* a path of tender prayer.




そう、今は願うだけでも。



 よく晴れた砂漠の晩密やかに。
 あなたは私を、抱く。
 
 
 
 
 見上げる限り満天の星空と美しい地平線は赤茶けた砂におおわれて埃だらけだ。銃器の整備にいつも困る。銃器はとても繊細な生き物なので、整備を怠ればそれに相応した仕打ちをこちらに報いてくる。この地にて。それは命の危険に直結した。
 乾燥した吐息は吐くごとに白く靄になって星屑の夜空に消えていく。昼間のうだる暑さが嘘のようだ。昼に暑く、夜に凍え、常に乾く人の住むには優しくない環境。このような過酷な地で何百年も生き延びてきた部族に戦争を仕掛けたこと自体、間違いだったのかもしれない。
 アメストリスは牧羊的な国家だ。大陸の内部に存在し、家畜を育てる牧草にも不足無く、農作物を育てる肥沃な大地にも天候にも恵まれ、豊富に流れる大河は水不足に陥ることを知らず、新鮮な淡水魚も多数生息しているから沿岸に接しないからと言って水産業に特別困ることもない。鉱物資源は南部の山岳地帯に豊富に存在するし、岩塩もとれるから塩を輸入する必要もない。ただただ恵まれた国土だ。
 それに引き替えこの地の、なんたる不毛なことか。草木は育たず、厳しいスコールが大地を叩きつけたかと思えば、そのれでも命の糧となる水さえ植物が存在しないからすぐに砂に染みて消え失せる。資源と呼べる資源はアメストリスから来た人間にとって見れば皆無と言っていい。
 この地より千と数百年、自然の厳しさと過酷さに曝されながらもひたむきに神を信じることで素晴らしく尊く、美しい魂が磨かれてきた。この地の人々はこの磨かれた魂の誇りを糧に生きてきた。
 交戦中の、アメストリス国軍にとっての蛮族の異教徒を美しいと表現すること自体、今の自分の立場を思えば容易に口に出せることでもない。それでもなお、厳しい環境に曝されながらも培われ来たひたむきさと一途さを自分は嫌いではなかった。
 砂よけのフードを口元まで持ってきてしっかり首元に巻き付ける。ざらざらとした感触にタートルネックと短い髪がこすれた。
 砂だらけでいつもざらざらしているけれど、乾燥した砂は衣服やらをばさばさ振れば大量に砂をこぼしてくれるから汗でべたべたでもない限り、基本的に乾燥しているので慣れれば案外平気だ。
 そういえばイシュバールの部族は長い布のようなゆったりした衣服を好んで纏う。通気性と直射日光の遮光性の問題だと思っていたのだが、こうやって砂をばさばさとはたくのにも役立っているのかもしれない。
 ざくざくと硬い赤土を踏みしめる。固いライフルを抱きしめながら一心に脚を進める。
 いつも命を屠ってきた。いくつもの命を屠ってきた。
 スコープ越しに覗く褐色の肌と赤い瞳がリザを呪っているようだった。でも、実際ライフルで射殺してしまえば相手は殺されたと思う間もなく死んでいるのだ。リザの腕は鷹の眼としてすでに派遣された国軍に名高い。いつの間に呼ばれるようになっていたのかは定かではないが、彼女の腕が飛び抜けておりその天賦の才への賛辞でもあり、女ながらに人を殺すと言う揶揄をも含んでいるのだろうかとも思う。
 女性で軍人で士官候補生で、全部が中途半端なリザの足下を僅かでも侮りから固めてくれるのはこの腕だけだ。必ず一発の銃弾で仕留める。狙撃手が殺すと決めた相手に二発目は無い。少なくともリザにはあり得ない。ただ一つの銃弾で相手を屠る。それがリザのやり方。だから赤い目をした褐色の肌のイシュバール人は殺されたことも、殺した相手も、その相手がこんな小娘だということも知らないままに逝く。イシュバラの懐へ召されていく。
 彼らにとって死を覚悟しての殺し合いは地獄への道程なのだろうか。それとも部族の誇りを護っての聖戦なのだろうか。解らない。解らないからこそリザには理解できない。
 戦争は戦争だ。殺し合いは殺し合いでしか無くて、どこまでいっても人殺しのままただそれだけに終始する。罪人(人殺し)は罪人(人殺し)のまま、地獄への道程は覚悟しているけれど、聖戦なんて言葉は意味も意義も、己には一生解らない。
 その代わり、死なせたくない人がいる。何をしてもどんなことをしても死なせたくない人がいる。ただ、それだけ。
 俯いた視線の先からは夜空の星屑が消え去った。赤茶けた砂の大地は夜に隠れて黒ずんでいた。
 夜に沈んだ地面に僅かな星明かりを遮る影が、うっすらと灰色に、青白い星明かりにリザの視界の中、浮かび上がった。赤土にしみこんだ怨嗟も血も関係なく、星と大地と砂漠の美しさがそこには確かに存在していて、ふと歩いてきた道のりをリザは振り返った。
 すっぽりと頭まで目深に被ったフードが空気をはらんでふわんと揺れる。ひんやりと冷えた風だった。砂だらけの金髪がさらさらと音を立てるように揺れた。鷹羽色の瞳が風に濡れて涙がにじむ。
 何処までも続く砂礫の大地。
 果てのない天球。
 世界はとても美しい。
 深く深く息を吸い込んで、目を閉ざして。瞳の奥がじんわりと熱くて痛かった。風の音が聞こえる。砂が風を渡る、硝子の粉がぱらぱら零れるような、繊細な音が聞こえる。この美しい凄惨な地でただひたすらに祈ることがある。
 だからリザは立ち止まっていた脚で再び踵を返し、砂漠の大地を軍靴で蹴った。ざりと固い感触が足の裏に響くのにも随分慣れた。士官学校に通っていたリノリウムの床はもう思い出す事なんてきっと出来ない。
 視線の先の薄く影引く天幕の奥、まばゆくちらちらと揺れる灯りが見える。夜間哨戒や緊急時、必要最低限以外の照明は禁止されて久しいはずだったが、この天幕は別だった。この天幕には好奇心、たった一つで常軌を超えていく生き物が住んでいるのだから。彼らだけに許された特権を、彼は存分に生かして精神がまだまともに働いているときは己の研究の成果を確実に上げるため頭脳をそのためだけに傾けている。この行為が果たしてまともかどうかは解らないが。何しろ研究しているのはいかに効率よく人を殺す火を焚けるかに尽きるのだ。
 そうやって、頭の中をいっぱいにして。本当は左官専用に移された一人きりの天幕の夜の重さが堪えられないのだろうか、昼間の目映いまでの赤と朱と赫が暗闇の中で轟々と燃えさかるさまが蘇るからか。
 想像の範疇をでない回答を繰り返していても仕方が無く。
 丁度入り口のところで立ち止まると、リザは踵をわざとかつんと高く慣らした。
 ライフルを肩に構え、中の人物にむかって声をかけようとする。
 「おいで」
 ホークアイ士官候補生です、名乗る前に、いつもと違った軍人用の声じゃなく、あのころの声が聞こえてきて、思い切り軋んだ胸を隠すように彼女はそっと静かに、薄汚れた天幕の、入り口の布に手をかけた。
 
 
 
 
 「――リザ・ホークアイ士官候補生入室いたします。……少佐、恐れながら諫言申し上げますが休息を取っておられるとはいえ、誰何もせず不審者を招き入れる真似は謹んでくださいと何度進言すれば解ってくださいますか」
 「君と色ボケ馬鹿眼鏡の気配くらいわかって当然だろう」
 行軍の最中なのだから仕方ないが元々物の少ない天幕の中、簡易のベットが奥に一つある。天幕を張る余裕がないとき、任務遂行中の時は砂避けのフードにくるまって寝る。左奥のベッドに対して右奥にある簡易デスクには山と紙が積んである。
 師匠の遺してくれた蔵書も論文も何もかもを置いてきた。俺の論文も置いてきた。俺に何かあったら灰にするように錬成陣を仕掛けてきたが、構わなかったか?何せ君とは、連絡が取れなかったから。
 その言葉にリザは迷わず、それで良いのです、と言った。錬金術師の娘は錬金術の過ちの恐ろしさをこの地にて識った。知っていたはずなのに、識らなかったのだ。だからロイの判断は、正しい。
 リザの父によってあらゆる分野の基礎を徹底的に叩き込まれたロイには錬金術師たる天賦の才があったが、いつも師匠は基礎しか教えてくれないと拗ねていた。その理由が今はリザにもロイにも解る。
 可能性を示したのだと。
 あらゆる分野に秀でることが可能な基礎錬金術の知識を持てば応用科学も基礎科学も凌駕する場所に飛び出していけるから。リザの背負う錬成陣を例えば、ロイが、拒否したとして、その恐ろしさをそのまま封印したとしても、父は己の弟子に他の錬金術の分野に可能性という未来の名をした愛情を示した。父の錬金術を継ぐには化学や物理だけでなく、あらゆる分野の基礎的な科学の錬金術の基礎を網羅していることが絶対条件であったとしても、彼は自分の弟子に強制的に遺産を継がせなかった。きっと、彼に己の生涯をかけた研究を継いで欲しかったというのも本音だろう。でも、愛情を遺した。
 錬金術師の娘には生涯消えない業を迷わず施したというのに。
 父が己の錬金術を保存しながらも隠蔽したがったように、彼も隠蔽を望むのだろうか。いつか彼の手によって燃やされるのだろうか。ふと、そんなことを思った。ロイが錬金術師であることを止めたとき自分はこの錬成陣を生涯護っていくことを選択するだろうか。
 天幕には言って広すぎる世界から、ほんの少し狭い世界に入り込んで、砂まみれのフードをライフルを持たない指先ではらりと払うとフェアゴールドが短く揺れた。ばさばさとデスクの上の紙を大雑把に整理するロイに、見かねてリザはため息をついてベッドの側にライフルを立てかけた。セーフティ確認。ホールド完了。
 腰のバレッタとマガジン、胸のパイソンを確認してライフルを手放してもとっさの応戦には対応できることを確信した後、てくてくとデスクにむかって歩いていく。
 右側には作戦本部からの司令所等々、軍事関係の資料。左側にはロイが書き殴った錬金術の資料。いくら何でも大雑把に過ぎる整頓の仕方に、せめて軍本部からの資料だけは仕分けしてやる。ちらりと視線を座っているロイに向けると、構わないよという風に肩をすくめた。
 つまりこの中に、士官候補生が見ていけないような機密書類は無いということ。
 ばさばさと数値化、情報化された紙を整理しながら思う。この一枚一枚が誰かを屠るのだろうかと。あるいは屠ったのか。
 「そっちは、自分でしてください」
 何となく口調が曖昧になる。上官下官の関係から錬金術師の弟子と錬金術師の娘だった頃のような拙さが口調に混ざってしまうのは、今夜のロイの声と眼のせいだ。とても何かを懐かしむような。永遠に手放してしまったものを見る憧憬に手を伸ばしたいような目をしているからだ。常に消耗し続けているのが戦場での在り方で、それが今のロイだったから、この穏やかさが彼に何をもたらしているのかが解らなくて怖い。
 無言で、万年筆を取り上げるとリザには解らない化学式だか数式を書き殴りはじめる。ちらりと見れば酸素の体積と濃度、少し考えてフラッシュオーバーなどの現象を起こすための計算式かと思った。リザには理解できない複雑怪奇な記号がかりかり一途に紡がれていく。
 物資補給の書類、今後の戦略改正案、実質的な戦況の数字。同じ数字でもロイの書く数字はれっきとした科学で、でもまがまがしさはきっと同じ。ベッドに立てかけたあのライフルと同じくらいに血に濡れた禍々しさ。
 かつかつかつかつかつかつ。
 かん!
 錬金術師が一心に書いた数式の最後の一字を音高く書き上げた。ころんと無造作にペンを投げやって、その手をポケットに入れる。ざらりとした質感の布を取り出した。砂で汚れても発火布は発火布。
 彼が精神を集中させて書き上げた見事な錬金術の数式も化学式も。
 ぱちん。
 一瞬のうちに燃え上がり、灰となった。
 赤々と燃え上がる炎を。見つめている黒い瞳が炎を写して不思議な色に一瞬染まる。鮮やかな緋(あけ)は緩やかに、酸素濃度を調整され、酸化物が無くなって消え去った。後には白い灰が残るだけ。手に触れれば砂礫の大地にぼろぼろと灰となり大地に返る。彼が燃やしてきた人々と同じように、大地に還る。
 夜の間中一心に如何に効率よく攻撃を行うか、そのためだけに没頭する焔の錬金術師はその成果全てを灰にした。
 リザの背中を見たときもそうだ。ロイは一切の書写を行わなかった。父の意思も意志も遺志も、これを書面に残すことではないのだ。文字通り一子相伝。娘と弟子にしか伝わらない。二人がそろって初めて実行できた錬金術。
 父はこの錬成陣の危険性を知り尽くしていたからこそ保存状態に不安が残る書面に保管することを拒んだ。
 弟子は見事にその意を汲んで、この錬成陣は己の脳内にあるのみと心得よと固く誓った。
 それと同じように、今ロイが燃やした錬成に関する数式も化学式も彼の頭の中にしっかりしまわれているに違いない。無駄に記憶力だけはある。
 例えば。
 リザの手は家事であかぎれだらけだけど、作る料理はロイにとって一番美味しい。あとは一度だけ訊いたことがあった彼女の誕生日とか。庭にどこからか飛んできた名も知らぬ花が咲いたことに年相応の笑みを、久しぶりに、たった一人で見せたこととか。
 燃やし尽くした灰を無造作にデスクの下に落とし、軍靴で踏みにじる。明日試す錬成式を頭の中で錬成陣に組み込みながら。今日より更に火力が増すだろう。さらに広範囲の爆破が可能になるだろう。ゲリラ戦を想定するなら故意にフラッシュオーバーが起こせればそれが契機になるだろう。
 切り取られた木枠の窓硝子の向こうで少女が笑う。硝子色をした空の下で冬の風にけなげに揺れる草花に、ふんわり微笑んだ少女の姿が酷く、酷く。鮮烈に焼き焦がれるようにまなうらに。
 天幕の空は晴れ上がりいつもより気温が低い。晴れた砂漠の夜は寒い。
 立ち上がり、無造作にデスクから墜としたすでに灰でしかない紙切れだったものを軍靴の底で踏みにじりベッド脇まで歩く。リザは書類の整理をやめない。
 根を詰め切った頭は限界を超えて回る。どうすればもっと精度を上げられるか、どうすれば素早く錬成が出来るか、最大の射程範囲は。ぐるぐるぐるぐるまだ頭が計算を繰り返しているまま、それでももう流石に集中力が切れた。ゆらゆら揺れるランプの明かりにフードの中から覗くフェアゴールドがさらりと揺れて、幼さを遺した少女の顔を見たとき、ぷつりぷつりと集中力が切れていく音が聞こえた。思考が日に焼き尽くされそうになるときは、だから彼女の側に居る。己の価値観がぐっしゃりと潰され破壊されたのは自覚済みだから、せめて狂った思考回路を無理矢理断絶してくれるリザの存在はとても貴重。忘れていたもの、置き去りにしてしまったもの、もう手の届かないものを思い出すのに、少し似ている。だからもう今は今だけは完全に思考をシャットダウン。全体重を投げ出すようにベッドに体を放り投げると簡易ベッドがぎりしりと鳴いた。背中から倒れ込んで手の甲で目元をおおう。ああ、発火布をつけたままだった。
 「リザ」
 とん、と書類がそろえられる音がした。デスクに紙がとんとんと固くリズムを刻む。砂の乾いた音、天幕に粒子が当たっている。ぱらぱらと耳に良く馴染むようになって久しい。
 「おいで」
 とんとんとんとん、リズムを刻む。戦禍を煽る文書をまとめてる音が、不意に止んだ。
 くるりと振り返った見慣れた鷹羽色の瞳がなぜ泣きそうなんだろうなあとロイは不思議に思った。手の甲の隙間から見える顔が綺麗で、幼かった。だから腕を広げて体を起こす。
 黒い瞳が真っ直ぐにありえべからざる穏やかさでリザを見つめていた。だからもう、リザは我慢できなくて、固い靴底を蹴って彼の前に行く。でもその前で止まってしまって、ぺたりと地べたに座ると、途端発火布に包まれた手に腕が痛いくらいの勢いで引き寄せられてた。捕まれたままの腕を引っ張り込まれて次の瞬間、胸に抱き寄せ抱き込まれ、背中からベッドへ倒れ込む。
 ざらざらする赤土にまみれたフードがくしゃくしゃだ、全力で力一杯抱きしめられる。その永遠の刹那。
 マントを取って、ばちばちと無造作に青い軍服の釦をはずす。銀色の釦はランプの灯りを硬質に弾いていた。固い上着をベッドの脇に放り捨てられた、傷だらけの柔肌に黒のアンダーが一枚きり。僅かに寒い。でも回された腕が痛いほど熱いのに胸が苦しくなった。背中からベッドに行儀悪く倒れ込んだ年上の父の弟子の前に身を起こして座り込もうと体を離そうとすると、離れるなといわんばかりに強引に抱き寄せられる。
 ロイは酷く穏やかな目をしていた。あの時と同じ、父のいた頃と同じ、優しい漆黒の瞳だった。夜更かしする父の弟子に、サンドイッチとカフェインレスの柔らかな紅茶を運んで、そっと置き去りにすると気づいてもらえないばかりか朝までそのまま。だから髪の毛を引っ張って、寝てください、と言いながら夜食を差し出した。そのときの穏やかな瞳に酷く似ている。
 そうじゃない。そうじゃないだろうと叫びたい。叫びたくてたまらない。
 たまらなくなってきつい力に抗って、無理矢理体を起こすと、真っ黒な視線と鷹羽色の瞳がかち合う。明らかに互いに摩耗しきった心の在処をそこに見つけて、叫び出したくなった。ゆっくりとロイが手を伸ばす。そして柔らかく小さな少女を。リザを抱き込む。
 ゆっくりと、呼吸の音がする。心臓の音がする。命の、音がする。柔らかくて寂しい。哀しい。
 尊い。
 切ない。
 「赤い」
 小さな呟きが抱きしめた胸の中から、ほろりと真珠のような響きで零れた。
 「赤い、夢を、見ます。スコープ越しに、いつも」
 「俺も」
 士官学校に通うようになってから変わった一人称が戻る。彼が体裁を繕うことを放棄するときだと、リザは識ってる。
 灰にさえならずに表皮を全面火傷して、腐り落ちていく。焼けただれた肋骨から腹から内臓が飛び出てぐしゃりと零れていく。そんな夢を幾度も幾度も見る。
 「青い夢も見ます。敵前逃亡した兵士を幾度も幾度も」
 軍法で、戦線における敵前逃亡は即断で死罪だ。その場の指揮系統を乱し、戦乱を混乱させ、著しく兵士の士気を削ぐのは戦線にとって更に多くの戦闘員を危険に曝すことになる。故に敵前逃亡に関する軍律は殊更に厳しく、特に戦場においての逃亡はその場で断罪される。軍法裁判も何もあったものじゃない。殺さなきゃ、他の戦闘員にまで混乱が伝播したら最悪自分たちが死んでしまう。
 「敵前逃亡兵士の追討は狙撃手の役割の一端です。その場で同士を撃ち殺します。死んだ自覚もなく、命が」
 零れていく。
 「私は同士すら殺していくんです」
 命をこぼした後の手のひらには何の感触も残らず、何の感触も残らない故に大罪を犯した罪悪感や、違和感すら残らないことに気持ち悪さで吐き気がする。それすら戦場で引き金を引き続ける自分には分不相応な人間らしい感情に思えて。
 そんなもの、ロイだって同じだ。リザと違うのは戦闘員が敵前逃亡する前に敵を殲滅するだけで、もし誰かが逃げたらきっと反射的に焼く。迷いを持ちながら焼く。一番最悪な心構えで焼く。寧ろ、きっと逃げるなら自分の炎からだろうとぼんやりと思った。
 「なあ何で、なぜ、国民(護るべき人々)を」
 殺しているのだろうか。
 独白はどちらのものであっただろうか。本当に記憶にはない。心の中で叫んでいたのはきっと両方。ただ摩耗しきった心がすり切れてしまう寸前で、何かにすがらずには居られなかった。
 「ちが、ちがいます」
 もう自分が何を言っているかも解らなかった。文も言葉も脈絡もめちゃくちゃで、でも今痛いほど伝わるのは絶望だ。そしてこの絶望は自分のものではない。
 ちがうだろう。なぜそんな穏やかな顔するのか、そんな穏やか声で穏やかな目でそんな絶望をはき出すのか。そうじゃないだろう。もっと苦悶に満ちた苦しい、怨嗟の言葉を、悲嘆を、痛々しい血を吐くような言葉を、貴方は吐くべきなのに。
 柔らかな金色に顔を埋める。痛いほど自分の心を受けて疵付いているリザをはなせなくてごめんと心の中で何度も詫びた。
 「りょうりが、たべたいな」
 不意に零れた言葉に何もかもすがる現実を無くしてしまったかのような錯覚に陥った。
 暖かなリザの料理が食べたい。無味乾燥な簡易食や缶詰でなく、暖かな手料理が食べたい。
 「奇襲だったんだ、民間人の避難など完了してなかったし、元々殲滅戦だったから肌の色が違えば皆焼いた。ゲリラ戦になって、とにかく発火布をこすり続けた。人も家畜も家も営みも焼いた。廃屋で、ひっくり返された食事がまだ冷め切っていなくて」
 焼き崩れた家の中では日常があった。暖かな家族の団欒がめちゃくちゃになっていた。
 「私も、殺しました、でも」
 血を吐くように、呟く。
 「その屠ってきた人々の暮らしさえ私は識らない、識らないんです」
 理不尽に奪ってきた、命の尊厳をなどもっと、もっと、私は、識らない。
 死にたくないなんて言えない。生きていたいなんてもっと言えない。人間として存在する価値など自分にあるのだろうか。解らなくて切ない。寂しい。苦しくて苦しくて。
 人の営みに憧れた。朝起きて、おはようと家族に挨拶して、支度をせかして、暖かな食卓に迎えて。いつかまたあの日々が訪れるだろうか。解らない。解らないけれど。
 「でもいつか、そういうのを、識っていたいと思うんです」
 いつの日か、そうやって紡がれていく営みや、命の尊厳を識りたいと思う。銃は良い、人を殺した感触が手に残らないから。そんなこと言っているうちは絶対無理だ。所詮は小娘で、十と数年しか生きていないけれど。
 でも、それでも。識りたいと祈る。
 「祈りとは叶わないもの、憧れとは届かないもの、そんなこと、厭というほど知りましたそれでも」
 リザが伸ばす手のひら。ぎゅうと首に回した腕に力がこもる。その固く小さな、かさかさした手のひらがロイの黒髪を梳いた。その手がリザを抱きしめる手のひらを無理矢理ひっ掴んで強く握って、ゆっくりと発火布をはずす。ぱさりと乾いた音と一緒に、緩やかに床に落ちていった。
 幸せを願うことが現実離れしている時代。それでも。
 「それでも、人を殺しておいてこんな事綺麗事にもならない戯れ言に過ぎないけれど、そんな風に願うことが罪にならない時代が」
 発火布がはずれた手のひらが温かい、リザより大きな手のひらが思い切り抱きしめる。背中に回る腕が強くなる。息が苦しくて苦しくて仕方がなかった。言葉が拙く途切れるのが切なかった。
 「来ることを、祈っていたいんです」
 胸に押しつけられてか細い言葉は酷く切実で、痛いほど胸に迫る敬虔な祈りの言葉だ。だから、リザを抱きしめているのに穏やかさが無くなる。血を吐きそうな言葉をぶつけて無意味に傷つけあってやりたい、そんな凶暴な気持ちになりながら、強く抱きしめた。きつく目を閉じてフェアブロンドに顔を埋める。まなうらに蘇る怨嗟と炎と瓦解する全ての爆音、その後の無音の風景。そんな物を全て無視して柔らかな髪の毛はざらりと砂混じりだったけれど、でも美しい純粋な光の色。胸に抱き込んで顔も見えないけれど、どんな顔をしているか、手に取るように解った。だからただ痩せた体を抱きしめる。
 戦場という理性が崩壊し剥離する場所で護るべきはずのものを奪い殺し焼き尽くす事に対する自我の崩壊に堪えかねて、己の護るべきものを確認し、確信する作業のために夜、血に飢えた発火布で細い背中を抱きしめるのが習慣になって。
 どのくらい経つか全く解らない。けれど夜は夜のまま、この血に濡れた空は決して暁闇を迎えず、ひたすら堪えて堪えて、このほのおが己のたがからはずれそうになったとき、そのときだけ彼は軍人ではなくただ錬金術師の愛弟子となり、師から託された秘術とリザという愛娘を抱く。分厚い軍服を無理矢理はがせば痩せた躰。それでも柔らかく、アンダーウェアの布一枚越しにある背中をおおう錬成陣ごとリザという少女を抱きしめた。
 この腕の中の柔らかなもの暖かなもの、己が何に変えても護らねばならぬもの。
 一番護るべきものをただ抱きしめる。そしてこれが己のほのおが護るものなのだと、再確認する。再確認しなければ趨っていけない。趨っていけない。前に一歩も進めない。
 ほろほろと零れるリザの声を聴きながら、でも縋っているのはロイの方だ。リザがこぼす柔らかな真珠のように綺麗な、人間らしい悲哀が今のロイにとっては酷く遠い。
 だから尊い。何よりも彼女自身とこの絆と、その祈りを、護って行かなくてはならないと、確認して。
 「ああ、俺も」
 祈ってる。願ってるよと、言おうとして、言えない。そんな優しい祈り、今は自分にはきっと願うだけで罪だ。
 でも。いつか、そんな日が来ることを。
 何より尊い祈りの言葉が何か尊いものに届けばいいと願って。
 
 
 ほのおと怨嗟の血の道を往く。
 
 
 
 
 

















仔リザ祭りの趣旨に反していますが徹夜増田の髪の毛をつんつん引っ張る仔リザと言うことで平にご容赦。素晴らしいお祭りをありがとうございました、此処まで読んでくださった皆様に感謝を捧げます。

2006/09/20 (c)yutuki yanase sound life

* ブラウザバックプリーズ