目を閉じれば君はいつも歌っている。


この星に願えるならば



 私立美星学園は生徒の自主性、個性を重んじた多種多様なコースやカリキュラムが多いのが特色だ。フロンティア制御を理論レベルから構築する技術者や宇宙航空技師を養成するための専攻学科から果ては絵画や文学など、芸術分野におけるものまで、学園の教育方針がカバーするジャンルは驚くほどに幅広い。
 その中でも特に重きを置かれているのが宇宙船団工学である。小さな箱船を循環するバイオテクノロジーや生活単位でのシステム理論、実際に宙空路を定める技術や知識などに非常に造詣が深い。後進を育てていかねば船団の運営が立ち行かぬことを理解し、重要視する政府は、学校法人を設立する際にこれらの学問を熱心に行っている学園に対して、優先的に支援、援助を行ってきた。今の大人達はいずれ老いて子ども達がこの船を担っていかねばならないという意識は、宇宙を独立独歩で開拓してきた自負がある流浪の民に深く根付いた意識であり、次世代を繋ぐにあたって子ども達の育成には、宇宙とフロンティアは、惑星ではなく、大気も太陽もなく、殺伐で、荒涼としたゆりかごであると子ども達に教え込む風潮が強い。
 それは宇宙をさすらうに当たって生きていくために必要な心構えであり、子どもの教育課程においてこれらを教えるのは当然であるという意識が市民の間では非常に高い。フロンティアの発展とは別に、積極的に教育制度に支援や援助を差し伸べるのは、こういった世論という背景がある。
 また、それとは別に広範な芸術分野にも特化しているのがフロンティアの特色だった。元々、この移民船団には著名な芸術家達がたまたま多く乗っていたと言うことがその発端である、という学者もある。まだまだ歴史の浅い船団ではあるが、絵描きや詩、小説などの文学において豊かな文化が発展してきたのは、フロンティアが宇宙船団に珍しく、非常に豊かな自然を内包していた事も一つの要因であろう。
 そして、芸術分野の中でもそれらと一線を画するものとして音楽という分野が成り立っている。これは数十年前、歌で戦乱を収めたというおとぎ話のような出来事が、正史に事実として刻まれているからであろう。
 戦争を武力に寄ってではなく、歌によっておさめたという奇蹟は宇宙を旅する全ての人間にとって、誇りである。
 そんな様々な背景を背負っているためか、美星学園においても芸能コース入学者は比較的優遇された学園生活を送ることが出来る。特に芸能活動と学生生活を平行している人間には、その分野において文化の発展と促進に寄与したものについては単位や出席日数について大幅な免除や、学費の援助が行われている。また、これは芸能コースに限ったことではないがその広範な設備の充実も特筆すべき点であろう。
 パイロット科に至っては飛行専用の練習場まで設置されているのである。他にも理系の理論に進む者のためには実験用の様々な機材が用意されていたり、文学、語学の範囲でも、申請さえ行えば大学と連携した、非常に豊富な文献検索が可能となっている。ただの学校にしては、学徒にとっては至れり尽くせりな設備であった。
「まさかこんなものまであると思わなかったわ」
 素直に感嘆したシェリルは、深々と溜息をついた。それは呆れと簡単の入り交じった複雑な吐息で、ぱっちりとした海色の瞳は半ば困惑したように周りをぐるりと睥睨する。
 土足で上がることが躊躇われるような檜舞台、良いステージだ。階段状の広い客席は生徒のためだけのものでなく、一般人の入場も考慮してあるのだろう。人っ子一人座る者のない観客席がすり鉢のように、出口に向かうにつれて高くなって設置されている。何よりその天井の高いこと。照明が遙か天井から降りてくる、その白い光の筋がきらきらと舞う埃にはっきりと見て取れるのに、設置された照明自体はよく見えないほど天井が高い。
 ステージの上手にはバミった後、剥がされないままのビニールテープ。そこに鎮座ましましているのは黒檀の照り返しが呆気にとられるほどに美しい一台のグランドピアノ。声楽科やピアノ科、ヴァイオリン科などのクラシカルな音楽学科主催のコンサートまであと一週間を切っていた。先ほど調律に来ていた学生は、シェリルの姿を見ただけで目をまん丸くしていたけれど。
 失礼ね、私もこの学園の生徒よと笑えば、顔を真っ赤にしてがくがく頷いた後調律もそこそこにばたばた走って行ってしまった。宇宙をさすらう民の崇める歌姫が目の前にいきなり出現したのだ。同じ学園に所属する生徒から見れば、雲の上の上の存在も良いところである。
 肩に零れたプラチナブロンドを背中にかきやるとふわっと空気が光を孕んだ。豪奢で繊細な金髪を後ろに流して、彼女は静けさに沈むホールの中をゆっくりと歩いていく。ステージに上がればこつんと小さな足音がした。艶やかに黒光るピアノの縁に手を掛ける。指先がすっとなぞれば、金色の飾りを施された瀟洒なイタリックの刻印がある。シェリルには見慣れた、珍しくもないアルファベットの羅列だが学生ごときが触るには分不相応にも程がある、高価なピアノだ。設備の充実を謳う学園長のアピールは、いささか、過ぎるほどに非常に正しかった。
 例えばシェリルが誰にも声を聞かれない様な、けれど良く声が響く音楽室を一室借り切りたいと願えば、こんな大きなホールがぽんと貸し出されるほどには。
 シェリル・ノームというネームバリューも大きかったのだろう。だが、この学園では生徒の要望に対してあまりに難色を示すような理由がある場合を除いて、基本的に自主性を重んじ生徒のやりたいようにさせるという風潮がある。――グレイスに聞いてはいたが本当のことだったらしい。苦笑しながらシェリルはピアノの蓋を開けた。
 天鵞絨の緋絨毯がやわらかくモノクロの鍵盤を彩っている。
 細い指先がそっと触れるだけで、呆気なく椅子の上に誇り避けの天鵞絨は落ちていった。現れた、使い込まれた艶の出ている白と黒の鍵盤は嗅ぎ慣れた楽器特有の古びた木のにおいがした。
 指先が鍵盤をそっとなぞる。冷たい、固い感触。黒鍵に当たればでこぼことしていた。
 左から、真ん中までをそっとなぞって、中程で止まる。人差し指が力を込めた。ぽおん。
 広い空間に投げ出されたFの音。
 高く高くほろりと転がる。
 音を如何に響かせるか、拡張機器なしに如何に遠く離れた人へ舞台からの肉声や音を届けるか、音響環境だけに特化したホールには、沈黙の中に落ちる針の音よりも、余程雄弁にピアノの音は空気を震わせた。
 こぼれ落ちた音の場所が解るかのように、シェリルは空っぽの席を舞台の上からじっと見つめて、そしてすうと息を吸い込んだ。
 広いホール特有の、埃のにおいが肺を満たして彼女は空高くに向かって声を張り上げた。
 
 
 
 
 
 
 通常授業が終わると、生徒は散り散りになって己の仮題を終わらせるために各々帰途につく。もしくは、学内の図書館や実験室、練習場などに籠もって研鑽を積むべく専攻科目に沿って目的地を定めていく。早乙女アルトもそんな内の一人だ。航空力学のレポートは見事にA判定を取れたので、補習もなく意気揚々と空を飛ぶために教室を出た。
 最近は準軍事組織であるS.M.Sへ、どうしても時間を割かれてしまうことが多い。今は戦時下であるから、仕方がないと言えばそれまでだ。だが、あれほど本物の空に憧れていたにもかかわらず、いざフロンティアの空を飛ぶことが出来ないほどに忙殺されてしまうと、自由にただの学生として飛行訓練に明け暮れることが出来ていたときもまた恋しくなるというのは、自分でも現金なものだと思う。
 しかし、殺伐とした戦場で妥協の許されない訓練に忙殺されている普段が気忙しいからこそ、偶のオフくらい、自分の好きなように飛びたい。――どんなに気を抜いても、誰かが死んだりしないで飛ぶことが出来るということが、如何に素晴らしい事かを知った。
 人は空に憧れる生き物だ。人類史上初めて、飛行に成功した人間は純粋な憬れだけで空を行くことを願っただろう。――ダイナマイトのように、まさか人殺しに使用されるなど思いもしなかったに違いない。宇宙工学やシャトルの発明を志した人間もきっと、兵器利用されうるなど思いもよらず、ただただ宙に憧れる一心だったろう。科学の進歩は不可能への希有な憬れとセンチメンタリズムとロマンチシズム、そして政治と戦争の歩みによって綴られる。――せめて自分は、同じ命を奪うにしても誰かを助けるために、同胞を、人間を守るためにこの技術を使いたい。そう思うのは青臭い理想論だろうか。それとも理論をすり替えた屁理屈だろうか。だって生きている何かを殺して奪っているのには変わらないのだから。
 それでもヴァルキリーに乗るのを辞めないのは、責任感やその場の勢いや流れや、あとは大事だと思う何かが、この船にあったからだ。朧げに、でも確かに。
 一頭の虎が人間を殺したという事実があるとする。
 虎は危険な生き物で、野放しにしては置けないから、その個体全てを憎み、絶滅させようとしている。今アルトが行っているのは詰まるところそう言うことだ。危険だから、と言う予測可能性で他の何の罪も犯していない、雄も雌も老いたも幼いも関係なく個体の命をも奪っていく、明らかに種の根絶を望んでいる。――例えば『敵』が他民族だったり、同じ人間同士なら憎しみの他に、葛藤や苦しみを覚えただろう。その一点だけは、自分たちを滅ぼそうとするバジュラが人間でなかったことに感謝したい。
 虎は虎だ。人を殺す殺さないなど関係ない。人を殺さなかったのは偶然で、人を傷つける可能性を常に高確率で持っているのには変わらない。致命傷の牙がいつ剥かれるか解らないのならば、共存は絶対に不可能だ。有り体に言えば住む世界が違う。だから殺される前に、殺さなければならない。もし、自分でなく親しい誰か、友や家族を殺されたならば、自分は一生虎という種の全てを嫌悪し憎み、そしてその時駆けつけて虎を狩れなかった自分を後悔しながら生きていくだろう。
 ぱっと思い浮かんだのは柔らかな翠の感情豊かな髪を持つ少女と、その兄と、悪友二人にクラスメート、そしてたなびく鮮烈なプラチナブロンドの、あでやかに微笑う海色の瞳の少女。
 どれもこれも失ってたまるものか。己の手の届かないところに逝くのは、あんな喪失を味わうのは、母一度だけで十分だ。
 それは切実な祈りとか願いに似ている。だから、そらへの純粋な憬れをもって、この技術によって人類がさらに豊かになるようにという願いを込めた全ての先達へ、壊すことしか知らないこの両手をどうか許して欲しいと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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