプライバシーの侵害だ。
――違う。
――そんなことは、関係、ない。
そうだ、と唇を、噛みしめる。錆びた鉄の味が口腔内に広がった。
「誰を、呼んだ?」
静かな呟きは、誰に聞かれることもなく、夜の淵に、闇の淵に。落ちていく。
誰を、喚んだ?
もし、触れたときに、視た夢が。『能力』によって伝わってしまうかも知れない夢が。
彼女の夢が。
『――』だったら――?
彼女にとって自分にとって、特別の括りである『彼』の名だったら?
確信を得ることが怖かった。
視ていれば解る、見つめていれば、解る。
彼女がどんなことを考えているのか、どんな夢を、視ているか。
だからその推測を、『触れる』ことで『確信』にしてしまいたく、無かった。
「麻衣」
音無く、呟く。
唇だけが、名を喚んだ。
自分のために、彼女が彼を視ているかも知れないと云う恐れのために、彼女の涙を拭うことすら出来ない、しない自分を愚かに思う。嘲りの笑みが、浮かんで消えた。
泣きそうに歪んだ表情は、果たしてどちらのものだったのか。
拭われることのない涙は、冷たく少女の頬をぬらしたままだった。
冷たく、彼の心を凍らせた、まま。
どんな夢を視てるか。
見つめるだけで解るよ。
‖home‖novel?‖ □後記
麻衣がどんな夢を視てるか、それも書くつもりです。(た、多分…っ/汗)ばっちり『彼』の夢なんですが(笑)でも大丈夫、ナル麻衣です。くさってもナル麻衣好きですから!>くさってるんかい。彼等の関係は切なく、深く考えると胸が痛くなります。そういえばいつもとは書き方を変えてみました。(心持ち、笑)どうでしょう??(汗)変わらないでしょうか(遠い目)