夢を、見る。
暗闇に落ちていくとそこは温度も何もなく、遙か天井には星すら輝かぬ真の漆黒の空間だった。
ふわりとどこかに降り立ったのか、それとも下降の途中なのか、身体感覚は常に曖昧で、なのに視覚だけが一部分だけはっきりしている。周りは真の闇だというのに自分の身体は爪先までも、はっきりおさめることが出来た。
頬で髪がさらりと落ちる。
何処まで落ちて往くのだろう――不意に見上げた上天は、しんと冷え切っているみたいだ。
ありがちな夢だと思って溜息をつく。自分の深層心理に特に興味はないが客観的に鑑みて、健康といえるものでもないらしい。
知性と理性はねじくれて永久の螺旋を描いている。果ては終ぞ視えはせず。
まあ真っ直ぐ純粋な精神構造な訳ではない。そんな物は周りの連中に任せて置いた方が楽なのだ。
その思考が導き出したのはまるで光のような笑顔――絶対の信頼と好意を抱いて無邪気な笑みで彼女は笑う。さらりと羽の軽さで散った耳元の髪は色素が薄くてショートカットはもうすぐ肩の方まで届く。少女らしい華奢な外見、細い身体からは想像しがたいハングリー精神を抱いた逞しい精神――独りで生きる強さと弱さを、アンビバレッツの渦中の中で、前を向いて立っている。その何処にあんな精神が宿り得るのか。
そのほかにも自分の周りは――彼女の周りと言うべきか――喧しい連中が一通りそろっている。その際たる人が麻衣なのだ。
ふと、白い闇に浮かび上がった絶世の美貌が苦笑した。
いつの間にか、単純明快な思考回路を持つ人間、とイメージを限定させると彼女を思うようになっている。
昔の自分なら失笑したか、それとも単純に不思議がっただろうか。
ただ言えることは、おそらくは兄が占めていた場所に、今は自然と麻衣が収まっていると言うこと。
代わり、だろうか?
いや。
胸中で否定し首を振りながら、周囲の闇にとけ込むような、真の黒色を宿した瞳がそっと静かに下を向いた。この上下左右も解らないような現実に有り得ざる空間で、下などという物が存在しえたかは知らないが。感覚的な物だろう。
視線の先にはいつもの通りに全身黒づくめである自分の爪先が、遙かに広がる漆黒の空間に溶け込む寸前で存在した。
「違う、な」
代わりを求めている訳ではない。誰も代わりになれないし、しない。求めているのなら、多分。
笑いかける彼女に触れれば、この闇は永久の夜を与えるだろうか/それとも夜が明けるのか。
その思考に頭を振って、闇に浮き上がる綺麗な指先がさらりと黒髪をかき上げた。少し苛立たしげな仕草になったのに気づいているのか居ないのか。
辺りの空間は狭いのか広いのか、そんなことさえも認識の範囲外だ。ただ、遙かに広がるは上天の闇。
光もささぬ闇の底。
溜息すらも沈んでいって。
ここより私を引き上げるものは何だろう?
それとも此処でずっと一人?
どちらをのぞんでいるのだろう。
暗闇のみが構成する世界に、ソプラノの声が響いたのは錯覚だろうか。
支配するのは白い空間。これが夢だと識っている。
精神を封じるのは真昼の闇。静かに裡に侵ってきて、心の中に巣喰ってく。この空白に支配されたら心に夜が訪ずれるのだ。真昼の月すら昇らない、永久に開けない白い夜が。
上天も奈落も何処にもない。
それとも遙かに続いているの?
けれどこの目に見るは叶わず、真理はいつも遠かった。この目に隠され映されない。
知っているのは酷く広大な空間であること。
これは時折自分を侵食してくる心の中の空白だ。目が覚めると深い精神の疲労。それなのに意外と冷静で、時々慟哭が押し寄せる。何でもないのに冷や汗をかいていたりするのだ。
闇の正体が明らかになったのはそんなに前のことではない。
いつからこんな風だろうか。
首を傾げて悩む間までもなく、記憶は明確に奇妙にはっきり答えを示した。
母が死んでからだった。
多分その時点で自分は何かを放棄した。何も考えずただ怠惰に受けられる、絶対の信頼と愛情を喪って、たった一人で立つしかなかった。その時生まれた弊害だ。
麻衣自身がどうすることもできないし、時折訪れるこの空間は酷く心理に苦痛を与えたが、客観視する自分の精神を何とか確立することで、精神の瓦解を免れてきた。そのうち冷静なその部分が、この状況を分析し始める。
頭の回転は良くないと思うけど、納得し得ない状況に怠惰に甘んじるような殊勝な性格ではなかった。
つまり、跳ねっ返りなんだよね。
くすりと思わず苦笑する。小さな可愛らしい顔に、何とも言い難い笑みが広がった。今まで何の表情も浮かべず、ただ周りを見回していた不自然な無表情が一瞬消え去り、なのに不自然さは拭えない。
いつもの彼女の笑みからは、酷く離れた物だった。
苦笑を浮かべながら白い背景に融けそうな自らの手のひらをそっと開いて、視線を落として見下ろした。
人の死に、それも近しい人の、それも唯一の人の死に。
心の中で何かが砕けた。
脆い硝子細工のように。
心の側面は三つある。
いつも表に出る自分。一番元気な表の部分。
客観的な硝子越しに遠い自分。砕けた欠片を抱いて泣く、一番幼く可愛らしい自分。
もう戻れない。戻らない。戻りたいとも願わない。けれど戻ることを願っている。
あの頃に。
くっ、と力を入れると華奢な両手が握られた。色素の薄い彼女の姿は、白影の中に溶け込みそうだった。
心を預ける場所があったの。この世界で一番安らげる場所を喪ったとき、自分の知らない何かが壊れた。
それはとても尊い物だ。そして優しい物だった。
硝子越しに遠い自分は、壊れてしまったおもちゃを抱きしめて、ずっとずっと泣いているのかも知れない。
喪ってはならない物を喪ってしまった。喪ったからこそ手に入れたものもあったけれど、どちらも比べうるものではなかった。
自分の何処かで、三つ目の側面の酷く客観的な自分が下した結果と見つけだしたものを静かに鳶色の瞳が見下ろした。見つけだした三人の私を。
見つけなくても、良かったのに。
呟く声は誰も聞かない。自分すら。
多分死を、乗り越えられているとは思う。
時間は優しく残酷に、全ての感情を変幻させてく。
でも、受け入れたくないと、何処かで誰かが泣いている。
その嘆きを誰が聞くのか。
「子供なんだよ……うん、結局。ね?」
花色の唇がそっと動いて、一番最後に音もなく、空気だけが名を刻む。唇だけが呼んでいたのは、少女の母か、それとも?
握りしめた手のひらの小ささ。華奢な身体がそこに立ってる。
自分を抱きしめて大声で泣くのと、唇をかみしめて嗚咽を殺すのと、涙もこぼさず立ちつくすのといったいどれが強さだろう?
乗り越えていたと思った。こんな物を見つけるまでは。
ただ、あの暑い夏。森の中で見つけた事実に泣いた後日。久しぶりにこの白い闇の夢を見た時。
何故こんなに『死』は身近なんだろう?
心の中で誰かが絶叫していた。
慟哭の嘆きが胸を穿つ。
けれど見出したのはそれだけではなく。
細い指先と青く血脈の浮かんだ薄い肌。
その手を無理矢理掴んで浮上させ得る存在を見つけたのは、客観的な自分が答えを見つけた時期と前後している。はっきりとした記憶は曖昧だったけれど。
その手をいつか、取るのだろうか?
泣かない。心の中で絶叫する。
泣きたい。心の中で呟いた。
慟哭は誰も聞かない。
「ナル?」
浅く沈んでいた意識にソプラノが軽やかに響いてきた。
うっすら眠気を引きずりながら微睡むままに瞬きをすると、ぼやけた視界に世界が移る。
取り敢えずは白い手と長い指先。軽く腕を足を組んだすらりとした痩躯の身体は、全身一色の黒尽くめだ。視界に落ちかかる黒髪が邪魔で、組んだ腕を解きながら無造作に前髪をかき上げると上の方から覗き込む、幼いような少女が居た。普段は逆転する視点も、今はこっちがデスクチェアに座っているせいで麻衣が見下ろす形になるのだ。
軽く首を傾げながら、可笑しさを隠せない様子で麻衣がくすりと笑いを漏らした。生来の活発な色彩が、鳶色の瞳に鮮やかだ。
「居眠りだー。いーっつも人のこと馬鹿にしてるくせに」
くすり、で許容される笑顔は、どちらかというと、にやり、の方が正しいかも知れない。
自分が失態を演じたことに気が付かざるを得なくて、ちっとばかりに心の中で舌打ちを漏らす。
悪戯っぽく笑う麻衣に、不機嫌なテノールが返された。
「僕は誰かさんのようにやるべき事を放って置いてまで居眠りすることはないがな?…で、やるべき事はどうした」
ちらりと斜めに見上げるは、真の闇色の鋭い視線。対抗すべく胸を張り自信満々麻衣は宣言した。
「終了しました。通常生活を維持できなくなるほど睡眠を削られる不摂生な所長様」
慇懃無礼は上司の特許だ。だが、部下は上司に似る物である。培う技術の土壌はいつも上司にあるのだ。哀しむべき事かは知らないが、この二人にとってそれは仕事の技術以外にも言えるようであった。
謀らずも、自分が鍛えてしまった毒舌の反撃を食らってナルは内心眉をしかめる。それを見透かしたようににっこりと微笑む麻衣が気に入らない。取り敢えず内心の感情はおくびにも出さず、無敵の鉄面皮でさらりと無視する。斯くも本家本元は伊達ではないのだ。
オフホワイトの壁が採光を制限した室内に薄い陰影を付けている。ちょこんとデスクの横に立ち、自信満々の麻衣の余裕にひびが入るのはきっかりと彼女が礼を終えてからだった。
「書籍の整理は?」
「完了です。それから今日の分の郵便物も全て分別してあります。お茶でも持ってきましょうか?」
さり気なくナルとデスクの上にある、分厚い書籍を隔てながら、後ろ手に本を奥へと追いやる。
綺麗な白い顔色が、いつも以上に白く感じられるのはきっと気のせいではないはずだ。多分正面から換言しても、看破されるのが落ちだから、こういう場合は時折実力行使も止む終えない。お茶に一服、睡眠薬入りの薬でも、盛ってしまえばきっと話も早いのだろうが、今のところはそんな物騒な事態にはなっていないのは偏に僥倖のお陰だろう。
今日の分の仕事は全部終えてある。やることをきちんとやったのだから、このくらい言っても強い反撃は受けないはずだ。自信満々計算しきちんと考えた戦略に、麻衣は得意げに胸を張る。
絶世の美貌が微笑んだのはまさしくその直後のことだ。
「言っておいた書籍のリスト化は?」
その途端麻衣が凍り付いた。ぴし、と音を立ててしまって、呼吸すらも止まったかも知れない。
「資料のファイル整理は?安原さんが行った先行調査の結果のまとめは?ビデオテープのラベル貼りと整頓は?本国から来たメールはこちらに回せと言って置いたがそれはどうした?」
次から次へと連なる仕事の数々に、不意に数時間前まで記憶が巻き戻った。あの時は確かぼうっとしていて――あの夢を見る前後はいつもそうだ、そのくせ酷く夢が顕れるのは突然なのだ――そういえばそんなことが言われていた気もしないでもない。
今や絶世の美貌の微笑みは、先ほどの仔猫のパンチのささやかな反撃に、大人げなく怒る不機嫌で不遜な猫に他ならない。絶対零度の冷気を宿して、氷点下など軽く下回る。
「まだ、です」
「何?聞こえないが?」
「――未処理です!」
さっきまでの得意満面の無敵の笑顔は、今はくるっと変化して、鮮やかに頬を染めながらきっと眉をつり上げる。
それに満足したように、ははんと軽く笑って見せてデスクチェアに背を預け直す。ぎしりと身体の節々がなり、首の筋が少し痛くて白い目尻を軽く眇めた。確かにこんな所で居眠りしていた自分が悪いのだが。
少し痛い腕を伸ばすが、外見には欠片もそれを出さないでそのまま栗色の髪をつん、と引っ張る。
「何ー!?」
もはやこちらの為すこと全て、意地悪にしか見えない麻衣が叫んで身を引こうとした。
その絶妙のタイミングを見計らってぽつりと呟き程度に、けれどはっきりと通る音でテノールが響いた。
「寝癖だな」
悠々と片肘を付いて軽く頭をその手に預けながら、斜めの視線が涼しげだ。
今度こそ完全に硬直した麻衣に深々と溜息を吐きながら長い足を組み直し、無敵の無表情が麻衣を見上げる。足を組み直す仕草すら、決まっているから洒落にならない。
「普段から睡眠時間をあれだけとっていてなおも通常生活に支障を来す不肖の調査員様?」
綺麗な顔は、物の見事に嫌みたっぷりだ。
内心で怒りつつ、焦りつつ、後退しつつ、何かと忙しい麻衣だったが、触れている手に心理的作用をもたらされないよう極力関心を向けないで、引きつりながらもいつもの通り応えてやった。
「ナンデショウカ?所長」
小さな口元が引きつっているが、矜持がそうさせ得たのだろうか、ソプラノの響きは綺麗なままだ。
「お茶を持ってこい」
せいぜい笑ってやりながら、ぞんざいに言いつけてやるとくっと一瞬言葉に詰まって、下を向いてしまった麻衣がばっと栗色の髪を散らして小さな顔を潔く上げた。
「ああ!滝れてやりますとも!」
「飲めるものをな」
しっかりと付け足す辺りがさらに怒りを倍増させる。そりゃあ内心、布巾の一番絞りとか、渋くて飲めないのでも滝れてやろうと固く決意したとは言わないけれど。
言外にまずければ飲まないと宣言してくる不遜さに、握ったこぶしを震わせながら取り敢えず殴ることだけは堪えてやる。
そう、堪えてやるのだ。堪える、では決してないのだ。
不機嫌というより、怒って毛を逆立てている猫のような雰囲気の麻衣の微かに染まった目の縁に、さらっとした感触が滑って思わず麻衣は息を止めた。
今の今まで胸中を、支配していた感情の波もさあっとばかりにどこかに飛んで、思わず漆黒の瞳を見返す。
さらりとなぞられた目尻。硬直したのは麻衣ばかりではない。じいっとそこを視ていたナルが、そっと指を離して行った。指の先が微かに硬い。内心乱れた/惜しんだ心をおくびにも面に出さないで。
絶世の美貌は、白と黒のコントラストも相まって、さっと涼しげなままだった。
「……ゴミが付いてる」
「え?そう?」
ぱっと麻衣が目を擦る。目尻に付いた埃が払われ、取れた?と仕草で聞いてくる麻衣に適当に肯いてやりながら、我ながら下手な言い分だと胸中で語散た。言い訳でないだけ、まだましか。
「じゃあ滝れてくるね」
くるんと元気な仕草で、小柄な身体がきびすを返した。その足取りが一歩二歩、軽やかに進み出たところで、ぴたっと止まって振り返る。
びしっと華奢な指先がデスクの上の本を示した。
「読まないでよ?」
「嫌だ」
軽い冷笑が帰ってくるが、それにめげずに麻衣も笑む。
「お茶の間だけで良いから。そうしないと凄い物飲ますからね」
無敵の笑顔を閃かせ、後は反論も聞かない勢いで戸口の方まで駆けていく。
にやりと笑んだ鳶色が最後の最後で勝利の冠をかっさらい、後に残るは静寂のみ。
ぱたんと扉が閉じてしまうと、賑やかさは一気にどこかへ行ってしまった。
子供としか思えないような麻衣の主張に溜息をつきながらくるりとデスクチェアを回してすらりと立ち上がる。
確かに昨日の夜更かしは影響しているようだった。漏れかけるあくびを噛み殺していまいちクリアにならない頭を振る。
夢の残滓が残っている。不意に目を閉じたままだと辺りが闇に沈んだ夢の残滓を見せるようでナルは微かに瞬いた。
落ちる黒髪をかき上げてとん、と足を組みながらデスクに行儀悪く寄りかかる。
コンピュータの電源を入れるとディスプレイに白い光が一瞬溢れた。演算音が回り始める。かりかりと意識の底をひっかき、記憶に残って消えていった。
そのスイッチを入れた指先を見下ろして、溜息をそっと吐きだした。
鳶色の瞳。目尻に残った涙の跡。
微かに汗ばんでいたのは、きっと冷や汗のせいだろうか。
触れた指先が熱を残した。
どちらに?
吐いた溜息は沈黙と、コンピュータの低い駆動音に掻き消されて沈んで行くのみ。
夢見が悪いのはお互い様か。
けれど心の中まで入らない。ボーダーラインは超えないから。麻衣も越えない。
だから慟哭は誰も聞かない。
夢の世界を誰も知らない。
夢より深い底の底。
光も差さぬ上天の下、黒/白/モノクロームの闇の底。
夢よりも深い場所の心裏を誰も知らないし、慟哭も誰も聞かない。
遙かに高い天上に、響いて落ちて割れるのみ。
空/地上の音は遠いのだ。
未だ。
‖home‖novel?‖ □後記
書いている間中楽しくて仕方ありませんでした。くっつく前の二人の話のストックはまだまだあります、微妙なところが大好きです(笑) 「まだくっつく前(でも何となく意志の疎通有り)の二人」…リクエストは通っているでしょうか?4444hitgetの朔さんへ捧げさせていただきます。 「二人」と書いてあり、名前の指定はありませんでしたが…間違っていないことを祈ります(笑)リクエストしてくれてありがとうね!