まるで慟哭のような。




この星に願えるならば



 リノリウムの廊下に斜めに差し込む午後の日差しは燦々と明るい。他に人影はなく、広々とした校舎の中にはアルト一人がゆっくりと校舎外の、パイロット生専用の練習場への道のりを歩いている。地上三階。向こうに見える渡り廊下を通って別棟の屋上が練習場だった。歩き慣れた道のりを行きながらふと目をかすめる、窓の外をみはるかした。
 ミニチュアみたいな町並みに榛色の目を細める。
 一際ごみごみとした区域はメインアベニューだろう、突き当たりにあるホットドックの屋台が美味い。そこからブロックを二つはずれた角を曲がれば中華料理のチェーン店の老舗、『娘々』がある。銀河に名高き伝説の歌姫、リン・ミンメイとも縁のある店で、ランカがデビューしてからは一躍フロンティア一の有名支店にのしあがった。本店をさしおいて、商業収入は今年のトップを行くのでは無かろうか。
 今日は久しぶりのオフだから、お手伝いに行くの♪と嬉しそうに笑った少女は、今晩は是非夕飯を食べに来てと誘ってくれた。暗くなる前には悪友達と合流予定である。頬を染めながら一生懸命誘いに来てくれた彼女は、初々しい柔らかさでにっこりと微笑んだ。去り際に、アルトの袖を引いてこっそりと耳打ちされたのは、シェリルさんも誘ってあるのという嬉しそうな台詞だった。丁度、ランカの新譜のレコーディングが終わったことと、新曲のリリースのお祝いに個人的にプレゼントを貰っていたことから思い切って声を掛けてみたら、あっさりオーケーを貰えたらしい。他にも誕生日にもお祝いをして貰った等々言っていたから、そのお礼がやっと出来ると張り切っていた。いつの間まにやら携帯のナンバーやらアドレスの交換を終えていた少女二人は、非常に微笑ましい関係を築きつつあるようだった。実際、シェリルの、ランカに対する接し方は後輩と言うよりは、妹を見守るような優しげな目線で彼女の成長を促しているように見える。普段、アルトに対する高圧的な態度と違いすぎないかと胡乱な眼差しで訴えかけたら、心の声が聞こえたのだろうか、いつもの表情でぱちんとウィンクしたのちに、人徳の差よと憎らしいほど鮮やかに笑って見せた。
 その鮮やかさを思い出して、アルトは溜息をつく。
 この空を、細い体を抱き上げて、シェリルのためだけに飛んだのはまだシェリルが転校してくる前のことだった。というか、その直前。思い出したくもない大騒動の後、イヤリングのことをチャラにしてあげるという、アルトが屈せざるを得ない弱みを持ち出して腕が筋肉痛になるほどさんざんっぱら飛ばさせられた。
 上空から見る風景は展望台に上がって望む眺望とは明らかに違う。くるくると変化する視界、百八十度が夕焼けに染められた世界にシェリルはまるで子どものように海色の瞳をきらきら乱反射させて輝かせながらはしゃぎまわっていた。
 アルトから見た、シェリル・ノームという人間についてふとこんな風に思う。彼女は誰よりも人生を達観し、大人びた生き方をしているのではないかと。それはまるで諦めのように。クランのことには頑ななミシェルを思い出せば、多分彼よりも何もかもを諦めた『大人』の生き方をしている。傲慢で我が侭なくせに一定範囲に線を引いて彼女は決して此方から踏み込ませない。一見、引っ込み思案なところがあるが、見ていれば誰にでも解るような微笑ましい感情表現をするランカより、余程シェリルは豪放磊落に振る舞ってみせるくせにまるで本心を見せない。良くも悪くも感情を抑制できる大人な生き方。
 けれど、それに相反して素直な感性は真新しく新鮮な出来事に対する感動を失わず、くるくると表情を変え、色彩を変え、子どもの無垢や素直さでもって生き生きとシェリルを彩ったていた。綺麗ね、凄い、素晴らしいわ、素敵、ありがとう、空の上ではしゃいだ彼女に抱きつかれながら何度も何度も同じ言葉を子どもみたいな歓声付きで言われた。あの時見下ろした街並みとは、フロンティア名物の区画整理が行われて変わってしまったために違っているところもあるが、光の色や、夕焼けのあざやかさは決して変わることはない。
 こつんと足並みを緩めると、開けっ放しだった窓からふわりと夕涼みの風が襟元を吹き抜けていく。赤い組紐と一緒に、真っ直ぐな母譲りの群青を攫って舞わせる。
 あの時も、風が、視界を暴力的に奪う美しいプラチナブロンドを柔らかな絹糸の様で攫っていった。アルトの胸と肩と腕と背中に落ちかかる艶やかに波打った柔らかな。フローラルの香りではなく、フルーツ系のフレグランスが鮮やかな印象だった。てっきりもっとあまやかで艶やかな香りを好むと思っていたのに、ノートは柔らかく、婀娜っぽくぬめるような甘さではなく、果物のような、甘いけれど綺麗で清涼な香り。麝香のような香りでも艶やかな花の香りでもシェリルならば香り負けなどしないだろうに、ぴんと背筋を伸ばしたプライベートの少女の香りは、はっと気付かされねば解らないようなさわやかで優しい香りで、でもしゃんと一筋、背筋が伸びる艶やかなフレグランスだった。抱き上げてみて初めて解った香り。華奢な体は腕も肩もアルトに比べて吃驚するくらい柔らかく、力を込めれば簡単に壊れそうで、でも地上数十メートルの空中で離すわけにはいかないからかなり困った。それに体格に比べて驚くほど軽くて、考えてみれば普段戦闘職種として従事している自分が一人の平均的体格な少女を重いと思っていれば話にならないだろうことは解っても、とても軽くて。
 窓から差し込む艶やかな金色が目を奪ったプラチナブロンドに重なって思わず目を閉じる。ちらちらと重なる面影を叶うことなら忘却の彼方に沈めてしまい。
「ったく、こんな時まで頭ん中に居座るなっつの……」
 くしゃくしゃと前髪をかき混ぜて目を閉じると、聴覚が鋭敏になる。耳を過ぎていく風の音に集中していれば、風を斬って飛ぶときの感覚を思い出した。すこしだけ落ち着いて、本来の目的を思い出す。それでは行こうと足を進めかけたその時、ほんの僅かだが、風の音に混ざって声が聞こえた。
 それは訓練された発声であるとすぐに解った。美星学園で声楽科の人間が訓練をするのは決まって人気のないところか、防音がしっかりしている練習室など。その状況を越えて、ここまで届く音を出せるのならば、それは学生などには及びもつかない、プロとして訓練された声以外にあり得ない。
 思わず窓枠に手を突いて、外に身を乗り出す。広がる校庭に人影はない。シンメトリの校門から続く煉瓦のコンコースにも人っ子一人見あたらなかった。榛色の視線が動く、アルトの見たその先には、時折芸能・芸術系のカリキュラムで使用されるステージの設置された大講堂が、放課後の斜めに陰った夕日色の人工照明の中、威風堂々と聳えていた。窓から乗り出したまま、今から行こうとしていた校門へ続く廊下と、反対側に続く廊下の突き当たりの階段を顧みる。視線を何度か往復させてから、アルトはちくしょうと口の中で語散た後、ぱっと身を翻した。長い髪がツバメのように円く弧を描き翻る。
 壁に着いた手をとんと放して、廊下の突き当たりの階段を一段飛ばしで駆けていった。
 風に乗って響いていた声は、あの日子どもみたいな歓声を上げていた声と確かに同じで、なのに違う――溢れよと言わんばかりに哀切と愛情に充ち満ちた歌声だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 野外コンサートをしたことがあった。野外と言っても本当に野外に出たら、たちまちのうちに絶対零度の宇宙空間の冷たさに凍え死んでしまうからもちろん船の中だ。大昔、伝説の時代のコロッセウムみたいな舞台の真ん中、客席をぐるりと見上げた。すり鉢の底に私は立っていて、階段状の客席に座ったみんなが今や遅しとばかりにその時を待っていた。歌を待つ人たちの一人一人の顔を出来る限り、はっきり、ゆっくりと見渡す。眼を凝らして、出来る限りを心に刻んだ。
 手にしたマイクを持って、私は息を吸う。
 舞台挨拶はもう手慣れたものだ。今日はみんな、来てくれてありがと。笑って言えばノリが良いコたちが私の名前を呼んで手を振る。嬉しくなって笑いが零れた。
 その日は特別だった。空はとっくに日が暮れて、人工太陽は照明を消していた。船の天井は透過スクリーンが目一杯に広がっていて、今居る宙域の星空をいっぱいに写している。大気がないから星は瞬きもせず、私たちは毎日刻々と変わる星を眺めている。
 船で暮らす私たちにとっては当たり前のこと。
 不思議にも思わないわ。でもね、ロングロングタイムアゴー。おとぎ話みたいな昔の話よ?季節ごとに決まった星座が、天井を飾っていたのですって。知っている?知っていたけれど、私は考えもしなかったわ。十二の星座が宮を決めてて一月ごとを彩っていく。それ以上にも無数に星座があって、名の付いてない星なんて存在しない。そう、人間は見つけた星には片っ端から名前を付けていったんですって。自分の名前、神話のカミサマやメガミサマの名前、奥さんや恋人、自分の子どもの名前を付けた人もいるそうよ、やーね。惚気る馬鹿って。でも嫌いじゃないわ、そんな馬鹿。
 射手座なんてホンモノを見たこと無いの。けれどね、響きがステキじゃない?考えてみるとおかしいわよね、自分の生まれた月は見たこともない星座で決まってて、それであたし達星占いなんてやっているのよ?
 今もまだまだ残る、あたし達の星。見えないけれどこれから未来までずっとずっと残っていく星。名前を知っている星も、知らない星も無数にあるのよ。過去も今もこれからも。それってステキな事じゃない?
 さあ、今日はマイクを使うのはこれまで。この前出た番組でね、言ってたのよ。星の光って空気に歪められて瞬くんですって。瞬く星なんてギャラクシー生まれのギャラクシー育ちのあたしは見たことも無いわ。でも大気がある惑星ホシではそれが当たり前なんだそうよ。
 じゃあ、あたしの声ってどうなのかしら。何かを、例えばCDとかテレビとかマイクとかスピーカー、そう言うのを媒介に伝わった音は何かを歪めてしまうのかしら。もちろん、そんなこと知った事じゃない、そんなモノで歪められるような甘ったれた歌じゃないわ。でもね、歪められるものが何も無い音って、あたしだけの音って、あたしだけで、どれだけ響くのかしら――試してみたくない?
 ねえ、みんな、静かにして、耳を澄ませていて、精いっぱい歌うわ、だから聞いていてね――。
 
 
 その台詞を最後とばかりに、スイッチを切ったマイクをぽおんと高く放り投げた。その日のライブは馬鹿みたいに静かで、伴奏も音源も何もなく、この声だけが星空の下、張り裂けそうに響いていた。どこまでも高く高く高く高く、昇りつめて、螺旋を描き鮮烈に響き、響き渡り、果てしなく。
 
 
 
 
 ギャラクシー最後の公演を思い出して綺麗な顔に儚い笑みが浮かんだ。あの日満員だった観客席、今は人っ子一人いない静けさの中でシェリルはたった一人佇む。観客の居ない歌姫もスターも飛んだお笑いぐさだ。ふんわりとしたプラチナブロンドが小さな顔を覆い隠すと、海色の瞳はもう伺えなくなった。
 ギャラクシー壊滅の報はもう信じるしかなくて、遙々銀河を渡り、助けを求めにエマージェンシーを叫んだギャラクシーの戦艦が、ずたぼろになって爆砕する映像が幾度もニュースで流れては消えた。幾万の絶望がモニタを何度も何度も、極彩色に彩っていた。
 
 
 
 


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