散り行き積もる。ただ、白く。白く。儚く白い仮想の夢に。

 ひらりとプリントアウトされた書類をめくる手が、止まる。整然と並んだアルファベットの羅列の上を白い綺麗な手が走り、ある単語はスラッシュで消され、ある単語は言葉を補足されていく。
 窓からの星か月の薄暗い光はブラインド越しに不思議な陰影を部屋に落とし、しんとした静寂がだけがそこを支配していた。どこか薄い色をした光の下で、黒い瞳が理知的に煌めく。
 微かに俯く姿勢に、少し長めの漆黒の髪が、視界に掛かり落ちてきていた。
 外の様子は、時間的にも問題があるのだろうが、今は本当に静かだった。
 世間一般では深夜と呼ばれる時刻だ。ここにいる人間の多くが今頃は寝静まっている頃ではないだろうか。
 が、その彼の予想を覆す、微かな薫りと音が静寂の支配する空間に響いたのは、彼が再びスラッシュを使い単語の一つを消した直後だった。
 
 ことん。
 
 柔らかな薫りが湯気と共にふあんと立ち上る。暖かいオレンジペコのマグカップが、机の端に置かれたことに気が付いて彼は顔を上げた。
 人の気配に聡い自分が気が付かないのは珍しい。それだけ作業に集中していたと云うことなのか。それとも彼の人故だからなのか。
 「あんまり根を詰めすぎたら駄目だよ?」
 誰も居ないと、居ても寝ているだろうと信じて疑うこと無かった当の人物が、漆黒の視線の先ににっこりと笑って顕れた。
 その柔らかな表情に、彼は柳眉を顰める。余計なお世話だとばかりにその絶世の美貌にはそう大書してあるような気がして仕方がないが、そんなことは取り敢えず無視する。素知らぬ顔で持っていた自分用のマグカップを口元に運び、柔らかい口当たりにほうと溜め息を付いた。
 「ほらほら、紅茶冷めちゃわないうちに飲んで」
 折角淹れたんだから。
 ひらひらと手を振って彼が紅茶を飲むことを催促する。
 彼の不機嫌は直っていなかったようだが、そんなことを気にしていては彼とはやっていけないだろう。しかももうずっと一緒にいるのだから、そんな気遣いなど自分たちの間には無用なのだ。
 作業を邪魔されたことを明らかに不快に思っているだろう彼は、机の端に置かれたカップと、それを持ってきた人物を無視して再び作業に没頭しようとした。が、それを見逃すはずがないのは彼の人物も同じ事だ。
 万年筆が滑ろうとしたプリントアウトを軽やかに一枚取り上げてしまうと、白い指先で薄い紙がひらひらと揺れていた。
 鮮やかに彼から書類を奪い去ってやると、冷ややかな、何処までも何処までも冷やかかな視線がひしひしと突き刺さってくる。
 「――邪魔をしに来たのか?」
 絶対零度のその鋭さに、満面の笑みが広がった。不機嫌絶頂な絶世の美貌ににっこりと全開の笑顔を返せるのは取り敢えず今のところ自分を含めてもかなり数は少ないと思うのだ。
 「うん、そうだよ」
 さらりと出た肯定の言葉にますます冷たく冷えた漆黒の瞳を前にして、こんな事を宣われるのは、本当に希少なのだろう。
 「出て行け」
 「駄目、ナルは根を詰めると周りが見えなくなって体調崩すまで無茶なことするんだから」
 ひらひらと揺れる書類を片手に、少しだけ首を傾げてみせる。
 口を付けていたマグカップをことんと机の上に置いてしまうと、もう一つのマグカップを空いた白い手が持ち上げた。
 「息抜きも必要。と、いう訳で、はい」
 不機嫌な顔の前に、白磁のマグカップが無敵の笑顔と共に突きつけられる。静かな笑顔と静かな無表情が見えない火花を散らすように、不毛な睨み合い(?)を暫し展開させた。どちらも静かな表情であるのに、どちらも不穏に思えてしまうのは何故なのだろうか、とこの場を目撃した者が居たなら、そう思わずには居られなかっただろう。
 そのしんと鋭い沈黙の後には多大な――それこそ嫌味以外の何ものでもないため息が漏れて、彼の白い手が机の上から上げられた。
 にこっと勝利の笑顔を最後に残して、その白い手の上にオレンジペコのカップを置く。
 絶対零度の不機嫌さはそのままに、それでも大人しく紅茶を飲む彼を、満足そうに見て自分の分のカップも再び持ち上げる。
 不機嫌さを隠しもしない漆黒の瞳が、ちらりと美味しそうに紅茶を傾ける姿を見て、ふと思う。
 彼の人物がこんな時間帯に起きていることが、酷く珍しいことなのだ、と。
 必要以上に眠りたがるとしか思えない彼の特性に自分がどのくらい煩わされてきたことか。
 「珍しい?」
 自分の視線を読んだのか、それとも思考を読まれたのか。
 悪戯を浮かべたような視線が、至極楽しそうに窓からの薄い光に煌めいた。
 室内の灯りは彼の机の上で書類を照らしているスタンドの明かりしかない。その少ない光が、僅かながらの月光と星灯りをぎりぎりの所で消してしまわずに、室内に酷く儚い陰影を落とさせていた。
 「そうだね、もう十二時か」
 机に置かれた時計をみて、視線がすっとずらされた。
 いつも人よりやたらと眠りたがるというのに、今日に限って目の冴えている様子の自分を、珍しげに彼は思ったようだった。
 確かに珍しいと自分でも思う。でも、今日は。
 すっと瞳が伏せられる。うっすらと瞬いた瞳は、薄い光を微かに弾いた。
 「予感がね――するんだ」
 いや、する、では無く、在る。
 伏せて合わなくなってしまった視線をまた元通りにあわせてきて、自分と同じ色をした漆黒の瞳が悪戯っぽく微笑んだ。
 「予感?」
 怪訝そうに返される言葉に彼は至極当然というように頷いてみせる。夜の薄い闇の裡に、漆黒の髪がさらりと揺れて白皙の肌に掛かり落ちた。
 「そう、予感」
 実に不透明なことを宣って、彼はカップを傾ける。白い湯気が立ち上り、彼の顔をけむらせる。
 「だから起きてる」
 片割れはそう云って、実によく似ている顔で、実に似ていない表情を造り、にっこりと綺麗に笑って見せた。
 
 
 不思議なくらい、透明な笑み。
 
 
 ふと、目が醒めた。
 低血圧なのか何なのか知らないが、酷く頭が霞んでいる気がして二、三瞬きを繰り返す。
 書斎のカーテン越しに薄く光がひかれている。デスクに置かれた時計を習慣的に見ると、未だ夜は明け切らぬ時間であった。
 室内はうっすらと暗く、付けっ放したままであっただろうスタンドの明かりが白々と白い。
 デスクの上には散らばったプリントアウトが散乱している。そばには無造作に積み上げられた書類やら資料やらの数々。
 バラバラになったそれらに囲まれて、一人煩く言う人間が居る気もするが、自分はそれが何が何処にあるのかはきっちりと頭の中で整理を付けて解っているわけだから別段構うこともない。
 散乱している書類の一枚がデスクから落ちそうに、頼りなげにひらひらと揺れているのが目について、ナルは腕を伸ばした。ぎしりとふしが微かに軋む。
 鈍い痛みに未だ霞掛かった頭の中で、今の自分の状態を呆然と把握した。ベットにいるわけでもない。デスクチェアに座り、仕事の合間にいつの間にか寝入ってしまったのだろうか。
 確かに散乱している書類は、全て切りの良いところまで片づいている。限界を超えた身体が溜まった疲労に耐えきれずに、ばつんと電源を切ったのか。
 ゆっくりと昨夜のことを頭の中でリピートさせながらナルはデスクチェアを軋ませて、もう一度深く腰掛け直した。
 外の喧噪は今はまだ遠く、住宅街は微睡んでいる。
 それでも耳を澄ませば微かな車や何かの低周波音が、静かに空気を振るわせていた。
 長時間続いた不自然な姿勢に、固まってしまったような躯に溜め息を付いて何とがデスクチェアから立ち上がる。すらりとした黒衣の姿が書斎のドアをくぐると、ぱたんと軽く扉が閉ざされ書斎は蛻の殻となった。
 
 
 キッチンによってコーヒーでも淹れようかとリビングに向かう。
 紅茶でも良かったが、今は自分よりも上手くお茶を淹れてくれる人物が居ない。彼女のお茶を常日頃から飲んでいる人物達の弁によれば、店や自分で淹れるものでは物足りなくなるのだそうだ。そう嘆いていたイレギュラーズの巫女と坊主を思い出してナルは微かな溜め息を吐いた。
 確かにそうかも知れない。こんな所に弊害が出ているとは思いもしなかった。
 そんな思いを抱いてリビングに入ると、人の気配が何故かした。こんな早朝にセキュリティの厳しいこのマンションに入り込める人間が居るとは思えない。ましてや自分が他人の気配に気が付かないはずがないのだ――例え眠ってさえいても。
 その条件の全てを満たしうる彼の人物は、ただ一人。
 噂をすれば何とやら、だ。
 キッチンに向かうはずだった足を方向転換させてナルはリビングのソファに歩み寄った。背の低い白いソファの背もたれの向こうに、小柄な影が横たわっている。
 ソファに散った栗色の髪。あどけない顔。華奢な体を無防備に横たわらせて、このマンションのセキュリティを問題とせず、また、自分でも気が付かない慣れた気配を持ち合わせた彼の人は、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
 「――――」
 取り敢えずとっさにどんな言葉も出てこなくて、無表情の白い顔に、微かに沈黙の気配が過ぎった。
 「ご飯はちゃんと食べて。あんまり無理しないで、最低三時間は寝ること!」
 昨夜びしりと指を突きつけ、黒衣の美人に果敢にも、そう言い付けた彼女は確か昨日帰るとか何とか云っていなかっただろうか。例えどんなに寝起きであり千歩譲って自分が寝惚けているとしても、記憶力には自信がある。
 大方自分の行動を信用せずに、出来る限り遅くまで自分に付き合っていた後に、そのまま眠ってしまったと云うところだろうか。
 未だ穏やかに眠り続ける少女を見下ろしてナルはすっと瞼を眇めた。
 眠るならせめてベットで眠ればいいだろうに。
 いつもは彼女の台詞なのだが、今回ばかりはそれを言うのはナルの役目になってしまった。
 溜め息を付きつつ膝を折り、小さな顔に手を寄せると、さらりと微かに冷たい栗色の髪に指を絡ませる。柔らかな白さの瞼が震えたが、起きる気配はなかった。
 子供のように首を竦める彼女に苦笑を漏らして、華奢な体に腕を回す。抱き上げても目覚める気配はない。
 心地よく穏やかな呼吸を繰り返し、薄い胸が上下する。その呼吸は何故か自分にも酷い安堵を与えていた。
 寝室に向かいシーツの上に彼女を降ろす。いつも酷く眠りたがる彼女が多分夜更かしをしていたのだ。目覚めは当分遠いだろう。
 ベッドサイドに座り込むと、微かにスプリングが軋む。無邪気な寝顔を何と無しに見つめながら、しばらく外の遠い喧噪に耳を傾けていた。
 冬を告げる風が窓の外で薄く硝子を叩いている。カタカタと震える音だけが、静かに空気を振動させていた。
 その音に、穏やかな寝顔からふと、目を離す。
 漆黒の瞳は震える硝子の音に引かれ、高い窓から空を見上げた。
 曇り空。未だ明け切らぬ朝の光は、薄ぼんやりと世界を照らす。
 酷く静かな空間。
 
 予感がね――するんだ。
 
 ふと、懐かしい声が耳に響いた気がして、ナルは静かにその瞳を瞠目らせた。
 同じ声、同じトーンで――全然違うしゃべり方の――。
 再びベットに視線を落とす。
 大切な少女は、未だ夢の中を彷徨っている。
 綺麗な長い指が、栗色の髪に触れて、梳いた。
 さらりと指の間から、戯れるように色素の薄い細い髪が、流れて白いシーツに散った。
 綺麗な手が離れる。黒衣の青年はすらりと立ち上がり、ぱたんと寝室の扉を閉めた。
 あとには彼女だけが残る。
 
 
 寒い。
 唐突にそう思い、麻衣はふるりと頭をふるわせた。さらさらと栗色の髪が頬からうなじへ散っていく。
 ゆっくりと白い瞼が瞬いて、明るい鳶色の瞳が、未だまどろみから醒めぬままに開かれた。
 パネルウォールの天井が見える。ふかふかと柔らかいベットが、暖かい布団と共に自分を包み込んで暖めてくれているのが感触で解った。
 でも、寒い。
 何でだろう、と思ってぼんやりと瞬きを繰り返す。全体的に色素の薄い華奢な瞳や髪や肌には、朝の薄い光が淡い陰影を付けていた。
 「ナル」
 ぽつん、と呟く。
 彼が居たと思ったのに、居ない。その熱がない。
 だから酷く寒いと感じたのだろうか。
 確かに彼が居た雰囲気の残滓は、意識の片隅に残っているのに。
 少しだけ不安になって、麻衣はそっと体を起こしてみた。見覚えのある寝室に、思った通り自分以外の人影はない。
 ベッドサイドに置いてある小さな棚にのった時計を習慣的に見てみると、いつも目覚めるよりずっと早い時間だった。もうすぐで夜も完全に明け切り、清冽な朝の光が世界を満たすだろう。
 徹夜明けなのに、こんな時間に起きるなんて。
 珍しいなあと思いながら、麻衣はベットから細い足を降ろした。
 冬の寒さに、フローリングの床が冷たい。
 空調が切ってあるのだろうか。
 それでも、その冷たさに頭が次第にはっきりしていくのを任せて麻衣はすっと立ち上がった。
 と、そこで思い至る。
 「――え?」
 徹夜を、した?
 そんなテスト前でもないのに、あり得ないことを果たして自分がするだろうか――?否、断じて、否、だ。
 確かナルに急ぎの仕事が本国から入ったのだ。それで、徹夜が続くみたいだったから心配して昨夜ナルの部屋に麻衣は乗り込んだ。それでも心配で、帰る気になかなかならなくて――ぷっつりと記憶はリビングで途切れている。何故、自分は寝室で、ご丁寧にベッドに寝かされていたのだろうか――答えは一つしかないではないか!
 ざあっとそこまで思い至って、麻衣は慌てて寝室の扉を開けた。
 ぱたぱたと軽い足音がせわしなく響いた。
 向かった先はリビングで、麻衣はさあっと部屋の中を一望してからすぐにぱっと踵を返した。
 居ない。
 洗面所か、キッチンか。でもそちらに人の気配はない。覗いてみたが、黒衣の姿は何処にもなかった。
 書斎だろうか。残るはそこだけ。
 微かな逡巡の後、麻衣は書斎のドアの前で軽くノックをしてみた。返事が在れば御の字だ。
 「ナル?」
 ここん。
 扉を叩く軽い音。
 返事は、無かった。
 きいっと押すだけで軽く扉は開いてしまう。
 散らばった書類と電源の落とされたコンピュータが、無言で主の帰りを待っているようだった。
 
 そこにも彼は居なかった。
 
 
 「ビンゴ♪」
 楽しげな声が窓辺で響いた。
 黒い瞳が夜空を見上げて、ジーンが嬉しげに笑っている。
 湯気立つ紅茶のカップを両手を暖めるように持ちながら、黒い瞳が窓辺から視線を外してナルを視た。
 「気象庁よりも僕の方が当てになるよねえ」
 くすくすと密やかな声で笑う片割れに、呆れたようにナルが溜め息を付いた。
 「科学的な根拠は何もないがな」
 「そんなもの無くても、存在するものはちゃんと在るよ」
 そんなこと知っているだろうに。学者気質な弟に、彼は面白がるような視線を送る。これから未来、きっと彼は研究者になるのだろう。
 祖国の寒さに夜が降る。小さなデスクでランプだけが、白い光を放っていた。しんと何処にも音がない。街の静けさは、宵闇と共にそっと家々を包み込んだ。
 ここも例外ではないのだろう。
 軽く肩をすくめてみせたナルに、小さく笑んだ視線を向けて湯気立つ紅茶を一口飲んだ。
 科学的な根拠など問題にならないほど非科学的な存在が自分たちなのだ。
 いつの間にか使えていた不可解な『能力』。そして兄弟間にだけ在るホットライン。
 無いはずのものを視る事が出来る力と、無いはずの力を行使させ得る力と。そして音声、視覚等の五感以外で意志疎通が成り立つ力と。
 何故自分たちに使えるのかは解らない。いつから使えるようになったか、それも定かではないのだ。もしかしたら幼い頃過ごした家庭環境に関係があるのかも知れなかったし、また、全く関係していないのかも知れない。この力の存在すら世間一般では非現実的だというのに、その力によりますます非現実的な『存在』を希有に感じてしまうのだ。
 科学的な根拠など、万人に理解させ得るためのファクターでしかないのかも知れない。
 何処まで深いのか、何処まで広がっているのか。それともそこには何も存在し得ないのか。
 ただ、酷く暗い空には海の底で光る硝子の破片のように星が散らばり、いつの間にか月は沈みかけていた。ああ、だから酷く空が暗く感じているのかも知れない。
 だから星の煌めきが、目に痛いほどなのかもしれない。
 その光を和らげるように、ぽつんぽつんと薄い雲が浮かんでいた。
 風がない。
 机のすぐ横にある窓の枠に軽く寄りかかっていたジーンがすっと体の向きを変えた。紅茶のカップをことんと机の上に置いて、窓の縁に手を掛ける。
 かたんと綺麗な白い手が、錠を外して薄い硝子の扉を開いた。
 夜が迫る。冷えた空気が肌に触れる。微かに窓の外に身を乗り出すだけで、吐く息は簡単に白くなり、凍り付いて消えていく。
 はあ、と息を白く染めながら漆黒の瞳が真っ直ぐ上天を見上げていた。
 白く青く、散らばる星に澄んだ黒がふっと、眇められた。
 「寒い」
 にこっと笑って後ろで呟かれた不満をさらりと流す。白い肌が闇に浮かんでちらりと揺れた。
 「気にしない」
 開いた窓だけに、切り取られた夜がある。白いランプの明かりでも、そこだけは照らすことは出来ない。不可侵の黒に、白い美貌が鮮やかなコントラストで不思議と儚く浮かんでいた。
 すっとジーンが腕を上げた。白い手が夜の闇に伸ばされる。
 手の平を空へと向けて、冷たい空気の中を彷徨う。
 ひんやりとした冷たい感触に、微かに漆黒の瞳が眇められた。
 そこに降りるは白い雪片。羽の軽さで舞い降りて、儚さの裡に消えて行く。
 「ほら、云ったとおりだ」
 融けゆく雪を見つめながら、満足そうな片割れの言葉にナルは微かに視線を向けた。
 白い手の上に、それより白い、雪片が、笑顔と共に差し出されている。
 
 予感がするんだ。今日は雪が降るから。
 
 何の根拠もないはずの一言は、確かに当たってしまったのだ――。
 寒さが苦手で、眠ることに至福を感じているらしい片割れが珍しくこんな夜更けに起きているなと思ったら、彼は自信満々にそう宣言したのだ。そうしてその通りに雪が降る。ぴたりと違わぬその一言。普通ならば偶然以外にはあり得ないことであろうに、ナルの反応は素っ気ない。当たり前だ。これは毎年のことなのだ。
 毎年恒例の彼の一言に、いつも驚くはずもない。
 素っ気ないうり二つの弟にも、兄はめげずに上機嫌だった。
 雪片はいつか融けて水となり、何もない手の平を、ジーンはそっと静かに握った。
 「いつも雪なんか興味も示さないで、寒いのが嫌だと寝坊ばかりしている奴の態度には見えないな」
 呆れと皮肉の入り交じった台詞に、膨れるでなく、不機嫌になるでなく。
 白い美貌がふわりと笑った。それは何処か解ける雪の優しさに似ている。
 「初雪はね。特別だから」
 漆黒の視線が、闇の融ける空へと向かう。
 星の煌めきが冴えていて、雲は酷く薄かった。月の明かりが西へと沈み、夜を照らさず眠りに就く。
 風がない。羽の如く、花弁の如く。
 夜の蒼い闇の中に、白い淡雪が舞っている。
 
 
 かたんとクローゼットの扉を開くと、見慣れたコートが見あたらない。
 家中を隈無く探しても何処にも見あたらないナルが、外に居るんだと云うことにやっと麻衣は気が付いた。
 今までの時間は何だったんだろうとか思わないでもないのだが、心の何処かが騒いでいて麻衣は顔を曇らせた。華奢な手が無意識に口元に当てられる。
 ここにナルは居ない。外出して居るのは何らかの用が出来たからだ。待っていれば必ず帰ってくる。でも何で、こんな時間に?
 答えのでない問いかけだけが、くるくると頭の中で思考の螺旋を描いていた。
 第一行き先が解らないのだ。下手をしたら入れ違いにならないとも限らない。ここで待っているのが一番なやり方なのだろう。
 それなのに何故、こんなに心許なく感じて居るんだろうか。
 どうしようかと悩んだ時間は短かった。
 雲って伏せられた鳶色の瞳を、きゅっと上げると小さな唇が引き結ばれる。迷っていてもしょうがないのだ。
 いつも一生懸命考えて、決めたことをやり遂げる。少しでも後悔を減らすために、自分らしく、生きるために。
 リビングに戻ると空調と火の元を簡単に確認して、辺りを見回す。どうせまた戻ってくるのだろうと思ったから、エアコンはつけっぱなしにして置いた。
 ソファに掛けっぱなしになっていたオフホワイトのコートを羽織り、ぱたぱたと玄関までを走っていく。オートロックのこのマンションの部屋は、一度部屋を出てしまったら自動的に閉まってしまう。ナルが自分が居るからと鍵を持っていって無い可能性を考えて、コートのポケットに鍵の付いたキーホルダーを確認すると麻衣はぱっと外に駈けだした。
 エレベータに飛び乗って、エントランスに降りると、ちらりと冬の空が見える。
 夜明け前。暁の空にはうっすらと雲がかかっている。冬の朝の空気が冴え冴えと冷たく静寂を包んでいた。
 何の根拠もなかった、けれど。
 行きたいと、行った方がいいのだと、強い確信が小さな胸には、確かな響きで宿っていた。
 
 
 酷く懐かしい夢を見た気がして、その夢とこの空が何故か重なる気がして、外に出ずに入られなかった自分にらしくないとナルは口元を歪めて苦笑を漏らした。
 陳腐なノスタルジアに踊らされるほど自分は殊勝な性格はしていないはずなのだから。
 ざり、と足下の地面が鳴る。黒いコートが風を孕んで酷く鮮やかに翻った。
 住宅街を少し奥まった場所、マンションからもそう遠くないここには公園がある。錆びた遊具や子ども達が忘れていったボールが、砂場の隅で寂しそうに転がっている。
 昼間は人々で賑わうだろうこの場所も、こう朝も早く、しかも冬という季節には、人影があるはずもない。
 ふっと息を付くと、冷えた朝の空気にすぐに白く凍ってしまう。
 別に公園まで散歩に来たわけではない。
 ただ。地面の上から少しでも広く空の見える場所に行きたかったのかも知れない。それでも狭い世界では、此処はビルディングの群や電柱に切り取られて、まるで箱庭のようだと思う。
 闇の瞳が空を視た。白い横顔に冴えた冬の空気が迫り、しんと静かに冷たかった。
 薄く雲のかかった空に、未だ朝の光は酷く遠かった。雲の向こうでちらちらと瞬く白い光が、時々見えるか見えないかくらいだ。
 その光を目で追って、白い瞼がゆっくりと閉ざされる。
 視界を遮断してしまうと、冷たい空気と、何処か遠い眠らぬ都市の喧噪が何も見えない感覚の中に降りてくる。
 らしくない。
 再び胸の中で毒づいた言葉は、音になり外界に触れることなく、静かに深い心の淵に、しんと静かに墜ちていく。
 何故今自分はここにいるのだろうか。
 祖国から離れた遠い極東の島に、こうして立っているのだろうか。
 考えても仕方がない。別に後悔はしていない。
 ここに来て、得たものは多かった。大切なものも、要らないものも、得難いものも。
 例え喪ったものの大きさに、嘆きの涙すら出てこないのだとしても、その大きさに気が付かないで、得たものだけを視ようとしているのだとしても、彼はそれに気が付かないだろう。
 もし、それが真実で、それに気が付いているというのなら、それはいつも彼の側に居る少女の方だけだろう。
 そう、後悔などしていない。後悔はない。なら、何があるのだろうか。静かに深い胸の裡には。
 白い息を吐き出す。
 次第に思考が回らなくなっていくのは、冷たい朝の空気のせいだろうか。
 ただ白く。何も考えずに。
 白く。
 
 白く。
 
 初雪はね。特別だから。
 ふと、脳裏に、酷く鮮やかに自分と同じ声が響いた。同じ声質、同じトーン、それでも全然違う、無二の片割れ。
 何故?
 問う、過去の自分に。片割れは何と応えただろう。
 彼の笑みが酷く鮮やかだったことを憶えている。
 それなのに、彼が何と応えたかだけはすっぽりと記憶から抜け落ちている。こんな事は、酷く珍しかった。自分が憶えていないなんて。
 優秀すぎる彼の頭脳は、記憶力も桁外れだ。思い出そうと思って思い出せないことははっきり言ってほとんどない。
 それなのに、何故か思い出せない片割れの言葉。
 ――彼は何と云っただろうか――?
 薄く開いた瞼に、漆黒の瞳が顕れる。
 酷く冷たい感触を、白い素肌に受けて、ナルはゆっくりと瞬きを繰り返した。
 降る雪片は羽の軽さで。触れた瞬間融けて消え去る。
 薄い雲が、目の前に見える。ちらちらと白く、雪が舞う。
 黒い瞳が茫然と降る雪を捕らえながら、静かに空を仰いでいた。
 
 
 初雪はね。特別だから。
 
 
 絶世の美貌に雪が墜つ。
 
 
 息を肩で繰り返して、麻衣は立ち止まった。ぱたぱたと響いていた軽い足音はそのとたん止んでしまい、再び早朝の静寂が戻る。
 鳶色の瞳が茫然と空を見上げて、麻衣は白い息を吐き出した。
 「――雪だ」
 ソプラノが零れる。
 しんとした朝の静寂を壊さぬよう、音無く雪片が舞い降りる。空を仰げばちらちらと視界に小さな雪が舞っていて、その光景だけが酷く現実離れしていた。
 舞い散る花弁のような雪。
 小さく息を吐くと、白く凍って胸に墜ちる。
 空から視線を振りきって、止めた足を再び麻衣は動かした。
 待っている。そんな気がする。何の根拠もなく、確信だけが強かった。
 降る雪の中を小柄な少女が走っていく。
 ぱたぱたと、軽い足音だけが静かにそこに残ってすぐ消えた。
 
 
 雪が降る。
 その冷たさに、震えることも知らないで。
 ただ其処に居る。
 漆黒の髪に白い雪が解けずにおちた。それはいつか雫となって、白皙の肌へと滑り落ちる。白い結晶が水へと変わる時間が短いのか長かったのか、何故か稀薄な時間の感覚でそれは解らなかった。
 特別だから。
 鮮やかな声が、記憶の夜に響いている。
 例えどのくらいこうしていようと、きっと思い出せないものは思い出せないし、変わらないものは変わらないんだろうと想った。
 白い瞼がゆっくりと瞬き、凍った息が吐き出される。
 何が変わらないのか。
 現実だろうか。過去だろうか。自分を取り巻く環境だろうか。
 どれでも当てはまる気がしたし、どれも当てはまらない気もしている。酷く曖昧な思考は、いつの間にか螺旋を描いて。
 仰いだ視線がゆっくりと伏せられる。漆黒の視線が地を這い、触れた瞬間に融けていく小さな淡雪を映している。
 
 どんっ。
 
 黒衣の立ち姿が、一瞬の衝撃に微かに揺れた。
 思わず振り返ろうとしたが、華奢な腕が自分の身体に回り、がっしりと放さない。
 何とか視線だけは振り返らせて、ナルはようやく自分の背中に思い切りタックルをかけてきた人物を見つけたのだった。
 微かに激しい息遣いと、早い鼓動が背中越しに伝わってくる。
 思わず瞠目して、ナルは一瞬の間だけ言葉を失った。
 「麻衣?」
 低い声が小さく零れ落ちた。
 自分の肩越しにさらさらとした栗色の髪が揺れている。
 抱き付いてきた細い腕は強い力で離れなくて、それでもぴたりとくっついてくる彼女の温度が酷く暖かく感じられた。
 身体に、心に、馴染むような。
 ナルの声に麻衣は応えずに、強くただ黒いコートを掴む手に力を込めた。細身の外見からはあまり解らない広い背中に顔を押しつけて、自分の表情が見えないように。
 見せないように。
 「麻衣…」
 抱き付いたまま離れない、何も応えようとしない麻衣にナルは微かな白い溜め息を付いた。
 その吐息にぱっと小さな顔が起きる。
 白く降る雪の中で、鳶色の瞳が強い光を灯していた。
 ぎん、と睨み付けるような強さで。否、睨み付ける強さそのもので。
 小柄な少女に似合わぬ思わぬ剣幕に、ナルは瞬きをして沈黙した。
 くっついていた小柄な身体がぱっと離れて素早く今度は黒衣の正面に回り込む。
 小さな公園に未だ人影はなく、喧噪は遠い。
 朝の光は雪に閉ざされ、白く閉ざされているようだった。
 真っ正面から真っ直ぐに見上げてくる鳶色の瞳を、見下ろす。
 何なんだ――?図らずもそう思ってしまった瞬間、白いコートに包まれた細い腕がすっと上がり、白皙の額に伸ばされた。
 雪に濡れた黒髪に、華奢な指先が掛かり視界を邪魔する掛かり落ちる髪を小さく払う。走ってきたせいなのだろう、頬に触れる指先は、こんなに冷える早朝にも暖かかった。
 そっと指先だけで触れていた手が、ゆっくりと手の平全体で絶世の美貌に触れる。暖かい、酷く優しい感触に、漆黒の視線がすっと細く眇められた。
 「――許せない」
 が、その酷く柔らかな雰囲気は、彼女の漏らした一言によって一気に瓦解してしまった。
 思わず視線を元に戻して、何処か呆気にとられたように鳶色の瞳を見下ろした。小さな顔は、何故か――怒りに煌めいているように、思えて。強く煌めく瞳には、華奢で小柄な外見からは想像も付かない、人を引きつけて止まない彼女の魅力の一つ、強い意志が宿っていた。
 ぱちり、と白い瞼が瞬きを繰り返して。
 「何が」
 微かに眉を顰めた。不快感を表すそれではなく心底不思議に、疑問に想うその表情に麻衣はきっと一段と強く鳶色の視線で睨み付けた。
 「何でこんなに冷たいの!もー信じらんない!いつから此処に居たの!!」
 悲鳴にも似た声が挙がる。
 片方だけに触れた手のひらを、もう一つ増やして、酷く冷えた肌に熱を分けるように麻衣は手を伸ばし触れた。
 男性には珍しく平熱がナルはかなり低い。それを差し引いてもこれは冷たすぎる。
 雪の降る中を傘も差さずに突っ立っていればそうなっていても何ら不思議ではないのだが、触れた頬の思った以上の冷たさに酷く腹が立った。
 「疲れてるくせに何こんな無茶してるの!」
 「……ま」
 「うわ、ほんと冷たいし!許せない、ぬくめてやる!」
 ぺたぺたと暖かい手のひらに触られつつも、ナルは絶妙なタイミングで反撃が許されずにされるがままになってしまう。
 こんなんじゃ足りないとか麻衣が思ったかどうかは解らないが、華奢な手を白い肌からいったん放すと、麻衣は今度は思い切り腕を伸ばして綺麗な首筋に抱き付いた。
 勢いに、白いコートの裾がふわりと靡いて冷たい風を孕んで閃く。
 ていや!とばかりにくっついてくる小柄な少女を何だか唖然と受け止めて、背伸びをして傾いだ小柄な身体にナルは軽く腕を回してやった。細い腰に手を回して支えてやる。
 以前何処かでこのパターンはあったような気がしたが、気にしていると頭痛が誘発されそうだったので精神の健康上取り敢えずは止めておくことにした。
 確かに連日の徹夜続きで疲れてはいた。本国からの急な仕事は、容赦なく自分の睡眠時間を削っている。それなのにこんな寒い日にわざわざ雪に降られ、自ら濡れるようなことを自分からしたのだ。
 溜め息を付きながらも、ぎゅうっと抱き付いてくる暖かさを、ナルは軽く抱き返した。確かに其処にある熱に、酷く心が落ち着いた。
 しんと静かな公園に、音無く雪が降り積もる。
 何の音もない。
 未だ薄暗く、朝の光は遠かった。
 抱き付いた身体は冷たく冷えていて、それでも確かに人の体温の範疇で、酷く、安堵した。
 薄暗い中に降る雪に、ただ、茫然と立ちつくしている黒衣の人影を見つけたとき。
 湧き出た感情は単純だった。
 哀しみと恐れ。そして怒り。
 このまま、消え去ってしまうのではないか。
 跡形もなく、まるで降り行く雪の如く。
 いつか何かの小説で読んだ陳腐な一節に似ている気がした。それと同じように。
 ただ立ちつくしている姿が酷く何かを拒絶しているようで。哀しかった。同時に失うことを恐れた。
 自分すら拒絶しているようで自分勝手な怒りが沸いた。彼が自分を拒絶するはずなど無いのに。
 そして、彼にそんな行動をとらせた元凶にすら、怒りは及んだ。
 その人物が、彼の人物だと識っていて、さえ。
 愚かで、我が侭な。何て強い独占欲なのだろうか。
 醜い自分の心を視た気がして、麻衣はすぐそばにある温もりにさっき広い背中に縋ったように強く顔を押しつけた。さっきと同じように、表情を視られてしまいたくなかった。
 こんな感情を向けること自体、きっと間違いなのにね。
 口元を歪めて、泣き出しそうに微かに、笑んだ。
 ある意味、この想いは『彼』と共有の物なのかも知れないのに。大切に思う心には、何処にも汚い想いなんて無いはずなのに、光と闇の如く、別てない何かの顔がある。
 落ちる静寂に。ソプラノの声がしんと響いた。
 「どうしたの?」
 知ってるくせに、問う。
 何もかもを拒絶するように雪の中で立ちつくしていた彼を視たときから何となく答えは解っているのに。
 「――別に」
 思った通りの答えが返って、麻衣は微かに空気を振るわせて笑った。
 何の音もない静寂の中で、自分の鼓動と相手の鼓動だけが、確かに静かに響いていた。
 麻衣は敢えて追求はせず、小さく首を傾げるに止めた。
 互いの腕の中でうっすらと目を閉ざす。
 目に映るのはすぐ間近の大切な人の姿と、何処までも降りゆき融ける雪のみだった。
 吐息はすぐに白く凍って。
 「冷たい」
 羽の軽さで降り積もる。
 花弁のように空に舞う。
 何処までも何処までも。
 白く。
 白く。
 細い腰に回された手はそのままで、栗色の髪に付いた雪を綺麗な指先が軽く払った。雪の白さに酷似した色が、しんと冷たく冷えているようだ。華奢な手がすっと音無く伸びて、麻衣は綺麗な手を取った。
 「冷たい」
 微かな不満が含まれた声に、ナルは呆れたように溜め息を付く。
 自分の頬に白い手を半ば無理矢理置かせながら、麻衣はにっこりと笑って見せた。
 「初雪だね…クリスマスにもまた降るかな?」
 「降らない方が寒くなくていいがな」
 冷たく冷えきってしまっている手をさり気なく麻衣の頬から放してしまおうとするが、華奢な手は以外にしっかりそれを阻んだ。
 「情緒がない」
 不満げな少女の声に、呆れたような声が降る。
 「そんなものに情緒を求めてどうする……」
 「良いの!クリスマスといえば雪なの!……それに」
 訳の分からない理屈で、麻衣は無敵に漆黒の瞳をわざと不機嫌さを装った視線で見返して、そしてふわりとそれが融けると、楽しそうに鳶色の瞳を輝かせた。
 「初雪は、特別なんだよ♪」
 
 
 初雪はね。特別だから。
 
 
 「へえ、何故?何処が、どう?」
 素っ気ない。興味ない。
 そう大書してある顔を向ける弟に、うり二つの兄は楽しそうに指先を振ってみせた。
 至極楽しげに、笑う。
 夜の闇に雪が降る。
 白と暗闇のコントラストは不思議と鮮やかで美しい。
 夜の闇に、酷く鮮やかに片割れは笑った。
 
 
 漆黒の瞳が、驚いたように開かれた。
 あの日の彼の笑顔と、目の前の少女の笑顔と。
 彼等は現実では逢ったこともないはずなのに。
 白い美貌が驚きに一瞬だけ染まり、その間だけ鉄壁の無表情が妙に無防備になった。
 ああ、本当に――。
 「似ているな」
 漆黒の瞳が、微かな、本人すらも気が付かない不思議な感情の揺らぎを宿してほんの一瞬揺れていた。麻衣はそれに気が付かない振りをして、鮮やかに笑う。
 小さく小さく落ちた響きは、麻衣には届くことはなかったが、ナルが何を言いたかったのかは良く、解っていた。
 初雪は特別。
 にっこりと無敵の笑顔で宣言した麻衣に、ナルは本当に微かに苦笑しながら問いかける。
 「何故?何処が、どう?」
 無関心、無感情。
 こんな物はただ単に水が結晶化しただけの物だといわんばかりの態度にもめげずに、麻衣は明るく笑って告げた。
 「綺麗だから」
 
 
 綺麗だから、だよ。
 
 
 何者にも染まらぬ白。汚れ無き色。そして最も汚れやすい色。
 この世で最も無垢な白。
 
 重なる言葉は酷く懐かしく、思い出せなかった深い記憶。
 色褪せない記憶。
 
 「――も」
 不意に鳶色の瞳から視線を離して、低い響きが空気を振るわせた。
 聞き取れないほど小さな声に、麻衣は静かに耳を傾ける。
 「ジーンも、同じ事を言っていたな」
 しんと降りた言葉に、鳶色の瞳がぱちりと瞬いた。
 「え?」
 小さく驚いた顔が、酷く幼く無防備になる。
 頬に置かれた手を滑らせて、華奢な項に手を回して、小さな頭を引き寄せた。
 「似ている、な…」
 彼女に彼の影を重ねる。失った何かを求めているのかも知れない。自分も、彼女も。
 酷く歪んだ思いなのかも知れない。
 それでも、それ以外の何かも、其処には確かにあって。
 「雪が、好きだったの?」
 ぽつんと少しだけ寂しげに、呟きが落ちた。
 黒いコートに頬を寄せる。酷く寒いはずなのに、暖かいと思った。
 うなじに回った大きな手のひらが栗色の髪に指先を埋めた。
 「いや」
 「……にゃ?」
 何だか思ったのとは違う返答に、思わず間抜けな声を出す。不可解に眉根が寄っていた。
 「視てるだけなら綺麗で好きだけれど寒いのは嫌だと言って滅多に外に出なかったな…。ほとんど寝てた気がする」
 「……ジーン……」
 酷く彼らしいというか、何というか。
 思わず頭を抱えてしまったのは麻衣のせいではないだろう。
 それでも、嬉しく思う。
 ジーンと共有している想いがある。それは彼を大切に思う気持ちだ。
 今も大切な人。
 そんな彼と、共通するところがあって少し可笑しくて、少し嬉しかった。
 でも自分の方が彼を想う気持ちはきっと大きい。
 自分勝手にもそんなことを思ってくすくすと麻衣は暖かい腕の中で笑った。
 こんなに時間のたった今でさえ、貴方は彼に強い影響力を持っているのね。
 裡に呟かれた言葉を無視して、麻衣は酷くあどけなく微笑む。
 胸に宿る怒りと喜び。どれも真実だ、不思議なことにどんな矛盾も含まずに、純粋に宿る真実だった。
 それは彼女の無垢さによる僥倖なのだろうか。
 汚れを知らぬ生まれたての白のように。
 
 
 「かえろ」
 
 
 何故自分は此処にいたのだろうか。問いの答えがふいに生まれる。
 無自覚のうちに、待っていたのだろうか。唯一、を。
 しんと不思議に、静かな静寂が落ちる。
 
 あどけない、何処までも無垢な微笑みにつられるように、絶世の美貌が微かに笑んだ。
 その笑みが、心の淵にそっと静かに沈むようで酷く優しい感情に、ほんの少しだけ泣きたくなった。
 音無く雪が舞い落ちる。ひとひら、ふたひら、ふわりふわりと散り行く如く。
 空は薄暗く、朝の光は未だ遠い。
 
 
 仮想の白の如く、儚く消え去る淡雪が、花弁のように舞っている。






homenovel?

□後記
「イギリスって雪降るのかな・・・」「降るでしょ」「じゃ、いつ頃?」「……」頼りにならない友人との会話です(笑)そして書いているとき情緒も何もないほどの大吹雪でした(笑)

所ですっきりしない最後です(爆)こんな風になる予定じゃ…あ、あれ?(爆汗)>修行不足。いつかこっそり書き直したいです・・・・
初雪は綺麗です。今年は夜に振りました。深夜に、何の音もしないのに雪だけが抜ける白さで舞い落ちる。思わず熱が四十度あったに関わらず部屋を抜け出し後で怒られました(もちろん病状は悪化)寒くて冷たくて雪かきなんざ絶対嫌だと声を大にして叫びたいですが、やはり雪は美しいのです。