The song is my prayer.




この星に願えるならば



 不遇の生い立ちであると、アルトは少しだけシェリルに知らされていた。幼い頃の酸鼻を極めた生活がアルトの想像出来ない世界にあることだと言うことは彼女の声音、一つ一つからすぐに伝わって取れた。
「居ても居なくても同じってなんだ。じゃあお前の弾いてる曲は、ピアノは?歌は誰にもらったんだよ」
 恵まれた生活をしていた。母の膝の上で微睡んだ記憶、父から厳しく稽古をつけて貰った記憶、上手く出来れば上達したと他のお弟子さんから喜んで貰え、衣食住に困るなんて考えられもしない、そんな生活。だからアルトは何も言えない、シェリルの辛さが解るなんて口が裂けても言ってはいけない。
 でも。
 空気でさえ反響するのだ、音も声もほんの僅かな着物の衣擦れの音でさえも震えて、舞台を響かせる。こんな風に優しく響く音が誰にも必要とされなかったなんて、そんなわけ無いだろう。
「嘘付くな、彼処でお前が得たものは確かにシェリルの形になってる。昔何があったかなんて俺は知った事じゃない、けれどはっきり断言してやる。お前の音も、歌声もその証しだ」
「……何よ」
 何も知らないくせに、と喉が裂けるように思った声を呑み込んで素っ気なく、何でもないように言うのは簡単だった。いつだってかぶってきた高慢なポーカーフェイスはシェリルの外側を覆い隠している。――ああ、この生き方でさえ、ギャラクシーで培ったものだ。
 路傍で眠る日々。野良犬に追いかけ回された日々。誰にも見向かれもしないで、しゃべる事なんて十日に一片あればいい方。ゴミの味を今でも覚えてる。たくさんの子どもを犯罪に巻き込み、飢えさせて、死なせる船だった。苦しいばかりの子どもがたくさんいて、生きるためには身体も心も魂もなげうたねばならない、そんな場所だった。――それでも彼処はシェリルの故郷だ。どんなに憎んだってどんなに辛かったとて、そこはシェリルの帰るべきふるさとだったのだ。
「そうよ、あたしは彼処で形作られた。あたしは彼処で生きてた、ギャラクシーは辛くて哀しいところで、でも――」
 ピアノも、曲も、音楽も、歌も、教えてくれた人たちが居たのはギャラクシーだ。
「それでもあたしの故郷なのよ」
 静かな声は今にも砕けそうな硝子細工の様な響きだ。綺麗に住んで高くホールに響いて堕ちる、鮮烈な激情を孕んだ静かな慟哭だった。
「どんなに駄目なところでも、愛しているわ、故郷だもの――でもそのふるさとのためにあたしは歌える曲を知らない。だって、誰も、教えてくれなかった」
 ふんわり靡いた純金の軌跡が小さな顔を覆い隠した。柔らかに堕ちた証明の影で、彼女がどんな顔をしているのかは見えなかった。ただ、天井を見晴るかして、その五百光年先の宙域に祈るように歌を、音を、捧げていた響きがアルトの耳を付いて離れてくれない。苦しくて苦しくて仕方なくて、それでも愛おしい懐かしい故郷なのだと、涙もなく慟哭した響き、割れて砕けるような声が胸の奥で鳴り止まない。
「……やっぱりお前ばかだ」
 立ち上がったままステージに向かって歩く。その言葉にきっと視線を上げると、緞帳の上がったステージに豪奢な金の軌跡を描いて、シェリルが榛色のアルトの瞳を睨み付けて威嚇した。
 腰に手を当て傲慢に、強気で見下ろす海色の双眸が爛々と光る。
「何よ……っ、さっきからそっちこそ馬鹿の一つ覚えみたいに!」
「お前が何にも解ってないからだよ!」
 かちん、と来たのが丸わかりの仕草でシェリルは鍵盤の前から離れた。ステージのすぐ真下に来たアルトをシェリルが腰を折って顔を近づける。美しい顔立ちに豪奢なブロンドが掛かり落ちてくるのが非常に迫力があった。常のアルトならまずここで動揺しただろうが、むしろこちらから額がくっつくくらいの距離まで近づいてやった。本当に、何も解っていない馬鹿だから仕方がない。頭の中に叩き込んでやる。
「お前の歌に祈りの歌なんてあるか、お前の祈りが歌なんだろうが!」
 それが例えどんなものでも。
 哀しい歌でも歓びを込めて歌えば彼女の声は歓びを歌う。歓びの歌でも哀しみを込めて歌えば一瞬にして悲哀の底に堕ちる。それが、シェリル・ノームの歌声。ただ一つとして同じものはなく、ただ一つとして、同じ歌はない。毎朝コップに注がれる水のように、新しい歌を注ぐ。それが早乙女アルトがシェリル・ノームに見いだした歌声の真実だ。
 ぽかんとしたシェリルが、海色の瞳をまんまるに見開く。
「形に拘る必要が何処にある。歌が祈りだ、どんな歌でもな。そんなの聞いてれば馬鹿でも解るんだよ」
 ステージの下のアルトの肩にまで、こぼれ落ちた柔らかな髪を操縦桿を握りしめ、ごつごつと皮の厚くなった指で、梳き流して背中に掛けてやる。けれど柔らかい髪は何度梳いても零れてきた。シェリルの声もピアノの音もこの髪も、まるで涙の代謝のようだった。
 不可視の涙がもし見えるのなら、ぬぐってもぬぐっても零れ落ちてくる小さな雫は哀しみの色に染め抜かれていることだろう。
 色の抜け落ちた小さな顔が真っ直ぐアルトを見つめていて、アルトは乾いたままの海色を真っ直ぐに見つめ返した。急に小さくなったようなシェリルがずるずると力が抜けたようにゆっくりとしゃがみこむ。
「……ほんとうに、ばかね……」
 力なく笑った顔が泣き笑いのようだ。いつか、イヤリングを届けに行ったときみたいに膝を寄せて抱きかかえる。ミントグリーンのサマーセーターに膝と顔を埋めてしまうとそんな哀しい笑顔も見えなくなった。零れ落ちる長いプラチナブロンドが小さな身体を覆い尽くす。全身で慟哭しているのに、涙の一筋すら流さないシェリルが歯痒くて、アルトは腕を伸ばしてこめかみから流れる金色を指で梳いて背中に流してやった。
「あのね、本当にあたし何も出来ないのよ。あんたみたいに、アルトみたいに命を賭けて戦うことも、生き残って散り散りになったかもしれないギャラクシーの人たちを救いに行くことも。ただこんな所で歌うだけなの。聞くことも出来やしないもう死んじゃった人に対して無駄なことしか」
「無駄とか言うな、何で」
「無駄よ。人間死んだら終わりだもの」
 ゴミを漁っていた子どもはシェリル以外にもいた。子どもじゃなくてもゴミを漁って生活していた人間は大勢いた。不衛生な貧民街で襤褸を纏って裸足でアスファルトを歩く。お腹が減った、寒い、ずっとそんなことばっかり思っていて、そんな子どもで溢れていた。そしてその多くが死んでいって、死んだら国の人間が病気を恐れて流石に死体を回収していく。後には何も残らない。何も。ただ、貧民街でどこかから流れてきた歌を、誰にも聞き咎めてられないよう、うるさいと怒鳴られないくらいの小さな声で、小さく口ずさむのだけ、それだけがシェリルにとっての救いだった。そこに、祈りなんて綺麗なものがあろうか。
しかし、壮絶な過去を想わせる声の響きにも、榛の双眸は逸らされず真摯にシェリルに注がれていた。
「人間は終わる。けれどシェリル・ノームの歌は残り続ける。生きた――生きていた人間の中にも。必ず」
 一番最初にヴァルキリーに乗ったことを思い出す。渾身の拒否も抵抗も紙くずのようにつぶされて、目の前で呆気なく潰えた命。――確かに人間は死んだらお終いなのだ。死の手触りに触れた経験のあるアルトには痛いほどに良く解る。ざらりとして冷たく何もかもを惨く、無惨に、残虐に、そして呆気なく奪っていく死に神の鎌。しかし、役者として、千年続く芸を身に背負った経験がアルトの口からとっさについて出た。
 人の死の圧倒的な終焉と、永久に人の中に残るもの。背反離反の、けれど両方がアルトにとっての真実だ。決して乖離することはない。
 ――きっと、死者の中にも生者の中にも、歌声は等しく残るだろう。
 心の中に響き続けて歌は永久に残り、恐怖の中で人生を終えた彼らの命をそっと優しく慰めるであろう。
 指をすり抜ける金色の髪がふわりと手の中で揺れた。
 海色の瞳がゆっくりと瞬く。僅かに淡い色が揺らいだと思った瞬間、シェリルが静かに顔を上げた。小さな額がゆっくりと傾いでアルトの肩に落ちてくる。
 空を飛んだときと同じ、柔らかな髪がふわりと羽の軽さで舞った。波打つ金髪の美しさにいつもながら目を奪われながら、柔らかで軽い身体がステージの上から落っこちてくるのをスローモーションでアルトは捉える。反射的に腕を差し伸べて華奢な背を支えようとするが間に合わない。
 無様に叫び声を上げながら緋絨毯の上に、落っこちてきたシェリルごと転がり込む。埃がもうもうと立ち上がった。長い群青の髪があちこちに散らばって、フェアゴールドと混ざりこむ。
「…………お前、いい加減に怒って良いか」
 いつもいつも何でこうも突然なんだこいつは。毒づきながらも細い背中も抱え込んだ頭も、アルトはがっしり抱きしめたまま離さず、決してシェリルを床に落とさなかった。床に打ち付けたのは自分の肘と背中だけ。頭は何とか頑張って避けたのでそう強く打ち付けては居ない。身体も打ち身だけで済んだだろう。のしかかってきたシェリルの軽さにも助けられたのだ。こんなに軽くて良くあの声量を維持できるものだと半ば感心しながら、そこは助かったとか言う場面じゃないだろうと自分で思考に突っ込んでみる。
 それでも、アルトの胸にくっついたまま顔を上げないシェリルを無理に引きはがそうとはしなかった。倒れ込んだまま、金色の頭をぐしゃぐしゃとなでつけてかき回す。
 どんなに促しても、彼女は自分から泣くと言うことをしないだろうから、せめて胸が傷むなら、傷むまま、気が済むまでこうしていてやろうと思った。独りっきりで、慟哭するような歌声を張り上げられるよりは何倍もましだった。
 倒れたアルトの上で小さな頭が身じろぎする。胸板に手を突いて、シェリルが起きあがってアルトを見下ろした。波打つプラチナブロンドが、細い肩をふわりと彩って羽の軽さで零れ落ちた。
「星が」
「は?」
「星がでて、一時間。それまで歌ってて良い?」
「……その後約束守ってあいつらの所ちゃんと行くか?」
 ランカ、ナナセ、ルカ、ミシェル、クラン。暖かな笑顔が溢れる場所。シェリルがフロンティアに来て培った大切な大切な絆。
「……うん、行く」
 くしゃりと子どものように笑ったシェリルの、海色の瞳がそっと潤んで瞬いた。
「……好きなだけ、歌っとけ」
 素っ気ない言葉に、溢れるほどの優しい音をありったけ、籠めて、響かせて。うん、とシェリルが頷くとプラチナブロンドがふわりと揺れた。
 目を閉じれば浮かんでくる彼女は、いつだってアルトの中では歌ってる。哀しみも苦しみも歓びもいとおしさも色とりどりの感情が、見事に歌い上げられる。その顔に浮かぶ、いつだって自信に満ちた微笑みは、今は寄る辺のない子どものようだ。ふわりと髪が揺れて、ことんと胸に額を寄せた少女の小さな歌声が鼓動の間近で響き始める。空気に溶けて、天井に、空に、ゆっくりと放たれていく。
 小さく、ひっそりと再び零れ始めた歌は儚く響いて割れて砕ける。聞いたこともないはずの潮騒にも似ている気がする。星に届けと願うように、密やかに密やかに。
 だからアルトも共に願う。この歌声が、五百光年先の宇宙に届くように、銀河に散った命に届くように。
 そしていつも目を閉じたとき瞼裏に浮かぶ、歌っている彼女が、次に瞼を開いたときには、またいつものように我が侭に鮮やかに、微笑んでいるようにと。
 そっと大きな手のひらで、華奢な背をぽんぽんと二度優しく叩いて、抱き寄せる。大気に溶け、空に溶け、星を目指して行く囁きにも似た歌声に静かに耳を傾けながら、アルトはゆっくりと瞼を閉ざした。
散った命へ楽園を、砕けた御魂に宇宙そら静寂しじまを、謡い祈り続ける少女にいつもの傲慢で、誇らかな、寂しがりな微笑みと悲しみに満たされぬ歌声を。
 何百、何千、何億光年先に散って輝く命と、そして星に。
 どうか。

 願えるならば。  
 
 

 
 
 

挿入詩句@フォーレのレクイエム。譜面はアメイジンググレイスより。 
 

プリーズブラウザバック。