* おくる言葉




あり得るかも知れない、いつか





       
 
 

 泣かないで、ごめんなさい、愛してる。
 
 死に際にささやくむつごととしては三流だが陳腐なものほどきっと心が篭る。何より、私は語彙が豊富な方ではないのであなたのように美辞麗句にまみれた台詞には免疫がない。
 いつか路傍の塵のように死に行くとして、その時先に行くとしたら私はあなたに何を残せるのだろう。
 何も残せなくとも、あなたを守りこの体がくちるなら本望だとどうかあなたには分かってほしい。
 
 「…何か面白くないことをかんがえているな?」
 「滅相もありません、サー」
 しらりと言ってのける女の手元は几帳面に書類整理を続けることに余念がない。
 時計の針がときを刻む音だけが辺りに響く。
 書類の締め切りへのタイムリミットであり、彼らの野望への足跡であり、いつかくる命への刻限。
 「……少し、遺言を考えていたのですが」
 ぽつ、と紙面に落ちたインクの染みのように女が呟くと、男はああ、と得心がいったとばかりに頷いた。
 「もう更新時期か。戦時中でもないと忘れるな」
 私のところもそろそろか、と手を休め、ふむと首を傾げて考え出した上司の前にどんと書類の束を追加しながら、秀麗なかおが瞬きもせずさぼりの口実を切って捨てる。
 「どうせいつもと代わり映えもないのですから考えたところで無駄ですよ、それより仕事、仕事してください」
 「君ね…」
 話をふったのはどちらだと言いたげに不満を隠さず男のこわねが低くなる。
 確に女が言う通り、軍規定の遺言書に関する内容変更手続きなど、婚姻やその解消、親戚の不幸や、また子どもが出来たものなど相続関係に変化が生じたものが圧倒的に多い。そして莫大な財産をもつにもかかわらず、男は数年前からそれらについていっこうに変化がない。
 しかし。
 「それは君も同じだろう?なんだね、今更内容変更する気でも起こしたか?」
 「まさか」
 口許のかすかに緩んだ微笑みには後悔の欠片もない。
 司法解剖についてはマスタング大左に一任し、またその遺体はだびにふすことを所望する。……全てはまがつ焔の秘匿のために。
 「わたしが考えていたことはとてもくだらないことですから」
 「普段くだらないことを考えない君が、考えていたからこそ気になるのだがね」
 「あら、聞くと後悔なさると思いますが」
 「なんだそれは」
 眉を寄せた男に、困ったように微笑んだ女は歌うように静かに告げた。
 「間際に遺す言葉には何がふさわしいか、と」
 それまでいやいやながらでも進んでいた男のペン先が完全に止まる。
 「…死にたがりは必要ない。我々が行くべき路は死への道行きではないはずだが」
 少ない言葉で、誰に対する遺言なのかを汲み取られるのは、伊達に付き合いが長い証拠でないといったところか。
 「それでも、私たちは私たちの好きなときに命の幕を下ろせる身の上ではないと思いますから」
 沢山のひとの命をその人の許可なく終わらせた。怨みの声はどこまでもこの人生につきまとう。それを否定する権利は我々にはない。
 「それで、決まったのかね?」
 深い溜め息をついて背持たれに体を預けた男は剣呑な眼差しで部下を威圧する。柔らかに首を振って女は穏やかに瞳をふせた。
 「今、言うことではありません」
 「私は決まっているがな」
 鼻で笑った男のうでがのばされ、筋張った手が柔らかに女の白い頬を包む。
 「大左?」
 「すまなかった、泣くな、愛してる、ありがとう、陳腐なものだな。他には考え付かないと思っていたものだが」
 「…では、他に?」
 「君の名を」
 日溜まりで上機嫌の猫のように微笑み、慈しむ眼差しが黒い瞳の奥で揺らめく。
 「他には何も出てきそうにない」
 見開いたヘイゼルが驚いたように瞬きを繰り返し。
 そうしてわずかにうるんだ瞳が柔らかに瞬き。
 「馬鹿ですか…」
 小さな呟きとともに慈愛をありったけ、込めて頬を暖める掌に掌をかさねた。
 きっと私も、何て今更。
 いつか命が終わるとき、尽きるともしびとともに口にするのだろう。ありったけの幸福を込めて。
 
 『ロイ』
 
 ただ、静かに。
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 

















鋼、ロイアイ@おくる言葉  2010


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