この想いはきっと



正銘



 見上げると白い雲がふうわりと浮かんでいた。真っ青な空を背景に、風に煽られてゆっくりと流されていく。流されていく果てをアルトは知らない。……果ては必ずあるはずなのに知らない。海洋から発生した水蒸気ではなく、人工的に制御された施設が吐き出すH2O。上空数千メートルの規定位置で気温を下げ、気圧を制御して水蒸気飽和を作り出す。
 授業中にやらされたフロンティアの環境制御理論は必修で、必ずどんな学校でも一通り修了を定められている。限りある資源の中に、いや、常に枯渇している資源環境の中で生きていかねばならない箱船の住人は知っておく義務があるだろう。宇宙は常に人を拒んで、大気に護られた惑星はゆりかごだったのだと人類は改めて知り、直面し、克服しようともがき続けている。畢竟、我らは自身の努力無しには生きられようはずもなく、この箱船に住む人間は常に誰かに生かされている。
 人間が日頃排出するCO2さえ温度変化に利用されているのだから、道端で酒を飲んで転がっていてすらだれかを生かし、誰かに生かされているのだ。
 しかしそれがどうした。
 ご託も、正論も、聞き飽きている。ここに暮らすのなら知っておかなくてはならない、なるほど正論だろう。しかし興味が持てるか否かは別次元の問題だ。
 アルトはフロンティアの空が好きではない。美しいとは思う。人工の美の極みの一つでもあると思う。朝焼けの暁。吹き抜ける風と青。夕日と染まり行く宵闇と、透過スクリーン越しに映し出される宙域の日々変わり続ける星影。
 だが結局は、この空には果てがあり、アルトは留まらざるを得ない。飛ぼうともがいてもそれ以上上を目指すことは不可能だ。
 人工の美しさを卑下するわけではない。人が作った芸術の偉大さはそれこそ腐るほど知っていた。早乙女の家門の歴史を紐解けば、先人の作った偉業の集大成が累々と横たわり、早乙女アルトの感性を打ちのめす程の震えを与えるのだ。そこに父が連なっていると解っているけれど、その素晴らしさは認めざるを得ない。
 しかしアルトは否定する。早乙女嵐蔵の息子として父を容認は出来ない。価値判断とは全く別の箇所でアルトの感情は父を認められないと叫ぶ。違う、受け入れることが出来ない。
「ここには空がない」と零した言葉と多分に似ている。
 意味もなくいじっていた携帯から着音が聞こえて、アルトは空から手元に視線を落とした。着信を受けたメールを開けば、単なるダイレクトメールが一通入ってきただけだ。手慣れた操作で全文を読むこともせず、ダストボックスに放り込んで削除してしまうと、その少し前に入ってきた威勢の良い、と言うより、傲慢で自分勝手な文面がぱっとプレビュー画面にとって現われ、辟易した表情を隠しもせず唸った。よく聴くメジャーなテレビ局名前と関係者用の入り口、時刻が記されている。一般人が許可無く入れないような場所でなければ、良くある待ち合わせの文面だった。しかし、この時間は大丈夫?と此方を気遣う気持ちは一切感じられることはなく、誘ったんだから来るのが当然でしょうという台詞が画面越しに透けて見えてくるようだ。
「ったく……」
 溜息を吐いて、ぱちんと携帯を閉じると、不意に綺麗な顔が無表情になった。苛立ちや迷いが自分の中にあることを重々解っていた。正直に言えば、今は誰とも会いたくない。けれど、こんな時に独りで居れば兄弟子の言葉が一層頭から離れなくなるだろうとも解っていた。無理矢理ポケットに見下ろしていた携帯を押し込んで、今歩いてきた雑踏を振り返った。視界の端に、つい先ほどまで居た高い建物が見える。ほとんどの面を硝子張りにした美しい高層ビルは日差しを反射してきらきらとしていた。ぎゅっと目を閉じて、無理矢理視界から追い出すと、そのままアルトは歩き始める。雑踏を縫うようにメトロの表示を探した。
 今から行っても時間が余るだろうから、それまでは傍にある書店でも冷やかしてまわって居ればいい。正直、今の自分に、他の誰かの言葉を聞ける容量があるとは思えなかったけれど。
 ぎゅっとポケットに突っ込んだ携帯ごと、手のひらに爪を立ててきつく握り込んだ。憎らしいほど、果てのある空は穏やかに晴れ渡っていた。   
 
 
 
 
 暮れゆく淡紫色の宵闇というのは大気がある場所の特権だ。宙域近くに出れば強化ガラス越しにむき出しの真空が迫っている。人を呑み込む暗闇の刃の向こうで、美しい星屑が無差別にばらまかれていた。
 シェリルは背中を硝子に預けてアルトを眺めていた。ひんやりと冷たく固い感触が、硝子越しの真空の残酷な冷たさを思い起こさせた。絶対零度。硝子一枚の仕切りに隔てられて、この外で人間は生きてはいけない無常。
 それでも今顔に浮かぶのは微笑みだ。と言うか、にやけている。だらしなく緩んだ顔をしている自覚がある。そんなものを早乙女アルトに見せられるはずもない。視線が合いそうになったので、髪をかき上げる振りをして顔を背けた。ふわりと波打つ長いプラチナブロンドが頬を覆った。
 シェリルの髪は光源に良く反映される。体質的に、元々の色素が薄いせいだろう。青空の下、暗闇の中、夕日、照明、残光、舞台の上、その全てで淡く繊細に彩られる。今でさえ、薄暗い照明と星々の僅かな灯りに、波打つ陰影が不思議な光彩をはなっていた。
 今、その髪が自分を隠してくれないかと願いながら、殊更に唇を強くひいて、シェリルは顔を上げた。
 きつめの表情を意識して作りながら、自分が上の立場であることを殊更に胸の中で繰り返し言い聞かせる。
 空を見たことがないアルトに、わざわざこのあたしが空を飛ばせてあげようと誕生日プレゼントを提示してやったのよ。気まぐれの提案に、アルトが食いついてきたの。だから、あたしは仕方なく仕事のついでにつれてってやろうって、せっかくの誕生日なんだし。
「……お前何百面相してるんだ?気持ち悪りぃ」
「しっっっつれいねっ!」
 呆れたと顔に大書しながら、微妙に引きぎみの表情でアルトがシェリルから距離を取る。反射的にシェリルが怒鳴りつければ、取り繕っていた尊大な態度は裸足でどこかへ逃げていってしまった。この際別に構わない。イエスの返事を貰って、にやけるのが我慢できないほど嬉しいだなんて、悟られたら世界の破滅だ。腰に手を当て胸を張り、憤然とシェリルは細い指をアルトにびしっと突きつけた。
「あたしが、このシェリルが!偶然、ぐ、う、ぜ、ん、仕事とあんたの誕生日が重なったから!連れてってあげようって言うのに!」
 身を乗り出してきんきんと喚き立てるシェリルに、うんざりとした半眼でみやれば、苛烈な青がアルトを射抜いた。全くもって矛を収める気配はない。ああ、もう誰か、誰でも良いからこいつを黙らせてくれないだろうか。かなり投げやりに溜息をついて、シェリルの隣の強化硝子にとん、とアルトは脱力しながら背を預ける。
「別に、頼んでない」
 きっと睨み付けてくるシェリルにどんな言葉を返したって三倍になって返ってくるのがおちだなんて解っている。しかし、放っておくときゃんきゃん子犬みたいに噛みついてきそうな様子にもういっそ面倒になって、腕組みしながら溜息ついでにそんな言葉を投げやりに言いはなった。
 その途端、身を乗り出していたシェリルがふわっと髪を揺らして身を離し、子どものように無防備にアルトを見上げた。プラチナブロンドの彩がさざ波を引いて音もなく辺りに舞う。大きく見開かれた瞳が一瞬、唐突に突き放された子どものように凍り付いたのをアルトははっきりと見た。塗りつぶされた海色の瞳、孤独の色がシェリルの心の脆さの一端を垣間見せ、硝子玉みたいになった双眸がアルトを写し、瞬きもせず砕け散る錯覚に陥れられる。
 思いがけない表情に、アルトははっきりと息を止められた。
「――だから、気紛れなんだって、言ったでしょう?乗ったのはアルトじゃない」
 何生意気な態度を取っているのよ、と百倍くらいは威勢良く言い返えされることを覚悟の上で言いはなった言葉は、アルトの想像以上にシェリルを突き放して線を引いた。
 僅かに震えた唇は髪に隠されて、誰も見ることなく結ばれる。俯くようにふいっと小作りな顔を逸らすと柔らかな髪が羽のようにふわりと舞って肩に落ちた。
 かいま見えた表情は淡く眩いプラチナブロンドの影に、一瞬の間に消え去った。何でもないふうを装って傲岸に顎を上げ、長い腕と足を組み斜に構えるシェリルはいつものシェリルだった。
 ギャラクシーは子どもが生きやすい世界ではなかったの。
 小さな幼子みたいに膝を抱えて、膝小僧の上に頭を載せて、寂しげに笑いながらぽつんと呟いたいつかの言葉が、アルトの頭の中でなぜかリフレインして消える。
 これまで生きてきた心の瑕疵をものともせず傲慢に生きているように見せかけて、シェリルは時折だが不思議な脆さを垣間見せる。アルトはそのほとんどに気が付くことが出来ないけれど、この頃は、段々と気が付くことが増えた。
 見事な夕焼けに歓声を上げて笑ったときの無邪気さ、キスしたときに僅かに纏った空気が泣き出しそうに思えた。たぶんこれは彼女の素なのだろう。シェリル・ノームの持つ一つの真実だ。
 けれど、特別に自分だけが見ているわけではない。彼女の近しいものに少しずつ零れていく欠片のひとつひとつ。ただ、アルトはその欠片を見る機会が多少多いだけという話。それは今も同じことで、それならさっき自分が突き放した時に見せたのは、シェリルの脆さの一端だったのだろう。どうしてか、組んだ腕の中で握った拳に痛いほど力を入れた。
「――お前の気紛れなんて政治家のマニフェストよりあてにならねえよ」
 思い切り溜息を吐いて、今見たものを忘れるようにふざけ半分の言葉を吐きだしてアルトは綺麗な顔に不機嫌をわざと貼り付けた。
 投げやりな言葉に、傷ついたように身を潜めたシェリルにアルトは言葉に詰まった。それは認める。だから、殊更何もなかったように言葉を繋げた。不意に見せた寂しげな影は焼き付いて離れなかったけれど。
 僅かに距離を作ったシェリルが、硝子にもたれかかる。羽のようなプラチナブロンドが星屑に煌めいてほっそりした輪郭を縁取っていた。
「あら、あたしは一度言ったことは守るわよ」
 一瞬前に見せた脆さを払拭させた顔で、心外と顔に大書してシェリルが眉をしかめる。しかし、その言葉を信じがたい、と顔に出したアルトにもうっと頬を膨らませてヘイゼルの瞳を上目遣いにきっと睨むと、薄暗い照明に白く浮く手が硝子壁を弾き、華奢な身体をぽんと押し出した。細いシルエットが一歩、二歩。歩いて、ふわっとアルトを振り返った。薄い照明がシェリルの姿を仄かに浮かび上がらせて、かつんとヒールの音が鳴る。
「ビジネスライクに必要なのは信用よ。一々契約破棄をしてたらどんなに実力があろうと干される。反故にすることも確かにあるけれど、ね。あたしはあたしの歌に関しては特に、世界一、ううん、宇宙一誠実よ。だから約束は守るのよ」
 辛かったことなんて山ほどある。反故にされた契約なんて数も覚えていない。テレビ局の都合で潰された出番なんて、新人の頃には日常茶飯事だ。今までもこれからも、そんなことはきっと日常茶飯事なのだろう。そんな覚悟も無しに務まる仕事ではなかった。そのかわり、受けさせて貰える仕事は片っ端から受けていって、僅かずつでも利益と信用を積み重ねて行かなくてはならなかった。深夜だろうと朝方だろうと、地方のラジオ番組だろうと仕事に優劣はなく、売れるまでは呆れるくらいに辛い毎日だった。けれど、歌わせて貰えるのならそれだけでシェリルは報われた。それだけがシェリルの誇りだ。
「どんなにきつくてもあたしは歌ってるだけで満足だった。歌える舞台を貰えるのなら、どんな契約も守るわ。ね、あたしは誠実なのよ」
 悪戯っぽく笑った瞳は、恐ろしいほどに真剣だった。食べられない日もあった、日銭を稼ぐだけで精一杯の日もあった、けれど歌っていれば満足だった。あなたになら解るでしょう?言葉もなくシェリルの瞳は真っ直ぐに語りかけてくる。あなただって寝食忘れて、演じてさえいられれば満足だったはずだと。
 事も無げに言い放たれ、向かってくる真っ直ぐな瞳にアルトは瞬きもせず魅入った。
 白い肌が仄かに染まり、上気した煌めく双眸が実力と自信に裏打ちされてアルトへ真っ直ぐ放たれた。手を後ろで組んで、肩越しに振り返った線の細さに全くそぐわない、強靱な強さがシェリルから溢れている。知っている、彼女の気持ちは手に取るようにわかってる、いまさら腹の内を探り合うことも必要ないくらいに、アルトは演じていられるだけで何も要らないと、数年前まで本気で思っていた。しかし、今目の前にその強さは、アルトが得ることの叶わなかったものだ。
 昔、逃げた。そして今でも多分、逃げてる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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