ハローディア。ハローマザー。


,not fragile Blue Rose.



 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう
 全て求める者は得、探す者は見出し、門を叩く者開けてもらえるからである
 あなた方は悪い者であっても、自分の子供に良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父は尚更、求めてくる者に聖霊を下さらないことがあろうか




 神父様はそう仰った。教会だけは扉を叩く者を拒まない。だから飢えと暗闇は教会で癒す。朽ちた教会はいつだって伽藍堂で信者の座る椅子も所々ががたが来ており、木造の椅子はカビが生え、ひび割れ、腐り墜ちようとしている。
 教会は扉を叩く者を拒むことはない。神父様はそう仰った。
 しかし現実は、薄汚れ、寄付金も払えず保護者もないストリートチルドレンを受け入れる教会はなく、叩いた扉は信徒に追い出され時には折檻される。
 二度と来ないように。
 言い含められてからは経営が困難で誰も居なくなった教会を探し、凌ぐことにした。あるときは廃ビルで。あるときは労働者に打ち壊された工場の片隅で。
 そして今はまた、根城の一つである教会の信者席に寄りかかり、茫漠としている。
 それでもシェリルは他の根城より朽ちた教会の方がましだと思っていた。
 性犯罪も神の前では冒涜に当たるらしく、誘拐の危険はぐんと減った。夜露を凌ぐにはコンクリート打ちっ放しの冷たく固い床より、断然居心地が良い。なにより、打ち棄てられたとは言え、神の家で子どもに暴挙を及ぶ人間は居らず、汚い者を見る目でさるか、または誰も訪れることもなく、ただ漫然と日々を過ごしているだけだった。
 ……ゴミを漁るようになったのはいつからだったろうか。
 最初はそんなものを漁ってごはんを食べるなんて信じられなかった。両親にもそう教育されていた。インプラント廃止運動によって両親が政府当局に逮捕された事情をシェリルはよく知らなかったが、両親は当時のシェリルにとって、世界の全てだったから、ゴミなんて漁るものじゃないという意識が根付いていた。
 そんな矜持は余裕のある者だけが持てるのだとシェリルは知った。餓死する直前まで追い詰められれば開き直るしかない。死にたくないからゴミを食った。
 伸び放題の髪、くすんだ青いくらい瞳。すぐにシェリルの意志は消え、未熟な子どもの精神は瓦解した。
 ただ、教会は屋根を与え、そしてシェリルに音楽を与えた。
 信者に罵られようと、教会を嫌いになれなかったのは、シェリルがそこで歌を聞き覚えたからでもある。歌を歌っている間は全てが忘れられた。
 優しいことも思い出した。祖母のこと、歌いながら思った、風や自然、動物たちに呼びかける歌声の持ち主を捜してた祖母は、もう亡い。当局に逮捕される寸前、母が耳から外し、シェリルの服にねじ込んだイヤリングだけが想いでのよすが。
 もう幾日食べていないか解らない。誰とも話していない日々が何ヶ月も続いていて、時間は次第に麻痺している。それでもシェリルには歌があった。
 ふらつく足取りで教会に入り、ステンドグラスを見上げる。ピエタの肖像。死した息子を抱き、涙する聖母であり、母であるステンドグラスはすすけていたけれど、薄暗い照明が透かす様々な色合いが不思議と綺麗だ。
 それを見ていると歌が唇から零れ落ちる。教会の賛美歌。ゴミを食べながら聴いた曲。何曲も何曲も。それしか覚えていなかった。歌う端からぴしりぴしりと唇が乾いて割れる。
 ひび割れた傷から血が滴った。指も足のつま先もあかぎれは治らない。
 冷たい板張りの床、レトロな木製建造。その地べたに座り込み、椅子に突っ伏すようにして最期の時を迎えようとしてる。何となく解った。ここで死ぬと。
 死ぬまで歌っていたい。一人きりになる前は歌は好きだけど、ここまで執着したわけではなかった。
 誰とも口を利かなくなってから、声の出し方を忘れそうで恐くなって、歌い始めた。
 今はもうその感覚すら麻痺していてただ歌うためだけに歌ってる。死ぬのなら歌っているときがいい。そう素直に思った。
 かつん、上質なハイヒールの音がしたのはその時。
 自分に用事などないだろう思ってそのままシェリルは歌い続ける。ぎしぎしときしんで開く観音扉、一筋の光が差し込んで眩しい。
 かつかつとひびく、規則正しい足音にインプラントを思わせたがどうだって良かった。インプラントだろうとなかろうと関係なく、ただ両親と一緒にいたかった。
 通り過ぎるだろうと思った足跡はシェリルの傍で止まった。シェリルはそれでも構わず歌い続ける。運が良ければ小銭くらい哀れんで貰えるかも知れない。けれど今ここで、死を迎えようとしている自分には何もかもが無駄だった。
 しかし、人は、一言、ぽつりと囁いた。
「やっと見つけた……私のフェアリー」
 気怠げに、シェリルは顔を上げる。前髪が掛かって片眼が塞がれたまま、狭い視界でその人を逆光の中で見つける。少し息が上がった、興奮したような面持ち。けれど冷徹で冷静な光を双眸に宿して、射貫くようにシェリルを見つめる。
「選びなさい。今ここで死ぬか、今を長らえるか。シェリル……ノーム」
 教授、と呟いた声はシェリルには届かない。けれど、選べと突きつけられた選択にはゆっくりと瞬きをして、反応を示した。
 鈍重な反応に、彼女、そう、彼女だ。女は恐ろしいほどの真剣さを宿して真っ直ぐシェリルの眼差しを射貫いた。
「選びなさい。あなたは遠からず必ず死ぬ。放って置いたら今にも。私はあなたを今ここで長らえさせる術がある、でも私にもメリットがなければならない――良く聞いて?選びなさい」
 眼鏡の奥の知的な瞳が冷厳に、告げた。
「私はあなたを今ここで生かす。その代わりあなたは将来死に至る病に冒される。ここで死ぬか、十年後、あるいは一年未満で死ぬか、今選びなさい」
 生か死か。
「……お腹がいっぱいになりたいの」
 そう、と藍色の瞳が優しく、初めて瞬いた。何ヶ月ぶりだろうか、誰かと話したのは。
「今ここで死んでも同じだと思う」
「ならここで朽ちることを選ぶのね」
 哀れみと同情と失望と軽蔑。それら全てをない交ぜにした女の言葉に、でも、と、手を伸ばしかけて、止めた。
 薄汚れた、ゴミだらけの、食べかすの付いた手のひらだった。
「あたし、もっとうたいたい……」
 言葉を途切れさせたシェリルを、女はじっと待ちつづけた。どれだけの時がたったかは解らない。
 不意にシェリルはステンドグラスを見上げた。ピエタのモザイク。血を流した息子の亡骸を抱いて嘆くマリアの顔。死んだら。もしここで死んだら。
 わたしがしんでも、だれもだいてくれないだろう。今ここで死ぬのなら尚更に、ひとりぽっちで。この、絶望すら霞むほどのどん底の孤独の中で、たった一人死の淵に足をかけ、死ぬのだろう。
「……うたいたい、そしてひとりは、いや。ひとりぽっちは、もう、いや」
 そう、と女は薄汚れたシェリルの髪を、ためらわず、撫でた。孤独が少しだけ軽くなる。涙すら零せない絶望の淵で、ほんの僅かに光が灯る。蛍のように、一夜で消える灯火であっても。
「ここでは死なない、えらぶ。ひとりはもういや。ひとりにしないで、もう、おいてかないで。あたしはひとりはいや」
「その後、私はあなたを死に至る病に冒させる。それでも?」
「えらぶ」
 即答だった。力の入らない首をもたげると、なんでだろうか、はらりと涙が零れた。
 ふらりと引っ込められた小さな手を、今度こそ女は力強く手に取った。痛いほどに握り締める。少し冷たい、けれど生きている人間の温かさ。心の底から全身から、鳥肌が立つように熱くなる。
「誓いなさい。その涙に。私のフェアリーになると。私はあなたに奇跡と絶望をあげる。必ず生かすわ、ここで死なせない」
「いらない」
 
 ――要らないわ、グレイス。

「誓って。その時が来たら、ひとりにしないで。看取って」
 それだけがシェリルの、全身全霊を込めた願いだった。感情を呑み込むような女の表情に、美しい笑みが宿る。
「私はグレイス・オコナー。あなたは?」
「しぇりる……シェリル・ノーム」
「誓うわ、あなたの選択と涙に。必ず看取る」
 私はあなたの歌に導かれてここにきたのよ、小さなシェリルを抱き上げて、グレイスは教会の扉へと向かう。差し込む光は未だ細く、未来は見えず、ただ安堵した。死ぬときに一人であるという絶望は、何よりの孤独である。この年にしてシェリルはそう理解してしまったから。
「グレイス、あたしも、誓う、あなたの妖精になる」
 不可能を奇跡に変えてみせると今誓う。
 海色の瞳がステンドグラスの中光を孕み、青薔薇のような色になる。双眸は不可能を可能にする意志の強さで瞬いた。初めて意志の介在した瞳が生まれた。
 細い光の中、人影が消えていく。歌の途絶えた教会で、ステンドグラスの中、ピエタの聖母が二人を見守っていた。
 
 
 
 
 ――要らないわ、グレイス。
 奇跡も絶望も私は自分で手に入れる、だからお願い、時が来たら一人にしないで。
 看取って。
 
 
 
 
       


 
 
 
 
 
 
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