* 鳥の詩




私たちは真っ直ぐでいられただろうか?



 この女は抱き締める女でなかった
 抱き締めていとおしむ女ではなかった
 ただそれだけのことである
 どんなに望んだとしても叶わない夢であった
 
 ただそれだけのことであった











 焼けつく喉。乾き切った大地。黒い陰を残してくずれおちた瓦礫。もののように転がる、以前は敵だった何か。吹きわたる風は蠅や猛禽類を呼び友軍も敵も区別なく食らう。
 苛烈な熱さが肉を腐らせようとする前にむさぼる。
 残ったものは骨となり、砂に帰り、環境の変遷を受けていつか枯れた大地に緑を育むのだろう。数百、数千の時を経て。
 死してのちにも、命は自然現象の輪廻に帰り、いつの日か生命の母体となる。
 錬金術を会得することの叶わなかったリザに、唯一父が教えた錬金術の礎だ。
 幼さ心に、いとも敬虔な何かを語られているのだとリザは母の膝の上で、暖炉前の揺り椅子に腰掛け錬金術書を開く父が語る言葉に静かに耳を傾けていた。
 それは世界の倫理。世界の真理。現実。営み。
 誰の上にも等しく死は舞い降りて、誰もが死をもってして何かを生かす。悲哀と切なさ、尊さと命の強さ。……父が、ただ一度だけ真理を螺子曲げようとしたのは母が亡くなってまもなくの頃だった。もともとが厭世的だった父は母の死後、あっさりと世界を捨てた。いや、元々捨てていた繋がりを辛うじて繋げ守っていたのが母だったのだろうか。
 一心不乱に研究に打ち込む父が怖いと思ったのは、生涯で二度。母の死の直後と、焔の錬金術の研究に明け暮れた晩年。
 父が教えてくれたことは錬金術に関われないリザにとって何より大切な教えだった。だから、父が何か、リザに教えたことについて、そして死んだ母について恐ろしいことを考えているのだとなぜか分かった。いつもリザをみない父が、感情の一切を殺して、母に年々似てくる幼いリザを見つめるから。
 それだけは、『いけない』。それだけは。父が、命の尊厳や悲しい強さ、世界の輪廻、死を恐れるこどもにいつかまた命は命を育むのだと尊く語った全てをぼうとくすることになる。
 父が何をしようとしているのかは解らない。でもとめなくては錬金術に命をかけるこの人は一生引き返せなくなる。
 初めて包丁を持ち出したリザは、その場でざくりと背中にかかる髪を切った。母譲りの金髪は無惨にざんばらになり、慣れない刃物は幼い柔肌を傷付けた。仰天した父が包丁を取り上げ声を荒げた。
 …これでもうおかあさんと似ていないでしょう?
 力一杯父に叱られながら、母が亡くなってから初めて父の前でリザは泣いた。大粒の涙を声を殺して溢す娘に、父が何を感じたかは解らない。しかし、リザの行動の意図は完全に看破されたようだった。無器用に首筋についた傷痕を手当てしながら、父は小さく、済まないと言った。リザと、リザの母の名前とともに呟かれた声に、リザはますます涙をとめられなくなった。
 錬金術に関われないリザは生涯で二度、同じ話を父から聞いた。隣に居たのは母でなく、五つ年上のお弟子さんで、父を世界に繋ぎ止めた母以外の人だった。そして、親に与えられる愛情を知らないままのリザを一人の人間として扱ってくれた、初めての他人だった。
 
 
 命の尊厳は等価値。命の価値に差はあれど尊厳だけは等価値だ。全ての命が平等と思っていたのは遥か昔。今、リザは自分が生き残るため一兵卒より上官、指揮官を優先的に守るため銃弾を消費する。命令系統が崩れた軍の末路は悲惨の一途に尽きた。指揮官が死ねばその配下の何十人が死にかねない。だから生存には価値の優劣があるのだと戦地でリザは肌で感じた。
 今、スコープ越しに見える指揮官は黒々とした髪を砂混じりの風になぶられるまま、火トカゲを率いて戦陣を切り開く。
 命の価値。
 ……自分がいなければ、この背中に火トカゲが棲み付かねば、何人が死なずにすんだろう。何人をあの人は殺さずにすんだろう。
 ……なぜ、父の時のようにとめられなかったのだろう。あんなに快活に笑うひとだった。孤独な自分を振り返ってくれた。恐る恐る伸ばした手を振り払わずにいてくれた、初めての他人。
 そして今、リザの信頼を粉ごなに踏み砕いた。
 マスタングさん。
 「……ごめんなさい」
 スコープのポインタを何度ロックしたかもう解らない。そのたびに引金は引けず。
 「ごめんなさい」
 憎んでいるのか憎まれているのか、済まないと思っているのか思われているのかもう解らない。
 不意に風が凪いだ。
 一瞬の硬直。
 鮮烈たる赤と一瞬遅れて散る爆音。強風。悲鳴すらかきけされて、黒煙の上がる空を望洋と眺めた。鼓膜がおかしい。上がる黒煙、燃え盛る焔に明るい陽射しは遮られ、黒と赤の鮮烈なコントラストに染めぬかれた世界のなか、黒髪のひとがきびすを返した。砂よけのコートも髪もなぶられながら帰陣する。控えた部下に指示を出しながらけいけいとした相眸が不意に和んだ。場違いな優しさで空を見上げる……空から獲物を狩る鷹の眼を。
 スコープ越し、爆音でいかれた耳が昔のままのあの人の声を聞いた。
 リザ。
 叩き込まれた戦場の性、開かれるまま、唇を読んでいた。
 撃て。
 と、ただ、一言。
 あの頃と同じ声が同じ響きが耳のなか、幾度も幾度も木霊する。
 そこにはもう戻れなくなった錬金術師が居た。リザにしか与えられない弾劾を求めて。
 絶望が心を打ち砕く音を聞いた。
 
 












 震えながら喪服を脱ぎ捨てた少女の受けた仕打に絶句した。精緻に彫り込まれた刺青はそれだけでも業ものであったが、それだけでは済まされない。…済まされればどれ程この少女の為になっただろう。文字一つ、意匠一つ、何をとってもこれは鍛代の錬金術師が生涯をとして作り上げた叡智の結晶である。間違いなく現代の最高峰の錬金術の錬成陣。いっそ悪魔的な配列の一つ一つにどれ程の力が込められているのか。
 これがただの紋様ならリザはこの先、普通の幸せを掴む可能性もあっただろう。好いた男と家庭を持ち、子を産み育て穏やかに老いていく。
 しかしこれでは無理だ。どれだけの威力を秘めているのかロイにすらはかりしれない。神威の焔となるか悪魔の業火となるか、国家機密に等しい知識を背に生涯を無事に送るにはあまりに危険が過ぎる。
 しかも、この幼さで彼女は自身が何を背にしたかほぼ正確に理解していた。
 明かりは月下のみ、異性に肌を晒すのにどれほどの勇気と覚悟が必要だったかなんて知らない。
 「父の最期の願いです、受け取って頂けますか?」
 さらりとした絹ずれの音に一瞬馬鹿な期待をした。その背を見た瞬間何もかも吹っ飛んだ。
 彼女の背負った重さなど関係なくただ浅ましい錬金術師の性がその叡知の結晶を捕えた瞬間貪欲な知識欲の牙を剥いた。その狂暴な衝動に冷水を浴びせたのは余りに聖櫃な少女の、微かに震える声だった。
 「父も死にました。母も死にました。軍人であるあなたは路傍でいつ亡くなるか解らないと、それで構わないと言いましたね」
 けれど、とさえざえとした横顔から一滴、月明かりを弾いて溢れ落ち。
 「マスタングさん。私はもう大好きな人に置いて逝かれたくないんです」
 だから、焔を差し出すというのか。死なせない力を与えるために。身内の全てに死に急がれた少女の静かすぎる慟哭にがつんと頭を殴られる。一人ぽっちになってしまったリザに、自分はいつ死んでも構わないと父の墓前で言い放ったのか。
 急速に覚めていく思考、彼女の背負った重さなど考えもしなかったさもしさに頭を殴りつけたくなる。
 釦を弾く勢いで軍のコートをはぎとりリザの頭からばさり、掛ける。抱き寄せた頭の幼さ相応の小ささが悲しい。
 「マスタングさん?」
 「リザ」
 威圧するような低い声にびくりと華奢な肩が跳ねた。
 「俺が、その背中の重さが解らないとでも思うなよ」
 肌を隠してやれば微かに震えが伝わった。誰にも助けを求められない状況で男に肌を晒すよう父の命に代えて命じられた少女の心情など一生ロイには解らない。
 解るのはこの先、彼女が恋愛と結婚の自由を生涯剥奪された事実。一生この背を隠し通して生きていかなければならない現実。…卑劣なことに師匠へは感謝しかない。生涯を賭けた秘術と大事な一人娘を守り抜く役目を与えられたと同義だ。例えこの先どんなにリザを愛し支え慈しむ人間が現れようと、真に彼女を理解できるのは、この背中を美しいと心底思えるのはロイだけだ。
 だが、禁忌たる錬金術の護人に錬金術師と言う人種を誰よりよく識る娘を選んだ師は、秘術を産み出した錬金術師としては高潔であれど、父親としてリザの一生をがんじがらめに縛り付けた。この先、誰を愛そうと彼女は決して結ばれようと望まないだろう。例えロイであれども。背中の負い目に師の娘を貰い受けるしかなかったのだと愛されることに無器用な少女はきっといつまでも孤独なままだ。
 それでもリザには悲しいくらいロイ以外に誰もいないのだ。
 「貴方が、気にすることではありません。これは父の願いだったんですから…」
 「馬鹿な事を言うな」
 きつく抱き締めると柔らかな体がこわばった。構わず痛い程に引き寄せる。
 「君が何を背負ってしまったか忘れられるような男だと思うなよ」
 俺も一緒に背負うから。
 かすれた声は無様で、許しを請う咎人のようで。
 「貴方が負い目を感じる必要はないんです…!」
 ぐい、と被らされたコートを押し退けようともがくリザを大きな腕が囲み込む。
 「頼む。背負いたいんだ、君と、ずっと」
 コートの下で暴れていたリザの動きは止まらないままロイの胸に拳をぶつける。小さな拳は痛くないのに、はたはたと落ちてくる泪が刺さる様に心に痛い。
 「ずっと何て嘘…!」
 きっと私より先にしんでしまうのに、と涙混じりの声がロイをなじる。
 「リザ」
 くしゃくしゃになったコートから小さな頭が出てくる。金色の髪をすいてやりながら噛んで含めるように。伝われ。
 どうか。
 「俺が、リザとの約束を、破ったことがあったか?」
 夕飯の買物、リザの誕生日のプレゼント、町で産まれた子犬の里親探し、この家を出ていく時必ずまた会いに来るからとくしゃくしゃに頭を撫でてくれたこと。約束を守ってロイは今、リザの前に居る。
 一際大粒の涙が溢れた。叩いていた拳がいつのまにかロイの上着に皺を刻んで。
 大きく首を振ったリザの涙が散る。この誠実な人が約束を訳もなく破ることは一度もなかった。
 抱き締めた少女のうなじに刻まれた文字が夜目に写ってロイはきつくリザを抱き寄せた。
 Libera me/我を救いたまえ
 この嘆きが火トカゲの業に巻き込まれた少女の慟哭に思えてならなかった。
 しかしこの約束は、初めて裏切られる。彼女の信頼ごと。戦場に爆ぜる悪魔の業火という最悪の形をもって。もう戻れない程に。
 だから、手を放すことを決めた。
 
 








 「……リザ?」
 まどろみから目が覚めると見慣れた金髪がさらりとゆれて柔らかな光を弾いた。
 「すみません、起こしてしまいましたか?」
 「いや、かまわん…」
 今いち目の覚めない感覚に鞭打って肘でカウチから身を起こすと胸の上に広げて伏せた読みかけの論文が、ブランケットと一緒にずり落ちそうになる。ブランケットに見覚えはないからリザがかけてくれたのだろう。
 「まだ休んでいてもいいですよ。夕飯の支度が終わるまで少し時間がありますから」
 「いや、起きるよ」
 くしゃっと前髪をかきまぜながら欠伸をすると呆れたようにリザが寝癖のついた髪をすいてくれる。銃を扱う固い、タコのある掌。
 「どうしました?」
 いつのまにかリザの手を絡め取っていたらしい。苦笑しながら腕をリザの腰に回して引き寄せる。雑然としたロイの書斎。入れるのはロイの他には、屋敷と書斎の合鍵を持ったリザだけだ。錬金術で仕掛けを施してあるから鍵の複製は出来ない。無理にこじあければ相応の報いを受けることになる。自身の扱う研究を安売りするつもりは毛頭ない。軍に提供している物も実は手札の一部に過ぎない。
 「いや」
 抱き締めた体は柔らかなだけでなく、しっかりと筋肉のついた古傷のあるしなやかな体。ずっと繋いでいける、そう思っていた手は、放すしかなかった。二人、人を殺し過ぎた手を放したのはリザ。ロイには放せなかった。放す覚悟がなかった。ただ軍人でありながら購いにひたすら上を目指した。
 その泥の川は今だ続く。
 けれど本当に溺れそうになった時には、金鷹が背を守り空を示してくれた。だから堕ちた錬金術師となりながらロイは変われた。
 だからもう一度、離された手を伸ばして引き寄せて抱き締めることが出来た。
 「……たいさ?」
 不思議そうに首をかしげたリザの髪を指に絡めてロイは笑う。
 もしかしたら違う未来があったのかもしれない。師匠はきっとそれこそを願っていたに違いない。
 愛娘と不祥の弟子が人並みに幸せな家庭を築いて子を育み優しく老いて土にかえる。
 しかしロイにとってそんな未来は有り得ず、やくたいもない空想の産物にしか過ぎない。
 戻れないところまで堕ち、行き着いた自分を突き放し、手を放すことで、変わろうと決意したリザしかいらない。その覚悟。全てロイのために。孤独を何より恐れるリザが、どれほどの覚悟を持ってロイの手を放すことを決めたのか、ロイは決して知り得ない。
 だから、変わりえた今、漸く泥の川の中、すがる様に伸ばした苦しい手を、正気を保ちながら、生きて、生きあがきながら引き寄せ握り締め、引きずってでも離さずにいられる。
 自分が居なければどれ程の命が助かっただろうか、と思わない日は無い。けれど、それ故に、正気の内にリザに死を請い願うことだけは二度としない。彼女が撃つのは狂気に走った焔の錬金術師である。だから決して見失わず、彼女に撃たせはしない。二度とリザを独りにしない。それがロイの覚悟。生き地獄を正気のまま走破する、正気の佐多でない。だがこんなこと、あの戦場で裏切った思いや、奪った命に比べれるまでもなく、生温い。不遜でいい。我儘で何が悪い。購うべき、嫌、やり遂げるべきことがある。だから生きる。生きて生きて生きて生きて、走り続ける。
 離さずに。
 真っ直ぐではいられなくなった。螺子曲がったまま。汚濁を飲み込んで、走る。
 「君がいてくれてよかったと思っただけだよ」
 傷だらけの体を笑って抱き締める。やくたいもない夢想の中でリザはきっと綺麗なままだろう。苦しみも悲しみも、死んだ方が容易い道程など知らないまま。…そうあって欲しかった、守りたかった、何より。けれど今の自分は、この選択をした彼女しか知らない。何より辛い覚悟をして、ロイのため、自分の罪のけじめのために、繋がれた手を、絆を、手放したリザしか知らない。だからロイはこの選択をしたリザがいい。戦場を駆け抜け、硝煙を纏い、常にロイの傍らにある、傷だらけのリザがいい。
 この女は抱き締める女でなかった。
 抱き締めていとおしむだけの女ではなかった。
 背を預け、人を殺し、罪の重さに慟哭し傷ついて、それでも生きあがくことしか出来ない、例え手をはなしても、お互いをうしなうことだけはできない。
 普通の幸せや、手を繋ぎ続けること、真っ直ぐであり続けること、どんなに望んだとしても叶わない夢であった。
 それでも再び手を繋ぐことだけを願っていた。
 絶望に悲嘆した時、手を繋ぎ留めたまま共に絶望に悲観するだけでなく、停滞をよしとせず、故に手を放した。
 進むことを選択した。いつかの平和を勝ち取るために。
 「私も貴方がいてくれて良かったですよ。お仕事をさぼらない立派な上司になってくださったらもっと嬉しいですけれど」
 抱き寄せた頭ごと金色の髪に指を絡めながら心地好くロイは笑う。
 「副官が有能だから上官がさぼる位で丁度良いんだよ。ただ私の見せ場が無くて困るな」
 「副官が有能でも無能でもさぼらないのが普通なんです」
 もう、とすねる仕草に幼い頃の面影が残っていてロイは眩しげに目をすがめた。
 「…たいさ?」
 敏くロイを見上げる瞳が僅かに心配を宿して揺らぐ。変わらない仕草。変わらない表情。けれど腕の中には自分がどれ程傷付いたかも解らない程にぼろぼろになりながらも、も共に走り、地獄の底まで共に往ってくれるリザがいる。それ以上に何を望むことがあるか。…ああ、そうか。当たり前の願いがある。
 「…そこにいてくれ」
 どこまでも強欲な自分に呆れながら口にでた言葉は思いの外打算の欠片もなく響く。
 「…地獄の底だろうと一緒ですよ」
 この業の深さはきっと死すら引き裂けない。
 柔らかに髪をなでながら返された物騒な言葉には、ただひたすらに痛切な優しさが宿っていた。本望だな、とロイは酷く穏やかに笑い、しなやかな背に腕を回して、鼓動の音を聞いていた。尊い音に瞼を下ろす。
 暖かい。
 今、漸く前を向き、手を繋ぎ、時には放し、背を預け、引きずって、あがきながら、支え、生きて生きて生き抜く、走る。
 この女はそういう女であった。
 ただそれだけのことである。
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 

















鋼、ロイアイ@鳥の詩  2009/08/08


* ブラウザバックプリーズ