ガシャン
盛大な音が、キッチンの方からリビングを突き抜けドアを閉めた書斎の中にまで響き渡るのに用いた時間は、ものの1秒もかかることはなかった。
音の発生した理由は、キッチンの床におそらく音の響きや高さなどを考慮して何か陶器製のものだと知れる物体が落ち、衝撃で砕け空気を振るわせたのだろう。人間は空気の振動を内耳の鼓膜に伝わる刺激により音を認識する。
――意味のあまりあるとは思えない思考を頭の中で繰り広げつつ、彼は読んでいた本から顔を上げた。綺麗な形の良い手が伸びて、かけていた眼鏡を長く白い指が外すと、白い美貌が明らかになる。それでも、その白さよりも客観的に見た場合、もっとも印象に残るのは、その漆黒の髪と瞳だろう。まるで闇が降りたような、白と黒の絶世の美貌は、彼の纏う黒衣を引き立てて止まない。
すいと綺麗な眉が寄せられると、彼はあまり感情が外に出ない顔に不機嫌さを大書して、コンピュータチェアから立ち上がった。
読み進めている洋書に後ろ髪を引かれつつ、開いたページの端に目を走らせ何ページまで読んだのかを記憶し、ぱたんと分厚い専門書を閉じる。それはそのまま綺麗な手に運ばれて、机の上に積み上げられた、未読の本の山の一つにぽんと置かれた。所狭しと置かれた本棚にも、机の上と同じように電話帳並に分厚い本がいくつも詰め込まれ、そうでない物は分類された資料や文献が、丁寧にファイルとじされて並んでいた。
紙の多いこの部屋は、その保存の都合上、光量が調節され僅かながらに薄暗い。
電源を入れはなして置いたコンピュータもそのままに、彼は盛大な音源の元へ向かうべくリビングへと抜けるドアを開いた。僅かながらに、今までいた場所よりも多い光量に、その漆黒の瞳をすがめる。
「あの馬鹿は…」
何をしているんだか。
苛立ち紛れに呟かれた言葉を、しかし聞く者は居なかった。馬鹿扱いされた本人がこの場にいれば、口では敵わないと知っているはずなのに、学習能力皆無なのか生来の性格からなのか、いつもの如く喧しく言い返してくるのだろうに。
だが今、彼以外は彼の呟きを認識できる範囲には居ない。幸か、不幸か。
それでも、その本人に直接今の言葉を言うためにも、早足で彼はキッチンへと向かった。
故にその声は低い響きと溜め息と共に、静かに沈んで溶けていくだけだった。
無惨にも砕け散ったお気に入りのティーポットを前にして、彼女はこれからすべきことを混乱しかける頭の中で必死に考えていた。
そう、まず経緯を思い出す。冷静になるためにも。栗色の髪のかかるこめかみに、細く白い指先を押しあてて彼女は少し前の出来事を思い出そうと努力した。
ええと……確か寝室に押し込まれたのだ。自分は。
そう、それで、暇で、することなくて。ただ寝てるのが苦痛になった。
少しくらいいいやと思って、お茶を入れて気分転換を図るため。
寝室を抜け出した。
断片的に記憶が次々と頭の中でよみがえる。
鳶色の瞳をぱちりと瞬きさせて彼女は自分が座り込む、キッチンの床に目を落とした。
白と黒の色合いが幾何学的に配置されたパネルタイルの、ごく普通のキッチンの床はこれと言った障害物は得にはなく、真っ平らで真っ直ぐ。シャープな色使いはこの部屋の住人である彼を、彷彿とさせる。
その、この部屋の住人―― 頭に浮かんだ漆黒の青年を思いだして、彼女は我に返った。
そう。熱湯を入れたティーポットを持ち上げて、手を熱から保護するための布巾を忘れていたのを知るはその直後。
陶器製のティーポットは、熱湯を入れればそれなりに熱くなる。いつもならポットを持ち上げるとき、布巾を使って熱さに当たらないよう注意するのだが、今日はそのいつもを忘れ、常よりさらに5割り増しくらいで注意力散漫になっていたらしかった。
その理由にも、心当たりは、不本意ながら……あった。
熱にじかに当てられ、ティーポットは重力に引かれるままに、落下。足に直接熱湯をかぶることはなかったが、それでも飛んできた破片や飛沫は、かわしきれるはずもなく、左足にかかってしまったのだ。火傷にしては軽度のものだろうが、それでも早急に冷やした方がいいに決まっている。だけど、落としてしまったティーポットをかわそうと、急に体を動かしてしまったのがいけなかったのだろうか。
いつもより重く感じる体を制御しようと頑張る頭が、急速な動作に耐えきれず、オーバーワークを起こしてしまったらしい。
目眩を目眩だと認識した瞬間に、体中の力は一瞬抜けて、無重力状態の後、当然の如くここは無重力ではないので衝撃、座り込むようにして倒れてしまった。
幸いにも破片の方には倒れなかったけれど、火傷したであろう左足をひねってしまっている。
今日は厄日だ。
きっと仏滅に違いない。
心の中で嘆きつつ、彼女は深く深く、溜め息を落とした。
そして先程心に浮かんだ、黒衣の青年の白い美貌を思い出しながら、彼女は可愛い顔をしかめた。
きっと、待っているのは痛烈な皮肉で。
あの青年は外見と遥かに反比例している性格の持ち主なのだ。
回避する方法はただ一つ。―― 彼にばれないうちに、ここを片づける。
そう、呆然としている暇など無いのだから。
彼女は慌てて身を起こしかけ、ふいに左足に起こった痛みに顔をしかめる。だが、敢えて、痛みを知らぬ無神経さでやり過ごし、壁に縋って起きあがった。
白く華奢な足首に、赤みが微かに差している。僅かに腫れてしまった患部を目にしないよう、彼女は鳶色の瞳を閉ざし首を振った。
「よ、し」
気合いを入れて、立ち上がる。足下を確かめるようにそろそろと力を入れていって、それでも走る痛みに彼女は顔をしかめた。薄い唇が、一瞬きつく噛みしめられる。
漏れそうな呻き声を、完全に噛んで殺すと、痛みに耐えていた鳶色の瞳を彼女はそっと開いていった。
「ナルに見つかんないうちに片づけなくちゃ…」
きっと気合いを入れて視線を強くする。だけれど、そこで思いも寄らぬ背後からの声に、せっかくのその気合いは瞬間凍結することになってしまった。
「誰に、何を、見つからないように?」
ぴたり、と、彼女の動きが完全に静止した。背後からかかった涼しげな声に、音がしそうな動作でギギギ…、と首を回すと、キッチンの入り口に寄りかかり、悠然とこちらを見下ろす美しい漆黒の瞳と、鳶色の瞳が出会う。
「ナ、ナル」
自分でも驚くほどに掠れた声に、彼女は内心の怯えやら焦りやらを隠す術を完全に失ってしまった。
不穏な雰囲気を宿す、絶好に不機嫌な漆黒の瞳は、真っ直ぐに、射抜くような強さでもって自分を見下ろしていた。
決して視線は逸らされない。
「真っ平らな、障害物と呼べる物もないような地面で転べるとは……全く、変わった特技をお持ちのようで」
トゲだらけの言葉に、喉が引きつって声も出なかった。
「それで?誰に?何を?見つからないように?」
一つ一つ区切られて、もう一度返ってくる質問に黙秘権はないと感じたのか、しどろもどろと彼女は口を開いた。
声の持つ強さと、言葉の持つ強さと、相まって、痛いほどにそれは胸に頭に響いてくる。
「えっと、あの……その」
「僕は」
視線の強さだけは、そのまま彼の美しさに比例する。それはもう、迷惑なほどに。
身のうちに闇を抱くかの如く、暗く透き通った、何処までも黒でしかないその色彩は、ただ、ひたすらに、彼女だけを見つめていた。
強い意志を秘めて。
「寝ていろと、言ったはずなんだがな…」
抗いがたい美しさを持つ瞳に、状況も忘れて一瞬魅入ってしまいそうになる自分を自覚する。それは、いつもいつも、彼だけには敵わないと思い知らされる瞬間でもあった。
ただ、それはこの黒衣の青年にも言えることなのだが、彼女はその事実を今はまだ知りはしなかった。
取り敢えず何か言い繕わなくてはいけない。内心だらだらと冷や汗を流して、考えて。
出てきた言葉は、正攻法といえただろう。
綺麗に高い、ソプラノの声は不機嫌な黒衣の青年にはどう聞こえたのだろうか。
「……ゴメンナサイ」
ぽろりとこぼれた謝罪の言葉に、彼はこれ見よがしに溜め息を付いてみせると、寄りかかっていたキッチンの入り口の柱から体を離して中に入る。
微かに薄らいだ不穏な気配に少しだけ安心して、それでも不機嫌さの変わることのない青年の不機嫌の元となっている物を取り除こうと、足下に彼女は手を伸ばした。
散乱した元ティーポットの欠片が、こぼれてしまった赤褐色の紅茶の中に浮いている。
彼女はこれを彼の不機嫌の最たる原因と判断した。
が、比較的大きな破片に伸ばした手を、いきなり脇から伸びた、一回り大きな手に捕まれる。阻まれて、彼女は隣に立っているだろう、この綺麗に整った腕の主を見上げた。
「ナル?」
怪訝そうにこちらを見上げる無垢な鳶色の瞳に、内心舌打ちをして、それでも白い白皙の美貌は無表情を揺るがせることはなかった。
「触るな」
短く告げられた言葉は素っ気ない。だが、確実に少女を怪我の危険から遠ざけようとする気遣いだ。
けれども、僅かに首をかげた少女が、その意味を理解してしまうよりも早く、青年は強引に少女の細い腰に腕を回して引き寄せた。
突然の勢いに驚いて、次に来るだろう足の激痛に耐えるべく、彼女は硬く瞼を閉ざした。細いからだが傾いで、引き寄せられるままに華奢なからだが倒れ込む。
が、彼女の足が床に着いてしまうよりも速く、彼は素早く少女の体を支えると、いとも簡単に細い体を抱き上げてしまった。
来るはずの衝撃が来ないことと、急に足が床から離れたこと、そして馴染んだ鼓動が酷く、とても側にあることに気が付いて少女は目を開いた。
完全に抱き上げられている状態を、認識すると共に頬が赤らむのを知る。体の体温が跳ね上がるような感覚、事実そうなのかも知れない。
熱を持った体が抱き上げられるままに、焦るように漆黒の瞳を見上げた。
「ちょっと、いきなり……!」
状況を自覚したとたんに、恥ずかしさが全身を灼いて、少女は青年の腕の中でじたばたと暴れた。
「ナル!」
往生際が悪い。
そんなことを考えつつ、焦って呼ばれる自分の名前を無視して、彼は少女をまったく視ずに、言った。
薄い色素の髪の毛が、視界の隅で揺れていた。
「麻衣」
一言、名前を呼び返す。一瞬、腕の中がぴたりと静かに硬直した。
こんな状態でさえ、その響きを酷く嬉しく自分が感じることに未だ戸惑う。彼の呼ぶ、自分の名前の響きが、特別になったのはいつからだろうか。
そんな少女に、心底意地悪く、彼は薄く笑ってみせる。
「暴れるな。落とすぞ」
それでも、彼の皮肉に腹を立てる自分が居ることも、確かな事実だった事も、改めて認識せざるをえなかった。
体の造りは明らかに、自分よりも華奢で。どこもかしこも白くて細い。
手首なんて軽く片手で両方つかめる。
何処に肉が付いているのか解らない位なのに、抱きしめると柔らかだった。
その柔らかさを、自分の腕の中にある華奢な体の造りから改めて自覚する。
色素の薄い柔らかな髪が、簡単に折ってしまえそうな細いうなじにかかるのが、麻衣が頭を俯かせたせいで、ちらりと目の端に覗いた。
ナルは腕の中に収まっている麻衣には絶対に感じさせない用心深さで、内心深く溜め息を付いた。
と、栗色の髪が揺れて、鳶色の瞳がこちらを見る。
「なに?」
「……何でも」
自分の心には果てしなく鈍感だというのに、人の心には、果てしなく麻衣は敏感だ。その中には例外なくナルも含まれている。ただ、どんぴしゃりとは当てないが、核心だけは突いてくるのだ。――もしかしたら、それが一番質が悪いのかも知れない。
自分でも思うのだが、何故麻衣は自分の、特に隠したいような雰囲気を、何でもないように察することが出来るのだろうか。自覚はあるのだ。自分が人一倍読みにくい人間であることは。当たり前の感情すら、滅多なことでは顔には出ないし、万一出たとしてもほんの僅か。
しかも長年培ってきたその性格を、改善しようなどと言う気ははっきり言って、さらさらない。
鳶色の瞳が瞬いて、射干玉のナルの瞳をじっと見る。
――先に目を伏せたのは麻衣で、彼に対する違和感を、確かに感じたはずなのに、何も言う気が無さそうなナルに眉を寄せた。確かに何かあると思ったのに。
僅かに下げた小さな頭から、白いうなじが再び覗く。
再びそれを目にして、腕の中の柔らかさを、ふいに強くナルは感じた。
心がさわりと波立っていく。
とても良く知る、そして知らない自分が目を覚ます。
ないまぜになる激しい感情。激しい二律背反。庇護欲と、過虐心。
あまりに華奢で自分とは違いすぎる存在で、それでも側に居るのは限りなく自然なことで。
だから、改めて自分という生き物と確実に違うと知れる箇所を見ると、ふいに麻衣という存在を意識する。例えば細い、男ならあり得ない華奢な体の造りであるとか、自分では持ちようのない価値観の違いとか。
いつも自然な状態だからこその、あまりに薄い麻衣に対する別の意識が、心の底から目を覚ます。
傷つければ泣くだろうか?
壊してみたくなる。時々。
それでも、いつも側で彼女らしくただ、笑っていて欲しくて、それを果てしなく自分らしくないことに護っていたいと思うここと心も、ある。
己の心に無関心さを装って、軽い体を抱えながら水浸しになってしまったキッチンからリビングの方へとナルは移動した。
観念したのか、往生際悪く暴れていた麻衣は大人しくなっていてナルは背の低いソファの上に静かに華奢な体を降ろした。
離れていく温もりに、一瞬だけ感じた寂しさを表には出さないで、麻衣は見下ろしてくるナルの目を見上げた。
先程感じた、ナルに対する不思議な違和感は、今はもう無い。
不思議に思いながらも、麻衣は今聞かなければならないことを頭の中で整理した。
――この、不機嫌な、反則的なほどに綺麗な瞳を前に、果たしてどんなまともなことが言えるのかは解らなかったけれど。聞き入れられるかもすらも、はなはだ怪しすぎた。
「ナル、キッチン片づけなくちゃ……」
言いかけて、止まったのはナルの瞳が先程よりも確かに、二割り増しくらいには不穏さを帯びたからだ。
怒ってるのは解る――問題は、その感情を受ける対象だ。
この場合は、彼に迷惑をかけてしまった自分と、キッチンのあの惨状に当てはまるのではないだろうか。それなら、まずは自分があそこを片づけなくては。
麻衣の頭ではそういった思考が繰り広げられたのだが、それはいかんせん想像であって、事実ではない。人の心の真実など、いつも闇の彼方なのだ。だから自分の心の中すら、解らなくなって光を求める。自分だけの光差す人を。
ナルの不機嫌さは、確かに麻衣に向けられてはいたが、それは彼女が考えている理由では決してなかった。
と、取り敢えず正論だと思ったんだけれど。
不穏な気配を纏った黒衣の美人は、未だ沈黙を守り、真っ直ぐに麻衣を見下ろしていた。いつもより寡黙なのはきっと気のせい何かじゃない。
「あの…」
居たたまれない雰囲気に、麻衣はどうにか声を出そうとした。でも、努力はむなしく、先は続かない。
と、低く響く、耳にとても心地よい、それなのに心臓には心底悪い声が、ナルの口から滑り出た。
「僕は確か、寝てろと言ったはずだが?そんな言葉すら満足に理解できないようで。サルの方がまだ利口ですね、谷山サン?」
「…ゴメンナサイ」
圧倒的な不機嫌を纏って紡ぎ出された言葉は、やはりというか何というか、綺麗で、耳に心地よくて。
腹が立った。
それでも自分が悪い。むかっとこようと、サル呼ばわりされようと、我慢しなければ。
「まあ、サルだって自分の状態を把握すれば、じっとしている分別くらいはあるでしょうし当たり前のことを解っている分は、サルの方がまだましですね」
淡々と、続く言葉。わざとらしい丁寧さに、いったいどれほどの毒が含まれているのだろう?
「せめてサル並の落ち着きくらい身につけてみたらどうです?」
綺麗な毒を含む声――言いたい放題とはこのことだ。目をつむって、耐えて。――いい加減切れた。
「だっかっら!ゴメンナサイって言ってるでしょーー!!??」
栗色の髪が、麻衣が上向いた瞬間、羽の軽さでふわりと揺れる。紅潮した顔が、怒りを持ってこちらを睨んだ。
「そんなに繰り返さなくたって!ちゃんと解ってるもんっ!!」
突然の反撃にも怯まず、ナルはしれっと冷たい無表情を歪めて笑う。
「サル以下だからな。このぐらい言ってやらないと解らないだろう?」
「―― それはそれは!どーもご親切に!」
「そうだな。自分でも親切すぎると思っていた」
……むかっときてぶちっと切れても、結局は、結局はいつも麻衣が言い負かされる。腹立たしい、こんなにこんなに、腹立たしいのに――!
むかむかして、儚い抵抗だとは知っていたが、それでも悠然と見下ろす漆黒の美貌を、睨み付けずにはいられなくて。そんなものを意にも介さないナルが悔しい。
ふと、二人掛けのソファか軋んだ音を立てた。
そのソファに、足を乗せながら半分横たわるように座る麻衣の、上から見下ろしていたナルの体が傾いて、その綺麗な白い手をソファの背もたれに、いつの間にか付いていた。
付いた左手を支えにして被さるように、麻衣の顔に近づける。
「え?」
呆然と近づいてくる漆黒の瞳を見返して、怒りに煌めいていた鳶色の瞳はその影を潜めた。息のかかりそうな近距離で、彼の顔を正視すれば、対外の感情は霧散していってしまう。
その理不尽さも今は忘れて。
ただ。魅入る――。
ソファに手を付いていない右手が、細い首に触れた。そのままその手はうなじへと登り、麻衣の顔を、引き寄せた。少し汗ばんだ、吸い付くようなさわり心地。
間近の鳶色の瞳が、驚いたように目を見張る。
密着する肌の熱さに、ナルはその秀麗な眉を微かに潜めた。
くっつけた額に触れる熱。明らかに、肌に馴染んだ常の麻衣の温度よりも高い。
合わせた額をそのままに、息がかかりそうな距離にある鳶色の瞳を睨み付けた。
「――上がってるな」
「――それは、あたしのせいだけじゃないもん」
真っ赤な顔で呟かれた言葉は、しかし面と向かって言えるはずもなく、麻衣の心の裡に落ちていった。
…誰のせい?ねえ、誰のせい!?
乱れっぱなしな心の内を知っているくせして、この、意地の悪い黒衣の青年は、あっさりとそれを黙殺してくれるのだ。
痛いくらいに心が乱れるのは、綺麗すぎる造形美と、深く底光る漆黒の瞳に魅入られたせい。しかも、それを持つ存在が、自分にとって唯一無二の絶対であればこそ、胸の痛みは大きく強くなるのだから。大変厄介なことに。
それでも、自分だけがこんな動揺を見せるのは嫌で、恥ずかしくて。何より悔しかった。
極力、内心の動揺を、それこそ見抜かれているだろうけれど、必死に隠して、どんなに努力しようと、絶対に目を離すことの出来ない闇降りる瞳を見返した。
「そんなに、大した熱じゃない」
我ながら、子供のような言い訳だ。
ぞくりとする何かを秘めた、不思議に底光る漆黒の瞳は、真っ直ぐで、逸らされない。
と、綺麗な闇色の瞳は、一瞬閉ざされて、ナルは深く溜め息を付いた。
見返してくるすぐ間近の、鳶色の瞳は、すねてるようで、頼りなげで。酷く幼い。
言い足りないとは思っていたが、そんなことで時間を潰すほど暇でもない。
それに、麻衣を言いくるめるなら、もっと自分にとって利益のある場合に、それこそ徹底的にやった方が楽しいのだ。
人でなしなことを平気で考えながら、ナルは微かに体を起こして、麻衣から離れる。だけど完全には、身を起こさずに、ソファから離した左手だけが、すいと宙を滑っていった。
綺麗な手が、白い肌に触れる。
薄く、柔らかい皮膚の感触。常より高いその温度。
触れるか触れないか。ぎりぎりの境界を踏み外さないように、白いむき出しのふくらはぎを長い指が辿っていく。
「ナル……!」
焦ったのか、微かに麻衣が声を上げた。
辿っていく指の感触が自分の中を微かに、だけど確かに乱していくのを、感じていた。
今は、腿まで覆うパジャマ代わりの白い綿のシャツ一枚しか身につけていなくて、むき出しの華奢な足を隠せる物は何もない。
膝のすぐしたから臑を、そして僅かに浮き出る骨格を辿り、ふくらはぎを滑っていく。触れた箇所がどうしてか熱い。
頬が上気するのがはっきりと解って、慌てて麻衣は足を動かそうとした。けれど、そのとたん、力を入れた足首に、忘れていた痛みが走って顔をしかめた。
長い指は細い足首を神経質に、注意深く持ち上げる。くるぶしに触れるだけで、麻衣の顔は歪んでしまって唇からは音噛み殺した声が漏れた。
キッチンで、抱き上げられた時点で、ばれているとは思っていたが案の定ナルは自分の怪我のことなど解っていたらしい。痛みとは別の感情に、小さな顔が曇りを帯びた。
「大した熱じゃなくても動き回れば悪化する。目眩の一つも起こして当然だろう?」
「痛くないよ」
そんな顔をして何を言うのか。
意地を張った麻衣の顔は、確かに足の痛みで曇っているというのに。
赤く腫れてしまった細い足首に、元の白さは見る影もない。痛めた患部は僅かに熱を持ち、断続的に強い痛みを発しているだろう事は容易に知れた。
しかも、その足首の上には、僅かばかりの軽度の火傷と小さな傷。微かに流れた血液は、白い肌と対比した、鮮やかな存在感でふくらはぎまで辿り落ちてきていた。
細い足から音もなく手を離すと、ナルはそのまま立ち上がった。
すらりとした長身は、少年期を終える時期丁度に一気に伸びた。顔つきからはだんだんと幼さが消え、それでなくとも大人びた雰囲気を持つナルを、一気に少年という枠から抜け出させた。
絶世の美貌は相も変わらず、漆黒の瞳はますます深みを増していく。光を吸い込む霧端間の黒。
見つめられれば、魅入られる。
完璧たるその美しさ――。
離れたナルの背中を見送りながら、麻衣は溜め息を付いた。
本当なら、今頃は、買い出しに出て食事して、楽しい休日を謳歌しているはずだったのに。
外は快晴、風は微風。せっかく珍しくナルを連れ出せると思ったのに。そのために無理矢理、約束までさせたのに――ただ一つ起こったイレギュラーは、麻衣が熱を出してしまったことだった。大した熱でもないし、こんな事でせっかくの約束をキャンセルしたくない。麻衣は当たり前のようにそれを隠し、ナルは、と言うと当然の如く、見事に麻衣の誤魔化しを看破した。
言い渡された判決は、至って簡単明快だった。曰く。
「寝てろ」
――そんなわけで、晴天の休日にベッドに縛り付けられ、行こうとしていた買い出しも流れた。
お気に入りの紅茶店には、今日、新しい茶葉が入荷される予定だったのに。
気分転換に、そっと寝室を抜け出せば、当然ながらワーカホリックのナルは、書斎に閉じこもって仕事の虫と化していた。それならこっそりでもお茶でも入れようと思って―― 切り傷一カ所、軽度の火傷、お気に入りのティーポットは瓦礫と化し、極めつけには足まで痛めた。
溜め息の、一つや二つや三つや四つ、吐いてしまっても仕方がないではないか。
その上、ナルにまで見つかって。
きっと今日は仏滅なのだ。
膨れっ面になりかけて、情けない溜め息を再度付いたとき、黒い長身の影が鳶色の瞳の端に入った。
もしやこのまま見捨てられるのでは。
そんな危惧がなかったわけではないものの、ナルが右手に持っている救急箱に、やっぱりと思って、何処か嬉しく感じる自分が居る。
同時に、迷惑をかけてしまってしまってすまないという苦しい気持ちも。彼は何より、仕事の邪魔をされることを嫌うのだから。
それでも自分がナルの中での例外中の例外であることに、本人だけが気づいていない。そんな様子を面白がる、保護者兼傍観者と当事者のナルとの間で、凄まじい応酬があったとか無かったとか。
左手に持っていたのは濡れタオルで、一枚を足の火傷に、もう一枚を額に乗せてナルはソファに背を預けて、フローリングの床に座った。高さの低いソファだから、丁度これで麻衣の視線の高さと合う。
持ち出してきた救急箱のふたをぱかりと開けて、中から取りだした湿布を、振動を与えないように持ち上げた、麻衣の華奢な足首に、ぺたりと張り付けた。
ほとりと額を冷やす冷たさに、タオルを押さえて麻衣は目を閉じた。先程とは明らかに種類の違う溜め息が、うっすらと熱で色づいた唇からこぼれ落ちる。
触れてくるナルの指の感触を無意識のうちに追っていた。ひんやりとした手の温度が、熱を持った足首に心地よかった。
よく知った手に、静かに安堵していく。波立った心は、いつの間にか静かになっていた。
「……ごめんね」
「謝るくらいなら、最初からするな」
「うん……」
鋭く痛いはずの切り返しは、何故か心に優しいと感じた。自分の趣味の悪さには誇りを持って良いかも知れない。
熱でぼうとした頭が少しだけ重い。
浸食していく、常とは違う熱のせいで、頭が壊れたのかも知れない。
ナルの言葉に腹が立たないなんて。
「ね、ナル」
貼り付けた湿布の上から、包帯を足首に巻きながら、器用に長い指が動いていく。
包帯の白さが、黄色人種にしては先天的に色素の薄い麻衣の肌の白さを、際だてていた。
ためらうような声は聞こえたけれど、ナルは細く白い足首から注意を逸らさなかった。
それでも構わないのか、それともちゃんと聞いていることを解っているのか。
ほんの少しの躊躇いと逡巡。鳶色の瞳は、僅かに揺れながらナルの手元を見つめていた。
「ありがと、ね」
うっすらと開かれた白い目の淵は、今は熱のせいで微かに赤くなっていた。
包帯の端と端を結んでしまうと、余った部分をはさみで切り落とす。しゃきんと高い、金属音が、静かな部屋に澄んだ音で響いていた。
「―― 別に、謝る必要も礼を言う必要も、無いだろう?」
当然のことを、したまでなのだから。
全部は口にされないナルの言葉が、声が。届いたかどうかは解るはずもない。けれど麻衣は、微かに微笑った。確かに通じる何かが、とても優しく心地良い。
「うん。ありがと」
話を聞く耳は持っているのか?そんな顔をしたナルに、それででも麻衣は嬉しげに笑った。
大切な言葉を、確かに伝えたかっただけなのだ。例え、声にせずとも伝わろうとも。
取り敢えず、そんな顔を見れば結局何も云えなくなるのだ。深々と、これ見よがしについて見せた溜め息にも、麻衣の笑顔は揺るがない。
怒りがとけたわけではないのだ、こんな無茶をした麻衣に。仕事の邪魔をされたことより、ティーポットをひっくり返して粉砕したことより、麻衣がふらふらと熱があるのに出歩いた挙げ句怪我を作っていたことが気に入らないのだ。
ただ、そんな心は麻衣は知ることはない。何せ慎重に慎重に、隠している心なのだから。例え僅かに彼女がそれを察したとしても、絶対に、はっきりと露呈することなど自分はしないのだ。
漆黒の髪を掻き上げて、ナルは溜め息を付いた。この性格は治る事なんて一生無い上に直す気なんてさらさらない。
絶対に、知らせることのない心は、また一つ増えて、心の底に沈むのだ。
掻き上げた手から漆黒の髪が落ちてくる。その悪い視界の中で、白い肌を伝う紅の雫を目にした。
ティーポットの破片が飛んで、傷ついた折れそうに細い華奢な足。
白と深紅のコントラストは、ふいの視線を、捕らえて放すことはなかった。
あおられるのは、過逆心と庇護欲であり、生まれるのは衝動だ。強い、抗えないモノ。
それでも、心の何処かで、酷く客観的にそして冷静に、この行動が麻衣への意趣返しになりえるだろう事を考えている自分に苦笑した。
今までの、故意に麻衣の心を乱させるような行動も、”仕返し”の内だとは、彼女はきっと気づいていない。
「ナル?」
急に黙りこくったナルに、麻衣が疑惑の視線を向けた。
鳶色の瞳に、一瞬だけ鮮やかに笑ってみせる。―― 嫌な予感がして、離れようとした矢先に。
ナルの白い手が、羽のように軽く麻衣の白いふくらはぎに触れる。
常とは、違う体温。
深紅を辿って白い肌を上る。白い指が赤く染まり、次の瞬間に柔らかく触れた―― 冷たい、唇。
驚いて足を離そうとする麻衣のふくらはぎをしっかりと押さえる。触れたときは本当に軽い感触しかなかったのに。
一気に体温が上がるが、動かない足に為す術はなかった。
「ちょ、ちょっと、ナル!?」
焦りの色濃い制止の声は、しかし簡単に黙殺されるのみである。
と、痛みを感じて麻衣は開き駆けた唇を閉じざるをえなかった。と言うより、声を失った。
じん、と傷ついてしまった皮膚からは痛みを感じる。なのに、体に奔るこの心地よさは反則だと思った。
心臓は今にも壊れそうだというのに!
丁寧に傷口に触れた冷たい唇が、僅かに開いた。その冷たさとは異質な熱さを持つ舌がちらりと唇のはしから覗いて、丁寧に丁寧に、流れた血液をなめとって白いふくらはぎを辿っていく。
そして最後に、もう一度最初に触れた傷口に。
熱いと感じた。
傷がうずく。
何処か体を麻痺させてしまう痺れと一緒に、なめられた傷口を強く吸われた。
ぴくりと、包帯を巻いた足首が揺れて、きつくきつく、殆ど麻衣は反射的に着ているシャツの胸元を握りしめた。
ちらりと光を吸い込む闇の瞳が、一瞬鳶色の瞳を見つめて、再び伏せられる。その綺麗さに絶句して、足を伝わる痺れに唇を強く噛みしめた。強い何かに、体の芯をからめ取られそうで。体の中にある感触が、自分を締め付けていて息も、できない。
唇が離れる。
最後の離れる瞬間にもう一度強く傷口を、吸われて舌先でなめられて。油断した直後であっただけに、思わず白い喉を付いて、僅かに喘ぎのような声が漏れた。
「ん…っ」
ぎゅっと硬く目をつむり、最後の感覚に耐えきる。出してしまった声の恥ずかしさは絶対に消えはしなけれど、それでもうっすらと開かれた鳶色の瞳は、健気にも黒衣の青年の、真の闇の如き瞳を、しっかりと睨み付けていた。
「な、に、するかな、あ!」
不自然に途切れた声に、常の彼女の快活さは微塵もなく、何処か潤んだ余韻があった。所々途切れたソプラノに、ナルは自分の企みが成功したことを知った。
潤んだ鳶色の瞳も、上気した頬も、十二分に可愛い少女の不安定な色香を引き出している。
ナルはことのほか思い切りにやりと、心底意地悪く笑って見せた。
白い足を捕まえたまま、満足げにしらりと言ってみせる。
「消毒ですが?」
どうかしましたか?
にっこりと、極上に底意地の悪い笑顔。……何でこんな顔まで綺麗なんだ!
「っ――――!!」
理不尽を感じて、柔らかな唇を、少女は噛みしめた。掴んだままの胸元のシャツが、僅かに波打ってさらにきつくしわを刻んだ。
余裕綽々と大書してある漆黒の美人を睨み付け、麻衣は唇を噛みしめた。絶句して、言葉も出ない。
仕返しだ。ぜえったい今のは仕返しだった!
確信を胸に抱いて、それは暫くの間心の中でエンドレスするだろう。ただ、彼女は、これまでの心乱されることも”仕返し”に含まれていると言うことを、幸か不幸か気が付いていない。
やっぱり怒ってるんじゃないか!
人がちゃんと謝ったのに!
鳶色の睨んでくる瞳など、意にも介さずナルは救急箱に包帯をしまい直すと、元の場所に戻しに行く。ついでに火傷の上に載せて置いた濡れタオルももう一度冷やそうと取り上げた。
本当なら、冷水に浸らせて置いた方がいいのだがそんなことをしたが最後。彼女の体温は跳ね上がるだろう。
自分が確実に跳ね上げただろう麻衣の熱を無視してナルは立ち上がる。
額の方のタオルには、冷却剤が包んである。六時間はゆうに持つはずだった。
途中キッチンにより荒れ果ててしまったそこを簡単に片づける。と、いっても元ティーポットの成れの果ての破片をおおざっぱに集め、冷めた紅茶擬きをモップで拭き取るだけだ。キッチンの床は防水で、後できちんとふき取れば、さほどの問題はないだろう。
救急箱を所定の棚に戻して、もう一度冷たく冷やしたタオルを手に、麻衣の元へ向かう。
今度はきちんと大人しくしていたようで、ソファに半ば寝ころぶように、先程の体制のまま窓の外を麻衣は眺めていた。
高層マンションの上階であるここから見える景色は、よく晴れた空くらいのものだ。ベランダに出ればその雑多な町並みも見えるはずだったが、麻衣の位置からでは見えはしないだろう。
太陽の光は明るい。外は本当に快晴のようだった。
窓を揺らす風の音が、微かに聞こえる。
カウンターに置いてある黒いアナログ時計の針は、とうに正午を廻っていた。
いつもなら、軽いランチを二人で取るのが休日のどちらから言い題したわけでもない、決まり事だ。
ナルが仕事に没頭しているときは、勝手に書斎に簡単につまめるものを持ち込んで、ちゃっかりと麻衣も一緒に食べる、その時ばかりはナルは麻衣に文句は言わなかった。仕事に没頭している場合、麻衣は出来るだけ干渉はしてこない、これは休日だけのことだから。もちろん普段は食事は殆ど一緒だ。
それでも、生活面の方で麻衣は厳しい。口うるさいほどに、せめて最低限の栄養と睡眠はとれと麻衣は言う。数年前までは一人でも、不規則な生活をしていても倒れることはなかったし、別に平気だとは思う。だが、それはあくまで一人であったため、無意識のうちに何処かで自制が働いていたのかも知れない。
なら、今は麻衣というストッパーが居る分、無自覚だった自制が外れ、無茶をしているのかも知れない。どちらにしろ、今後一人になる事は、当分の間多分無いと思うから、別に良い。
火傷をして、うっすら赤い肌に、冷たいタオルを置くと麻衣ははっとしてこちらを振り向いた。視線を外した窓からは、案の定、浮かぶ雲と空だけの景色だ。何処までも。何処までも。
驚いたような鳶色の瞳に麻衣が自分の存在に気が付いていなかったことをナルは知った。
その、たぐいまれな能力故に、人の気配にはことのほか敏感な麻衣が、他人よりも慣れたナルの気配に、気付かないはずはないと言うのに。それはナル自身にも言えることだから、不審に思って当然で、秀麗な眉を彼は潜めた。
「あ、ナル」
ぱちりと瞬きして、栗色の髪が揺れた。その目の不安定さが気にかかった。
揺れた栗色の髪に、長い指を伸ばす。指の隙間から栗色の髪がこぼれていった。
「何か食べるか?」
カウンターの上の黒いアナログ時計を示して、ナルは麻衣の返事を待った。内心触れた箇所の温度に、麻衣の熱が上がっていることを知った。
クスクスと、何が可笑しいのか麻衣は笑う。
「変だね。いつもと逆だよ」
食べろと言うのは麻衣の役、言われるのはナルの役目なのに。
触れてくる長い指が、酷く心地よく感じて麻衣は目を閉ざした。
呆れたように息を付くナルに、麻衣はさらにクスクスと笑った。さざ波のように、なかなか笑いは収まらない。
「ありがと。でも、いい。お腹減ってないの」
返答はNo。これもいつものやりとりと同じ。違うのは配役とその後、強引に食べさせるという展開がないことだろうか。
黒い瞳が瞬いて、小柄な姿をじっと見つめる。長い指が、細いうなじを辿って離れた。
「ナル?」
名前を呼ばれても、返答はしなかった。
ソファの背もたれの方から回り込んで、また麻衣のすぐそばに近づくと、ナルは麻衣の背中に腕を回した。無防備に投げ出された細い足にも手を伸ばし、そのままひょいと軽い体を抱き上げる。
出来る限り振動は与えないよう、注意深く。
突然の浮遊間に驚いて、麻衣は思わずナルの胸元の服を掴んだ。
「な、ナル?」
思い切り近くなった秀麗な顔に鼓動が跳ねたことを自覚した。返ってこない返答に、麻衣は必死にナルを見上げる。
「ど、どこ行くの?」
解っている答えだ。現にそれは見事に当たり、胸が痛くなる。
「寝室」
「やだ」
案の定、自分の予測通りに返ってくる返答。広がり続ける胸の痛みは、どんどん自分を浸食していく。水面に溶ける、一粒の雫のように、幾重にも幾重にも、広がってはゆらいで消えていく。
ナルの意図は分かる。一人でゆっくり休めるようにとの配慮であることも解っている。でも、嫌だった。
心の裡に、いつもいつも有り続けている黒い何かが、首をもたげた。一人で寝室で寝てるのは、何故かとてもとても苦痛だと感じた。
だからさっきも抜け出したのに!
「やだってば!」
腕の中で身をよじる。それなのに一向に止まる気配のない歩みが、酷く嫌だった。
だからさらに暴れる。
麻衣を落としそうになったナルが、鋭い刃物のような目で睨んできた。
――本当に、どんな手段を用いても夢を見ないほどゆっくりと眠らせてやろうかなどと、一瞬本気で考えたが。
「麻衣」
「嫌、絶対に、やだからね!」
ぎん、といつになく頑なな鳶色の瞳に一瞬、とても暗く、哀しい感情が奔って消えて、漆黒の瞳がふいに細められた。
――あの鳶色の瞳に一瞬趨った暗い感情が、酷く気にかかった。
じっとそれを見つめ返す。不思議に静かな、綺麗な声が、ナルの口からこぼれ出た。
「何故?」
静かな呟き。止まる歩み。
「暇、なんだもん」
どこか真摯に見つめてくる漆黒の瞳に、何故か一瞬言葉が詰まった。
間髪入れぬ返答は、彼女らしい答えであった。それでも、違和感が拭えないのは、何故だろう?
深い闇色が思考に沈んだ一瞬の後、彼はその答えが唐突に頭に浮かんだことを理解した。
鳶色の、瞳に奔った影の正体。
それはいつも自分を蝕んで、いたもの。その痛みに無関心でいられたのはひとえにこの性格と、決して独りではなかったせいだ。自分の片割れが、居た、せいだ。
鳶色の瞳に奔った影はきっと、一番深い心の底にわだかまる麻衣の感情の一つで、心身共に弱った不安定な今一瞬だけれどそれは垣間見えたのだ。誰もが大なり小なり持つ。
孤独の、影。
「一人は、つまらないもん。またすぐに抜け出してやるからね!」
すねたように、それでも何処か必死に、ひとりになることを麻衣は拒んでいた。
心の底の酷く暗い何かが、大きな大きな影を引く。妙な胸の痛みと焦りが麻衣の中で膨らんで、繋ぎ止めるようにナルの黒い服の袖をきついしわを刻ませて、掴んだ。華奢で細い、手首。
伏せてしまった鳶色の瞳は、上からふった溜め息に少し眉を歪ませながらも再度上がり。
そこで漆黒の闇色の、瞳に出会う。
「麻衣」
「やだ」
細く白い喉から、声が漏れる。微かに震えていることに、きっと麻衣は気付いていない。
深い深い、光を吸い込む夜の闇より深い瞳は、ただじっと、色素の薄い硝子のような鳶色の瞳を、静かに見つめるだけだった。
綺麗な目。
それに見つめられれば、魅入られぬものなど、居やしないような。
瞬きすらも許されないで、色違いの瞳は絡み合ったまま、時間だけが過ぎていく。
底光りする硬質な光に、強い思いをひたりと隠して、見つめられれば、息さえ出来ない。
はずせない、強い漆黒の瞳を、先に逸らしたのは、意外なことにナル、だった。
ふっと綺麗な白い面を、伏せて、麻衣を抱いたそのままに踵を返す。遠ざかる寝室のドアを呆然と眺めて、麻衣は一瞬名前を呼ぶことすら思いつかなかった。そして、ナルの向かう先を見越して、さらに驚く。
鳶色の瞳が見開かれ、小さな顔が反射的に黒衣の美声年を見上げた、
向かう先にはドア一つ―― その奥は、ナルがいつも家での仕事場として使っている、書斎。
ドアとナルとを交互に見返しても、それが変わることなんてあるはず無い。
鳶色の視線を感じているだろうに、ナルは黙ったままこちらを見向きもしなかった。
と、戻ってくる正常な感覚に、麻衣はばくばくと鳴る心臓を押さえた。
―― さっきの目は、いったい何?
あれのせいで、確実に、体温は一度や二度は確実に上がっているのに、ナルは黙ったままだし、いきなり書斎に行っちゃうし、しかもなんて声をかけて良いか解らなくなっちゃうし。
栗色の髪が、腕の中でふわりと浮いた。熱で上気し、ほんのりと赤くなった小さな顔は、どうしたものかときょろきょろと揺れている。
両手に麻衣を抱き上げて、手をふさがれた状態であるに関わらず、器用にナルはドアノブに手をかけて、危なげなく扉を開いた。
少しだけ薄暗い室内は、着け放して置いたままのコンピュータの、低く唸る演算音が、紙のにおいのする空気を、低く低く振るわせている。
脇に積み上げられた、麻衣には未だ読むことが難解な書物。わずかな明かり取りの窓から入る光を、薄いレンズの眼鏡のフレームが、僅かに弾いて反射した。
所狭しと本やファイル、レポートの積まれた部屋は、雑然とはしていたが、ほとんどは綺麗に整頓されている。部屋の主人の性格をうかがわせていた。
それでも、無造作に積み上げられた本もファイルにとじられたコピー用紙の一枚でさえ、それが何処に何があるのか、ナルには解っているのだろう。
他の部屋と比べて、僅かばかりに薄暗い書斎は、明るい光を知る目なら、より暗くそれを錯覚させた。
光を知らなければ、闇を知らずにすむだろうに、人は愚かなほどに光を求めて止むことはない。
光になれてしまった目を、麻衣は持て余して瞬きを繰り返す。その間にも、危なげなくナルは、慣れた書斎を奥へと進んだ。
引かれたカーテンの隙間から、途切れた雲と空が見えた。
意外と広い肩越しから見えた青空は、確かに澄んで、快晴だった。
ふと、黒い長身が身をかがめ、麻衣は自分の視界が低くなったことに気が付いた。そのままゆっくり気遣うように降ろされて、柔らかな感触に、そこが小さなベッドだと知る。
仕事に没頭すると、出来るだけそのこと意外はしたくなくなる、と言うか、しない。ただ一つのことにのみ集中し、満足の行くまで休むことはない。ただ、それが三日や一週間程度なら平気なのだが、数週間にも及んだりすれば、やはり休息も必要だ。だから書斎の奥の窓際には、仮眠用のベッドがある。
寝室にあるものよりも小さく、若干寝心地にも劣るが、仮眠という目的が果たせているので今のところ問題はなかった。それに、彼女の存在があるようになってからは、あまり使われることはない。寝室に戻れば彼女が居るから、その側で出来るだけ休んでいる。その方が疲れも取れた。
「ナ、ナル?」
何で?
見上げてくる鳶色の瞳は、窓から僅かに入る光を受けて酷く鮮やかに見えた。
静かに自分を降ろした腕に、白く華奢な手が軽くすがる。困惑した眼差しが、ナルの方へと向けられていた。
麻衣の困惑する心も、解らないでもない。
自分は仕事をするとき、集中が激しいと周囲の気配すら感じなくなるが、それでも邪魔をされるのを嫌うので、一人になる事が多いのだから。
麻衣の戸惑いを、漆黒の瞳はたったの一瞥でいなし、大理石めいた綺麗な手を、小さな顔にそっと滑らせた。
熱を計るために伸ばしたのなら、別に額でも良かったのだが、冷却剤が包まれたタオルで冷やされているので、その温度は信憑性には欠けるのだ。
触れてくる、ひんやりとした手の冷たさが心地よくて、麻衣はうっすらと目を閉じた。
綺麗な白さのナルの手は、そのまま下へと滑ってゆき、首筋の脈に揺れた。長い指が、微かに何かを探るように動いく。まるで鼓動を確かめるように。
僅かに栗色の頭がすり寄る。白く冷たい手のひらは、そっとそれを受け止めた。
「高いな…」
低く低く呟かれる声が、耳に静かに沈んでいく。
触れた薄く汗ばむ皮膚から伝わってくる温度の高さに、ナルは秀麗な眉を潜めた。やはり寝室でゆっくりと寝かせた方がいいのだろうが、そうしたら先程の発言通りに、麻衣は寝室を抜け出すだろう。堂々巡りを繰り返すだけだ。
「ねえ、何で……?」
ふいに、高い声が響く。それはついさっき、ナルが麻衣に向けた疑問と、謀らずとも同じものだった。
頼りなげな鳶色の瞳は、微かに潤んで瞬いた。
麻衣の状態をベットに倒しながら、ブランケットを掛ける。
薄く開いたカーテンの奥かの、窓の錠を外して開ける。カラカラと渇いた音と共に、優しい風がカーテンを揺らした。薄く、濃く、波打つ影。それでも冷えすぎてしまわないように、窓の開き具合を調整する。
「ナル」
くい、と捕まれたままの黒衣の袖が微かに引かれた。
黙ったままのナルを見上げる。何、も言わない。いつの間にかまたあの視線が向いていた。
私を、捕らえる、鎖の、様に。
風がさわりと、漆黒の髪を揺らしていった。形の良い唇が、酷くゆっくりと動いたような気がした。白い美貌に、たった一瞬苦しそうな影が奔る。
麻衣にすら、錯覚だったのかと思わせるくらいに。微かに。
「…ない、から」
掠れた声が耳に届いた。
「な、に?」
窓からの風に散った、僅かな言葉は途切れ途切れになり、麻衣には聞き取ることは出来なかった。
白い美貌がゆっくりと伏せられ、ナルはベットの脇から離れる。
掴んでいたナルの袖を、放さなくてはならないと事に、戸惑いと寂しさが麻衣の心に浮かんだけれど、ぽんと叩かれた頭に何だか安心して、そっと手のひらを広げて放した。
「子供だな。ひとりが嫌だなんて」
白い手が器用な手つきで、机上の洋書と眼鏡を取った。からかう響きのある声に、ナルの性格の悪さと歪み加減を再認識せざるを、麻衣はえなかった。
「悪かったですね!…だって。する事無いって、何かやなんだもん」
いろいろな思考が頭の中で螺旋を描いては渦を巻くから。
そして私を絡め取る。
ベッドから、ほんの少し離れたコンピュータチェアを回して座る。左手で眼鏡をかけると、白い顔に薄く影が落ちた。長い足を組んでページを開く。
いつもの、いつも通りの、二人の有り方だった。
安堵する、空間だった。
僅かに不機嫌に頬を膨らませ、鳶色の瞳が絶世の美貌を睨み付けることさえ、いつもの通り。
二人だけの。
「ナル」
ふいに、ブランケットの中で丸まっていた麻衣が声をかけた。無言で先を促しても、高いソプラノの返事はない。いぶかしんで、黒い瞳がすいと本を離れると、そのまま窓際へ向けられる。本を離れた視線が窓際を向くと、細く華奢な腕が上がっていた。白い手はこちらに伸ばされて。
子犬のような目でもって、じっと、ひたすらにナルになつく。
「…菓子なぞ、持ってないんだが?」
「違うっ」
「何?」
「……」
上目遣いで、鳶色の瞳が漆黒の瞳を、そっと覗き込んできた。ねだるように、うかがうように。
なのに、解っているくせに、とぼけるナルがいかにも余裕綽々なのが見てて悔しい。
と、深く溜め息が吐かれた。漆黒の美声年は、悠然と立ち上がって、麻衣の方へと歩いてくる。
ベッドのはしにナルが腰掛けると、ぎしりとスプリングが悲鳴を上げて抗議した。
じっと麻衣の目を見つめると、鳶色の瞳も、漆黒のそれを見つめ返した。
もう一度、深い溜め息と、麻衣に見えないように苦笑を零して、宙に差し出された白い手を取った。
華奢で、思い切り握れば、まるで折れそうで。それでも、そうならないことを、良く知ってる。強さを秘めた白い手。
くすぐったいように麻衣は嬉しげに笑って、指を絡めてぎゅっと握った。
白い白い、大理石の彫刻のような、長い指の綺麗な手。少し低い温度も、綺麗に整った爪先までも大切で、安心できる手。
華奢な白い花がほころぶ様に麻衣は笑うと、手をほどこうとした。ナルが片手で本が読みづらいだろうと思ったからだが、けれどゆるんだ麻衣の手を白くひんやりとした大きな手は、再び強く握り返した。
ベッドに腰掛けたまま足を組むと、膝の上に分厚い本をのせる。器用にも右手だけでページを繰り始めるナルが、自分の思考を読んでいたことを麻衣は知った。
常人とは桁外れに頭の出来の良い、その上心理学をもかじっている彼にとって(彼の仕事上、心理学は必須項目でもある)は、他人の、それも麻衣の思考など、読む事は容易いのだろう。
でも、単純に、握り返された大きな手が嬉しくて、麻衣ははにかむように笑むと、深く息を吸い込んだ。
「ありがと…」
寝てる間に、寝室に運ばれている危惧は、何でだか無いように思えた。
とろんと白い瞼が降りて、鳶色の瞳は、そっと閉ざされた。
眠りの海へと、回帰する。
聞こえてくる、規則正しい浅い呼吸に、麻衣が眠ったことを知った。
閉ざされた薄い瞼は、うっすら汗ばんで熱を持つ。握った華奢な手が放れないのを見て、端正な美貌に苦笑が浮かんだ。
開かれた唇から、薄く呼吸が漏れている。
汗ばんで張り付いた髪の毛を払ってやると、微かに麻衣は身じろいだ。
握りしめた、つないだ手は、まるで自分を繋ぎ止めようと必死になっているようで。
一人で―― 独りで、寝ている事は、嫌だと言った麻衣の言葉が、思い出される。
噛みしめた唇が、酷く痛々しかった。
他人のことにはあれほど敏感なのに、何故、肝心にも自分のことにはこれほど鈍感なのだろう。
思わず付かずに入られない溜め息が、白皙の美貌から突いて出た。
あの時、鳶色の瞳に走った影は、寂しさや孤独や、そういったものだった。自分にも覚えはある。
片割れが居たときには遠かった感情は、彼の存在が消えた瞬間から、一時、自分を取り巻く身近なものであったから。自分の心を分析してみて、自覚はあったがどうしようもない。それで壊れてしまうほど、弱い自分ではなかったから、どうにかなってしまえるほど、強い自分でもなかったから。
客観的に、まるで他人でも見ているように、遠くから自分を観察していた。否定してしまえば簡単なのに、そうすることは滑稽に思えた。
麻衣も、同じだ。全てを失った、けれど必死に生きて行くしかなくて、生きてきた中で、色々な人からもらったものを、内に貯めて強くなるまで、彼女はきっと泣いただろう。
寂しさに敏感で、孤独を知って。人のために、例えそれが人外のものでも躊躇いもなく哀しいと泣くのに、自分は泣かない。泣けない。
彼女の悲哀のほどは、きっと彼女自身にも、解っていないに違いなかった。
哀しい、強さ。
それは同時に、確かに彼女の弱さだった。
寂しいと、麻衣は言わない。
―― 誰より孤独を嫌うのに。
心の底では、いつも知っているのに、知らない間に鍵をかけて。一人で居ることを哀しいと、本当の意味で気付かないように。
何よりも、他人のことには敏感なのに。
人一倍強いだろう孤独を、その細い体のどこに秘めているのだろう。
薄く呼吸を繰り返し、上下する胸を見る。むき出しの、白い喉。
何処に、秘めているのだろう。
大きすぎる孤独の影を。
深く強く、瞳を閉ざすと、真の闇が降りてくる。せめて強く手を握る。ほどけてしまわないよう。―― 見失って、しまわないよう。例えそこが射干玉の闇であろうとも。
風の音が、耳元で鳴る。
眠りに落ちる瞬間、呟かれた礼の言葉が、切ないと、思った。
彼女は寂しいと言わない。
寂しいことを知らずに泣く、まるで幼い子供のように。
目が覚めると、視界はとてもクリアだった。
それでも僅かにぼうっとするのは、まだ熱が下がっていないせいだろう。
引かれたカーテンの隙間から、宵闇迫る空が見えた。
「ナル?」
寝ていたせいで声が掠れる。それでも、ナルがそこにいることを感じて、麻衣はほっと息を吐いた。
薄暗い室内で、本に視線を落としたナルを、すぐ側に見つける。
と、視線を向けられぬそのままに、ぽんと頭を叩かれた。視界の端で、自分の頭を叩いた手の甲が、自分の手を握ったままであることにようやく気が付くと、麻衣は慌てた。
「ナル!え?手、何で」
「誰かさんが離さなかったもので」
しらりと言ってのける漆黒の美人に、麻衣は頬を膨らませた。病人に対してでさえ、この物言いは何だろう。
と、ナルの右手が宙を滑って眼鏡のフレームに手をかけた。そのまま外して、かたりとデスクに本と一緒に置きに行く。
自然に離した手のひらが、暖かいと感じて、あれほど胸を寂巻いていた切なさが、薄れていることを麻衣は知った。
「何か飲むか?」
水分を取った方がいいだろうと思い、麻衣に聞くと、慌てて上体を起こして麻衣は立ち上がった。
「あ、あたしお茶入れ」
否。立ち上がろうとした。
足を痛めていることをしっかりすっかり忘れていた麻衣は、立ち上がったとたん感じた痛みに声を上げバランスを崩してしまった。そのまま床に倒れ込むはずだった、のにその瞬間強く引っ張られる感じがして、ぎゅっと閉じた瞳を、麻衣はおそるおそると言ったていで開く。
もちろん、引っ張り上げたのは、何というかナルの腕で、とっさに細腰に伸ばされたであろう腕に縋り付いて麻衣は赤面した。
呆れ返った台詞と声が、すぐ側で聞こえる。
「……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがな」
「ゴメンナサイ!」
引きつった声が、喉の奥から何とか出た。再びベットに戻されると、今度は素直に麻衣はベッドに座り込んだ。
「待ってろ」
汗ばんだ髪を、ひんやりとした手に掻き上げられて、心地よさに目を細める。
「淹れてくれるの?」
滅多に飲めないナルのお茶に、麻衣はぱっと破顔した。お茶の入れ方は結構上手で、かなり美味しいのに滅多にしないのだから、麻衣にとっては天然記念物並に重宝なのだ。
自分で出来るなら何で自分で淹れないんだと、詰め寄ったこともある。が。
「誰かサンの数少ない仕事を取り上げてまでやる事じゃないだろう?」
と、極悪な笑顔で返されて以来、そのことには不本意ながら触れていない。
ナルにしてみれば、麻衣の入れたお茶の方が上手いからわざわざ自分でする気にはなれないだけなのだが。
と、ナルが、剥き出しの細い足に触れた。
視界の隅に入った白い皮膚は、僅かに火傷をした痕でまだ微かな赤みと痛みが残っている。すぐ側に残った傷跡も、渇いてはいたけれど痛々しかった。
「大丈夫だよ」
にこっと、麻衣が無垢に笑う。
絶対に崩れない、無表情の鉄面皮が、心配していると何となく解ってしまったから。
と、その漆黒の瞳が、ふいに深く底光りした。
悪戯を思いついたような、そんな光を目の当たりにして、麻衣はふと反射的に足を引こうとする。が、もちろんというか何というか。
動くはずもなかった。
「ナ、ナル!?」
火傷で敏感になった肌に、冷たい、けれど呆然とするほどに柔らかい唇が押しつけられた。もちろん、麻衣の声など綺麗に無視して。
「や、ん、ちょっ」
熱い熱、濡れた感触、刺すような僅かな、反則的に甘い痛み――。
再び繰り返されたそれに、麻衣の頭は真っ白になる。
触れた部分が硬直して、体中の力が、自分の意志に反して抜けていく。
執拗に繰り返される唇の感触に、身震いした。
離れた跡には、明らかに、火傷ではない紅い痕。
「んっ」
最後にもう一度、仕上げとばかりにきつくきつく吸い上げると、微かな声で麻衣が喘いだ。ナルの肩のシャツを掴んだ白い手が、戦慄く。掴まれたシャツがしわを刻んだ。
強くきつく、薄い瞼をぎゅっと閉ざした。ぴくりと薄い肩が、跳ね上がる。
「ナ、ナル!」
伏せていた黒い瞳が、羞恥に潤む鳶色の瞳を、酷く楽しげに一瞥して、くるりとそのまま背を向けた。
「 …………!!ナル!あたしアッサムのチャイだからね!砂糖じゃなくてティーハニーじゃなくちゃ駄目だからね!!」
黒衣の長身が、明らかに笑ってるだろうことを確信して、麻衣は悔し紛れに叫んだ。
解ってるのか解ってないのか、漆黒の美人はすぐにドアへと消えていく。
無防備で、目の前で眠られたのだ。
これくらいの報復は、有ってしかるべきだろう。
彼がそんなことを考えているなど、彼女は知らない。知る由もなかった。
薄く笑いながら、ナルはドアの向こうへと消えていく。
再び上がってしまった熱に、熱の下がりかけていた麻衣の体は簡単に浸食されてしまって、麻衣はそのまま、柔らかな枕に突っ伏した。
まるで寂しいことを知らずになく、子供のようだ。
彼女は言わない、寂しいと。
でも、これから多分、この先は、離れることはないだろうから。
いつか彼女が言えるまで、今は、側に居ようと。
窓の外に夜が降りる。
そして休日は終わりを告げる。
続いていく、日常と共に。
‖home‖novel?‖ □後記
ここまで読んで下さった方へ。こんな長くて大馬鹿な小説読んで下さってありがとうございました。