* 夢の続き
それは誰も咎められない幸福
ねえあなた、あいするあなた。
どうか悲しいことを言わないでくださいな。
私の幸福は常にあなたが喜びも悲しみも怒りも健全に享受し、人生を充ち満ちたりたものとして生きていることなのです。雨の日の憂鬱、その後の晴れ間に緑陰のさわやかな香りを求めて散歩道を行きましょう。雨露に濡れた街路樹のトンネルをくぐりふかふかと草の多い茂る丘を目指して歩きましょう。街を見渡す丘に着く頃、雲は東風に流されてまっさらな空色に白い雲が悠々とたゆたっている頃でしょう。濡れた草を踏めば若々しい青いにおいがすることでしょう。若草のにおいにほほをゆるめましょう。なだらかな丘を登り頂上に着く頃には一面の柔らかな草が太陽に暖められて一面に広がっていることでしょう。乾いた柔らかなしとねに二人腰を下ろして、さわさわと揺れる風と草の音を楽しみましょう。私たち二人、なでていく空気の流れを楽しみましょう。
そうして夕暮れまでを二人きりで過ごしましょう。
街は夕闇に染まることでしょう。終わっていく一日を静かに、静かに、静謐さえ込めて噛みしめることに致しましょう。過ぎる時間と終わる日々に僅かな郷愁と哀しみを携えて、哀切のために祈りを捧げましょう。どうか明日もこうして穏やかでありますように。喜びも悲しみも怒りも健全に享受し、人生を充ち満ちたりたものとして生きていけるよう、祈りましょう。
夕暮れに凪ぐ草の海の丘の斜面を二人で歩きましょう。ゆったりと足を進めて、家路をたどりましょう。
二人で閉じた家の鍵を開けて、暗くなる夜が来る前に灯火をともしてください。私はその明かりであなたの夕餉を作りましょう。
でも眠る前のひとときには少し明かりを落としましょう。星と月のきらめきをただゆったりと寄り添って穏やかな時を過ごしましょう。そのときほんの少しだけあなたは悲しいことを言うのです。
ねえあなた、あいするあなた。どうか悲しいことを言わないで。
星と月と家の灯火があなたを暖めてくれるように、どうかあなたが安らげるように私はあなたの手に触れていつまでも笑って寄り添っていましょう。
そうして満ち足りた気持ちで夜を終え、また穏やかな朝を迎えるために眠りにつくのです。
こんな罪深い夢を見た。
「まだ寝てていいぞ」
暁暗の暗がりの中、自分より一回り大きなシルエットが身を乗り出してリザを見下ろした。硬い手のひらが毛布を引いてリザの体に引っ張り上げる。その硬い手が、嫌いではない。何より忌諱をしてやまない自身の背中ごと柔らかな慈愛でもって包み込むこの手のひらは心地よい。底なし沼のような優しさだけが降り積もる、そんな夜のこの手のひらは一層優しい。つま先から頭のてっぺんまで、優しい泥にとぷんと沈み込みたくなるほど。こんな泥の川なら、窒息死したってかまわないに決まってる。
カーテンから差し込む光はまだ薄暗い。朝焼けにはまだほど遠く青白い光の中、夜と灰白のコントラストで軍服の青は黒い陰影を引きずってなお色濃く染められていた。
「はやばん、でしたか……?」
「まだ寝ていろ」
っていうか、寝てるだろう、と笑いながらリザの頭を撫でる大きな手のひら。
指先に金の髪が絡んで梳かれるのが心地よくて猫の仔のように目を瞑る。生まれ変わったら猫になりたい。そうしてこの人の膝の上で過ごす日々はきっと何より幸せだ。
「私は、あなたより早く死ぬ予定なのですが」
寝乱れた声は掠れていた。まどろみに負けそうになる目をこする手の仕草が、いつもの毅然と背を伸ばす彼女の雰囲気を幼くする。
そんな雰囲気に似合わぬ物騒な発言に、ロイは静かにリザを見下ろす。
静謐な黒い瞳が熾火の高温を静かに点らせ、大きな手のひらがリザの両頬を包んだ。暖かいぬくもりごと、顔が近づく。目を合わせるのに努力する必要もないような至近距離でリザはロイの瞳を見た。この頃、少しのびた黒髪がさらりと掛かり落ちてくるような近さ。まだ前を留めていない乱れた軍服の上から乱雑に羽織っていた黒いコートが、ロイの肩からばさりと毛布の上に片袖を落とした。
「次に言ったら本気で怒ると前に言わなかったか?一度言ったことは一度で理解しろ。そんなことも出来ない部下を副官にした覚えはない」
辛辣な言葉にありったけの真摯を込める。ロイは、時折そうやって部下に物事を言い聞かせる。誰の命も捨てないために。その言葉の真意に気がついた部下は、この人の下で働きたいと心の底から望むのだ。ロイは一人でもきっと平気だと、そんなときふと思う。
例えば、リザが居なくても。
「あなたが、そうやって叱ってくれるから、どんなに仕事をさぼっても、女癖が悪くても、部下は皆、あなたに着いてくるのですよ」
寝起きの掠れた声。ロイしか聞けない声。包み込むような優しさが込められた声。抱くのも抱きしめるのもロイの方がきっと多いのに抱きしめられているのはいつだって己なのだと痛感する。
「だから、あなたはきっと一人でも、私が無くても、きっと」
「片腕が吹っ飛んでも半身が不随になっても失明しても重度熱傷を負っても自分が死んでも失いたくない者が私にはある」
「……ちゅうさ」
「俺がそれを望むのは傲慢か」
豪放に言い切るロイの眼差しの黒が酷く鋭利だ。滅多に使わない一人称に胸が抉られた。錬金術師の師弟関係を父と結んでから、徹底的に技術から礼節から倫理観から、人間的に優れた人品を持つ者として厳しい教育を与えられるのは、錬金術師の徒弟制度では当たり前のことである。自身の世界に及ぼす影響の強大さを理解せぬ人格が、危難と紙一重の力を得ることこそ重大な危難であり、脅威だ。故に錬金術対する正当な倫理観を持つものほど、希有な力と人格を併せ持つ。
行き過ぎにも思えるほど厳格な教えのさなかで、まず公的な場面でのロイの一人称が変わった。師に対しては礼儀を尽くし、他者に対しては誠意を持って接するようになった。そうやって倫理観を学び、はぐくみ、父の厳格な教えを遵守してきた過程を見てきたリザは、そこまでしなければ持つことも許されぬ力を理解しながらも、そこまでして欲しい力がこの世にあるものか、錬金術とはそこまでしなければ手に入れられず、それでもまた欲されるものなのかと不思議に思った。――しかし、その人品と倫理観こそ、己を律する最大の鎖であり、技術より知識より何より最初に錬金術師が習得しなければならぬものなのであると、イシュバール戦線でリザは激しく痛感した。
虐殺を行った錬金術師はロイだけではない。錬金術よ、大衆の為にあれ。その言葉の意味する真実が、皮肉な背反離反として厳然たる真実として、戦場には存在した。――大衆の為に無き錬金術など無い方が余程良い。
あの経験は確実にロイを、リザを、変えた。
軍属として錬金術師を続けるに当たって必ずこの身を賭して国を変えると、自分に、痛烈な裏切りを行ってしまった錬金術の師に、そして何より焔を与えたリザにロイは誓った。
心の半分、体の半分を切り落としてでも進む道程を誓った。
それでも譲れない者がある。
「リザ。それは、君に対する二度目の裏切りか?」
「ちゅうさ」
「裏切ってでも、俺は君を生かす」
未だ眠りの残滓の融けない中で聞く声は闇の中を切り裂く隕石のような光芒でリザの心を引き裂く。瞬きをすれば滲む。それが涙だとは思わない。そんなの、とっくの昔に捨ててきた。
「……もし私が、先に死んだら」
声を荒げようと息を吸ったロイの頬に手を当てて、毛布の中で丸まりながらリザが柔らかく笑う。
「猫になりたい」
「……猫?」
「生まれ変わりなんて信じてませんがそう言う思想があるでしょう?確か」
「シンだな。東の大国」
「ええ。そうして、生まれ変わって、猫になって、あなたの膝の上で余生を過ごすんです」
「……生まれ変わったとたんに余生を話すか」
ため息をつきながらリザの頬に散った金色を無骨な指が梳いていく。ああ、きっと撫でられる猫ってこんな気持ち。
「今は狗ですから。ネコも良いかと」
撫でられるままリザは心地よさそうに目を閉じる。口付けを待つ子どものような顔に人殺しをした女とは思えないような表情を浮かべながら、柔らかな声とか、体とか、心で、ロイを癒す。
「そうやって、今と違う形で、あなたの心を慰められたらきっと」
幸せだと。
数値は概算でしかない。殺しすぎて正確なスコア計測が出来なかったのだ。正確な数値にちかい計測が出来たのは村落、家屋、寺院の撃破数でイシュバール戦線に参加した内乱においてロイが殺した人数は正確には未だわかっていない。そのイシュバール戦線のスコア概算が昨夜遅くに届いた。分厚い書類にびっしり書かれたロイの戦果の詳細と建築物撃破、敵対勢力撃破数のスコア。スコア換算する兵士が計測しきれないほどで、目につくものは全てを薙ぎ払ったといって過言ではない。さらに高評価が着いたのは機密区域での人体実験協力要請に対する評価である。こちらはロイの戦績には換算されないが、軍に対する貢献度としては破格の高査定となった。更に実際は公式記録を上回ることは軍にとっては周知の事実だ。自身のスコアを負傷した部下に譲り戦線を離れられるように、もしくは休暇を取れるように手配したのはロイであり、それでもあまりある撃破数にスコア換算する部下が音を上げた。
敵対戦力撃破数、実に四桁。
単純計算として、ロイ一人がイシュバール内線において実に約六分の一以上の戦力を掃討している計算となる。
昨晩、家に行って良いですか。そう聞いてきたのは意外なことにリザからだ。ロイが誘ったり押しかけたりというは良くあるが、リザからというのは皆無に近い。勿論断る理由はなく、明日が早番なんてこと関係なく、いそいそと家に連れ込んだわけであるが。寝入ったのはもうほとんど夜明けに近い時間帯。久しぶりにリザから求めて、たくさん。らしくないほどに乱れていたから。ロイとしては願ったり叶ったりであるが。まるで何もかも、現実忘れるように忘れさせるように。その理由を、見当を付けていたとはいえ痛烈に思い知る、今。
ロイの戦績の公式記録の書類を受領したのは副官であるリザであった。
違う形で。
ロイの為に。
血に塗れない手と無垢な生き物になって慰めて。
そうしたら、幸せだと。
掠れた声に籠められた思いの丈はいかほどかなんて解らないし解りたくもない、ロイはただリザが欲しいだけでリザでないリザなど要らない。背中に焔蜥蜴とロイの焼いた傷跡を持ちライフルを撃つ荒れた人殺しのこのからだが何度ロイを心ごと体ごと守ったか。こんなことはリザにしかできない。
ぎしりとベッドが鳴る。片膝を乗り上げて、口付けをするように額をあわせ、痛切に目を閉じた。リザが欲しい。リザが良い。幸せだ。リザじゃなければ駄目なのだ。焔の番人は君だろう。私の命に終止符を打つ権利はいつだってリザにしか預けていないし預けられない。どれも言いたいことで、どれも言うには違うことに思えて、だけど全てロイの真実だ。でも、でてきた声は我ながら、馬鹿みたいにひねりも何もあったものではなかった。
「……どうした?」
ゆっくりと開かれた瞼から現れる優しさと痛みに満ちた黒、低い声が額越し、震える振動まで伝わってリザは目を閉じる。柔らかな光が瞼を下ろした瞬きの間に潤むようにきらめいた。
「罪深い夢を見ました」
「どんな」
朝起きて、ご飯を作って、一緒に食べて、休みの日には散歩に出かけて、雨が降ったり、晴れの日も一緒で、辛いときには慰め、幸せは倍になり、日が暮れたら明かりをともして、一日を過ごしたことに感謝して、夕食を作って、眠って、また朝になって。日々を過ごして、重ねて、共に。ずっと。
「一緒に、年老いていく幸せな夢です」
ほろり、涙が落ちるような声。ゆっくりと瞬く瞳がかすかに潤む。眠気からくる生理的な涙が、感情に混ざっている。ロイしか見ることが出来ないリザの感情。誰にも見せたくない表情。そんなリザをいつの間にかロイはたくさん知っている。きっとリザも。
「それは罪深いな……」
くしゃりと笑って、苦笑するように目を閉じる。眉間に寄せた皺が笑顔を哀しく見せて、リザも哀しくなる。
「中佐。私は、死にません。あなたの処刑人であるために」
「ああ」
でも、と、静かに、リザが言葉を紡ぐ。
「せめて、守る為に生きて、いても。いいですか」
灼熱の地獄で人を殺して廻った法律に遵守された殺人鬼を守りたいと願うリザは、常識的に考えれば、きっと正気の沙汰ではない。でも、誰かを守りたいという願いを持つことは人間として当然の、願い、望み。希求。
そんな幸せを願うことすら罪深いと言ってしまえるリザが哀しかった。そんな風にリザの生き方を形作ってしまった己が憎かった。だけれど、リザが傍にあるなら、血を吐いてでもこの言葉をロイは言うのだ。何度も、何度でも。
「頼んだ」
Yes,sir yes.
唇が呟く声は音にならず、ささやきが吐息だけを漏らして消える。あくまでも修羅に身を置き己を業火の中に望んで身を投じる生き方を願うリザの危うさはどうしようもない。そして、幸せそうに笑うのだからもっとどうしようもない。こんな愛しい生き物を他に知らない。
「もう少し寝て。今日は遅番だろう」
こくり、と頷くのは、昔のリザだ。師匠に出された課題を徹夜でこなしていたロイに眠気に負けそうになりながら、ふらふらとした足取りで夜食と毛布を差し入れてくれた頃のリザにそっくり。変わったところも変わらないところもある。生きている限り、それは普遍だ。人間であるからこそ変わるし、かわれない部分もある。あのころのリザは確かに此処にいながら、あのころのリザは今どこにも居ない、背反離反の真実はロイにとってはどうでもいい。今此処に今のリザが此処にいるのだからどうでも良い。リザは代われない。代わり無い。たった一つ。
「ロイ」
「何?」
おはようございます、おやすみなさい。
まどろみに落ちる瞬間、掠れた声が響く。何気ない挨拶。幸せだといったリザの夢の通りの言葉に、なぜこんなに胸が抉られる。どうして。
「……夢の続きを見ると良い。罪深いけれど、夢には裁きも罰もないのだから」
苦しげに笑って瞑目する。こつんとつけた額、発火布の無い素手で包んだ頬、響く、穏やかな呼吸が何より尊くて。
柔らかく瞼を閉じてとろりと眠気に融けていくリザに言葉は届いただろうか。
知らなくて良い。ただ、彼女が幸せであればいい。その幸せをロイが独り占めできればもう、他に。望むことなんて。
何も。
鋼、ロイアイ@夢の続き 2010
* ブラウザバックプリーズ