* Cry for the moon.




傷みの代謝



   だって、エドが。
 
 
「……っ、っん……ぁ」
「……」
「……ったぃ……え、ど」
「馬鹿、動くな」
「む、り……ぁ、いっ」
「だから逃げるな動くな……もう少し」
「だって」
「………………お前から、言い出したんだろがっ!」
 僅かに声を荒げる。僅かに指にかかる負荷が増したように思えて、ぴくりと細い肩が揺れた。けれどまた動くなと繰り返されるばかりで、解っているけれど、彼の指が自分を傷つけるように動くことは無いとわかっていても。
 痛みに対する恐怖とか畏怖とかは耐性が無い。それは本能に刻まれた生命を維持するための恐怖。
 少し奇妙に感じた。痛みには、男の人より女の人のほうが耐性があるとよく言うのに。
 幼馴染の方がよほど、罪業とも呼べる痛みを心にも体にも背負っているはずだ。それなのに自分ばかりこんなに弱くて、辛いから。
「……ばかまめ」
「誰が豆だ凶暴女!!」
 殆ど八つ当たり、拗ねた気持ちが言葉を零す。とたんに跳ね上がる怒声なのに、やっぱり指先には凄く神経が集中していることが解る。
「お前が、こんなことやらすから」
 じんじんとする。
 涙目になりながら、けれどその顔を見せたくなくて僅かにうつむく。
「この、だから、動くなっつってんだろ……だから」
 やりたくないと最初に拒否したのに、と続くはずの台詞に涙目のまま笑った。思い切りがいいくせに、弟を取り戻した時も、軍門に下る時も、仮初の、鋼の冷たく重い手足を受け入れた時も、馬鹿じゃないのかと泣きながら詰りそうになってしまうくらい潔かったくせに。
 自分以外の誰かが痛みを受け入れるのを享受する時は誰よりも女々しい。それが懐に入れた相手であっても、赤の他人であっても、多かれ少なかれ自分まで彼は痛みを受ける。弱いのか強いのか、生まれた時から殆ど一緒に居たにも拘らず時々解らなくなるのよ。
 
 ぷつんと肌が破れる感触。じりじりと焼いた針が白い耳たぶを穿った。
 
 途端、そろそろと小さな耳と其処から生えた針から手を離してエドが大きくため息を吐く。体中から吐き出すみたいに。
 針を刺したままひょいと長い髪を払うと、そのあまりの無造作な仕草に穴をあけた相手の方が慌てていた。さらさらとした細い髪、金髪といってもその中でも彼女の髪は更に色が薄い。
「うあ、刺したまま動くんじゃねえ!」
「へーきへーき、あけきっちゃうまでが痛いの、こう、針が皮膚の中を探っていく感触がもーなんかなれないって言うか」
「お前それ以上言うな喋るな、慣れたら即刻腐れ縁切ってやる!」
 こちとら生まれてこの方、音を感じる空気振動の器官として使われる穴しか耳にはついていない。想像の中でウィンリィが描写する針だとか耳たぶの薄い皮膚だとかを思い浮かべてしまって思わず両手でエドが耳を押さえた。苦々しい声音歯軋りしそうになる。聞いているだけでこちらの耳が痛い。
 最初に彼女の耳ににび色の輝きを見たのはいつだったか。見慣れた金色の髪の流れの中に異質に光をはじいた硬質なそれ。小さな金属の塊りは綺麗に伸ばされた金の髪と葵い瞳の色彩に埋もれてしまって良く解らなかった。だからこそ異質だった。日に当たってもやけない肌も、自分の強い金より色素の薄い金色の髪も、水に薄めたような碧眼も、彼女は存在のインパクトに比べてずっと体の色が薄くて淡いから。
 それが一つずつ増えていった。『年頃』というものか、この少女にも金属じゃなく貴金属に興味を費やすことがあったものか。何だかそれにとても感心してしまった。金属は好きでも彼女が眼を輝かせて見るカタログに載っている金属というのは新作の義手義足であったり、あるいは使い勝手が違うのよと力説する特定のこだわりのあるメーカーの工具だったり、こう、普通の少女が持つ『金属』に対する興味の方向がどこか外れていないかとしみじみ思ったものだ。
 だから耳に増えていくピアスを不思議な感じで眺めた。それがどのようなプロセスを経て増えていったのかエドには全くわからなかった。
 今日まで。
「もうやらん、絶対やらねえ。つか二度とやらせるな!」
「何よ、あんたが痛い訳じゃなしに」
「そういう問題じゃない」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら先ほどまで彼女の耳に針を進めていた手のひらを強く握った。冷たい針と冷えた耳朶。思い出したい感触ではない。爪が食い込む感触と、ウィンリィが作ったエドの指と掌の金属の慣れた硬さが返ってくる。
 いつの間にかこんなに長くなった髪。さらさらして長いくせにぜんぜん絡まない。邪魔だといってバンダナで前髪ごと押さえ込んでしまう。それならいっそ切ってしまえばいいのに。その発言にこれだから豆は無神経なのよときっぱりばっさり切り返されたがそんな微妙な年頃の少女の機微など彼に解るはずも無い。それに切ったら切ったでもったいないとか口走りそうな自分が激しく嫌なので気にしない方向で。
 それにしてもお洒落したいなら年中つなぎの作業服で居ることとか、洗いざらしのバンダナで髪をまとめることとか、油の染み付いた軍手をはめて何時間も作業台に向かってそれを気にしないところとかを振り返るべきだ。絶対に。
 こんな神経の通ったところにあなを開けるのもお洒落と彼女は言うのだろうか。
 いや、そもそも彼女の口からそんな言葉を聴いたことがあったろうか。
 固まったこぶしを握ったり開いたりしている間にも、ベットに投げ出してあった足を引き寄せてひょいと片足を床に下ろし、様々な部品が転がっている作業台の上から脱脂綿と消毒液を手繰り寄せる。肩ひざを立てて頬を寄せるとさらりと金の髪がエドの膝の方に流れた。腰に届くほどの髪はシーツに触れるとかすかな音がする。
 つなぎを上半身縫いであまる袖を腰で結んで、バンダナははずしているけれど取り立てて騒ぐことの無い彼女のいつもの姿であるのに、耳の異質な金属がやはり見ているだけで沈痛になら無いほうがおかしい。
 針を刺したまま消毒液で濡らした脱脂綿を細い指がつまんで消毒しようとする淡々とした仕草が落ち着かなくて脱脂綿を奪い取った。おや、と言いたげな青い瞳がエドを見上げたが、そうやって無造作に首を動かそうとするのをやめろと心の中で毒づいて髪の上から頭を押さえる。
 突き出た針の先は火であぶって消毒したせいで鈍い色をしていた。そろりと綿を当てると、冷たかったのか細い肩を竦めた。
「……うー沁みるー」
「当たり前だ、解ってるならやるな――やらすな」
 体に穴を開けて貫通させて、其処に神経が通っていないならともかく、神経が通っている箇所なら痛覚を感じて当然だ。
「帰ってくるなり三日三晩徹夜させたまめにはこれくらいで丁度良いのよ」
 床に下ろした細い素足を揺らして、立てた片膝を抱えるようにして針の刺さったままの耳と首筋を無造作に晒して、楽しげに微笑う。
 触れられる手に何の心配もせず体や心を預けるその無防備さは信頼の証だとしても、今は嬉しくない。三日三晩徹夜させた仕返しだというなら釣りが来る。
 彼女が作った新しい腕で彼女の体に傷を穿つ。
 ……それはやっぱりたちの悪い仕返しとしか思えない。
 幾ら連絡を入れずに突然帰ってきたとしても、ひじの先から鋼の腕を無くしていたとしても、それを一から削りだして組み立てて微調整させたとしても、そのせいで徹夜続きの生活をさせたとしても、これなら腕に神経を繋げたままばっきり肘から先が無くなったあの瞬間の方が数倍ましだ。
 この頃酷使しているという自覚はあったが、メンテナンスを怠っていたし、動けばまあ支障は無いと思っていた矢先、旅の道程で丁度いざこざに巻き込まれ、いつもどおりに腕を動かしていたらみしりと嫌な音がした。そしてばきっとそのまま腕の先が文字通り無くなって今に至るわけだ。(弟が居たら巻き込まれ、じゃなく自分からいざこざを作ったの間違いだと指摘するはずだ)こんなことになるのなら面倒なメンテナンスもやっておくべきだったし連絡も入れるべきだった。自分の甘さに今更腹が立つ。こんなかたちで、痛みを帰されるなら。
「それに自分でやると」
 エドが痛いわけじゃないのに、自分が痛いように、がさつなくせに器用な指で、いたわるみたいに傷を扱うから、いつもの乱暴さはどこに行ったのかとおかしくなった。
「中途半端に躊躇うから」
 誰かのように潔くないから。
「ピアスホールを開けてもらう時は他の誰かに開けてもらう方が、ためらいが無い分痛くないのよ?」
「……躊躇うっつーの」
 苦々しさでいっぱいの声にやっぱり可笑しくなった。
「そう?……ああ、針そのまま抜かなくて良いから」
 言われるまでもなく怖くてこちらからなんて触れない。人の体に刺さった針に全く躊躇わずにいられるのなんて経験を積んでびくともしない神経を持った医者かそういう趣味を持つものだけだ。生憎エドはどちらでもない。サディスティックな上官には覚えがあったが、あそこでは仕事が切羽詰ってくると非常にバイオレンスな光景が拝めるが。(主に恐らく東部で一応二番目くらいに偉い実質最高司令官が金髪煙草ののっぽをストレス発散の目的から少しばかり焦がし副官がそんな上官を諌める為無言のままリボルバーの銃底で殴りつけるなど。諌言の口を利く間も惜しいのだと思われる、喋ったとしても「火気厳禁です」で終わる)
「一度抜くとピアスする時、も一度ぐっさりしなくちゃいけなくて痛いの」
 解説してくれと誰が頼んだ。頼むから黙っていてくれと思いながら僅かに出血の後の残った脱脂綿を作業台の上に無造作に投げ捨てた。
 不機嫌な空気など生まれてからずっと一緒に育った幼馴染がわかっていない筈もなく。それなのに何が可笑しいのかさっきから笑ったままだ。何年も一緒に居るから心の中にあるものも大体察することが出来る、目の前に居れば相手が何を考えているのか大体解る、そんな風に思っていたのにそれは思い上がりでしかなかった。今の自分に彼女の気持ちはさっぱりと読めない。
 細い腕で体を散らかった作業台に寄せて、様々な部品で散らかったそこをウィンリィの手のひらが漁る。何かを探す仕草だったのが、次第にばたばたと工具や切り出した部品、ドリルなどを持ち上げ初めてばさばさがさがさと大捜索になる。
「あ」
 首をかしげると癖の無い真っ直ぐな金の糸みたいな髪がさらりと横切る。
「あ?」
 不機嫌にウィンリィの隣から腰を上げてベッドサイドの椅子を引き寄せがたがた言わせながら背もたれを抱き込むようにして座ると、正面に居る彼女の顔が真っ直ぐ見えた。ベッドに靴を履いたまま片足を乗せて、行儀悪く片足だけ床に下ろし踝を膝の上に乗せて、という姿勢のせいで見えるのは斜めか横からの彼女の顔だった。いつも真っ直ぐに人を見る人間だから、その位置が少し慣れなくて、やっといつもの位置に落ち着いた感じがした。
「……ピアスが消えた」
「消えるかボケ!」
 おや、と針を刺したまま首をかしげるからちらちらと細い光がランプの明かりを弾く、その様子がやたらと危なっかしくて。
 ああもう良いから動くな、と思いながらズボンのポケットを漁る。チョークを取り出して、作業台の上の自分には何だか解らないような部品やら金属やらをごろごろ転がしてスペースを開けた。
 こんなもの、無しでも錬金術くらい使うことは出来る。けれど両手を輪に見立てることで自分自身を陣とするのは、両手があって、使えて始めて成り立つことで。だから錬金術師の本能とでもいう部分が、錬金術を行う上で最も基本的なこの道具を手放させない。どんなに精巧な義手があっても、片手片足が義手という事実は圧倒的な不利だから。
 実際自分の知る某大佐は、手っ取り早く言えば布切れと指先一つで煉獄を捲き起こす。片手をポケットに入れたままあのすかした面で。このやろうとおもいつつも、錬金術師は練成陣と指一本さえあれば、両腕などいらないという事実を証明していた。それでも、火を使う以外めったに錬金術を使わない彼でさえチョークを手放さない事も知っている。だから多分、錬金術師の、これは本能。
 それでもまあ、今両腕を使わないのは。
 用意しておいたピアスをきょろきょろと探す瞳がエドの手元を見下ろした。何も言わずに指先だけを動かす。カツカツカツカツ、白い線がいっそ無造作とも言えるほどの仕草で素早く正確な図形を描き出す。その間、数秒。
 タイムラグが無いのは練成陣無しで使える錬金術のメリットだが、自分がそれを行えるのは過去に犯した罪の象徴。両腕の輪は生きている限り廻りくる罪業の証。
 かん!と最後に音高く白い線を引いて手の中からチョークを放り投げた。かつかつんと高く音を立てながら白墨の粉を散らして夜の部屋の底へと落ちていく。構わずに、適当にそこら辺に転がってたボルトを丸い図形の中央にこんと放り込んで、上からぱんと手で押さえる。鋼の腕の下で、眼を焼く青く白い光が散った。
 鈍い銀色、Ag、argentum、argent grey、でも見かけだけ、その構成物質は殆どFe、ferrum、steel blue。この腕と足を構成するもの。
 徹夜続き、気の張る作業続き、ぐしゃぐしゃと彼女より色の強い金の髪をかき混ぜて、弟に持たされたマグカップを二つ手に持って部屋にこもる幼馴染の部屋とドアを行儀悪く足でノックすれば、薄暗いランプの明かりの下、ぴんと鋭く光る針と、それを手にして、珍しいものでも見るような顔で自分を見上げてきた碧眼が並んで視界に飛び込んできた。
 そのままの表情のウィンリィは珍しいものでも見るような様子で(実際アルに押し付けられなければ無かった現象だ)空色の瞳が薄暗い部屋の中で明るかった。
 だが彼女が手にするぴんと音がしそうな鋭い針を目にして、幼馴染は珍しい所では無く凍りつく。
 何を考えたのかにっこりと笑って、回れ右をしそうになった体を我慢してやれば。
「エドが、あけて」
 差し出された無造作な手とやいた針と白い耳朶。
 その仕打ちに付き合ってやってしかもわざわざ錬金術まで使って。――やはり釣りが来ると思う。
 でも。
 拙い手で描いたいびつな陣から出来た小さな出来損ないのおもちゃを作った時母は喜んでくれた。
 拙い手で書いたいびつな陣から出来た紙で折られたよれよれの鳥を凄いと褒めてくれた。
 今、驚いたような顔でエドを見つめる薄い色の目も、自分の作ったこれを拒むことは無いと確信していて。嬉しいと笑うに決まってる。
 チョーク一本で大切な人たちを幸福にできるなら罪業を背負った四肢などいらないと、一瞬本気で、思った。
 罪業ゆえに望んだ願いと我侭と、背負った業のせいで今は両腕を両足を渇望しているのに。それを与えてくれたのは、自分がチョーク一本で幸せに出来る人なのに。
 多分それはとても幸せな事なのだ。人として。自分が何かをする事で幸せになれる人がいるという現実は誠実で切なく尊い。
 練成陣さえあれば片手でだって錬金術は使える。どこかの馬鹿大佐のように自分は雨の日だって無能じゃない。それ以上を望むのは、ほかの誰でもない弟のためで。自分の愚かさゆえだ。
「ちょ、あんた今何の部品つぶしたの?」
 慌てて腕を伸ばしてくる冷たい機械を生む手は温かい。その暖かさをわざと邪険に振り払った。罪も罰も禁忌も絶望に近い悲嘆も真っ暗な底なし沼のどろどろも、歩いても歩いても果ての見えないくらい道も、この手には触らせたくなかった。なのに罪の片棒を担いだ腕を、ウィンリィは自分のためにくれる。
「知るか、大体お前の作業台でどれがどの部品かなんざ解りゃしねえ」
「あんたにだけは言われたくなかったわ……」
 もう一人の弟兼幼馴染が加われば、どっちもどっちだといってあきれ返った事だろう。傍目には悲惨な状態の作業代も書き物机も、アルフォンスが整理しないのかと聞けば。
「自分がどこに何があるかわかってるから」
 片付けると何がどこに行ったかわからなくなるんだ逆に。あーくそ、この計算上手くいかねえ。
 いじっちゃ駄目よアル、いじったらスパナだからね。ったく、毎回毎回連絡くらい入れなさいって言ってるのに。
 双方ともに呆れるほど聞き慣れた応酬だがアルフォンスはその事を指摘してもどうにもならないと嫌と言うほど理解しているので、すでに諦観の位置にある。
「知らないからね、それでメンテナンスが出来なくて、出発遅れたら自業自得よ」
 機械鎧にかける彼女の情熱は計り知れない。いつも誰かのために、最上のものを。その人が動きやすいように、歩きやすいように、前に進みやすいように、ただそれだけを思って作り上げていく。その情熱が高じて聊か周りの人間を呆れさせることもしばしばではあるのだが。
 その作成過程で少しでもエドワードのためになるように自己メンテナンスの頻度やよく使う動き等質問をしてくる事もあったが、それ以上はエドワードはウィンリィの作業について踏み込む事がない。そしてエドワードはいつも走るときも戦うときも彼女を信じて全力を出す。
 ウィンリィがエドワードとアルフォンス、幼馴染に、練成の細かな事を聞かず、ただ信じて送り出して、そして待っているのと同じように。
 そのエドワードが、自分の手足たるボルトの一つといえど、ウィンリィの許可なく勝手にこんな扱いをするのは全く不思議であった。怒るとか怒らないとかではなく、らしくないなとただ思った。
 だからウィンリィは口で何を言ってみても、だた手のひらの下から散る青白い光をぼうっと見ていた。
 それから、予想通りに、手のひらの下から現れた鈍色のピアスも。
 
 
 
 
 
 外傷を受けて、初めて傷の深さを悟る。注射針のように、短絡的で、冷ややかな。皮下に潜り込みしくしくと取れない痛烈な痛みを、感じる。
 
 
 
 
 
 言わないから。泣かないから。知らない。
 二人とも、自分の罪をしょってたつ、たって、走る。ひたすらにはしる走る奔る駆る。わき目も振らずに振り返りもせず。だからウィンリィは知らない。
 例えば強大な力が手中にあって、それを望めば望が叶うかもしれないこと、その欲求に抗う理由を見つけられないこと。
 その果てに見つけた己の罪。剥奪。
 だって、周りには誰もいなかった。
 死んだ人が生き返ってほしいなんて誰だってほとんどの場合きっと当然の願いだし、それが大好きな母親ならなおのこと。そう望むのは罪ではないと思うけれど、それを実行するのが罪だなんて、子供に解るはずもない。だって、大人だってきっと上手く説明できない。誰も教えてくれない。――誰もが自分で、学ぶ。
 戦地で逝った父と母の写真を見る事も出来なかった日々が続いたとき、何も食べず、何も見ず、泣くだけで暮らせたらどんなにいいか、痩せていく体を抱えながら思った。帰ってきてなんて百万回言っても叶えてくれない。ただ死というものを突然鉛の塊のようにくらい闇を飲み込まされて吐き出す事も出来ず、だからその手が自分をつかんだとき吃驚した。
 初めて味わう喪失が実の両親だなんて祖母は物も解らぬこどもに何を言えばいいのか、どうしたら最善なのか解らなかったに違いない。せめて泣き疲れて寝入った孫娘の肩にブランケットをかけるだけ。
 悲しくて悲しくて、死という事実と両親はまだ帰ってこないという事実との差異は、衝撃を受けて初めて知る出来事。
 慟哭それ以外世界にはない気がして食がそのまま細っていって、一週間ばかりもした頃、真夜中の寝室に人の気配を感じた。ばっちゃん?て言おうとした口が眠気とだるさに勝てなくて、しぶしぶ開いた視界に金色を見つけた。自分の腕をつかまれて、無理やり引っ張り起こされて、文句も言うまもなく黙々と階下へと促されて、部屋の外に出ると廊下の薄い明かりがそれが幼馴染の髪の色なのだとはじめて気が付いた。なあに?あたしまだねむいの。そんな言葉すら口に昇らなくて、捕まれた手首が痛かった。そのままずんずん歩いてく背中についていってリビングのドアをごん、とエドワードがたたくと中からすぐに扉が開いて吃驚した。
 あたたかな光があふれていた。
 家族の象徴のような光だ。父と母を無防備に呼びそうになって、でもリビングのソファに座っているはずの二人はいなくて、もう何ヶ月も空っぽだったその場所が、永遠に埋まることなく空っぽのままなのだということに改めて衝撃を受けた。立ちすくんで動けなくなると、ドアを開けた手がもう一つあまった自分の手を引いた。兄ほど乱暴でなく、アルフォンスは細くなった手首をつかんだ。二人に連れられて、からのソファの横を通り抜けて、キッチンまで抜けて。
 そこに乗せられた自分専用のマグに良い匂いのするものが入っていた。木の椅子によじ登るように座らせられて、目の前に鎮座したそれをじっと見つめる。飲んで、とアルフォンスが言った。エドワードは真一文字に唇を結んで仏頂面だった。言いたい事があるのに言葉が見つからないときの顔だなと今ならわかる。恐る恐る手を伸ばしたら、陶器のカップが暖かくて、口に含むと白い液体はふんわりと優しい香りでウィンリィを包んだ。蜂蜜の味がする。太陽の光を集めたような、琥珀を溶かしたらこんな色になるような、強い金色を改めて思い出して、ほろほろと口から、のどから流れてくる甘さと熱さに、自分の熱を知る。おなかが空いていることも解った。
 泣かないで、って。言えなくて、でも。
 必死に言葉を継いで、『でも』の先がやっぱり見つからなくてアルフォンスが黙った。
 そんなことしてても帰ってこないんだから、泣くな。
 エドワードはあっさりと言った。
 エドはミルクなんて文字を見つけただけでビンのそばから逃げ出すのに、ココアに混ぜると平気なのに暖めたミルクを飲めないくせに、何で此処に居るんだろう。
 アルは悲しい事が解っていて、それでも涙を我慢させるようなこといわないこなのに、なんでそんなこというんだろう。
 あの人たちが居ないのに何で私だけ此処に居るんだろう。それでもおなかは空くし泣けば疲れる、夜は眠い、なのに涙が出る。生きてる。
 内乱が酷くなってからタブロイド紙の見出しが激しくなっていった。体を失って嘆く人を見た。
 義肢にするのは、自分を見るたびに妻が、無い足を嘆くから、でも命があるだけましだとわかっていて、周りに肉親を亡くした人なんて沢山居て、泣けないから。田舎に引っ込む荷造りのとき、幸せ願う事が現実離れしているときに、昔のレコードを見つけて、これをかけてまた二人で踊れたらと家内がこぼしたからだと戦地から帰ってきた徴兵されていた兵隊さんが言っていたのを急に思い出した。あるはずなのに無い、喪失を突きつけられるたび傷ついて、泣くから。
 一度壊したものを直してくれた錬金術を使える幼馴染が自慢だった。手の中にあるマグカップがそれ。洗うとき滑って落っことして粉々。それが翌日には傷一つ無く戻っていたから、驚いて。
 でももう戻らない。一度壊れたら戻せないものがある。誰にも戻せない、出来ない。だから傷をえぐるような真似をしてはいけない。だから壊すようなまねをしてはいけない。だから死というものは、悲しむままに、悲しんで、もうどうしようもないと誰か言ってくれるまで、立ち上がらなくていい。
 いつか何かを自分の中に、失ったものの他に得るときまで。
 そっとしておけるようになるまで待てばいいから。
 激震が余震になるまで、余震が余韻になるまで、崩れた自分が自分の力で歩き出せるまで。いつでもいつまでも悲しい事を悲しいといえるように。――もう悲しくないなんて、その事実が悲しくないなんて、言えるようになる日が来る事のほうが悲しくは無いか。
 与えてもらったあったかさは壊したら二度と手に入らないものだと思った。手の中にあるマグカップが軋む間接をほぐしてくれる。自分の左右に居る幼馴染が唐突に見えなくなったかと思うとまた涙がぼろんぼろんとこぼれた。
 おなか空いた。
 泣き声のままぽつりと言えば唇をかみ締めたまま厳しい表情だったエドワードがくしゃくしゃにウィンリィ髪を乱して、アルフォンスが優しく背中に触れてくれた。
 喪失の痛みも傷みも悼みも知っている。なら、現実にならない夢を、死者が戻る夢を見ないなんて誰が言える?でもその夢を見れば見るたび突きつけられるのは喪失で、失った空っぽの虚ろにまた激しい衝撃を自分が受ける。本当にその穴が元に戻るなんて、きっと誰かが生き返っても、そんな事出来ないから、一度傷ついた心を元に戻せるなんて無理な話だから。
 死というものを人間は体感する事で始めて知る。
 なら、エドワードとアルフォンスの受けたものが如何程だったかなんて。
 生き返らせることが出来るなら何だって。
 止める人は誰も居ないなら、尚更。
 ウィンリィが学んだことは自分の中での真実だ。何が本当に正しいかなんてわからない。きっと誰も知らない。
 そうして望んだら、奪われた。
 声を出す事喋る事食べる事息をすること泣く事痛くない事眠る事一切出来ない何て、何て感覚かウィンリィは知らない。
 奪われたものが帰ってくると信じて疑わなかった心がまた無残にもたった一人の肉親を失わせて、その代償に自分の体をきりおとして最後のつながりを得て。更なる罪に踏み込む事を覚悟して、鋼鉄の塊を腕の先につける体の痛みも心の痛みもウィンリィは知らない。
 熱を出すのも失った手足も全部苦しいのが解っていて、でも傷みが理解できない体になって、傷だらけになりながら歩いていく道を覚悟し、でもやっぱり兄だけが痛い、そんな理不尽な辛さを知らない。
 再び一人で立ち上がれるようになる血を吐くような苦難を耐え抜いて、罪を背負ってお日様の下、再び緑の草を踏めたときの心を知らない。
 巻き込まないように、遠ざけるのがわかっていて。心配かけないように、何も言わないのがわかっていて、他に何が言えるのだろう。いってらっしゃいって言うほか何が。
 だって、何も知らない。
 だから。
 だから?
 
 
 何もかもを投げ出して崩れ落ちて泣きたくなる時がある。そんな夜は眠らずブランケットをもって冷たい窓硝子のそば、月明かりの中でばらばらの部品でしかない金属の塊をじっとみつめ、声も無くひっそりと膝を抱えた。
 月のかけらを集めると冷たい気がする。でも嫌ではない。血の通わないギミックが神経をつないで動くのに似ている?
 でもオートメイルが伴わせる痛みはわからない。そんな思考で自分を傷つけることは馬鹿らしく思った。自分の範囲外にあることを憂うよりそのために必死になる人を支えるほうが自分のためにも他に機械鎧技師や医者を頼ってくる人のためになると思ったから。
 でもそんな夜はその自虐思考をとめるストッパーも働かなかった。
 ただただそばに居ない二人を思った。
 窓ガラスに頬を寄せると小さな頃より長くなった髪がさらさらとほどけていく。
 願掛けだろうか。多分、元に戻る事の無いもののための祈りとか。そんなもの。
 あの時の軍人さんは綺麗な人だった。
 差し出された手を最初は拒んだ。
 泥の河を渡るのだと告げた横顔。
 最後に名前を言えて、握手が出来て、その手が暖かかった事や名前を教えてもらえたことがやけに誇らしかった。毅然とした人がほんの少し微笑むのがとても綺麗で、優しくて、でも覚悟を秘める横顔が忘れられなくて、両親を奪ったはずの軍人が綺麗で優しい年上の女の人で、それが不思議で。
 最初にピアスをあけたとき、あの人もしていたなとそんな詳細な記憶が蘇ってきた。
 冷たい硝子に寒い色をした金色と白い肌、ほほを寄せると冷たくて、耳元でかつんと金属とぶつかって音をたてた。
 体に金属をつなげても、穴を開けても、冷たさも痛みもウィンリィのものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもなく。ただ、彼らもこのつめたさを夜休むときともにしているのだと思うと少しは楽になった。呼吸をすることが。
 自己満足のような、そんな他愛の無いもの。
 突然だろうが連絡が無かろうが夜更かしどころか徹夜だろうが帰ってきてくれればそれだけで大笑いできるくらい嬉しい。
 ウィンリィが思っていることが解るのかと思うくらい何も言わない二人のうちの一人が、珍しく自分の足を組み立てている作業場にのこのこと、あのマグカップと一緒にやってきたら嬉しいより吃驚した。
 差し出した、火で炙った針を受け取って、かなり無理やりの突拍子も無いことを了承してくれたときはこれは本当にエドワードだろうかと疑った。自分の痛みより誰かが痛いほうが嫌なわがままな幼馴染がまさか。
 別にそういう趣味があるわけでもなく、こうやってあけてもらったピアスホールは考えるまでも無く特別になるだろう。それだけで慮外の満足。
 なのにとめるまもなくほとばしった青い閃りが目を焼く、その手の下に、あるものが簡単に想像できてしまった。
 装飾も何も無いただ銀色のピアスだ。ころりと転がって手のひらの下から出てきた。
「――特急料金はがっぽりといただくわよ?」
 いくら古馴染みの上客とはいえそこは譲れない。がっぽり頂かないと『次』が無い。もっといいものを、少しでも歩きやすいものを。つかみやすいものを。書きやすいものを。走りやすいものを。
 彼女の願いなど解っている。回を重ねるたびに腕も足も少しずつ変わっていて。どこかしらに改善と向上のあとがかいま見られる手足だ。これまでずっとぎりぎりのところを走るような生活を支えてきた足も、ぼろぼろになっても命を、弟と自分両方何とか端っこ引っつかんだ手もウィンリィがくれた努力の証だ。
「かわいくねえこと言ってないで、動くな」
 何度言っても解らないというようにさらさらと肩を流れる長い髪は手触りどおりに肩と背中を滑り降りる。
「あんたがそんなこといったら天地がひっくり返るわ、なに、どうしたの、ちょ」
 鋼の腕がコロンとチョークを投げ出した。こんと作業台の上をすべり転がり、床へ落ちて端が砕けた。あとに残った錬成陣が白々と月明かりに晒された。
 その代わりに今作ったばかりの金属を掴んで。耳朶を貫いたままの針に触れれば流石にもう動けないで、ベッドの上に座った細い肩が固まる。名残とばかりに月明かりを集めたような髪の毛が一筋流れていった。
 手術をした熱であえぎ汗ばむ額を水に晒した冷たい手のひらが幾度も布を替えた。ベッドから動くことができない月日を重ねる合間に、いつの間にかウィンリィの細い首が傾けてくる顔からこぼれる髪が記憶より長くなっていた事に気が付いた。肩を超えるくらいでさらさら揺れていたのに、いつの間にか結んでしまっても二の腕に付くくらいだった。
 なのにエドの汗ばむ首筋をなでて、湿った髪をなでて。自分より色の濃い黄金の色を、伸びたねと言ったのはウィンリィのほうだ。
 切る?ときかれて熱に浮かされ、魘されるまま嫌だと首を振った。熱くて苦しかった、鬱陶しくて、なのになぜ首を振ったか。
 じゃあと手櫛でエドの髪をまとめて、毛先が張り付いてしまわないよう三つ編みにしてくれたのもウィンリィ。熱に浮かされたまま朝と夜とをすごして、気が付いたら金属の手足だけでなく金色の尻尾が付いていた。病室に入る事をやっと許されたアルフォンスがそれを見てどうしたの、と目を見張った気配がして、それから似合うよと笑った。
 久しぶりに笑った弟を見たらもう何も言えなくなってしまった。
 何もかもを共有する弟と、切り捨てる、見切りをつける必要のある幼馴染。
 犯してしまった罪に抗うように走るすべを与えてくれたのは何も言わずにいってらっしゃいとただいまをもくれる彼女だ。
 細いオレンジ色の家族の集う窓に見える明かりよりいっそう寒々しく世界を包む霞んだ月が窓辺を飾っていた。あの光は結局太陽という恒星の光の反射でしかないから、どんなに違うと言い張っても自分たちは光の恵みを受けている。太陽も星も自らを焼いて輝く。そして命が尽きるときはただれた果実のように赤い。そのまま朽ちていく星もあればガス爆発を起こす星もあり、歴史書を繰ればその変異が数々の古代民族に影響を与えている。
 王の星光失われり。
 空は真昼の明るさのごとく。
 最後にその歴史書を読んだ街はどこだ?
 月の光を弾いて鋭い針をそろそろと抜きながらそんな事を思う。見張った瞳は互いが知り抜く互いの色を宿すばかりで、見た事も無い星の終わりなんて想像付かないけれど、目の前の相手の形が確認できるだけの光を投げかけてくれるなら、何でもいい。
 貫いていた針が耳朶にもぐると一筋血が流れた。焼いた針を伝って指先に。
 こいつが血を流すところなんて泣いているところ以上に一等見たくない光景だ。
 寝覚めが悪いことこの上ないのだ。
「……リィ」
 やはり貧乏くじを引かされたと痛感しながら、針を持つ鉄の指先が地で滑りそうになって。
 いつもつけている赤いコートも師匠せんせいから継いだ紋章も背負わず、手袋もはめない。故郷では自ら鋼の腕も足も気にしないままさらす、この国唯一の場所、彼女のとなり。いつもどおり手袋をしていたら血は布に吸われるだけで、一滴の血痕を残すだけ。血でぬめって手がすべるなんてことは無かったろうに。
 だが、エドワードの様子に頓着せずウィンリィは目を瞑った。ため息をはいて針をそろりと生身の左手に持ち替え、鉄の右手を耳朶に添える。銀色の針は火で炙ったせいで鈍い色をしていた。血の色を思わせた。
 こうやって目を閉じているウィンリィをエドワードは動かせない。何もかもを受容するために何度そうやって目を閉じてきたか解らないから。
 両親が帰ってこなくなって、落ち込んで、食べる量が極端に少なくなって。細くなった腕を無理やり引っ張り、起こして、そうやって泣いていても何にもならないと言うだけ言って、黄金の眸でじっと見れば、空を切り取ったような青はゆっくり瞬いて、それから雨を降らせて、閉ざされて。泣きつかれたウィンリィは母に抱かれて祖母と一緒にベットの中に入っていった。次に瞼を開けたときはまっすぐ二人に向かって、おはようを言った。
 耐えられず涙をこぼすとき必ず目を閉じる。何も言わずに俯いたとき、必ず目を閉じて仕方ないと微笑う。視線に揺らぐ悲しみを見せないように。ただ受け入れるためだけに閉ざす。
 いつもそんな風に思える。
 痛みを長引かせるのが嫌で、でもどうやっていいか解らなかった。何しろ自分には足と腕を失ってその代謝に鋼鉄の手足をつけた記憶はあってもピアスをつけた経験はない。
 何とか針を抜くとあけたばかりのピアスホールからもう一滴。白い肌をつたった。
 それだけでぴんと張られた緊張の一端がほぐれて、勢い良く息を吐いた。
 もうまっぴらだと態度で表すように針を作業台に放り出す。
「危ないから避けといてね」
「危ないなら最初から」
 やめろって何度言えば解る、と続ける前に彼女の声がさえぎった。
「なんで?あ、服、血」
 いまさらのように慌ててあらかじめ用意してあった脱脂綿と濃い藍色のハンカチに手を伸ばし髪に絡まないよう、服に落ちないようピアスホールから流れた一滴を拭いた。服といっても作業着だけれど。
 ウィンリィにとって深刻なのは服やらベットのシーツやカバーが汚れる事で、針を耳朶に貫通させる痛みは二の次だ。
 何でやめなきゃならないの?
 と聞かれればエドワードに答える術は無い。別に彼女の生命活動や精神に害を及ぼすものでなくとも、傷ついたり萎れている姿を見るのは反射的に拒絶したくなるのだから仕方ない。そんな風に思うのは子供の頃からなのだから、もう治らない決まってる。
 こんちくしょうと歯を軋ませる。
 まだ一山残っているのは手の中にあるさっき自分で作ったものの感触で承知済み。だから尚更。
 手の中でそれを転がしていると、作らなければ良かったかもしれないと後悔の念が沸き起こる。だがこれが無ければ針が刺さったそのままでどこかへ行ったピアスを探しまわりそうだから。
「エド?も、いいよ」
 そういって血のあとをぬぐわれた耳に残る一点。にこりと笑い髪が邪魔にならないように背中に流す。
 切り裂かれ乾いてもない、抉られた傷口を、穿たれた穴をもう一度、触れれば血がまた出そうな傷口晒してさらりと言う。
 選択を含ませた声はエドが今此処でピアスを渡せば、自分であとはやるからと逃げ道を用意しているように思えた。だから鋼の手の中で転がっていた元自分の腕の一部を、握ったまま差し出す。
 持ち上げた手のひらにコロンと転がり落ちるピアスをまじまじと乏しい光にかざすようにしてウィンリィが見た。何の装飾も無いシンプルなピアスだ。
 下手に装飾してそのセンスを散々に貶されることを思っての無難な選択が感じられて声に出さずウィンリィが笑った。
 幼馴染には貶され、弟にはため息を疲れ他の衆目には独特の感性だなとかあらとか(それが肯定的なものか否定のそれかも知らない、何しろ表情の読めない人なので)そんなんじゃ彼女できないぜーとか、最後の一言には彼も感じるものがあったので、余計なお世話だフラレ少尉といってやったら真剣に落ち込んでいたが、ともかく独特の感性の持ち主本人も感じるものがあったらしい。司令部のドアノブが壊れて、大佐が居なくて、じゃあちょいちょいとと(何しろ取っ手が外れたのであと数日滞在予定のある街で、通う予定のある指令室のドアノブが無いのはこちらも不便だ)とやってしまったのが運のつきだとか弟あたりは思ったようだ。
「だからぼくがって言ったのに……」
 そういうことははやく言え弟よ。
 笑った気配のまま、珍しいものを見るような、でもとても好意的なそれはわかっていたので、わかってしまったので、ピアスのキャッチをはずそうとした手から、もう一度自分の作ったそれを奪った。
「……エド?」
 驚いた表情で瞬く青い瞳が自分を見た。どんな顔をしているかなんて解らないが、機嫌がいい表情でない事だけは確実だ。生身と鋼鉄の指先が器用に小さなキャッチをはずしてどこかに行かないように針の横に転がした。あの針は後で没収してきちんと錬金術で分解した後分別ゴミに出しておく事にする。
 手の中に転がした銀色の塊。何の装飾も無い、質素な、けれど。皮膚を傷つけないように、炎症を起こしたり金属にかぶれて傷が腫れたり膿を出したりしないように、丁寧に構築した。もともと自分の腕となるはずの一部だから金属かぶれの心配は少ないとは思ったけれど、腕の中に埋められるはずだった部品なら機械油にまみれる事になったかもしれない。そんな所に地肌へのケアを伺わせる高価な金属は使わないだろう。だから、一度分解して、構成して。直接触れる部分の摩擦は少なく先端はまろく、痛みを伴わないように凹凸はミクロの単位で計算して減らして極力滑らかに、キャッチは留めやすいように、そんな事ばかりに気を使って構築した。
 ころころと手の中を行ったりきたり。ウィンリィがじっと待って、待って、待って、待って。
「…………いいからぐさっといきなさいぐさっと」
 痺れを切らした。
「ぐさっと?ほう、ぐさっと?ぐさっとか?――っいけるかっつんだボケ!」
 啖呵を切って月を仰いで、ああもうこのやろうと何かになじりつけて、その胸中の勢いとはまったく別にそろりそろりと手は動いた。壊れ物を扱うときだってそれ以上慎重にはならない。それはそうだ、手の中にあるのはものじゃなくウィンリィだ。
「いいから」
 早く、とせかすような、そうでないような言葉が尚更あせらせることを幼馴染は知っているのか。それとも、痛みを受容するような、そんな台詞か。
 歯をかみ締めて、手を握ったり開いたりして、それから左手をそろりと添えた。ピアスの位置を確認した。先端が触れればまたその目が閉ざされる。痛みを受容する閉じ込める閉ざす。
 眸は言葉を語るから、その感情の一端の悲哀ですら見せないというかのように。悲哀の一端を晒せば目の前の二人が傷つくと知っているから。
 息の詰まる沈黙、という程ではなく。そろりと勧める、もう血は出なかった。わずかにほっと息をつく。
 けれど目を開けない。傷みが無いわけではない。きっと、知らせたくないのだろう、重荷になる事を嫌がって。悲しい事を言わない。自分たちを傷つけるような真似をしない、決して彼女は。
 生身の手が暖かく、傷は熱く、金属は明瞭、生身でない手は冷たいけれど嫌な冷たさではない。
「何でなんて聞くな」
 ぽつりとこぼれた言葉が脈絡が無いように思えて、ウィンリィは一瞬首を傾けかけたがああと頷いた。ピアスを、最初からやめろといい続けて、さっきウィンリィはそれを何でと遮った。
「……なんで?」
 嫌がる理由がわかっているのにこうやって問いかけるのは悪い事だろうか。
 痛いのが嫌だからだ。エドが、ウィンリィが痛いのが。
「殆ど痛くないのに」
 それは本心。ならなんで目を閉じる、といいかけてエドワードはやめた。
「痛くない」
 繰り返し告げる声は夜のそこに月の光みたいに落ちて零れてころりころりと優しい音の一つ一つが積もっていくように、ひっそりとしていた。
 なれてるいたくないいたくない。
「あんたより、まし」
 母を亡くし弟を奪われ自身の傲慢が招いた結果に手と脚を代償に最後の最後、弟をつなぎとめ、取り戻すため、血反吐を吐きながら立ち上がり、軍門に下った。今の状態が、痛くないなんて言わせるものかと思う。
「機械鎧と一緒にするな、一山超えれば痛いとか言う前に無いほうが困る」
 そうじゃないのに、と笑う事は簡単で、笑顔の下に隠した悲哀はどうしたって覚えた。
 目を開ければ黄金の目が目の前にある。痛くないように傷つけないように、それだけ気遣ってくれていることが解った。
 冷たい違和感が熱い傷口の中。穿つ、貫き。貫通する最後の出口を探して行ったり来たりを少し繰り返し、ぷつんと最後の感触がした。
 息を固めたまま手のひらを伸ばして作業台の上のキャッチを掴んで、後ろを止めて。
 エドワードの腕の一部が形を変えてウィンリィの耳朶にある。
 私の先に道は無い。
 走り抜け、振り返るに至り初めて、道程というものをみはるかす。
 これが自分の道なのだ。
 先は何も無い、解らない、どんな闇に続いているのか、旅を続けるたびに闇は色を深くする気がして、それは確信となった。
 だから不確かな事はいわず。何も残せるものが無くとも、そのほうが誠実だ。少なくとも自分にとって。何も残せない、口約束でさえ。
「エド」
 ふんわりと暖かな月の光のように。月光に温度は無く――でも月の表面温度は太陽に熱されて五千度。暖かくないわけ無い、きっと。焼き尽くすような眩しさ。
「うれしい」
 満面とはこれを言うのか。白い温度の低い耳朶からゆるゆると手を離してその笑顔を見てしまったら、もう心の中にある百万五のみ尽くして変わりに盛大なため息をつくしかなった。
 もし。この罪を重ねた腕の輪で作られたピアスだったとしても自分から贈られたものならこの少女はいつだって満面の笑みを浮かべるのだ。受け取るものが悲しみなら心から悲しみを、ぼろぼろになるまで泣いて泣いて泣いて泣いて。嬉しいときは思い切り笑ってくれる。自分たち兄弟の代謝のように。
 ウィンリィの白い指先がそろりと髪に隠れた耳朶に手を沿わせて冷たいはずの金属をなぞる。滑らかな感触。ただ嬉しい。
「……疲れた!」
 さらりと滑らかに髪をかきあげ、しなやかに結い上げ振り返り笑う。腰に下げて袖をたくし上げていたのを解いて、作業着の繋ぎを着なおす。
 めったに疲れたとか言わないくせに、弱音の類は本音ではかないくせに、これは本音だ。嬉しくて笑って。だからこんなときくらい休めばいい。
「うん、寝てていいよエド」
 バンダナを探してさまよう手がさっきの藍色のハンカチに行き当たる。見当たらない。代用。
 しゅるりと布の音がして器用に髪をまとめる。
 鮮やかなウィンリィの感情は空が表情を変えるようだと思う。涙をなくす自分たちの、代謝のように。
 笑顔のまま星を見て、無事であるよう祈りささげ、此処に居ること。
 自分にそんなまねはできない。逆立ちしたって無理。
 取りあえずパン、と両手を合わせる。たたきつける勢いで針の上に鋼の右手が鉄槌を下した。激しい青い光が二度夜の闇を切り裂き、掌の下にはぐにゃりと曲がりとがった先端を失った、もはや針として本来の役目を果たさない、針金に過ぎなかった。
 酸化させてぼろぼろにして砕けさせても良かったが、物質を酸化させるという発想がどこぞの大佐を思い浮かばせ反射的に拒否。というか錆びた針なんて危なくてこんな所置けなかった。
「うーーあーー」
 自分の所業に漸く満足して、意味不明な言葉を吐きながらそのままばたんとベットに背中から倒れた。大の字に手を広げる。洗濯物の洗剤の匂いと機械油と金属の匂い。
「エド?」
 ひょい、と寝転がったエドワードを見下ろして、くしゃりと前髪を混ぜられた。見下ろされる事は抵抗が根強くあるが、でも掌が気持ちよくて疲れささくれ立った精神がなんだかどうでもよくなった。
 ばふっとシーツがかぶせられて一瞬視界が真っ白になる。
 ちらりと視界に入った時計は信じられない、もう数時間で夜明け。
「――リィ?」
 なんだか解らない気持ちのまま名を呼んだ。もうリィと呼ぶのはエドワードとアルフォンスくらいだ。彼女の肉親も一人きり。これから彼女をそう呼ぶ人は増えるんだろうか。別に増えなくても自分と弟が居ればそれでいいとも、思う。
「エド?おやすみ」
 もう一度髪をなでられて、子供じゃないと言い返そうと思って、もうどうでもよくなった。嫌じゃないから。髪を解く。どうせまた旅立つときはきっちり三つ編み。此処でなら別にいい。
 小さな明かりが絞られる。月の光とオレンジの明かりの中でも色素の薄い金色は目立つ。此処まで綺麗な金髪は珍しいものだと国中を旅して初めて知った。当たり前だが人の髪のコントラストは千差万別。金髪の婦人の中ではわざわざ綺麗に均一にするために染め直す事も珍しくない。純粋で綺麗な金を持つのは、軍に居るあの人と、幼馴染くらいしか知らない。
 お返しのようにつんとやたら長い髪を引っ張る。
「リィ」
「エド?」
 それ以上何も言わず、此処に居るからと聞こえた気がして指の中をすり抜ける髪をそのまま許して解いて、目を閉じる。
 これまでの道程を思い返した。無くなったもの、無くしたもの、手放した何か、傷ついた戦地、命、地、血、軍、禁忌、流れ、叫び。慟哭、悲嘆、恐れ。
 疲弊。
 疲れたな、と思って思考を放棄した。ただあのときおはようをくれたように、今眠って、次におきたらウィンリィとアルフォンスが居るばっちゃんの飯がある。なら何ももう考えなくていい。だって全部此処にある。
 掌をかざした。鈍いギミック。メタル、光を弾いた硬い手足。月に晒されたそれ。
 罪。
 その象徴、子供のような。何も約束も安心も残せない。けれど此処に居られる。シーツに埋もれてそばに小さな明かりがあって幼馴染の横顔。そこに光る鈍色の銀。もともとは、自分の腕の一部。
 子供のようだ。と思った。
 泣きそうだなとか心の中で情けないと詰りながら絶対泣かない。ただ、空に浮かぶ月をいつか。
 そのために子供のように、シーツに包まって、眠る。
 目に映るのは月でなく冷え切ったマグカップに口を寄せ真剣に図面を見る青い瞳と白い横顔、月を温かいと思うなんて。そんな色の髪。
 Cry for the moon.無 い 物 強 請 り
 掠れた声は言葉にならなかった。それでもいい。聞こえなければいい。そしてあの窓越しの月をいつか。
 薄れ行く記憶の中、最後に目にしたのは手の届かない月ではなく、優しいだけの声と髪の色。
 黄金の眸が閉ざされて、呼び声はひっそりと夜の中消えた。












サモと鋼のサントラをぐるぐる回して書いたらこうなった。Matherlandは激しくウィンリィの曲だと思う。これだけエドウィン書いとけば満足私が満足。大佐ならAim at the moon。えーと。インフィギアは読んでないのですみません捏造の方向で。

2005/05/22

* ブラウザバックプリーズ