Hallo! And Good bye, Good night, Homeland.
この星に願えるならば 「……盗み聞きとは良い趣味ね?」 ふつりと唐突に歌が途切れて、ステージの上から、客席の上段に居るアルトをいつのまにか海色の瞳が見上げていた。ふんわりとプラチナブロンドを柔らかく揺らして、微笑みながらシェリルは常にない穏やかさでアルトを眺めていた。悪戯にぽおんと小さく、ピアノの音が弾けて消える。 「…………悪い」 他に言葉が見つかるはずもなく、口元に手を当ててアルトは俯いた。 しかしシェリルは軽やかに笑った後に、くるりと踵を返してグランドピアノの前にきちんと向かい直って、アルトの方を見向きもしない。 「何が悪いのよ?」 「……なんだろうな」 「わかりもしないくせに謝らないで。不愉快よ」 優柔不断な男の典型ねと鼻で笑ったシェリルがちらりと横目でアルトを睨む。ぽろんぽろんと音が零れては割れていく。もうシェリルは歌おうとはしなかった。指先から零れるゆったりとした調べに耳を傾けて目を閉じている。その海色の瞳がもう一度アルトに向けられると、ぱちっと一度瞬きした。 「出てくなら出てく。居るなら座る。どっちでも良いけど、そこを閉めて鍵掛けて。歌を安売りする気はないし、今日の歌は誰にも聴かれたくないの」 鍵盤から手を離して、グランドピアノの上から何かを取り上げる。遠目ではよく見えないけれど、しゃらんと澄んだ音が聞こえた。きらりと僅かに硬質な銀の光を払って消える。それはこの講堂の鍵だろう。 「学園長から借りたのよ。だからここは私の貸し切り」 「ああ、それで……」 音楽科の奴らが、今度開催する講演会の予定合わせをしようとしていたのに、ステージジャックされたとかって嘆いていた訳か。ようやく、一般教養科目で一緒だった友人が凹まされていた理由と元凶を目前にしてアルトは深く納得した。まだ開催までには十分な時間があるが、小さな練習室じゃなく、珍しくステージを使って広いところでたくさん演奏できるんだと喜んでいたのに、惨いことだ。しかしこんなのに一般人が立ち向かえるわけがない。権力的にも精神的にも。 心中で友人に向かって十字を切ってから、アルトは踵を返した。観音開きのドアノブは使い込まれた年代物の真鍮で手触りがなめらかだった。 「今日はランカちゃんに誘われてるんでしょ?今からじゃちょっと早いけれどさっさと行ってきなさいよ」 ぽろんぽろん、ガラス玉のような音がホール中に零れていく。何かを連想させる音だったが、何を連想させるのか、のど元に引っかかったように出てこなくてアルトは眉を顰めた。ぐっとドアノブを握りしめて、思い切りひく。ばたんと乱暴な音を立ててドアが閉ざされる。 小さな溜息がステージの上から零れた。肩に流れる金の髪を、首を振って背中に流すと出ていったであろうアルトが閉ざして無言となった扉を見ようと顔を向ける。 と、そこには階段をとっとこ歩いて降りてくる群青の髪の青年。ぱちっと瞳を瞬かせて、シェリルは不可解というようにたちまち眉を顰めた。 「……何よ?」 首をすくめて、上目遣いにシェリルがアルトを睨んだ。こちらも同じ仕草を返して、たかたかと階段を下っていく。ステージの上手にほど近い席を選んでシートを倒し、どんと座り込んで偉そうに足を組む。狭いスペースに足がつっかえて眉を寄せながらアルトは腕を組んで目を閉じた。 「誘われてるって人ごとみたいに言うな。お前だって誘われてるんだろ。ランカが言ってた」 「遅れていくって伝えて」 「嘘だ」 すっと真正面からアルトがシェリルの目を見つめた。最前列から数えて三列目のアリーナから、アルトが容赦なく、真摯な揺らがない視線を向けていた。 「嘘をつくな。お前、来ないつもりだろう」 「何を根拠にそんなことを言うのよ」 ぽろん、と音がまた零れた。G F GC 指を慣らすように細い旋律がぽつりぽつりと降ってくる。 「歌うことを自力で止められるような状態にはとても見えない」 「……だからアルトなんて嫌いなのよ」 殴り飛ばしたいほど鈍いくせに、時々、辛辣なほど真摯にシェリルの真実を見抜いてくるから。 G C C EDC EE D A 増えていく音。旋律になる。片手だけの小さな祝福の音色は、いつかたくさんの人の命が、一度に奪われたときに、人の命を悼んで歌われ、流され続けてきた曲だった。 「今更嫌いでも何でもかまわないけどな。……気が済むまでやればいい。終わったら首根っこ掴んで連れて帰る」 「気がすむまで?」 G G EF G たーんとオクターブが跳ね上がる、高く高く伸び上がり重なり連なる音。和音が加えられて音が増えていく。ほろりほろり零れていく声音やピアノの旋律の一つ一つ。教えて貰ったことを一つ一つ、思い出しながら自分に出来る限りアレンジを加えて。 「気が済むわけ無いじゃない。だってこのピアノも歌もあたしに教えてくれた人たち殆ど全部が死んじゃったわ。なのに、あたしは」 ああ、そうか。 「――歌うことしかできない」 あえかな細い声音はまるで血を吐いているよう。苦悶に満ちた表情を日常の天真爛漫で我が侭放題な表情の何処に隠しているというのだろう。 「それでも歌うわよ、卑下なんてしない。だってあたしの仕事は歌うことだもの、それは誰にも譲れない。あたしの代わりなんてどこにも居ない」 ぴんと伸ばした背筋で、傲慢なほどの強い響きで彼女は言い切った。その時ばかりは儚い雰囲気はかき消えて、歌う事への矜持とプライドの厳しいまでの高さが伺えた。それはいっそ、美しいほどだ。 しかし、真っ直ぐアルトを見つめ直した綺麗な海色の瞳は、苦しい微笑みに染め抜かれていた。でも、と小さな呟きが、ピアノの音と一緒に、ホールの中に転がり落ちていく。 「でも。フロンティアでは、あたしの故郷のことを悼む人はだれも居ない。あたし一人、悼まなかったら誰が他に哀しむって言うのよ。あたしを生み出してくれたのは、間違いなくギャラクシーで、他の誰が、あたしですら、否定しようとしても出来ないのに、あたしがギャラクシーのことを思い出さないで誰が思い出を抱えていくの」 声も歌も、重なっていくピアノのこぼれ落ちる音も。まるで。 「なのに駄目ね。あたし、祈りの歌なんて知らないの」 泪のようだと。 この小さな船の中で、シェリル・ノームただ一人が、故郷のために啼いているのだ。 涙を流さずに、声を嗄らして慟哭しているのだ。 だからこその空っぽの客席。ここはギャラクシーで命を落とした人々が座るべき客席。他の誰が座って良い場所ではないのだ。他の誰にも聞かれて良いものではない、彼らにこそ捧げられる歌なのだから。 「……どうすればいいのかな、わからないの」 途方に暮れた迷子の子どもみたいに、シェリルは小さく呟いてそう言った。 空っぽの海色の瞳は静かに乾いたままだった。 「……ばかだな」 干からびそうな喉を叱咤する。命を落としたのはギャラクシーの船民だ。哀しんでいるのはシェリルだ。彼女が涙をこぼしていないのに、アルトに涙をこぼす資格などあろう筈もない。泣き叫ぶような彼女の歌声が頭いっぱいに広がっていても。流されるな、流されるな、流されるな、いま、いま哀しいのはシェリルなのだ。 「ばか?」 「ああ、大馬鹿だよお前は。祈りの歌なんてお前が歌うもんか」 わざと尊大に言って大儀そうに立ち上がる。余裕のない振る舞いなんてするな、切羽詰まっているのも頽れたいほど哀しいのもシェリルだ。異郷の地に放り込まれて故郷を無くしたのも、ホームに居たはずの世話になった大事な人たちを一片に亡くしたのも、アルトではなくシェリルだ。そしてアルトはシェリルのように何百という人を故郷ごと無くしたことなんて無いから、シェリルの気持ちがわかるなどとは口が裂けても言えようはずが無い。アルトも母を亡くしたが、人の尊厳が剥奪された死ではなかった。シェリルは親しい人々を無惨に殺されてその墓参すらも出来ず、故郷にも永遠に帰れなくった。 「……そうね、あたし誰からも祈りの歌なんて教えて貰わなかったわ」 常なら威勢良く反発する声が弱い音律に重なって消える。誰も居ない空っぽの客席をシェリルは遙かに見晴るかしていた。揺れもしない海色の瞳が、何を見ているかなんて解らない。――ああ、もしかしたら、バジュラによって虐殺された人々の中にはシェリルの本当の母親すら含まれているかもしれない。彼女の耳に揺れるイヤリングがきらりとプラチナブロンドをかすめて光って、その可能性に初めて思い至った。捨てられたか、死別したか、それすらシェリルは解らない、肉親とは非常に縁の薄い娘だった。だからこそそうでない人々と、出逢った絆を大切にするのだろうか。ランカやアルトとの新しい絆のことも大切に、大事に。 「……馬鹿アルト。やあね、なんて顔してるのよ」 くしゃりと笑った海色の瞳が悪戯っぽく瞬いた。何でもないように微笑みながら鍵盤に指を滑らせる。同時に重なっていく和音が波紋を生んでさざ波のようだ。Fis Gis G EE 折り重なっていく単純な調べが複雑に美しく編まれていくのを聞きながら、自分がどんな顔をしているのかアルトは解らなかった。眉間に皺が寄っていることとか、穏やかな海色の瞳を睨み付けるほどの強さであるとか。そういったことしか解らない。 「良い思い出なんて少ないのよ。本当に、少ない。でも、それだけのことよ」 あそこでシェリルはゴミのように扱われた。否、確実にゴミとして人の目には認識されていた。拾われて、世界が啓くまでシェリルはずっと浮浪児で、誰にも価値を求められない。 「居ても居なくても同じ、空気みたいな」 いや、酸素を無駄に使用するからやはりゴミ以下の異物だったのだろう。 「なら、何でそんな顔するんだよ」 僅かな怒りを孕んだ声がシェリルの小さな背を撃った。和音が散らばって跳ねていく。振り返った先の激しい榛の双眸が真っ直ぐシェリルを睨んでいた。 next. |