The Desire and Challenge.




正銘



 芸能の世界で名声と実力と信用を築き上げることの困難をアルトは良く解っている。食べなくとも寝なくとも、それさえしていれば満足だと言えなければ、叩き上げの道を歩けるはずもない。シェリルにとっては歌だった。歌があったからこそ、全ての困難を克服してシェリル・ノームは舞台に立つ。
 真っ直ぐに見つめられてアルトは思わず顔を逸らした。揺らがずに自分の道を歩き、好きなものを好きと言い、そう在れる強さ、憬れているのか、いらつくのか解らない。彼処は既にアルトの世界ではない。いや、違う、此処すらも舞台なのだろうか。
 本家から、父から逃げてきた先で今自分は家を飛び出してパイロットを志望した無鉄砲な若造を今なお演じ続けているのかもしれない。兄弟子に指摘されて本当に否と言えなかったのは自分の脆さと、未練だ。
 設定はこう、『早乙女アルト』は若者にありがちな反感を世間に抱きながらも抗えず、どこか斜に構えた態度をとる人間で、ちっぽけな自分を理解しながらもそうでありたくないという葛藤からパイロットを専攻した。身体を動かすことが好きで、勿論空が好きだ。宙を飛ぶことに臨み、空を飛ぶことを熱望する。そういう薄っぺらい台本。この設定に沿うならば、本物の空を見せてやるという、シェリルの提案に彼は一も二もなく必ず食らいつくはずだ。食いつかねばそれは『早乙女アルト』の人格ではないからだ。
 血だ、と言った。この身に巣くう、演じることという血だと。呪いじみた言葉は恐らくこれから先一生アルトを縛っていくかもしれない。
 そんなものは知ったことか。
 兄弟子に反発したのと同じように、アルトは再び拒否する。
 ここにいるのは俺だ。ここにいることを選んだのも、全部、アルト自身だ。
 唇を噛みしめて俯くと、真っ直ぐな前髪が目に落ちた。結わえた尻尾も肩にが零れる。視界がふさがるのが鬱陶しい。
 狭い視野に、小さな爪先が見えた。こつん、と靴音がしてふわりと花の香りがかすめる。藤だ。いつの間にか近づいてきたシェリルが纏うフレグランスは、予想外なくらい優しい香りをしていた。しかし、一瞬で解ってしまった自分にアルトは辟易した。季節折々の花の名前、焚きしめる香の香り、身に染みついた家の習慣や知識は今もアルトを支配している。
「……アルト?」
 腰をかがめて、すぐ近くからシェリルの真っ青な瞳がアルトを覗き込んでいた。くるくるかわる表情が雄弁に、何があったのか、と訊ねている。答えを持つはずもなく、アルトは目を合わせることを拒絶するように目を閉じた。
 ふんわりと視界を塞ぐ青い前髪が細い指に梳かれて、珊瑚みたいな爪先がそっと額をかすめていく。
「眉間に皺よ?美人が台無し」
「うるせえ」
 女顔はアルトのコンプレックスで、揶揄されるように指摘されれば反応せずには居られないことなど、忌々しいことに、とっくにシェリルにばれているらしい。苦々しく口を結びながら、思わず開けたまぶたの暗闇変わって、ほんのりと微笑むシェリルの大人びた不思議な笑みがほんの間近にあった。穏やかに和んだ彩りに、いつもなら力ずくで引き離す距離をアルトは忘れた。子どもみたいな顔をするのに、時折誰より大人びた顔をする。不確定要素を盛り込んだ不安定さで溌剌に、でも純粋にシェリルは生きてる。
「……気紛れでも誠実なら守れよ。偶々誕生日の俺が行ってやるって言ったんだ」
 口を開いた自分が、どんな顔をしていたか解らない。にっこりと細められたシェリルの瞳には良く映らなかったから。
「うん」
 子どもみたいに首を振って頷く仕草は幸せとか上機嫌とか、そう言ったものが溢れていた。ころころと印象を変える彼女にしか持てない、不思議なあどけなさ。大人なのか、子どもなのか全く解らなくて、いつだってアルトは振り回されても最後にこの笑顔に黙らされるのだ。――ああ、所謂傲岸不遜で手前勝手なのか。
 収まり処のない感情に無理矢理収束をつけてくしゃくしゃと前髪をかき混ぜると、不意にシェリルの細い手のひらが伸ばされ、アルトの頬をすべった。
「ねえ、アルト」
 小さな唇が柔らかく震えて開かれた。
「嫌なら断りなさい。あんたが選びなさい。……何考えてるのかさっぱりわかんないけれど、のぞむこと、ちゃんと選びなさい、後悔しないように」
 とても近くで、シェリルの歌うような声と瞳が痛いほど真摯にアルトに向かってそそがれていた。とても静かな声だったのに、心まで震わせ、抉るような響きだった。薄い照明をきらきらと弾く海色の双眸は何処までも真摯で、アルトの心の深淵を真っ直ぐに覗き込むようだ。
「……望むこと?」
「そう、望むこと。それと、臨むこと」
 ほんのり笑った顔が、悪戯っぽくウインクする。ディザイアとチャレンジ。噛んで含めるように囁いて、そっと青い瞳が瞬く。
「悩みとか、後ろ暗いことくらい誰にだってある、それを背負っても欲しいもの、したいこと、掴みたいもの。探して、選ぶの。あたしはそうやって生きてきた。今も」
 今も、と言った途端に緑の色彩で元気いっぱいに笑っている少女がシェリルの胸を一杯に占め、あっという間に塗りつぶした。卑怯なことをしている。あの子がこいつを誘ったことを知っててあたしも誘った。選択するのはアルトなんだから、と。でもこの後ろめたさはきっと消えない。アルトがあたしを選んでくれたこと、それに伴う喜びと後ろめたさはカードの裏表で、アルトを好きな誰かが哀しむのをシェリルはちゃんとは知ってる。それでも。
「ねぇ、最後に選ぶのはアルトよ。他の誰でもない」
 ほのぐらい照明に僅かに潤んだシェリルの瞳が泣き出しそうに揺らいだのをとても近くでアルトは見ていた。
 瞬きをそっとする。壊れてしまう何かを恐れるように。じっと見つめてシェリルは待っている。これ以上言葉を紡ぐことも重ねることもせず、アルトが出す答えを静かに待っていた。だからアルトは答えを出さなくてはならない。何を選ぶのか。家か、父か、血か、演じているかもしれない『アルト』か、もしくは自分自身かを。誰かを望まなくてはいけない。
「……シェリル」
 不意に強く名前を呼んだ。弾かれるように海の色をした瞳がアルトを真っ直ぐに見つめる。
「行くから。誠実だっつーんなら、必ず守れ」
 迷いを捨てきれない視線のまま、それでもはっきりと言い切った。空を見に行くのだ、と。
 その時、胸を満たした感情の名前を知らない。
「……当たり前じゃない。あたしは、シェリル・ノームよ?」
 傲岸に笑ってやったつもりだったのに、くしゃりと潰れたような笑顔にしかならなかったかもしれない。カメラに向かって微笑むなんて呼吸するより簡単に身に染みついた好意だったはずなのに、アルトの前だと言うだけでシェリルの感情は自分の理性を簡単に裏切る。未だ迷ったまま、けれどしっかりと答えを出した、アルトは確かに何かに一歩を踏み出した。浮かべる表情に、悩み続けていた苦しそうな表情が少しだけ和らいで見えて少しだけシェリルは満足する。まだまだ情けないままで良い、けれど望まずには居られない、進まずには許されない。生きているのなら。
 アルトの表情は情けないままだったけれど、どこか優しかった。シェリルは満足と一緒に、どうしてか、その表情に悔しさを感じておどけて離れようと背を伸ばす。少し考えて思い当たり、シェリルは眉を顰めた。時折グレイスがするのだ。そうだ、自分の我が儘を子どもだな、の一言で軽く容認してしまえる大人が浮かべる笑顔だ。悔しさの理由を見つけてシェリルはむっとしたまま身を離した。
 しかし、離れかけた小さな手を骨の太い手が追いかけた。細い手首を取られて訝しげな視線が真っ直ぐ此方を見下ろしている。え、と息を止めてシェリルは予想外の視線を受け止めた。パイロットの手は厳しいトレーニングを積むせいか、広くて固く、シェリルは腕くらい簡単に折られそうだな、と客観的に判断したりして必死に思考を逸らしながら。
「何よ?」
 きゅっと眉を寄せて、不機嫌を装って離れてくれと心の中では絶叫。こんなことで脈が速くなるほどお子様だった自分の小娘っぷりに内心で毒づきながらアルトを睨むと、俄にアルトが目を細めた。
「さっきから思ってたんだが、お前、熱……」
 ぱん、と乱暴に、無造作に手を払い、シェリルはアルトから離れた。細い靴でステップを踏んでアルトから離れて距離を取り、くるっとターン。振り向いたプラチナブロンドが薄闇の中で華やかな軌跡を描いた。
「約束は守るわ、だからあんたも破ったら承知しないから」
 傲岸に言い放って長い髪をかき上げる。こんなに薄暗がりなら頬の色が多少赤くてもわかりはしないと思っていたのに、何で必要ないところでこの男はこんなに賢しいのか。訝しむ目がシェリルを射抜くがそんなもの知ったことではないので、つんと顔を背けてみせる。
 アルトやランカのこともあるけれど、同じくらい、もしくはそれ以上に必死に、ギャラクシーの生き残りについての情報が欲しい。喉から手が出るほど。仕事の裏に本当の目的があるなんて珍しくない。それに付随する後ろめたさなんて飲み込み飽きた!例えどんな非合法な筋からの情報だろうと、今は切実に欲しいのだ、シェリルに優しくなかった街の、一縷の望みが。
 仕方がないではないか。何をどうしても、シェリルの故郷なのだ。スラムがあろうと、子どもが犯罪に巻き込まれようと、もうどうしようもなくとも、そこはシェリルの故郷なのだ。
「シェリルの名前に賭けてあげる。あんたは本物の空を見られる、思い切り飛べるわ」
 こんな熱で倒れてなんていられない。キャンセルすることは絶対にあり得ない、と胸を張って言い切る。傲岸に、思い切り笑ってやれば苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしてアルトは黙りこんだ。玄人の世界を知っているからだ。ひとたび舞台に上がれば親の葬式すら出られない、アルトはそう言う世界にいた。
「知ってる奴は居るんだろうな?」
「あら、心配?」
 にまっとシェリルが相好を崩すと、アルトがげんなりと半眼で返した。口を出さずには居られないのがアルトの甘いところだ、そう言う優しさを零すから、シェリルはアルトを構いたくなる。
「誰が!」
 怒鳴りつける声を軽やかに遮ってシェリルは笑顔で指を振る。
「グレイスにはばれてるわ、オーケー?」
 マネージャーのことを出されれば、後はアルトが口を出すことではないと承知しているのか、目を閉じてがしがしと髪を掻きむしった。緩やかに波打つ髪を持つシェリルは、真っ直ぐなアルトの髪を羨ましく思う。まるでアルトの性格を写し込んだような、紺碧の真っ直ぐな。
 こんなふうに真っ直ぐに生きられたら自分は変われるだろうかとシェリルは思う。
 アルトと自分の間にある確かな距離感、自分が作っている、決して渡らせない境界線。唇を合わせても戯けるだけで、ランカとのキスシーンを見ても平静に過ごせる自分。元気に跳ねる緑の髪はいつも素直で、憧れと嫉妬が綯い交ぜになった彼女はとても魅力的だった。いつかきっと、この境界線を誰かが破る。誰が破るのかはシェリルには解らない。だから、もっとシェリルが真っ直ぐだったら何かが変わるだろうかと考えた。
「どうした?」
 具合が悪いのか、と言うニュアンスを含んだ声に、シェリルはぱっと反射で首を振った。
「単純馬鹿の生き方が羨ましくなったの」
 それだけよ、と肩をすくめて唇の端を上げる仕草が寂しげに見えて、アルトは罵声を呑み込んだ。病人に声を荒げる趣味はない。
「あたしもそんなふうだったら何か変わったかな、って」
 例えば、真っ直ぐにぶつかっていけたら、砕けたって。
「誰かと、距離とか、変わっても、遠くなっても近くなっても、ああ、それはそれでありだなって心に思える生き方が出来ると思うの。だって一度あたって砕けたらきっとあたしは納得がいくわ。修復できないくらい傷ついても」
 それが例えばあんたでもね、と独り言のように呟いた言葉の真意をアルトは解らないだろう。解らないままで良い。今、シェリルはこの境界線を崩すことはしない。
 沈黙に伏したまま、この距離を変えず、そうしてもし遠ざかってしまってもきっとシェリルはアルトが好きなままだろう。そして、望む距離を手に入れられなくなって、離れてしまってきっと後悔するのだ、シェリルはそう言う自分を解っている。それでもアルトに愛情を抱くだろう。前も今もこの先も、それが恋愛かどうかなんて実のところは良く解らない。友情かもしれない、親愛かもしれない。でも、離れなければいけなくなったら、必ず辛い。その時、今までみたいな近い距離ではなく、望んだ距離でもなく、そう言う距離を保った関係を穏やかに納得するには、当たって砕けてしまえば結構あっさり納得がいくと思うのだ。やれるだけやった、それが自分の精いっぱいだったんだ、と。そしてシェリルはそれが出来るか、自分が解らない。あの子はきっと出来る。真っ直ぐに好意を寄せて眩しいくらいに感情を顕わにするあの子ならきっと。
「俺は家の中で生きてた」
 こつん、と頭をもたれた硝子にくっつけて、星屑を見上げたアルトが不意に呟いたのにシェリルはいつの間にか俯いていた顔を上げた。独り言だからな、と視線を逸らしたアルトがゆっくりと言葉を紡いでいく。底が見えないほど深く、暗く、でも強い響きだった。
「お前は外から当たって砕けてきたんだろう。そうじゃなかったらシェリル・ノームが此処にいるはずがない」
 自分には何よりそれが解る。アルトはそう自負している。早乙女の名の重さは確かにあった。けれど全くのど素人の新人が、玄人の世界に入っていく行程に比べるべくもなく、アルトの環境は充実していた。稽古場、後ろ盾、後見者、支援者、家名、そして舞台。何もかもがアルトのために当たり前に用意されていた。親の敷いたレールかもしれないが、それを望むものにとっては喉から手が出るほど欲しいものだろう。特に襲名など、役者が望んで望んで、圧倒的に叶わないことがどれほど多くあることか。けれどシェリル・ノームは重く苦しい時代を乗り越えて、今光差す舞台に立っている。自分だけの力で全てを掴んで。
「それは間違いか?」
 赤い組紐と一括りにした髪が背中に流れた。美しい紺碧。群青を孕んだ青がさらさらと肩をすべってから、アルトは最後の一言を真っ直ぐにシェリルに投げつけた。そこにいる、当たって砕けて、それでも欲しいものを掴み続けてきたシェリルは間違いなのか、と。
 美しいものは美しい。素晴らしいものは素晴らしい。積み重ねられた努力は素晴らしい。それが自然でも、人工でも、模造でも。好む好まないは人の趣向で、そう言う世界に生きるのならば何より必要なのは覚悟と忍耐だ。誰かの気紛れで捨てられる不安定な世界に彼女はまっすぐ立って生きている。
 アルトは認めている。受け入れられないものの美しさを。だから自分はこれだけ、ぐだぐだと迷う。演じる世界、舞台への憧憬と未練と憎悪にも似た感情は終えることを知らない。全て拒否できたら楽だろうが、自分が美しいと信じたものまで認めないのは違う。例え、どんなに受け入れられなくても。心の底から拒絶しても、アルトの感性は認めている。
 父の芸の美しさを認めて、同時に心の底から憎んで拒絶するのと同じように。
 シェリルの積み重ねてきたであろうものを認めている。その道程の途中にいた経験から、手に取るように、シェリルの辿った過酷な道が解るから。
 疑問の言葉は、真っ直ぐなアルトの、シェリルへの肯定だった。
 空がない。
 その台詞を言ったときの、アルトの言葉の、響きにとても似ていた。
 今まで生きてきて、子どもの頃からシェリルはたくさんの汚濁を見てきた。ぐしゃぐしゃに踏み荒らされた心はたぶん綺麗ではない。シェリルの心は美しい偶像に遠く及ばず、浸透膜を張り巡らせて入れるものと入れないもの、零すもの零さないものを選別している。心の全てを顕わにして正直になるのは歌うときだけ。そうやってシェリルは築き、歩いてきた。
 間違いか、と聴かれれば、シェリルは誰がなんと言おうと自分に向かってノーと叫ぶ。そしてシェリルの言葉に、アルトはじゃあそれで良いだろう、と当たり前に頷くのだろう。語尾につけられたクエッションを裏切って、今までを懸命に生きてきたシェリルを間違いじゃないと、アルトは言葉にしたのだ。
 瞬きも呼吸も止まったように感じた。ヘイゼルの瞳の真っ直ぐな色彩が心臓を抉るようだった。この臆病さすら、自分の一部でそれすら認めてくれるのだろうか。解らないけれど、でも胸を張れる。どんな形であれ、シェリルはアルトに胸を張って真っ直ぐに視線を合わせられるのだろう。
「いいえ」
 ほろりと零れた言葉が宙に溶けていく。静かな空間に二人、星屑をばらまいた空がアルトの向こう側に見えていた。
「いいえ、間違いじゃない。あたしはあたしを肯定するわ」
 ねえ、アルト。来てくれて嬉しい。選んでくれて嬉しい。好意でも恋愛も友情でも反発でも何でも嬉しい。あたしを選んでくれて嬉しい。それがアルトの問題に起因していても、あたしは嬉しい。ありがとう。心配してくれて嬉しい。肯定してくれて凄く。
「ねえ、アルト」
 海色の瞳が煌めいてそっと瞬き、笑み崩れた。ささやきは本当にあえかに響いて溶けた。
 恋愛でも何でも良い。この愛情に名を付けられることが一生無くても、この感情を肯定しようと強く強く刻みつけた。アルトが肯定してくれたならいつかぶつかって、境界線を越えるのも、良いかもしれない。臆病で、卑怯で、後ろ暗くて、でも認めてくれて。
 微笑んだ海色の瞳に、眩しげに瞬いたアルトの表情に気付かずに囁く。
「うれしい」
 本当に、嬉しいの。
   
 
 


プリーズブラウザバック。