祈りの歌を知らない。




この星に願えるならば



 フロンティアは怯えている。明日は我が身かと誰もがひっそりと身を潜めている。――それでもたくましい、人は営みを紡いでフロンティアは賑やかだ。まるで戦時下の厳戒態勢であることを忘れるような街のにぎわいはシェリルの心を和ませる。恐怖に屈従されてさえまだ折れない心がここにある。それは特筆すべき点ではないか。
 船団の特色なのだろう。国民性という言葉あるのと同じように、マクロス移民船団はその船によって様々な特色がある。工業地帯に特化した船は労働者達のノリが総じて陽気だ、ホワイトカラーの多い商業船団は中々はっちゃけるのが苦手。もちろんシェリルの歌で、そんな堅苦しい外面は引っぺがしてやった。のんきなところ、せわしない船、様々を見てきた。
 その中で、最後の旅路に辿り着いたフロンティアは賑やかながらもどこか都会化されきっていない暖かさが残っている。それを強く感じるのはシェリルがギャラクシー出身だからであろう。自分は、フロンティアが好きだ。この暖かさが。そこで出会えたアルトやランカを初めとした暖かな優しい人々が。そこで得た、かけがえのない繋がりはシェリルの心を優しく温めてくれた。
 ――それでも、シェリルの故郷はギャラクシーだ。
 無力という言葉を強く感じるのは何度目だろう。文字通り、路傍のゴミとして捨て置かれた子どもの頃、拾われた後の苦しかった検査の積み重ね、スターダムにのし上がるまでの無名時代からの道のりの険しさは血反吐を吐くのに似ていた。歌いに来て歌わせてさえもらえなかったことなど片手の数じゃあ足りない。むなしさ、哀しさ、何より悔しさを重ねるたびに無力という言葉を噛みしめて、呑み込んできた。無力が嫌で嫌で、だから強くなろうと決意した。その決意を踏み固めて今、此処にシェリル・ノームは立っている。
 それでもまた私は無力を噛みしめている。パイロットの仕事が飛ぶことなら、あたしの仕事は歌う事よ。その言葉はシェリルの誇りと矜持の真実だったし、また同時に歌うこと以外には何も出来ないことを意味していた。
 歌うことの誇りは誰より持ってる。矜持の高さは人一倍。歌うことが無力だなんて思わない。自分に出来ることがあるなら、ただ黙っていないでやるべきだ。それが例えどんなに微かな力でも。でも、この瞬間にも散っていく命が故郷にあって、直接的な救いを差し伸べられない自分への憤ろしさは募って行くばかり。
 それでもシェリルは歌い手であった。焦燥に狂いそうに灼き焦がされながらも、哀しいまでに。歌しかなかった。
 講堂に入ってからずっと続いた歌声が途切れると辺りはエコーすら残さずに、しんとした静寂が降りてくる。僅かに震える歌声の余韻がわんわんと大気を振動させている。酸欠になるほど無茶苦茶な歌い方に、僅かに喉が軋んだけれど、それも良いと思った。プロにあるまじきことだとどこかの誰かから説教を食らいそうだが。
 苦笑しながら乱れた髪を背中に押しやる。鍵盤を開きっぱなしだったピアノに寄りかかるようにして気紛れに指を伸ばした。黒鍵にそっと指を置いて、とんっと力を込めた。
 Gis
 ぽーんとシャープの掛かった音が跳ねて転がっていく。
 ピアノの手ほどきを受けたのは、ライブの準備の最中だった。何度も繰り返される打ち合わせの中でバラードで使うシンセサイザーに興味を持ったシェリルに、バックバンドのメンバー達がおもしろがって貸してくれたのだ。キーボードには慣れておいたほうが絶対に良いし、作曲も楽しくなるよと言ってくれた。もちろん歌を疎かにはしなかったけれど、初めて本格的に触れた楽器に夢中になった。小さい頃から鍵盤をいじっている人間のように長い指を持っていないのは痛恨の極みだったが、小さい頃を顧みるまでもなく今シェリルは幸せだったから、そんな些細なことは気にならなかった。覚えられる運指法を、教えてもらえるまま貪欲に覚えた。
 ぱらっと音を響かせる。あの時教えて貰った練習曲は簡単に指から零れた。手習いの運指法からメジャーなバイエル。音は段々激しくなっていく。早く早くと急かすようなハノン・アルペルジオ。乱雑に、ホール中に散らばっていく音の欠片が見えるよう。いつの間にか口元からは笑みが消えてただ鍵盤を叩いていた。指と腕と肘、余分な力を抜くことが大切。音の出し方、基本的な運指法を覚えたら曲目を――。たくさん教えて貰ったことがある。ピアノ以外にも、ボイストレーニング、スコアの読み方、調律の仕方、ギターにも触った、ダンスのステップ、ミキシングの方法、スランプになったときみんなはどうしているのか。たくさんのメンバーやクルー、スタッフ達と触れあった。学校に行っていなかったシェリルに、たくさんのことを教えてくれたのは様々な形で音楽に携わる人々だった。人と人との付き合い方もそうやって揉まれて学んでいった部分が大きい。良い思いでも嫌な思い出もひっくるめて、今のシェリルを磨いていってくれたとても貴重で大切な人々だった。
 最後の音が鍵盤の上で綺麗に弾けた。高く高く、遠く遠く。――この楽器を教えてくれた人は、ギャラクシーでレコーディング中だと、最後のメールは数週間前に届いていた。もう新しいメールは届かない。
 シェリルの歌も届かない。
 死は断絶だ。生者との。見送ることすら出来ず、詣でる墓すら無い自分はどうすればいいのか。
 ギャラクシーはシェリルにとって良い思い出ばかりではない。辛かったことの方が多い。けれど、それでも。
 シェリルに出来ることは歌うことだけだ。ぽろんと零れた覚えのある一小節。いつ何処で覚えたかも解らない音律に意識もしないで歌詞をくちびるが紡ぎ出す。あれだけ歌ってまだ、シェリルは歌い足りていない。
 

 Chorus Angelorum te suscipiat,
 et cum Lazaro quondam paupere,
 aternam habeas requiem.
 

 楽園にてイン・パラディスム
 そう名付けられた、神様への言葉をシェリル自身はよく知らない。それらにどんな意味が込められているのか、教義も教えも良く解らない。日曜日、親に手を引かれて教会に行くような子どもではなかったから、ただ、何百年と歌い継がれてきた哀しみの歌であることの他には何も知らない。ただどこかで聞いた歌を聞き覚えただけ。こと、歌に関する記憶力だけは絶大なものがあって、一度聞けば大抵忘れないし、それを元に譜面を起こすことも出来る。ただ今は、覚えている歌を全部歌う事は出来なかった。
 再び見事に声が張り上げられる。空席の観客席へ向けてただただ歌う。こぼれ落ちるピアノの音はいつの間にか消えていた。最後の公演の時と同じように、アカペラの独唱だけが響いてる。永遠の安息を得られますように。そうくりかえしくりかえし歌っている。
 薄暗い照明の中、すっと光が差し込んだことに気が付かないまま、シェリルは天井を見上げた。絶妙な構造で建築された音響効果はばっちりで、シェリルの声はステージから発されているのに、跳ね返って雨のように降って来るみたいだ。もっともっとと思う。跳ね返されず、空に届けばいい。空に、宇宙に。光の速さすら超えて、冷たい骸へ届くように。
 
 
 
 
 それは壮絶な悲鳴のような歌声だ。傷ついた獣が鳴いているような。彼女にこんな声が出せるとは思っても見なかった。
 聞き覚えがある歌声に誘われるように、普段使われない講堂の中に入ってみれば百人以上は楽に収容できるただっ広い舞台の中、ただの一人の観客も無しにシェリル・ノームが歌っていた。零れる音は雨のように講堂中に響き渡る。長年のボイストレーニングの成果だろう流石に素晴らしい歌声だった。そんなふうに、芸として感心している自分を他所に、彼女のむき出しの感情を捉えてアルトは動揺していた。痛んでいる声だ。そして傷んでいる。痛みをむき出しにして、何をそんなに泣いているのだと訝しむほど、哀しみに充ち満ちた声はそれだけで空気を圧倒した。その声に取り憑かれたように呆然と聞き入った後に、やっとアルトは気が付いた。
 Requiem aternam dona eis Domine:  主 よ、  彼 ら に  永 遠 の  安 息 を  与 え 給 え 
 朗々と謳い上げられた声にかちりと当てはまる音律は、鎮魂の祈りの籠められた悼みの歌声。何の伴奏もない中で高らかに厳かに、そして哀しみに泣き叫ぶように――それはひたすらに悲愴な、有名な鎮魂歌の一節だった。
 細い人影に向かって声も掛けられないまま、身動きも取れない。ただ全身全霊で、それなのに驚くほど静かにシェリルはひたすらに歌っていた。一曲が終われば次の曲、それが終わればまた次の曲。クラシックからポップス、ロック、他人の曲も自分の曲も、とにかく何の脈絡もなく、思いつく限りの曲が歌われていく。大きなグランドピアノの前に立ちつくしたまま、彼女は誰も観客のないステージで立った一人きり、歌い続けていた。
 ふと、ふわりと冷えた風が頬を撫でたてはっとする。振り返ればアルトが開け放した時のまま、観音開きの扉の右側が少し斜めに影をひいて外の光を講堂に取り込んでいた。
 扉の隙間から僅かに見える外、講堂内に入る前のエントランスホールには吹き抜けの高い天井がある。その天窓から早々に気の早い一番星が見えた。
 パイロットの習いとして嫌と言うほど叩き込まれた訓練成果に反射的に頭が働く。もう殆ど脊椎反射の要領で今夜見える星の方角と現在のフロンティアの運行状況を計算してしまって、職業軍人として染め抜かれた自分に僅かに嫌気が指しながら――演算位置を弾き出した瞬間、愕然とした。今日見える方向の五百光年先は、ギャラクシー船団が消息を絶った所に相違なかった。
 息を止めて音もなく、アルトは舞台の上を振り返る。群青の髪が扉から差し込む光に照らされながら弧を描いた。
 痛み、傷みながら歌い上げる歌姫の金色の華奢な姿は真っ直ぐに立ってそこにある。空に向かって高く高く歌い上げながら、この宇宙から彼方の宇宙まで――否、天まで届けとばかりに。慟哭せんばかりに痛み、傷みながら、たった独り。全身全霊、歌声は悼んでいたのだ。
 そして今、バジュラの恐怖に侵されているフロンティアにはギャラクシーの安寧を願う余裕のある人間など殆ど居ないに決まっているのだと、この孤独で鮮烈な歌声に、アルトは痛烈に思い知らされたのだった。
 
 
 


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