* 不確定未来予測




それは去る一点の事象に過ぎず。



 わたしがしんだら
 
 
「第二資料室の特別閲覧E-00256のファイルを燃やしてくれる?」
 猛禽の羽の色をした濃茶の目を静かに書類の文字に走らせその白い指が書類の上をすべる。
 ちょっと疲れたから休憩を入れましょうか?、とか、空気が悪いから窓を開けましょうか、とか。
「……あー……なんかすげえそんな軽いノリで凄いセリフ言われたような気がすんスけど」
 そう?と少し首をかしげると青い軍服に鮮やかに映える金髪の後れ毛がさらりと散った。
「駄目かしら?」
「駄目っつーより無理です。あそこの鍵は将軍か大佐、緊急時でお二人のどちらもが不在の場合はその次に偉い人に委任されるんです。凄い極秘情報仕舞ってる部屋なんです。下っ端連中はドアを開けることも出来ませんつかE番ってファビッドどころかアンノウン扱いじゃないッスか!」
 閲覧の禁止ではなく情報の不明。名の示すとおり、秘蔵書類自体が未確認扱いになっているになっている危険物だ。そんなシロモノ下っ端下士官が手にして良いようなもんじゃあない。絶対百害あって一理無し。
 ちなみに将軍、大佐、次いで次に偉い人といえば順番どおりにいけば、階級の垣根を越えて、この東方司令部実質上の司令官である大佐の副官としての委任権を戴いているハボックの目の前に居る中尉に他ならない。
 というか、なぜ彼女はそのような”If”を想定するのか。この場にあの上官が居たらまず真っ先に本気で機嫌急降下は間違いない。――過日。彼はあっけなく親友を永遠に失ったばかりだったのだから。
 軍人である以上、「自分が死んだら」、その場合を想定するのはある意味不思議ではなく、当たり前のことかもしれない。自分たちは合法的に武力行使でもって危険を抑圧、制圧出来る立場に居るわけで、その権限行使はそれなりの相手とやりあうからこそ許されている。
 普段からテロリストとの戦いの戦線にたつような職業軍人は、希望すれば遺書を封印して依託することも可能であるし、それは事務官に従事するものも含まれる。基本的に、軍属であれば希望者はいつだって死した後のことを託せる。
 大きな戦争への出兵の際には、ほとんど全ての兵卒が公的に、または私的に遺書を託す。他にも、死に関する”If”の想定として、軍人は死亡時死体がどのような状態でもそれが本人であることが判別できるように認識プレートの着用を随時義務付けられる。戦場では遺体の無い葬儀も珍しくないから、認識プレートすら役に立たないこともままあった。だが戦友の遺体すら運べない状況で、それでも其処に残していかなくてはならない場合はそのプレートの硬く無骨な金具を、支社が身につけていた銃火器と弾薬ごと引きちぎって、遺族へ贈るせめてものよすがとする場合もあった。幸運といえるのだろうか、ハボックはまだそうやって本当に『どうしようもない場合』の経験をしたことが無い。失った部下は両手ではもはや足りないけれど、戦友もそうだけれど、其処まで想像すら絶するような戦場を知らない。だが目の前の静かな上官はその戦場を知っていた。赤い大地を、乾いた砂ばかりの地平と風に灼かれ、生き残った内の軍人の一人が今目の前に居る。軍人とはいえ男とは比べるべくもなく細い肢体を持つ上官だ。
 その上官の、猛禽の羽の色をした瞳がぱちりと瞬いて、少し幼く見えた。
 書類をめくる白い手をとめ、綺麗な顔が少し考え込むようにじっとしてから、美貌の上官は真っ直ぐにこちらの眼を見て言葉を返した。
「それは貴方では閲覧室に入る権限も書類を自由にする権限も無いから実行不可能、ということかしら?」
「イエス、マム」
 おどけて敬礼してみれば、彼女が珍しくうっすらと苦笑した。この当方司令部では実質的な司令官である自分たちの上官がセントラルなどに出張中で不在の場合、有事の際はその副官であるこの女性士官が実質上の指揮官となる。彼女はその上官の副官でありながらまた護衛を兼ねているためセントラルへの出向は上官と共にすることが多いのだが、当方司令部の実権を直接握る二人の上官が同時に司令部を離れるのは芳しい事態とはいえない。故に上官のどちらか片方が残ることもままある。上司のみが中央に赴く場合は、中央で警備のものを彼女自身が手配するか、もしくはもう一人の副官――ハボックがともに行くこととなる。
 最も男二人でコンパートメントに缶詰されるのは拷問だと激しく抗議する上官とあーはいはい俺もいやっス大佐のお守りよりかんわいーいセントラル美人めがけてナンパにでも精を出したそうかお前燃やされるのが趣味なのか、等々のやり取りに、我侭言わないでください私が出来る限りお供しますからとため息ついでに頭痛を覚えながらも、じゃこんとブローニングのセーフティをはずして何の足しにもならない会話にピリオドを打った彼女の配慮のお陰で、男二人コンパートメントという状況は改善されつつあるが。それでもやはり、彼女一人が東方に残る状況もあるわけで。
 その珍しい状況の折のみ、東方司令部の兵卒が従う上官への尊称がサーからマムに変化する。
 別に変えなくても構わないわ、貴方たちは迅速に指示に従ってくれるし、階級で呼べばすむことでしょう?
 その言い分に、気分です気分と直属の部下や隊の連中はそろいも揃って楽しげに答えるのが常だった。東方司令部の司令室には揃いも揃ったり、変わった面子が並んでいる。特に若くして大佐の官位を持つ上官と、その副官は筆頭である。一応東方の司令部の全実権を実質的に把握している上官に足払いをかけたり、上官に無能と叩きつけたり、上官に寝てる暇があるなら仕事してくださいと言い放ちざま容赦なく叩き起こしたり(最後の部分はどう考えても居眠りしてた上官が悪い)、行き過ぎとも覚える副官の態度であるのに、彼はそれらを受容する(というか逆らえないのだというのがそのほかの部下全員の総意である)。しかしこれほど部下に寛容な上官はある意味軍属の身では考えられないことである。
 だが、決してだらしないわけではない。彼は能力以上のことを容赦なく要求しそれに応えられねば此処には居る事は出来ない。隊全員の能力を正確に把握し、無駄なく配置し、容赦なく、悪辣な手段を使ってでも市民に害をなすテロリストを狩っていく頭脳は無能と言うにはほど遠い。
 そしてこの鷹の眼を持つ彼女以上に、この司令部には彼の要求に応えられる人物は居らず、常に要求を上回った答えを返すのも彼女のほかに居らず、故に彼女はいつも彼の傍に居た。恐らく彼と何の言葉も無しに此処まで阿吽の呼吸で死線を越えられるのは、彼女以外には先日急逝された、上司の親友しか居ないのだ。
 一応は命を投げ出しても惜しくないなと思う上官のすぐ後ろをぴたりと護る、フェアブロンドをきりりとまとめたまっすぐな横顔を何度も自分はすぐそばに控えて見てきた。ついていける人として、尊敬もしていれば、その裏返しに過酷な要求を押し付けて、その上人の彼女も攫ってくタラシの錬金術師、私なら当然のことだろうとふんぞり返って飄々としているむかつく上司に、ただでさえ男だらけな職場にさく花(というには棘がありすぎるが)である美しい副官という目の保養までをもかっぱらうなとも、まあ思うわけで。
 だから尊敬と愛情と我が東方司令部司令官への嫌がらせをこめて彼女を「マム」と呼ぶのだ。この事は上司だけが知らない彼女のこと。それが一番の嫌がらせ。
「そうね、私にも勝手にあの部屋の書類をどうこうできる権限は無いわ。でも」
 ぱらり、ぱらり、紙を繰る音だけが響く。
「多分私が死んだら、多分だけれど、一応、特進がかかると思うから」
 トン、と書類の端をそろえてデスクに手をついてしなやかに立ち上がるほっそりとした影が降りる。
 少し自信が無いらしいのは言葉の端々から伺えた。まあ性別的に不利ですし、死んだ状況にもよりますけれど……いえ、心配する必要はありません。貴方ほど優秀な軍人が特進かからないわけありません。自信持ってください。…でもあんまりもたれても心境的に複雑というか。
 言えない台詞が煙草の苦い煙と一緒に腹の中にたまってく。空気に散った紫煙はうっすらと消えて見えなくなるのに、体の中に溜まったものは煙みたいに霧散することは無かった。
「……だから、運がよければ大尉か少佐には……佐官は無理かしら?なっていると思うから閲覧禁止書類の取り扱いについても無理じゃないと思うのよ」
 後れ毛を耳にかけて、珍しく微かに微笑みながら彼女は言い切った。
「上官命令よ、ハボック少尉」
 承服できかねます。
 と、言うは易し。
 ぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜて、そんな役割ばかり引き受けるこの性分を心底呪った。
「何故を聴いても許されますかね?」
 命令に何故を問うことなかれ。軍人としての基本であり、同時に何故を問うのは軍人として失格だ。理由より行動こそが死線を分かつ状況に自分たちはいるから。でも珍しく、軍人たる規範を破ったことには触れないで彼女の顔はどうしてか優しかった。
「……ごめんなさい、言えないの。聴かない方が良い。でもそうね、それが駄目なら」
 微笑みながら瞳を閉じて、どこか祈るような声音で彼女はささやく。ああ、知っている。こんなときの彼女は自宅の愛犬か彼女の唯一の上官のことを考えているんだと。
「私の遺体を破棄しなさい。骨も髪も血も一滴残らず処分しなさい、私の持ち物……そうね、ブラシとかも、家財一式焼いてもらっても構わないわ。とにかく、私の遺体の痕跡を跡形もなく抹消して欲しいの――ああ、ブラックハヤテ号は焼かないでほしいのだけれど。駄目よ、食べちゃ」
 どうやら愛犬家の彼女は、黒い毛玉もとい子犬が自宅へ引っ越してくる直前に食べ物扱いしたことを懸念しているらしい。
「食いません、食いませんよつかそんなことしたら俺が先に焼かれます」
 勿論手袋一枚で煉獄の炎を生み出す上官に。あの人は一度自分のものだと認識したもののことについてはとことん独占欲が強い。(それはもう性別も生も死も有機物も無機物も関係ないくらい)特に彼女の死後(考えるのも嫌だが)のものに手を出した上で丸焼きになんぞしたらまず間違いなく、比喩でなく自分は殺されるのではないだろうか。
「ミディアムもレアも御免なんスけど。若い美空で彼女もなく死ぬのは侘しいし」
 彼女が居るからって簡単に死にたくないし。残していく方はカッコイイ去り際かも知んないけれど残される方はたまんないだろ?つか、俺の人生において俺がかっこよく死ねるはず無い。……嫌なことを確信してしまう自分の貧乏くじ人生、それでもリタイアする気なんて無い。ああ、マゾヒストだったのか俺は。
 思わず頭を抱えてうずくまってしまいたかったが今度こそ真っ直ぐ、彼女はこちらの瞳をじっと覗き込み、微笑って言ったからそれは出来なかった。彼女のまなざしは真っ直ぐなのだ。ただただ真っ直ぐなのだ。凸レンズやら凹レンズでも無い自分がその真っ直ぐなまなざしを屈折させることなどできない。彼女の真っ直ぐな視線を屈折させたら美しいプリズムが生まれそうだなとは思うけれど。
「上官命令よ、少尉。諦めなさい」
「それって死ねってことですか?同義ですよ?あの人相手の場合」
「あら、困るわ。私がいないのだから私の変わりに、死なないで、あの人の盾になってもらわなくちゃ」
 さらりとこんなことを言い合える、それは自分たちがあのどうしようもない上官殿にやっぱりある意味惚れ込んでいるからだ。ああ、嫌な表現だ、こういうのはもうちょっとせめて性別が違うお相手に言いたいものであるが、人として、という意味ならまあ許容範囲内ということにしよう。
 了承している、それこそあの上官と目の前の上官の間にある特別な絆に近いものであると思う。あの人を庇って彼女が倒れたら彼女を盾にし、その背中を打ち抜いてでも敵を仕留めてあの人を鉛玉と火薬から護る。逆でも同じ。でもそれはやっぱり、どうしようもない場面で、最後の最後の切り札としておきたい。出来れば一生伏せておきたいカード。それに。
「――あの人が背中を任せるのは中尉しか居ませんよ」
 ふかりと紫煙が宙にゆれて消えていく。あの苛烈な気性について行ける数少ない人はハボックが知る限り、彼女と、急逝してしまった上司の親友ということになるのだ。
「それでも」
 そんなことは百も承知の癖に、彼女は言うのだ。
 かつん、とごつい軍靴を鳴らして。
「私たちはあの人の盾にならなれるのよ。なると決めた。そうでしょう?」
 そっスね。
 颯爽と青い軍服のすそを翻し、デスクチェアから立ち上がる。微笑を消して彼女は前を向きしゃんと背を伸ばす。噂の上官に今しがた製作し終えた書類を手渡しに。
「もう一度言うわ、少尉。上官命令よ」
 観音開きの扉を開いて振り向く視線が柔らかだった。
「……アイアイ、マム」
 確定されていない未来に向けての命令に、めんどくさげに敬礼を贈る。向けられた視線と同じくらい儚くて柔らかな、かすかな笑みが視界をかすめる。彼女の声の細さを最後にドアの外へと金色が消えて、靴音がだんだん遠ざかっていった。
「……何か何で俺こんなに不幸なんだ呪われてんのかコンチクショウ」
 ぐしゃりとタイプライタから強引に紙を引っこ抜く。打ち間違えた文字のインクがかすれた。紙を丸めて屑篭に投げ入れる。弧を描く白い紙屑に指で作った拳銃を向け、Bang!と見えない弾で貫いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 わたしがしんだら
 
 
 
 
 
「泣いてもくれないかもしれないんだがどう思う」
 何だ自分はやっぱり呪われてるのか、豆が持ってきた報告書の中でロトだがレテだかなんだか知らんが新興宗教があったな。いっそ縋るか。いやいや、ああいう新興宗教こそしちめんどくさいテロを起こすんだ。市街地でツルハシ抱える身にもなってみろ。いちいち予告状作る手間も犯罪マニュアル作る手間も知ったことか。そんな暇があるなら地道に稼いで民需を増やせ。
 胸中でため息をつきながらそれを煙草の仕草にまぎれさせ、やる気の無い仕草で、上官の机の上で白い巨塔を作る面倒くさいデスクワークを指差した。
「その書類仕上げる前に逃亡して中尉に追っかけられた挙句ブラハに噛み付かれて階段からごろごろっと逝ってしまったら泣いてくれるかもしれませんよ。書類の認可のサインがもらえないって」
 それは確実に上司が死んで哀惜の念に耐え切れず悲しいのではなく、未決済の書類が通らないことが悲しいのだ。
「馬鹿者。私がそんな地味な死に方をするか。華々しくかつ華麗にだな」
「ま、あんたが死ぬ前にゃ、俺か中尉が確実にくたばってるでしょうから、ブラハに噛み付かれようと何だろうと知ったこっちゃあありませんよ」
 タイプライタのインクが掠れてきた。ブレダの野郎カートリッジ変えてねえな?
 よっこらせと一番下の引き出しをごろごろと音を立てて引っ張り出すと予備のインクカートリッジを探す。
「ハボック」
「何スかー?」
「中尉に何を言われた?」
 何を?
 そんなことを言えるはずもない。言えるはずもない。ただ。
「あんたは、俺らより先に逝かない。そんな話です」
 ぷかりと浮かぶ紫煙にか、不穏当な発言にか、黒い視線に熾火を起こして深く静かに怒り狂った上司がにやりと口の端をあげる。
「そうだろうな。お前の顔はつまらん厄介事に引っかかったあげく運悪くごたごたに巻き込まれて大方昔の女に刺されるタイプの顔だ」
「どんなタイプの顔ですかっつかあんたにだけは言われたかなかった……!!!!!!」
 かなり本気の絶叫に思わずタイプライタをたたき壊しそうになる。今月の給料明細がごっそり修繕費で奪われるところだ。
「中尉は私より先には死なないだろうな」
 何でもないようにさらりと流れた台詞だった。だが、その声音は何故か背筋を一気に冷やして、氷塊を滑り落とさせた。のどの奥に固まりが詰まって声が出ない、そんな感じ。
「いや、正確には死んでもあまり意味がない」
 こつん、と万年筆が意味もなく机の端を叩いて彼はとても楽しそうに笑った。
「世の中には失われてはならないものがある。たとえ自分が失われようとソレが失われてしまえば自我が崩壊するようなものがある。そしてこの世に自我を失った人間兵器ほど質の悪い存在はあり得ない。故に、彼女は決して死なない、いや、死ねない。死んではなら無い」
 とても穏やかなほほえみを浮かべながら、どん底の暗闇の中で赤く、炭のように熾火を燃やす双眸は、窓から差し込む金色の陽光を眺めていた。斜めに室内に切り込む太陽の光の筋はとても美しく。
 まるで、燃やしてくれ、と頼んだ、彼女の髪のように。
「……大佐」
 顔を上げることができないまま、手元のタイプライタのキーを眺めている。噛みしめた煙草のフィルタが苦い。
「第二資料室。特別閲覧E番って、どんな情報、ッスか?」
 掠れた。声が。
「特別閲覧?ブラックファクトに手を出すなよ。まあ特別に教えてやらんでもなかろう」
 悪辣な笑みを浮かべて彼はことさらゆっくりと足を組み、尊大に椅子に背凭れた。
「特別閲覧のNo.00からは私の管轄だな。国家錬金術師に関する軍事機密。東部総括は全て私に一任されている。E番は知っているだろう?鋼の錬金術師の頭文字――さて、中尉は何を貴様に言ったか、言う気になったか?」
 

 ―― 母 さ ん の 笑 顔 が も う 一 度 。
 

「……あー俺、煙草吸ってきます」
「全て燃やせとでも言われたか?」
「たい」
「彼女ごと、その家財含めて全て」
 ここまで示唆されて解らぬはずもなく、それなのに彼は流暢に続けた。ハボックが一言も口に出さなかった、書類ナンバーすら流暢に、一字たりとて間違わず、残酷なまでに正確無比に。
「第二資料室の特別閲覧E-00256号は鋼の号を負った『彼ら』の業を、私がレポートしたものでね。あれほどに美しく完成に近い陣を見たのは初めてだったな」
 あるいは、師匠が奥方を呼び戻そうとなさっていればあれ以上に真理に近づけていただろうか。僅かに瞑目して、ロイは過去を振り払った。父が恐かったんです、と戦場で吐露した少女は、過去に一度母を取り戻そうとした父を止めていた、とロイは確信している。
 寝物語に聞いた話だ。暁暗の光が僅かに散るベッドの中で、彼女の金色が美しくちらちらとプラチナみたいに光っていた。


 ――父が恐かったのは生涯で二度あるんです。思えばあの時、きっと母のことしか父の頭にはなかったのでしょうね。私はそれが恐くて恐くて、父が無言になる度に、しかられるのを覚悟で台所のティーポットを引っ繰り返したり、モップにつまずいたふりをしてすがりついたりして。……何故かは解らないのですけど、そのときばかりは何が何でも私の方を向いて振り向いて欲しかったんです。怒られても良いから、父の思考を止めたかったんです。
 眠い目をこすりながら、ほのかに笑うリザの顔。まだ髪の短かった頃の思い出をロイは鮮明に覚えている。しかしそれ以上に、師の心が痛烈に感じられた。世界との唯一の接点であった妻を失った錬金術師が、この世の孤独に耐えられるはずもない。禁忌をとどめたのは、ひとえに妻の忘れ形見の娘がいたからに過ぎない。もしもリザが居なければ、師は確実に、錬金術師として最悪の堕落を行っただろう。間違いなく、師にとってリザの存在は僥倖であったことだろう。故にこそ、最凶の錬金術の番人として、リザの背中に焔蜥蜴を託した。
 今なら私にも解る気がするんです。私も、きっと同じように。もしもあなたが今居なくなれば生きていることに耐えられなくなるでしょう。私は、父に似たんだと思います。
 そのまま柔らかなまどろみに瞼を下ろしたリザは緩やかな眠りに落ちていった。その、傷跡の残る肩を抱き寄せ強く強く抱きしめながら、語られた師の残映に向かって、瞑目する。ロイには師が犯しかけた罪の片鱗が手に取るように解ってしまった。娘のリザ以上に解る、というのはきっと傲慢だ。しかし事実だ。そこに方法があるなら、確実に、禁忌を犯してきっと自分は取り戻す。命を。焔の錬金術師にとって、ロイにとって、止める楔は、ただ一人リザしか居ないのだから、リザが居なくなれば留まれる理由はきっと無くなってしまう。
 深い眠りに落ちながら、力の抜けた柔らかな体をきつく抱き寄せて、自分の方こそ指先一つで煉獄を生み出せる狂気と孤独から、リザの居ない世界に耐えられなくなるだろうと痛烈に思い知らされる。
 だから違う。きっと、似ているのは娘のリザでなく、弟子のロイの方だ。
 柔らかくて薄い瞼に唇を寄せながら、言葉に出さずに、ロイは錬金術師の咎と業を、僅かに乱した呼吸だけで、リザに吐露した。


 呼吸は静かだ。あの暁暗の激昂は今はもう遠い。だから、当たり前にロイは傲慢を口にした。
「許さん」
 静かに、水をたたえる湖面すら揺らがないほどに穏やかにロイは言葉を口にする。リノリウムに描く彼女の髪に似た陽光の光に眼を細めながら穏やかに。
「少尉。心得ておけ。軛を失った焔の錬金術の禍々しさを見たくなければ、お前たちは死んではならない。その上で、彼女を欠くことは更に許されない」
 あれは俺のものだと厳然たる事実を告げる熾火の焦げ付く高温の視線がダガーより鋭く、鈍色でハボックをにらんだ。
「……アイアイ」
 噛みつぶしたフィルタの味も感じないで、その言葉を諦念とともに口にする。
「じゃあ、あんたも一個くらい心得といてください。貧乏くじ引かされっぱなしの部下の陳情です」
 がたり、と安物のデスクチェアを乱暴に立ち上がるとぎしりとパイプの軋む音。胸のポケットから煙草の箱を探りながら、似合わぬデスクワークにこった肩を回すとごきっといい音が鳴った。
「大佐が居なくなれば中尉は意味を失います」
 ゆっくりと、尊大な支配者の視線が立ち上がったハボックを見上げた。
「何の意味、とか、聞き返すような馬鹿はよしてくださいよ。あの人にとってはあんたが意味なんだ」
 それは生きる上で空気のような、水のような、これほど禍々しいものなのに情に厚い、この人を欠いてはあの人は生きることを辞めるのではないか。それは自分たち部下とは全く違った次元で。それを愛と呼ぶのか来いと呼ぶのか、戦友と呼ぶのか上司部下と呼ぶのか、解らない。ただ、絆なのだ。決して途切れないがんじがらめに縛り付けられた絆なのだと、時折、ハボックはそう思う。
「中尉を失いたくなければまず自制してください。まず、指揮官が現場に出るなとあの人に言わせる回数を減らしてください」
「私が簡単にどうにかなると思うか。よって現場に出ようが出まいが関係ない。むしろ私の勇姿をみられないお嬢さん方が悲しむじゃないか」
「あんたが簡単にどうにかなるとは全く思えません。憎まれっ子すぎますから。じゃ、一言一句間違いなく、出張から戻ってくる副官殿に引き継ぎますがよろしいでしょうか?サー」
 爽やかに発火布を握りしめた片手をちらつかせ、悪辣な黒い視線が向けられる。
「燃やされる覚悟があるならばな」
 からりと不適に笑った笑顔に見送られ、煙草休憩兼そろそろセントラルから戻ってくる副官殿を探しに行く。これ以上こんな会話をしていて実りがあるとも思えない。
 自分の言ったことは解っているだろう。
 彼女の何が意味が無くなるのか。
 彼が死んだら、彼女の生に彼女が意味を見いだせなくなるのだと。
「……つか、どっちの命令にしたって理不尽すぎねえか、俺?」
彼女の命令に従えば黒こげ、彼の命令に従えば泥を啜ってでも自分の命事、上官達を生かす。――自身の命の選択については限りなく、低くなるであろうことは堅くない。そしてそのことを、ハボックはあまり悔いていないことに、どこまでも深いため息をついた。
 畢竟、どちらの命令に従おうと、生き抜くには多大な覚悟が必要だった。
 しかし、この職場の焼死確率の高さは異常である。特に中尉殿のことに関しては、彼は簡単に諸刃の剣を錬金術師の狂気ごと引き抜くことにやぶさかでない。……その狂気を鎮められるのはやはり一人しかいないのだろう。なら、どちらの命令に従うかなんて。
「……やっぱその時になってみねえとわかんねえか」
 上司が錬金術の狂気を犯すことをリザ・ホークアイは決して望まないだろう。忌避していると言ってもいい。その理由は二人の過去にあるのだろうけれど、それは安らかな思い出であるとは微塵も思えないあたり、ため息を誘うというものである。例えば、彼が彼女のために禁忌を犯すとして、それを留められるかも知れなかった唯一の人は、過日、逝った。――実際、その逝ってしまった彼にしても留められる可能性があっただけで確実ではなかった。踏みとどまるのはいつだって自分しか居ない。踏みとどまるきっかけになろう人が居ようとも。彼女について、彼は留まれるのか。何となく、ヒューズは止めなかったかも知れない、とも思う。もしも愛妻や愛娘の命が理不尽に奪われれば、彼はあらゆる手段を用いて復讐し、あらゆる手段を求めて蘇生を望んだだろう。それが現実を見る女といつまでも馬鹿をする男の違いかも知れない。
 もし、リザが失われたとして、かの親友はなんと言っただろう。命の倫理を簡単に踏み越えてしまえる戦場にあって、どんな思考回路が形成されたかは解らない。ただ、リザに代えて、錬金術師としての道と人としての道を誤る覚悟はあるのか、と、酷く静かに問い糾したのではなかろうか。その上で、決断をロイに託し、一発殴り倒すか一晩自棄酒に付き合うかを決めるような気がしている。
 それを思うと、やはり彼を止められるのは彼女しか居ないのだろう。全身全霊で、そっちに行くなと叫び、縋り、銃を向けてでも人の道に、錬金術師の魂に悖るなと声がかれるまで叫ぶのは、彼と何かを共有している、彼女しか。なら、自分は彼女の命令に従うべきなのだろうか。……考えたくもないそのときが来たら。
 執務室の扉をばたんと閉めてから思わずこぼれた一言に、どこまでも貧乏くじを引く部下は今日も深々とため息をつく。
「やめだやめやめ」
 考えたくないことは考えない。そのときになったら考える。馬鹿な頭で悩んだって答えなんて出てこない。
 ただ解っているのは上官たちが自分の命より重く、相手の命を想っていること。それならば、もう一匹の忠犬が命を張って二人分生かせばそれでいい。最優先は彼女の命令を遂行しなければならない事態に陥らないこと、そのためになら、苛烈だろうが何だろうが、理不尽な上司の命令にくらい幾らでも従ってやる。
 もし戦場に斃れるならば自分一人で。そして屍ごと悲しみを怒りに返還して前へ進む力に、踏み台にしていけばいい。
 特別閲覧E番なんぞ、燃やしもしないし、まして開けさせてたまるかと誓いながら、向こうから歩いてくる見慣れた女性士官が窓からの日差しを渡って真っ直ぐにこちらに来るのに気がついて、お帰りなさいと右手を挙げてぴしっと敬礼。
 小柄な上官が敬礼を返し、ただいまと柔らかく微笑む。
 自身よりもお互いを失い得ない強烈な依存も執着も、そんな心など理解もできないと考えながら、その絆を守れる盾の一つであればいいと、柔らかな笑顔を向けられながらそう思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

















不確定未来予測@ロイアイ100題「私が死んだら」。2009/09/24

* ブラウザバックプリーズ