--+--+ 記憶の鍵
「綺麗だね」
 にっこりと少年が微笑んだ。絶世の美貌は柔らかな陽光にふわりと浮かんで通り過ぎる風は優しい。目の前で至極上機嫌に鏡写しの美貌が笑う。
「ジーン。寝言は寝てから言え」
「うわ、酷いね。せっかく珍しく弟を誉めてるのに」
 無碍な言葉に代えるのはくすくすとひそやかな少年らしい高さの声。跳ねる楽しげな響きに、その視線の先で本を読んでいる青年の眉間にしわが寄った。デスクチェアをこちらに向けもしないで、視線は紙面に落ちたまま。
 開いた窓の向こうにはフェアゴールドの陽光を受けて風に揺れる緑の木々。さやさやと謳う葉の柔らかさにジーンはそちらへとちらりと視線を向けた。それから、再び視線を伏せて本を読んでいるそっくりな容貌を保持する弟へと目を戻す。
「誉めているとは思えないがな……鏡を見ろ」
 同じ顔のくせに、と続くはずの言葉は言わなくても解るだろうとばかりに途中で途切れた。
 実に厭そうに返る声に、軽く肩をすくめてみせる。それでも楽しい笑いは収まらなかった。弟が困るところを心底楽しいと思ってしまう自分は良い兄とは言えないだろう。でも楽しいのだ。滅多に感情を表さない弟の心の欠片を鑑みれることは。
 口元に当てた手で苦笑を隠しながら、ジーンはベッドに転がった。弟は自分の部屋のものに他人が触ることを嫌がるが、それはその際考えないことにしておく。ベッドの他には彼が座るデスクチェアがあるだけで座るところがないからだ。
 見慣れた天井を見上げながら、デスクのほうへと声を飛ばす。
「違うよ、顔のこといってるんじゃない。それは僕らそろって良くあることだろう?」
 悪びれず誇るでもなく、ただ淡々とそれが事実なのだと兄は告げる。余り重要ではないことだと言外に伝えながら。ぱらりとページを捲りながら、自分と同じ顔に浮かんだいたずらっぽい表情が全く消えないことを、視線を上げずとも解ってしまっていたが黙殺することにした。
「じゃあ、何が?」
 それでも会話に、たとえ形だけでもつきあうのは実力行使を避けるためだ。
 兄は弟が何をしても無視の姿勢を決め込めば、彼もそれ相応の態度をとる。ただひたすら隣で喋っていることもあるのだがそれは実害がないだけ放っておけばいい。いきなり抱きついてきたり読んでいる本を奪い取られたりしたらたまらない。研究に時間を割くようになってからは、集中していたり研究のための時間と決めていると兄は弟の邪魔はしないがそうでないとき、たとえばブレイクタイムとか、食後の休憩のお茶の時間とかは彼は容赦しなかった。もしかしたら兄なりの譲歩かも知れない。小さな頃から一緒にいたから、そんなことをされても他人のように苦痛ではなかったから、この暗黙のルールをナルは守った。
 寝転がったまま、斜め下からうり二つの漆黒が見上げてくる。白い指先が宙を切ってゆっくりと自分の白い目元を指さして止まった。
「目。綺麗だなって」
「……眼科に行った方がいいんじゃないのか」
 素っ気ない弟に、形だけジーンは不快を示して寂しそうな顔をして見せた。綺麗な顔がそんな風に憂いを含むと、酷く気の毒そうに見える。だけど弟はげんなりとして、再び黙殺を決め込んだ。
 罠だ。いや、もとい、演技だ。
 外見以外全く似ていないと言わしめるこの兄弟は、ある一つの特徴だけは酷似していた。自分の内面を押し隠し、絶対と決めたボーダーラインを超させない。境界上に誰も置かない、例外中の例外は互いだけだ。ただその手法は違うのだが。一人は鉄壁の無表情で。一人は豊かな感情でもって。絶対無敵のポーカーフェイスを誇るのだ。
 自分とそっくりな双子の兄の、唯一の内面の共通点を弟が解っていないはず無かった。完璧なまでの憂いの美少年の上っ面だけのその態度を弟は見事に看破したのだ。
「心外だな。僕は誠実に真実を言っているに過ぎないのに」
 誠実ならその顔をどうにかしたらどうだろうか。鉄壁の無表情の下でナルは頭を押さえた。思った思考は言葉にならずに心の底へと沈んでいく。下手につついて藪から蛇を出す趣味はないのだ。
「この顔は生まれつきだよ。自分だって同じ顔のくせに」
 巧く隠したはずのその心の声をまるで聞いたかのように兄はぱっと顔を上げ、ころんと寝返りを打ち片手で顔を支えながらこちらを見上げた。其処で初めてナルは、心底厭そうに顔を上げた。それはまさに同じ顔。声のトーンまで同質なのだ。ジーンがふと表情を消すと、微かに異なる響きだけが、彼らが別々の個であることを認識させる。
「ジーン」
 低く不穏な弟の機嫌が下り坂であることに気づいても兄の態度は変わらなかった。くるっと瞳を巡らせて、にっこりと華やぐ笑顔を浮かべる。
「やっとこっち見てくれたね」
 満足そうに肯く彼の背後に、しっぽか何か見つけた気がして弟は目の端をぴくりと震わせた。
 心の声が聞こえたかのような返答は、彼が真実自分の心の声を聞いたために起こったことだ。それがどうして、いつから持っている力なのかは解らないが、希有な双子は希有な能力を保持している。そして互いだけが互いを知れる、直通のラインを持っているのだ。
 物質や動作を媒介とする必要のない、精神だけが語る言葉を彼らは互いに限り、聞くことが出来た。
 心の底に沈めた独白は、意味は違うが言葉通り以心伝心に双子の兄に伝わった。否、こちらからはもちろん繋いでいなかったから、伝わったと言うより覗かれた、と言うほうが早いかも知れない。ガードを怠ったのは自分のミスだが、一方的に回線を繋いでくるなんて、その上のぞき見の真似をするなんてジーンには珍しいことだった。珍しくとも何であろうと腹が立つのは変わらないが。
「お前な」
「こうでもしなくちゃ視界にも入れてもらえないだろ?嫌だったらもう少し積極的に会話しようよ、壁に話してるんじゃないんだから」
 弟の言葉を遮るように無敵の笑顔が花咲いた。よりによって壁扱いだが、された本人は現実にも是非そうしてもらったほうが静かで平和だと思っている。
 こういう強硬手段の方法を失念していたせいなのか、弟は見上げられた漆黒の視線に向かって苦々しくため息を付く。今度からはもう少し警戒しなければならない。兄と話すのに警戒も何もあったものではないのだろうが、それは世間一般にしか通じない意見だ。
 そのため息を諦めのため息だと思ったのか、ころんと寝返りを打ちながらジーンが朗らかに笑って目だけでごめんと誤った。けれど悪びれない、他に言わせれば天使の笑顔、自分に言わせればくせ者以外の何者でもない笑顔だったからそんな謝罪を頭から信じる気にはなれないのはナルが悪いわけではない、はずだ。
「ほら、そういう目」
「は?」
 不機嫌に水を差されたように、ナルが瞬く。
「ナルは目に力を持ってるから、それが拒絶に働くと人は避ける。都合良いとか思ってないでね?僕は弟が避けられるのは嫌だから」
 柔らかく和んだ闇色の瞳が窓からの陽光を弾いていた。光を吸い込む濡羽珠にはそれこそ勁い光があるのに。
「僕が此処に居れるのは多分同質だから。異質でもあると同時に、根元は同じだから」
 不意に笑顔が消えて、仰向けになった逆さまの姿勢からデスクチェアに座る弟を眺める。その整った顔と体。
「君の拒絶を看破してくる人は、これから生きていく中で後どれくらい居るだろうね」
 奇妙に不思議な真摯さで、同じ声が響いていく。窓からの風に流されて小さな声は確かに届いた。
 何処か寂しそうな兄の様子に引きずられそうになる心の動きを感じる。これだから双子は厄介だ。同調(シンクロ)してしまえば面倒だ。だからこそ簡単に引きずって行かれないよう確固たる感情を、片割れたる自分はもって生まれたのかも知れない。傾く心を感じながら、それはおくびにも出さないけれど。
 不意にナルが視線を伏せる。ジーンの瞳は見えなくなって、それでも彼がこちらをじっと見つめているのはいつも隣にいる気配だから解っていた。
「そのほうが、面倒が無くて良いんだがな」
「駄目。だからって僕のほうにみんな押しつけない」
 はあ、と今度は兄のほうが深々とため息を付きながらぱたんと力無くベッドの上に四肢を投げ出す。せっかく綺麗にベッドメイクされていたのにそのせいで皺だらけになってしまうが、兄も弟も、余り気にはとめない。自分/彼だからか。もしくは諦めたからか。
「苦労するのはこれから心を重ねる人だよ。あの子は僕も好きだから僕みたいな苦労負わせたくないんだけれど」
 今度は弟のほうが嫌そう顔をしかめてため息を吐いた。とたん、と綺麗な指先が白い本の紙面を叩く。
「だから、勝手に決めるな。名前も、実在しているかすらも解らないのに」
 あの子、とは兄が勝手に自分の大切な人になると断言している誰かだ。兄がそういっている「あの子」の姿を実際見たことはあるが、そんな未来が訪れるとは思えないし、たったあれだけの邂逅が未来を決めるとも思わない。それなのに兄のほうはいたく「あの子」を気に入ったらしく、そう決めてしまってはばからないのだ。どうして確信が持てるというのか。
「僕が決めたんじゃないよ、ナルが、それにあの子が、選ぶんだ。そして僕はその結果を知っているだけ。何となく解るんだ」
 呆れたような弟に真面目に声が返るが、その瞳は楽しそうだった。
 軽やかに小粋な仕草で指を振ると、鬱陶しそうに手を払われる。
 そのまま会話は打ち切りだというように不機嫌そうな黒い瞳がアルファベッドの海に戻った。弟を本に取り返されてしまって兄は苦笑する。
 風が吹いて柔らかに漆黒の髪を揺らした。その涼しさにふと瞼を閉じて、肌の上を過ぎていく大気を感じる。さやさやと謳う葉っぱの音が触れる全てに優しくて。
 ふ、と目を開くと、白と黒のコントラストが綺麗な鏡写しの美少年。伏せた目に趨る光彩を、弟自身は見たことがない。自分も、自分の目に宿った光など見たことがない。でも同じ勁さを持っている。直感だけがそれを伝える。向かうベクトルが違うだけだ。
 涼しげな目元に落ちる繊細な黒髪の影が、自分と同じように風に揺れ、ナルが視線を上げた。視線の先には開けた窓、遙かに広がる蒼天の空。フェアゴールドに照らされて、煌めくブリリアントグリーンと。
 細められた漆黒を見る。
「やっぱり、綺麗だよ」
 ぱちっと不思議と幼いように、年相応に瞬いた弟の瞳が兄を振り返り、満面の笑顔を見つけて不機嫌そうに呆れたように、表情を見せる。
 全く意にも介さずに、不機嫌な弟に笑顔を返せる人間は自分を覗いてそうは居ないのを兄は知っていたから、少し寂しく、少し嬉しげに、巧くそれを隠しながら綺麗に微笑んだ。
 
 
 その笑顔を思い出したのは同じキイワードが出てきたからだ。
 鍵は一つの言葉から。
 
 
「綺麗だね」
 細い首筋に薄い影が落ちた。白い月光は華奢な姿を儚く浮かせて、それでも夜の中で微笑む彼女は霞むことは何故か無かった。
「……良く云われるな、所で熱でもあるのか?」
 見下ろす美貌が鉄壁の無表情に呆れを少々含ませて、低く響く綺麗な音が静寂の中に降りていく。聞き慣れた響きは心地よく、心の何処かが触れて揺れた気がして鳶色の瞳が微かに揺れた。
 細い腕を伸ばして覆い被さるように華奢な体が少し浮いている。自分よりは小さな、柔らかな造りの手を、横たわるナルの首の両方について、白いシーツが彼女の重みに皺を刻んだ。
「ナルシスト。別に顔のこと言ってんじゃない」
 身体が感じる彼女の負荷は、初めての時、思った以上の軽さに驚いた記憶のままだ。細い腕も、細い足も、自分とは何もかも違う造りは自分と彼女が違う性を持って生まれたことを改めて感じさせ、肌を重ねる行為は自分と彼女が明らかに違う人間であると知らしめる行為に他ならない。あまりに当然のように側に居て、あまりに当然のように隣にいつも存在を感じるから…、それは理解していたはずの認識にしては、新鮮な感情でもあった。
「目。綺麗だなって」
 いつもとは逆の体制。上から覗き込む鳶色の瞳が深い色をして瞬いた。
 それは彼女が自分を見つめるときのくせなのだと、気が付いたのはいつだろうか。
 顔のすぐ横に付けられた華奢な腕が軽く上がった。
 柔らかな指先が掛かり落ちる漆黒の髪に絡まる。そっとかき分けると、深淵の闇を抱いた瞳が露わになった。
「綺麗に越したことはないと思うけれど、でも、別に顔の造作とかさ、そう言うのには興味ないの、意味もない。あたしにとっては。ね」
 暗闇の中で落ちるシルエットは服を着てさえいて細い。
 薄暗がりの中でも解る微笑んだ気配、暗がりに慣れていく視界に映る小作りな可愛い顔はやはり綺麗に微笑んでいた。その微笑みに一瞬彼らしくなく複雑な瞳の色が浮かんで、漆黒の目が眇められる。聡くそれに気が付いた麻衣がぱちりと瞬きして首を傾げて、仕草だけで何?と問いかけると首を傾げたせいで落ちてしまった髪の毛を、白い指がつん、と摘んだ。
「同じ事を言われた」
「誰に?」
 至極もっともなこの疑問には深い深いため息だけが返ってくる。あんまり深く聞かない方がいいのだろうか、と思いつつも好奇心は満足しない。大きな瞳一杯に疑問を映してじいっと見つめてくる鳶色にナルが閉口したかは解らないが、くしゃりと栗色の髪を混ぜてその視線を遮ってしまう。
「ナル!」
 乱された髪の毛を片手でなでつけながら白い手を頭の上から追い払おうとするが、逆に手首を掴まれて、そのまま引かれていってしまう。ひんやりとした指先が細い手首にからみついて、囚われた事実とその冷たさに隠された熱に心の枷が確かに軋んだ。
 細い手首の内側に呆然とする柔らかさが触れる。その感触に初めて触れたときのことを思い出す。男の人の唇は柔らかい。それともナルだから、だろうか。解らないけれど、自分の肌には概ね優しく、時に激しい。不意に過ぎった自分の思考に、思わず頬が紅くなるのを自覚する。この暗闇が隠してくれればいいけれど。
 ちらりと視線を上げると思い切り視線があってしまって薄闇に浮かんだ絶世の美貌がからかうように笑うのが、しっかりと見えたのが悔しかった。
 けれどその瞳の色に囚われている自分に、気づく。
 黒い瞳は数あれど、同じ黒さはこの世界にもう一対しかない。いや、今は彼岸に行ってしまってその一対すらすでに無いのだ。だから世界にたった一つ。いつの間にか喪われて久しかった。それに、浮かべた光はもう一対の希有な同質の力を持った、けれど異質の柔らかな光とは絶対に違うと思うのだ。
 光を吸い込む濡羽珠の磨いた黒宝石のような、それより黒い、真の闇を宿した瞳。瞬く瞬間が好きだ。ふせがちに絶世の美貌がほんの少し憂うようで、その瞬間に趨って消え去る光の色が大好きだ。
 それがたとえば、自分を見つめたならば、そんな幸運は強く灼き付く思いとなって自分の胸を焦がすのだ。例えばこの一瞬みたいに。
 心の琴線が震える。触れられるのは君だけなのだと、解ってくれている。
「ほ、ら」
 手のひら、指先、甲、爪、全てに唇を受けながら火照っていく頬を感じて、麻衣が笑う。
 押し倒しているのは自分なのに、振り回されているのが悔しかった。けれど奇跡のように自分が愛した人が、一番綺麗な瞳でこちらを見てくれる瞬間。伏せがちの瞳が麻衣を見て、微かに感情を表す一瞬を、今まで自分が積み上げてきた時間の中で何より大切に思っているから。
 熱に浮かされたような鳶色の瞳が、微かに潤んで瞬いた。
「ほら…綺麗、だ」
 柔らかな唇が聖母の清さで微笑むと、その祝福が降りてくる。白皙の白さに、落ちる漆黒の髪と、繊細な影に口づけを落としながら微笑みだけが消えない。
 この漆黒の目が見る物が、自分だけならどんなに良いか。
 柔らかな微笑みの影でそう考える矛盾に彼は気が付いているの?
 清くあればいいのに。聖母になんてなれないけれど。彼を知ったときから、成りたいとも願わないけど。私は自分勝手な女でしかない。
 幸せそうに微笑む少女に、漆黒の視線が返される。どちらからともなくさしのべる手に犯罪的に柔らかい、互いの唇を重ね、心を重ねようとする。目を伏せる瞬間うつるのは色違いの唯一の瞳のみ。
 薄い鳶色と真の闇色。互いに世界に一つしかない、唯一の光を宿した絶対。
 ん、と触れるだけで唇を離して、物足りなく思いそうな感情を心の底に隠して、麻衣は思いついて無邪気にぱちりと大きな瞳を瞬かせた。闇の中で明るい色素の薄い瞳が柔らかな光を弾いていた。
「もしかして、言ったのってジーン?」
 その思いつきに、体の下に押し倒された黒衣の美人の目元が不穏に歪んだ。
「……こういう場面で口にする名か?」
 それは少女の初恋の人であり、彼の曰く恋敵であり、そして彼の双子の兄でもある名前だ。ナルの主張は世間一般で言うなら至極まっとうな台詞だろうか、少女の方はありがたくもなくこんな時だけ酷く聡い。彼の言葉のその響きに何を見つけたのか、驚いたような目をして青年の疑問より、そちらの真実を優先した。
「そうなの?」
 絶世の美貌の不穏さをものともしないで物の見事に看破して、彼女は真実を見つけだした。その苦々しい表情を見ればようとして答えは知れようと言うものだ。思わず自分が言った言葉を反復して、麻衣は一瞬酷く真面目に綺麗な顔を見下ろした。そう、この綺麗さを――確かに自分は誉めていた。
「――口説かれたの?」
 至極真面目な鳶色の瞳が真っ直ぐこの問いを放った瞬間、一気に体制が逆転する。
「わあ!」
 一瞬宙に浮くシーツのシルエットを引きながら小柄な体にナルが簡単に覆い被さり、再び落ちてくるシーツを難なく片手が受け止める。翻る黒衣の裾と可憐な薄手のワンピースが闇の中で一瞬ひらめき、宙に放り出された細い手首を両手に戒め、柔らかなベッドに縫いつけて、麻衣はもう身動きがとれなくなっていた。
「なに!?本当に口説かれたの!?」
 わたわたと暴れ回って麻衣が抗議を示しているが、その口に出された言葉は彼を知る者になら命知らずとしか言いようがない内容が宿っている。それを言うならこれまでの言動や、押し倒すことだって彼相手にははっきり言って命知らずだ。麻衣以外に出来る人間はこの世に一人としていない。もしかしたら彼岸にもう一名、居るかも知れないがこの世ではない。
 渋面のまま見下ろしてくる、あっという間に体制をひっくり返した本人は心底嫌そうな瞳で麻衣を見下ろしていた。
「何でそうなる」
 微かに頭の痛くなる間の沈黙の末に口にしたのは至極もっともな疑問だった。何故、双子の実兄に口説かれねばならないのか。だが、返す麻衣の言葉も至極もっともな言い分だった。
「だって、綺麗だね、って男の人が言うと普通口説き文句でしょ?」
 思わず目を伏せて眉間にしわが寄っていく。沈黙したのは一瞬で、その一瞬の後に彼女を黙らせる術を思いついて彼は有無を言わせず口を塞いだ。先ほどの触れるだけのキスではなく、彼女を翻弄させるためだけのそれは激しい。微かに小さな愁眉がよって呻くようなかすれ声が仰け反る白い咽から漏れる。
 高い水音が響き、幾度か繰り返した後でやっと解放してやると伏せがちな鳶色の瞳が艶を帯びて、恨めしげに上を睨んだ。上気する頬と一緒に息が微かに上がっている。
「馬鹿なる…」
 明らかに言葉に力がない。はんと冷笑して見せて、濡れた唇に指で触れるとぴくりと肩を震わせる敏感さに彼自身、体の奥に何かが触れた。
「どっちが馬鹿だ」
 口調はそっけなく呆れしか含まれておらず、彼が隠したその衝動は、今は深く沈んだまま堆積するだけだった。
 震える瞼に唇を落とせば、柔らかな栗色の髪が頬に触れた。その色を、自然と愛しいと思える。
 繰り返される激しさの隠された口づけに、すい、と柔らかく鳶色が和んだ。押さえ込まれた姿勢から首を伸ばして、逆に唇で白い冷たい頬に触れる。くすぐったさに微かに片目を閉じると、その目尻にも、瞼にも、まるで猫の子のように触れてくる。いつの間にか自由になった華奢な片手が触れて繰り返し繰り返し、同じ事を続けていると、不意に顔を離して視線の先で鳶色が、うっすらと瞬いた。
「やっぱり、綺麗だよ」
 真っ白な月光に照らされた少女が軽く首を傾げると、さらりと髪が落ちていく。綺麗に浮かんだ微笑みがナルだけを見ていた。
 どっちが、と思うけれど、口には出さない。不意に暖かな陽光と、逆さまから見上げてきた自分と同じ色彩の瞳を思い出した。あの時も柔らかく微笑んだ/酷く印象に残っているのにたった今まで忘れていた。忘れないなと、あの時は何となく思ったのに。
 確かに時は途切れながら不変に、連続している。その逆光のように見難い視界から、ただ、温もりだけを探して。
 彼が言った未来がこれなのか、自分には確かめる術はないけれど、確信だけはしていた。時間は確実に流れているから。
 触れてくる小さな唇を、閉じた瞼に受け止める。啓いた先にあの笑顔。
 鍵は一つの言葉から。
 唇で触れて、奇跡のように開いた真の闇色を見つめてあどけなく少女が微笑んだ。その笑顔に一瞬だけ思いだした兄の笑顔と、憂いを重ねて、それが全く異質であり、同質な物であることに気が付く。思いの形が違えばそれは当然のことだから。そして何より、彼も彼女も、違う存在なのだから、比べるだけ馬鹿らしいというものだ。
 月光に浮かぶ微笑みを一瞬酷く真摯に闇色の瞳が見下ろした。そして二人して瞳を伏せて、どちらからともなく息も届く距離を縮める。消えた表情の下に、二人して感情を隠して。
 
 
 キイはたった一つの言葉。





homenovel?

□後記
ナル麻衣で甘くてあわよくば裏。そして「幸せ」。言い方は違いますが確かこんなリクエストだった気が…ぎりぎりまで頑張ってみました、本人達はおそらく幸せだと思われます…(汗) 申し訳ないことにリクエストから微妙にずれてしまっている気もしますが(大汗)10000hitの狭霧さんに捧げさせていただきます。多大なる感謝を♪
01/06/05 web掲載。