君に会うための終わりの始まり。



灰は灰に 承前



 潮辛い風がべとりと頬にまとわりついて不愉快に目を眇める。ぎしぎしと不穏に揺らぐ船底から這いずりでて、ようやく揺れない陸(おか)に上がれたと思ったらこの始末。漁業を営む小さな船が所狭しと行き交い、外国船舶が幅を利かせて如何にも雑多な風情は国際港という洒脱な言葉に似合わない。
 訛りの酷い言葉が辺りを煩く飛び交っている。
 ――何を好きこのんでこんな所に住みたがるのか解らない。ぐい、とべたついたような頬を拭って、すいと目を細める。睥睨する向こう側に見える箱館山。馬蹄形にぐるりと囲まれた港に賑わう人間達。
 ざり、と草履の下で砂が嫌な音を立てるが、構わず踏みしめた。
 好きもこのむもない。あれがここにいる、それだけで己には十分に憎む価値がある土地なのだから。
 
 
 
 
 
 
 「明日の公館に、私も……ですか?」
 はらりと開いた文(ふみ)に視線を落としたまま、土方はああ、と頷いた。囲炉裏に掛かった五徳からしゅんしゅんとお湯が沸いていて、白い湯気が立ち上る。そこから湯をすくいながら、千鶴は不思議そうに首を傾げた。
 「ですが、明日は土方さんのご用のはずですよね?私にお手伝いできることがあるとは思えないんですが。帰って足手纏いになってしまうかと」
 卑屈に聞こえそうな言葉でも、千鶴が言うとたんに事実を指摘しているだけで、自身を卑下する響きがない。不思議そうに首を傾げる千鶴は単純に疑問に思っているらしく、その様子に土方は少し笑った。この妻は、娘時分といっかな変わることなく素直な性根のままだった。
 茶碗に湯をすくい入れて冷まし、茶葉を急須に入れる。さらさらと乾いた葉が陶器に当たる音が耳に心地よい。茶碗も暖まり、湯も頃合いに冷めたのを見計らって、そっと急須に注ぎ入れながら、手慣れた仕草で茶葉が蒸らされるのを待つ。
 程なくして暖かな湯気の立つ緑茶を、大小の茶碗に注ぐと、何とも良い香りがした。
 蝦夷では滅多に手に入らない一品だが、馴染みの貿易商から、いつも贔屓にしてもらっているからと厚意で譲り受けたものだった。
 先に土方に勧めてから、千鶴は先程の答えを慎ましく待つ。
 緑青色の釉薬釉薬うわぐすりの湯飲みを筋張った大きな手が持ち上げ傾ける。ほっとするような柔らかな香り、熱すぎず、冷めすぎず、渋すぎず、これも本土にいた頃と変わりない味そのままで、土方の好みのままだ。千鶴が屯所暮らしになれてきた頃から身の回りの細々としたことを否応なしに引き受け、任させられてしまったが、人の好みに聡い娘はあっという間に土方好みのものを受け入れて差し出すようになった。
 用意する長着の柄、色、茶碗の形、季節の花、愛用の墨に筆、料紙、茶に茶請け。
 いつ殺されてもおかしくない状況であるにも拘わらず、最初かわいそうなくらい怯えていた千鶴は、いつしかしなやかに強くその境遇を受け入れて、新選組と土方の力になりたいと頭を下げた。
 その覚悟は今も眩しく土方の脳裏に焼き付いている。姿勢良く延びた背筋、畳に付いた小さな両手、すいと迷い無く下げられた頭、零れる髪から覗く細い項。上げさせた、双眸に秘められた焼け付くほど強い覚悟。
 今目の前にある女はたおやかに成長した妻だ。しかし、あの頃といっかな、変わらない。
 そうでなくばこんな果ての地まで、こんな男についてくることなど無かったであろう。
 「土方さん?」
 首を傾げた妻が、不思議そうに瞬いた。さらりと零れ落ちる黒髪と紫がかった鴇色の髪ひもの流れが淑やかに美しい。
 「……来月の箱館行きに、多少厄介なお人が来るらしい。お前も挨拶に来いだとよ」
 見とれていたなどとばかげたことをいう甲斐性はない。視線を落としていた文を、千鶴の方に向けてやると、少しためらったあとで小さな手が受け取った。
 例え家族とは言え、自分以外に宛てられた私信を読むのは気が引けるものだ。しかし、構うことはない、と土方の視線が促しているから、千鶴はそっと開かれたままの文に視線を落とした。
 父の影響もあり、医学書にも通じている千鶴は仮名文字だけでなく漢字にも市井の者以上に通じている。悠々とした手蹟には難しい言葉も多く使われていて、書いた人の教養の高さを窺わせて思わず舌を巻いたが、千鶴自身も支えることもなくさらりと読み下していく。
 ちらりと目を走らせた文の終わり、差し出しの何も、もちろん手蹟にも心当たりがない。まあ千鶴とて、土方に宛てられる書簡が馬鹿正直に筆跡も変えずに届くとは思わないが。
 時節の挨拶と近況から始まり、政府の内外のことについてつらつらと書き連ねられ、近々箱館をおとなう準備があるから、その際は宜しくと書かれて文は終わる。僅かに機密に触れる内容も含まれており、千鶴が知って良いのか不安にもなったが、土方が千鶴を信用している証でもあったし、この程度ならば知られても特に問題もない、とのことなのだろう。
 しかし、これを千鶴に見せた土方の意図が分からない。土方は戸惑う千鶴に拘わらず、千鶴の淹れた茶をずずっと飲んで、自分の疑問に答えようともしない。はて、どうしたものかと千鶴も自分の湯飲みを傾け茶を飲みながら、溜息を吐きかけたとき、その一文は目に飛び込んできた。
 
 ――貴君の可愛がっている小姓にもお会いできたら望外の喜び――
 
 うっかり喉につまって噎せそうになったのを何とか堪えて茶を飲みくだす。
 ことん!と音高く、漆塗りの盆の上に椀を置いて、茶を飲むのに膝に置いた文を手に取り直し、何度もその一文を読み直し、そうして土方をゆっくりと顧みる。
 「――あの、土方さん」
 「おう」
 「…………大変言いにくいんですが、その…………」
 「はっきり言ってやれ」
 「はい」
 折癖の付いた文をもう一度読み直して、千鶴は深々と溜息を吐いた。
 「…………明治政府にご出仕なさっていらっしゃる方っていうのは存外お暇なんでしょうか」
 「奇遇だな。俺もそう思っていたところだ」
 微かに遠い目をした土方に、千鶴は、ああ、戦争が終わってもこんな苦労を背負う人なんだなあとなんとなくしみじみと思ってしまう。
 「あの人にも立場があるってのに、ったく、死人に会いに来る酔狂かましてる暇なんてねえだろうが……」
 今度こそ苦々しく、深い溜息を吐いた土方はくしゃりと前髪をかき混ぜた。
 大陸に進出し様々な改革が行われ、勤皇の名において様々な諸勅が発布され、まさしく激動の時代の最中。世間は明治維新だ何だと騒いでいるが、本土からも箱館からも離れたこの村は至って先年の頃と変わらずのんびりとしている。
 二人もそんな時代に取り残されたようにのどかな平和の中で、ゆっくりと日々を、大切に紡いでいる。
 しかし、放っておかない人も多くいるようで、土方の元には日々身元を偽った手紙が、多くはないが、途切れることなく届いている。
 ――二度と戦には関わらない。本人はそう言っているが、千鶴にとってはその言葉が真実であることを願うばかりだった。
 土方は戦死として処理された。既にこの世にいない人間だ。今は偽名を名乗り隠遁しており、千鶴もそれに付き従って傍に置いてもらっている。
 ……いつまで、傍に置いてくれるのだろう。
 不意に心の中に広がった波紋に気がつかない振りをして、千鶴は土方に苦笑して見せた。
 「お久しぶりですし、お会いしたいと言う気持ちは私にも分かりますけれど……土方さんや大鳥さんにとっては危険ではないんですか?」
 千鶴の懸念はもっともだ。
 土方の戦後処理を率先して偽装したのは大鳥であり、今彼は明治政府に出仕する身だ。土方の生死を謀ったことが曝かれればその地位は砂上の楼閣のように脆く崩れ去ることだろう。
 対して、現政府――薩長に怨みを買いすぎている土方の生存がばれれば、その処遇は如何ほどか。考えるだに恐ろしいことだった。
 穏やかに微笑んではいるが、本心では心配が尽きない妻の顔を見やって、土方は苦笑する。ことりと湯飲みを囲炉裏の傍に置いて、妻を手招きする。
 差し出された手を、そろそろと手に取ると、硬い手のひらが、千鶴の柔い手のひらをくるんで引き寄せた。はらりと文が落ち、小さな身体が土方の腕の中に収まる。
 まるで睦言でも囁くように、土方は妻の耳に口付けながら言葉を紡いだ。
 「近々外遊にでるらしい。和蘭だか米国だか英国だか……とにかく、何年かは日本には居られないそうだ」
 耳に触れる熱と言葉の響きに、頬を染めてぴくりと過敏に跳ねる千鶴の肩と背中を宥めるように撫でてやりながら、土方は言葉を紡ぐ。
 「外の国の技術を持って帰ってくる、だとさ。あの人らしい」
 「……そうですね」
 蝦夷共和国内にあって既に留学を経験し、新しいものを垣根無く柔軟に受け入れ、農民出身の土方にすら気安く接してくれた明朗な人柄は、千鶴の記憶にも深く印象に残っている。大鳥圭介、彼ならばやりとげるだろう。
 ことんと小さな頭を土方の方に預けて、千鶴が懐かしそうに眼を細めて顔をほころばせる。肩に落ちる髪を梳いてやりながら、誰にも聞かれてはならない睦言を土方は続けた。
 「あとはまあ、……例え俺達のことが曝かれようが、外国に居ればあの人に火の粉は降りかからないだろうよ」
 はい、と真摯に肯く千鶴に、土方はもう一つ、仄暗い物思いを言葉にはせず、永遠に口を噤む。
 例え土方歳三生存の疑惑がでても、当時を知るものが本国におらず、国外の任務に従事していれば、当時の事情や状況を聞き出すことも出来まい。
 大鳥なら、日本にいようと、力尽くであろうと土方達を裏切り、事情を漏らすようなことは決してしないと解ってはいるが、自身の存在が彼の出世や立身を阻害してはならないし、何より薩長の怨敵をかばっていた罪は大鳥にも及ぶだろう。そして、それ以上に苛烈な罪が、土方と千鶴の身の上に及ぶ。
 それを避けるためにも、前々から大鳥は日本を出ることを視野に入れるようになっていた。宣旨もついに賜ることになったらしい。
 かつての戦友に迷惑をかけている、と思う。土方の事情を知る人物は片手に余るほどしか居ないが、こうして外遊にでるのは大鳥だけではなかった。
 「その前の餞別だ。次に帰ってくるのがいつになるかも解らない、帰れるかも解らない、ならその前に挨拶くらいしておけばいい」
 国外に向かう船旅は様々な危難に満ちている。疫病、暴風、嵐、凪、飢餓、未だ発展途上の蒸気機関、一度迷えば二度と帰れない広すぎる海洋の道行き。
 その危険を重々承知している千鶴は、はい、と神妙に肯いた。千鶴自身、箱館にいた頃はそうして日本に渡ってきた人々と少なくはあれど交流があったし、留学経験者の高官達の話を耳にする機会もあった。
 土方に、亡命を示唆されたことも。
 「解りました、ご一緒します。……せっかくの良い日和ですし、新しい着物をおろしましょうか」
 箱館の初夏は五月晴れのように涼しくて過ごしやすい。
 冬の間から手を入れていた春と夏用の繕い物も、つい先日、着物の仕立てを丁度終えたところだ。永の別れになることが解っているのならせめて、との気遣いに、あんまり大げさにするんじゃねえぞと土方は優しく苦笑した。
 訣別があり、交わらない道があり、それでも前に進む友があり、そして隣には道を同じくするつまがいる。
 細い身体を抱きしめると、幸せそうに頬を染め、千鶴は笑って土方に身体を預ける。少しだけ、寂しそうに。
 「……寂しいですね。長いお別れは」
 口ではどんなことを言っても、的確に千鶴は土方の心情を把握する。何も言わずに額に唇を寄せると、千鶴が労るように微笑んで土方を見上げた。懐かしさを噛みしめる口調はしんみりとしてしまって、物言わぬ土方の心が痛い程分かって思わず胸がつまる。戦友を亡くした。千鶴も沢山の人を見送ってきたけれど、土方のそれは千鶴の比ではない。あの戦で、魂を分け合った人を、部下を、上官を、戦友を、この人は幾人も失い、そのたびに悲しみを怒りに変え苛烈に戦い、葬送を見送ってきた人なのだ。
 千鶴も土方に寄り添って、彼らを見送ってきた過去を思いながら、目を閉じて、そっと土方に柔らかに寄り添った。
 「でも、土方さんとは、この先も、ずっと一緒ですから。私はそれが良いです」
 微かに目を見開いた土方が、千鶴の言葉にとっさに言葉を返せないまま腕に力を込める。失ってきた沢山の人々、過去を振り返ってしんみりするのは性に合わないが、折に触れて彼らを思い出す。失ってきた人々の影は土方の心から一生消えない。
 それで良い、と千鶴は言う。見送ってきた人々を心に住まわせたままで良いと。
 その代わり、千鶴はずっと一緒にいるからと。もう決して、土方に誰も見送らせない、と。
 「……物好きな女だな、お前は」
 零れた苦笑には誰が聞いても解るほど情にあふれていた。
 「ええ、江戸の女ですから」
 穏やかに微笑んだ千鶴の唇に触れて土方は顔を傾ける。――千鶴の言うとおり、千鶴はきっと土方に千鶴を見送らせないだろう。どんなことが先に待っていようと、最後まで共にあり続ける女だ。たった一人、この世界で土方だけのものだ。
 すまない、でも、ありがとう、でもない。ただ感謝を込めて。
 「千鶴」
 口付ける瞬前に、何よりも大切な言葉を紡いだ。
 この穏やかな日常を、きっとずっと、この先も変わらず守ってゆけると、二人、固く信じていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「土方歳三と雪村千鶴の生存は確定。相違ないな?」
 雑踏に紛れて、暗色の着物を纏った青年が独り言を呟いた。背を向けた先の男が、笠を深く被りながらへい、と肯く。
 「雪村千鶴が通う箱館の施療院の場所と主の名前は?」
 公館に続く通りを二つ東にずれて、右に。あとは道なりに行って、迷えば地元の人間に聞けば良い。簡単な説明だったがぼそぼそと喋る言葉は常人であれば聞き取れなかっただろう。しかし彼は常人ではなかったし、人間でもなかった。
 施療院の主の名を聞き届けると、最後の独り言を漏らす。
 「土方歳三と雪村千鶴の居場所は」
 箱館からほどよく離れたある村の名前をぼそりと零し、満足して青年は布袋を後ろに放って投げ落とす。笠を被った男はさっとそれを拾い上げ、懐に素早くねじ込んだ。ちゃりんと金の音がした。そのまま身なりの粗末な男は背中を丸めてせかせかと逃げるように歩き出す。
 矮小な背中を目の端にしながら、青年は暗い通りを抜け出した。
 べとつく潮風、知らない言葉、雑多な雰囲気――しかし見上げる空は東京よりもはるかに澄んで明るい。
 この空の下に千の名を与えられた鬼が居る。
 長かったのか短かったのか、そんなことは問うに忘れた。麻痺した、と言っても良いのかもしれない。
 一目見たら自分はどうするのだろう。その場で斬り殺しかねないな、と胸中で呟いて、くつりと笑みがこぼれた。漆黒の瞳は殺意があふれて決して笑うことはなかったが。
 「さて。まずは地道に下見といくか」
 殺すのはいつでも出来る。土方を破滅に追いやることすら今の自分には簡単だった。政府に一言告げればいいのだ。風間がはぐれ鬼となり、人間如きの手に掛かって命を落とし、風間家の西国の鬼を統べる力も権威も地に落ち泥にまみれた。混乱に乗じて権力を握るのは容易い。既に政府にも通じる権力を今の自分は持っている。無力な子どもではない。周到に囲い込めば土方はあっさり殺せる。逃すことなく殺せる。国の一政府に対し、個人が持てる力などどれほど強力だと言っても、微々たるものでしかない。国という国家権力に一個人が逆らえる道理がない。だから簡単に殺せる。
 蟻を指で潰すように、自分の手を汚さずに。
 しかし、思い直した。そんな形で土方を失えば千鶴はあっさりと土方に殉じるだろう。それでは千鶴が苦しむ様を長く見られないじゃないか。
 「それは面白くないか……『兄さん』は『妹』の苦しむ顔をみて可愛がってあげたい、だったな」
 初めて心底楽しげに、朗らかに笑って彼は箱館の賑わいに足を向ける。
 苦しみ抜いて、憎しみ尽くして、一日も忘れたことの無かったたった一人の家族。……京都であったときにはすっかり都合良く、己が苦しみ抜いた記憶を忘れて幸せに守られて育っていた。無垢な眼差しを見てすぐに解った。……この娘は人を殺したことがないと。
 自分の顔を見て、僅かに揺らいだ感情はあっても、慕わしさも懐かしさもなかった。
 業火の夜から十と数年。歪にねじ曲がった運命が交わる承前。
 
 
 刀に手をかけながら決して抜くことが出来ず倒れた娘を受け止めた青年と、誘われるようにあり得ない記憶に導かれて彼の元に向かおうとした娘の、黄昏の邂逅まで、今しばし、時を要することとなる幕間。
 
 
 
 
 
 
 
 


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