*僅かですが不適切な表現がありますので義務教育中の方の閲覧を禁止します。また、そういった表現を受け付けない方も回避してください。

 反転してどうぞ。
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 復讐ヲ嚴禁ス
人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往々有之甚以相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルヽ者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事

明治六年二月七日 太政官布告第三十七号発布

Swallowing the regret.



 無体に顎をつかまれ半ば引きずるように宙吊りにされているというのに、涙と泥の滲んだ顔には滾るほどの殺意と憎しみで溢れ、爛と相手を睨み据えていた。例え殺されても命が尽きる前に喉笛を噛み千切ってやると後から後から涙をこぼす瞳に溢れた血と泥で汚れた顔は後にも先にもあの時しか見たことがない。数多の亡骸に囲まれながらころしてやるとわめく娘は普段の優しげな心根の何もかもを投げ捨てた有様で、己を物のように扱う男に向かって殺意だけを溢れさせていた。お前などに殺されてたまるものかと叫んだ瞬間にも舌をかみ切りそうな顔をして。思わず声を張り上げた。その途端、此方を認めた娘の表情から憎しみがすとんと抜けて、言葉にもならぬ有様で射干玉の双眸から次々と涙を溢れさせた。
 井上さんが――。
 絶望と悲嘆に、声にもならない慟哭の激しさを今も時折土方は思い出す。
 その後に土方が自らで選び取った選択によって娘は更に深く傷ついたが、己は特に後悔はしていない。ただ己があの時生き延びたせいで、朝敵となり、これまで以上に多くのあたら若い命を死地に送り込み、徒に部下を喪わせ、娘を長きに渡って危険にさらし、その心を傷つけ続けて――化け物の妻にまでしてしまった咎は永劫忘れることはない。
 この身が灰になろうとも。眠りの中にあろうとも。生涯決して忘れることはない責め苦なのだろう。
 さらりと細い指がしなやかに零れた前髪を梳いていく感触に、土方はうっすらと目蓋を上げた。縁側に穏やかな居住まいで腰を下ろした妻が庭の葉桜を眺めている様子が目に入る。天涯は青く、もう初夏にもなろうというのに夏日にはほど遠く、涼しげな昼下がりである。風は穏やかで酷く静かだ。
「……ちづ……?」
 寝起きで掠れた声に気がついたのか、はたまた膝の上の頭の気配を悟ったのか、小さな顔が柔らかく微笑んで、華奢な指が穏やかに土方の髪を梳く。
「起こしましたか?まだ冷え込むには時間が早いですし、もう少しお休みになられていても大丈夫ですよ」
 いや、とくしゃりと骨張った指で前髪をかき混ぜ、欠伸を噛み殺す。
「起きる。……どのくらい寝ていた?」
「お昼御飯を頂いてからお茶をお持ちした間です。まだ半刻もたっていません」
 せっかく梳き流した髪を眠気を払うためにかき混ぜてしまった土方に、くすくすと笑いながら、細い指先がさらさらと丁寧に、乱れた土方の髪を整えた。柔らかな指先は、いつも血の臭いも戦場の策謀も感じられぬ穏やかさで土方を癒すように触れる。この指が、手が、腕が。脇差しを抜き放ち。微笑む表情が。憎悪と絶望に塗り固められ。怒りに爛と輝く双眸が視線だけで相手を殺せる眼差しを突き立てながら、涙をこぼしていた過去の夢の残滓。――まだ頭の中にこびりついている。
 自然と眉間に皺を寄せ、土方は髪を梳く細い手を取り、目の前に翳した。
「土方さん?」
 不思議そうな声の響きには全くと言っていいほど呪詛の響きは無いのに、耳に残るのはあの日あの時の娘の絶叫。こだまする慟哭が不思議なほど、今頃になって耳の中で木霊していた。
 白い掌を見つめながら、あの激動の時代の変遷を駆け抜けた時、彼女が誰一人として手に掛けなかったことを奇跡だと思う。それすら、彼女は皆さんが護ってくれたからですと謙虚に微笑むのだろうが。
「いや。何がどうなってこういう体勢になったのかを考えていた」
 きょとん、とした妻が、指摘されたとおりのこういう体勢、と言うことについて考え始める。庭に面した縁側で、着流しのままだらしなくごろりと横になった土方の頭を、正座した千鶴が膝の上にのせている体勢について。
 土方からは見えないが、千鶴の反対隣には、冷めた茶碗が二客、盆の上で所在なげに鎮座していることだろう。
 一瞬何を言われているのかの把握が遅れた千鶴が、状況を把握するまでに掛かった瞬き三つの間、四つ目を数えた瞬間に湯気が出そうなほどその顔が赤く染まった。
「あ、のそれはその、座ったままだと寝辛そうでしたから、その」
 食後の茶を運んできた千鶴は、珍しく縁側の柱にことんと背を預け、半分寝そうに目を閉じた土方を見つけて慌てて、けれどなるたけ静かに駆け寄ってきたのだ。急いで膝をついて盆を置き、今にも寝倒れそうだった背中を受け止めてみたはいいものの、その後身動きが出来ないままどうしようと固まっていると、ずるりと千鶴の細い肩に頭が落ちてきたのを必死に抱えて、何とか膝に落ち着けたのだ。縁側から二人もろとも転がり落ちずに済んだことはまさしく奇跡と言っても良い。
 しかし、千鶴が側でぱたぱたと身動きしても全く身じろぎもせず眠りに落ちたままの土方は、戦乱の頃の鋭敏さが考えられないほどに寛いでいて、起こすに起こせなくなった。多分、他の人間だったら土方はどれほど深く寝入っていてもすぐに目蓋を開けるだろう。起きないのは千鶴だからだ。心と体を預けても任せられるという無言の信頼。その信頼と平穏を崩したくなくて、珍しい午睡を邪魔する気には到底なれなかった。
「……やっぱり寝辛かったですか?」
 漸く事態を把握して細いうなじまで真っ赤に染めた千鶴の姿に苦笑しながら、土方はいいや、と口にする。恋女房の膝枕で安眠できない男は中々いないだろう。それよりも、いつまで経っても初々しく物慣れない千鶴はこれだけで恥ずかしさを隠せないまま動揺するので、時折からかいたくなることもあるが。
「どうかしましたか?」
 頬を染めていた小さな顔がいつの間にかほどけて、気遣わしい声で沈黙した土方に語りかけてくる。
 まだまだ子どもだとばかり思っていた頃から側に置いているせいか、土方の中の千鶴は今も昔の面影を色濃く引きずっている。幼いばかりの無力な娘。しかし、同時に、意外なほど胆力もあり、何より一途で頑固で、優しくて機微に聡い江戸の女で、いつだって土方の心労や負担を気に掛けて一番に察していた。
 大阪、岩國、鳥羽伏見、自身の手の届かぬところで近藤に危害が及びかけたとき、また及んでしまったとき。わざと苛酷な状況下に己を置いて焦燥を晴らすように敵を屠った夜には必ず暖かいものを用意して夜遅くまで土方の帰りを待っていた。腰の据わらない上役連中に幾度も農民風情がと扱き下ろされ聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせられながらも、書状を彼方此方に飛ばして根回しをせねばならなかったときにも、料紙や墨、筆が切れたことはなかった。日向を歩くのも辛い時には常に薬を傍らに土方に寄り添って、ついには己の身までも差し出した。よりにもよって女を幸せにするのに一番向かない男を追いかけてくるような酔狂をすることも無かったろうに、と思う。
 けれど、一回り大きな手の中にすっぽりと収まる小さな掌を今更離せるはずもない。
「土方さん?」
 ゆったりと髪を梳く細い指に、指を絡めて握り込むと同時に、身体を起こして、白い首筋に唇を寄せた。息を飲んだ千鶴に構わずに、僅かに噛み付くように歯を立て、唇を押しつける。
 肩を流れる黒髪に結ばれた布は珍しい美しい染めで、先日土方が英国の商船から仕入れたのだというのを買い求めた品だ。細い糸で織り込まれ、淡い桜貝に似た色で染め抜かれた布は射干玉の髪に鮮やかに映えて流れる。
 細い首筋に僅かに付いた赤い筋。表情も身体も硬直させた千鶴にくつくつと喉の奥で笑いながら土方は細い身体に腕を回して軽い身体を持ち上げた。
「ひ、土方さん?」
 ぱたぱたと背中を叩く掌が抵抗にもならぬことを知っているだろうに、千鶴は無駄に抗議を続ける。しかし膝裏に腕を回されて座るように抱き上げられたはいいものの、何食わぬ顔で土方が歩き始めれば安定が悪いため無駄に暴れることも出来ない。小さな悲鳴を上げながら背中の長着を掴む。そんなことをしなくても、この腕は決して千鶴を落とすことはないと解っていたけれど。
 音もなく空いた片手で障子戸を開いて、座敷に入る。ぱしんとその手で、障子戸が閉ざされた。
「……誤魔化されませんよ」
 可愛らしく拗ねた声の中に、本気の懸念を感じさせて、土方は苦笑した。
「ったく、隠しごとも出来やしねえのか」
 その声が、息が止まりそうなほどの苦しみを抱え込んでいることに気がついて千鶴は一瞬瞠目した。土方の肩に捕まりながら、思わず顔を覗き込もうとするが殆ど肩に担がれているこの体勢では不可能だ。目を伏せて、瞬いた千鶴は、難く瞑目し広い肩に額を落とした。
「したいんだったらもっと上手くやって下さい」
「無理だな」
 細い背に腕を回して、漸く両腕で抱きしめながら土方は静かに目を閉じる。
「どんなに上手くやってもお前は何でだか嗅ぎつけやがる」
「人を犬か猫みたいに……」
 拗ねる声音に土方が、喉の奥で笑った気配を感じて千鶴はますますむっとするが、次の瞬間千鶴の言葉尻を奪って耳を打った声音に、心臓が音を立てて鳴った。
「太政官の新律綱領の発布があった」
 唐突に、しんと静かな声音が千鶴の耳を打つ。抱きしめられる腕はとても力が強くて身じろぎも出来ない。息が苦しい。
「左院で院議に付されていたのは耳に挟んでいたからまあ予想は付いていたが、まさかこんなに早々と打ち出してくるとはな……余程薩長は維新に際しての報復を怖がっているらしい」
「土方さん?」
 珍しく懐かしい、幼い声音に苦笑する。いっかな、己の妻は名字で呼ぶことを改めない。長く続いた従軍生活の中で、ただでさえ女という身で蝦夷共和国に身を置き、その頃には誰もが男のなりをしているからと言って千鶴を男と見るようなものは居なかった。それを千鶴自身も重々承知していた故に、軍の綱領を徒に乱さぬよう、特に土方との上下関係に厳しく努めていた。それが千鶴が土方の側にいられる、唯一にして最低条件であった。だから、気が抜けると千鶴の呼び方はすぐにあのころの言葉遣いに戻る。千鶴がどれほど厳しく己を律していたか、こんな些細なことで土方は思い知らされた。小さな背を抱き寄せながらこの双肩に掛かっていた重圧が如何ほどのものであったのか、当時の自分はほんの僅かしか顧みてやれなかったように思った。
「大鳥さんから送られてきた書状があったな?」
「……はい」
 今朝方、名を偽って暮らす土方の元へ、名を偽った大鳥から久方ぶりに手紙が寄せられた。それを受け取り、手渡したのは千鶴であった。
「布告写が同封されていた」
「布告……の、写し?」
 ああ、と頷きながら、今また、この背にまた支えられるのかと悔やむ。
「復讐禁止令が敷かれた」
「……復讐?」
「仇討ちの禁止だ。元幕軍の朝敵はもとより、薩長内の派閥争いから出る暗殺を防ごうって腹だろうよ。維新においては私怨私欲に因った殺人ではなく、国を憂う為にやむを得ずして出でた殺人であり此に因る復讐は今後一切をもってして公許をせず」
 追い腹などは公儀が禁じて久しいが、仇討ちまでもが禁じられたと聞いて千鶴は僅かに息を飲む。武家において仇討ちは重要なものであり、家長や父兄の仇を取れねば家督を継ぐことを許されなかった藩もあった。
 開国と同時に、外国から野蛮な風習と目されていた仇討ちを、早々に撤廃する必要があったという事実も一枚噛んでいるが、現時点における政府要人は元幕軍からこぞって怨まれすぎている。手っ取り早く暗殺を未然に防ぐには仇討ちそのものを違反とすれば良いのだ。そのことを重々土方は承知している。人を殺すは国家の大禁であり、親だろうが兄弟だろうが仇を取っても、今やもはや私怨による謀殺でしかないのだ。
「良くて無期徒刑、悪くて斬首。まあ俺の場合は顔を見せただけで首切りものだが」
「……洒落になりません!」
 軽い口調の土方に本気で憤慨した千鶴の声音に、僅かな涙の気配を感じ取って肩に埋められた小さな頭に頬を寄せる。苦く笑いながらも、瞬いた瞳は、影の落ちた畳を鋭く見下ろした。
「……奴等の、仇が取れなくなったな」
 僅かな笑みすら含んだ声に、千鶴は顔を上げないままに土方の背中に力いっぱい腕を回した。熱い涙がほろりと土方の長着の肩に染みていく。深い藍染めが色を濃くして千鶴の涙を受け止めた。
「……仇を討つつもりだったんですか?」
 現政府に向かって弓引くつもりだったのか。それは今や謀反にも繋がる、そんな物騒な内容を千鶴は何でもないように囁く。
「いいや。もう何もかも、眠らせてやるつもりだったさ」
 ただ、諸外国に対する対面や新たな国作りの一環として必要なことであっても、どのような事情があろうとも、此処まであからさまに保身に走った新政府がただただ愚かしいと思ったまでだ。公明正大に錦の御旗を掲げ我先にと幕軍を追い落とし、正義の在処を打ち立てたのはそちらであろうに、復讐を恐れる有り様が。
 覚悟を打ち立て、己の義に寄って戦い、その覚悟の元に逝った者達を見送ってきた視界に闇を落とす。
「千鶴」
 背に沿ってあがる大きな手が落ちる髪を絡ませて、白いうなじを露わにする。さらりと零れた土方の長い前髪が千鶴の膚をくすぐった。寄せられた唇と呼気が首の皮下で脈打つ箇所にきつく口付け、そのまま項に押しつけられる。
「……っ」
 真綿にくるまれるように感じることもあるが、痕を付けると決めた土方は小さな千鶴を相手に容赦せずにそれを求める。
 ゆらりと視界が揺れた。畳の上にはらりと髪を留めていた布が落ちる。りぼんというのだそうだ。まだ、五稜郭にいる頃に大鳥に教えて貰った。ゆっくりと落ちる桜貝の色を染め抜いた様な布を見ていると、よそ見をするなと言わんばかりにあごを捕まれて視線ごと囚われる。
 切れ長の双眸が真っ直ぐに千鶴を覗き込む。その瞳が僅かに悼みを孕んで居るのに気がつけば、もうどうしようもなく泣けてきそうで、千鶴は必死に腕を伸ばした。望まれるまま、掌を強く捕まれ、囚われる。暗くなる視界に逆らわず、千鶴は目を閉じた。








 いつ灰になるか解らない腕で体で心底、惚れた女を抱く。
 
 
「……だいじょうぶ、ですか?」
 泣き濡れて掠れた声に逆に問われるように囁かれた。柔らかな掌がふわりと汗ばんだ額に伸ばされる。湿り気をおびて張り付いた前髪を細い指が優しくすいた。
 その優しさとまるで真逆な勢いで柔輪され、荒い呼吸が一向に収まらないというのに、柔らかさも熱さも土方に触れる指先に宿る愛しさもいっかななくなることはない。
 触れる柔らかですこしひんやりした黒髪の手触りから、小さな足の爪先まで、千鶴が捧げるなにもかもが柔らかで暖かくて熱い。優しい。
 骨張った無骨な掌が小さな繊手を捉えて爪先に唇を押し当てる。それで己の呼気も上がっていることに気が付いて、目を眇める。覚えたての餓鬼かと口の端をあげて苦笑した。
「土方さん?」
 千鶴こそ、乱れた髪で土方を見上げているというのに、気にするのは見下ろしてくる土方の乱れ張り付いた髪と、微かな澱を孕んだ切長の双眸のみだった。……自分自身を省みない性格は、幸せなんていらないと啖呵を切り、大鳥からの辞令書を破り捨て、何もかもを投げ打って土方の元へ飛込んできた頃といっかな変わらない。
 惚れた女に幸せなど要らぬと言わせ、未来の無い、あたら若い命を戦場に散らせ、数えきれない命をほふった業にまみれた手で誰よりもと幸せを願ったその女を抱き潰す。
 その咎の重さを痛いほど識っている。
 ……けれど結局は手放せないのだと、諦めたのはいつの頃だったか。
 しんと雪の降る夜更け、新選組副長土方の名に着いてくる部下や幕軍の行く末を考え抜いた。何をどう考えても、未来も行き場もその末も無かった。
 雪が解ければ程なくして外国から援助を受け買い入れた最新の軍鑑と軍備、更に圧倒的な物量で新政府は蝦夷を潰しにかかるだろう。気力も気迫も個々の腕前も士気も何もかもが文句のつけようもないものであっても、圧倒的な技術力と物量の前では勝てる道理があるはずがない。幕軍は最北端の地にて、雪解けと共に墓標を立てることとなろう。
 負けるつもりで喧嘩を仕掛ける気は毛頭無い。しかしこの戦は武士という墓標を立てるための戦だ。間違いなく。
 今、例えばここに新選組の土方がいなければ墓碑を立てる人間も減っただろうか。栓のないことを考えながら痛感した。土方達の為に首を差し出した近藤の想いを。
 きつく瞑黙した時だった。扉を叩き、仏頂面で応えた土方の扉を開けてこの娘が飛込んできたのは。激昂しながら土方を詰り、今にも泣き出しそうな瞳に怒りをきらきらと反射させ人の幸せを勝手に決めてくれるなと叫んだ千鶴を抱き寄せずにはいられなかった。新選組は今も武士の導か、と訊いた土方に、柔らかに誠実に、意志を籠めてその通りだと告げた。
 とたん、馬鹿みたいに呼吸することすら楽になった自分に笑いがこぼれた。
 離せないのは、いつのまにか土方の方になっていた。
「呼び方が違うだろう?」
 何度言ったらわかる?と、掌に唇を押し付けながら視線だけで告げてやれば、自分の下で顔から耳から、うなじまでもを真っ赤に染めて、視線をあらぬ方へとそらしながら、掌を引っ込めようとする。
 意地悪く口の端をあげて爪先から細い指を絡めとり、乱れた敷き布に縫いとめながら潤んだ双眸を覗き込む。
「……千鶴」
 意志を籠めて名を口にすれば、震えた娘が唇を小さく動かした。視線をそらしたまま、濡れた唇が一言をやっとの思いで紡ぎ出す。
 と、し、ぞう、さん。
 音にすらならない吐息の言葉は満足そうに笑った土方に唇ごと飲み込まれた。
 乱れた吐息をか細く紡ぎながら、千鶴は大きな眸を潤ませて瞬く。今にも溢れそうな涙の気配は、柔らかな微笑みと上気した肌に縁取られて千鶴の意志とは反対に劣情を煽る。
「……公布写を受け取ったとき、あなたが何を思ったかは――私には察することも出来ません」
 今にも涙が零れそうな双眸が真摯に土方を見上げる。俄に唐突な言葉にゆっくりと瞬いた。
「千鶴?」
 唇が触れそうな至近距離で吐息をまじわせるように、けれど、と、そっと千鶴が囁く。
「私は今、あなたがここにいてくれるだけで、幸せなんです」
 
 幸せなんて要らないもの。
 
 かつて血を吐くような慟哭の中叫んだ言葉と真逆の言葉。
 真実、千鶴は感じている。この類い希なる幸福を。
「これまでずっと――喪ったものや、取り戻せないものを、重ねてきたと思うんです」
 でも、と続ける言葉の凛とした響きが空気を静かに震わせる。
「それはあなたが一人で背負えるものじゃない」
 巨大なうねりを伴う時代の変遷のただなかで幾千、幾万と切り結んできた。命を刈ろうとする白刃の海を越え此処に今、この人が生きて在る軌跡と、奇跡。千鶴は決して、忘れない。
 千鶴は縫い止められていない左手をあげて秀麗な面に静かに触れて微笑んだ。黙ったまま、土方は絡めた指先に力を込める。
「あなたの視界でとても、たくさんたくさん、奪われて、喪われてきたけれど、それはあなた一人で全てを背負えるものじゃない、購えるわけじゃない、あなただけが背負うものではないんです」
 瞼を閉じれば互いに感じる呼吸と心音に安堵する。絡めた指に千鶴も精一杯、小さな無力なてのひら広げて、ちからいっぱい。握りかえす。触れるところから伝わればいい。この人が享受するはずだったもの全て全て。暖かいもの。優しいもの。穏やかさや、柔らかさ、優しさとか、安堵。
「……それでも背負うもんも抱え込むもんも、死んでも捨てられやしねえんだよ」
 酷く静かに凪いだ視線が千鶴を真っ直ぐ射抜く。それでも繊手は柔らかに土方の頬を暖めて離れることは決してなかった。
「それじゃあ、あなたを信じて着いてきた人の打ち立てた覚悟や信念はどこに行けばいいんですか」
 厳しい言葉が、柔らかな吐息と共に土方の心臓に突き刺さる。
「負わなきゃならない責任と、負い目は、違います」
 断罪のように厳しい言はこの人を、矜持を、誇りを、傷付けるかもしれない。けれど言わずにはいられない。千鶴に何もかも黙って全てを飲み込み笑ってみせる人だから。
 柔らかな睫が震えて千鶴が瞼を静かに下ろした。だだ目を閉じて、祈る。何もかも捨てても構わないから、ただこの人のそばにいつだって幸福があることを祈る。
「俺が背負うもんが罪悪感の自己満足と言い切るか」
「それだけ、とは言いませんよ。でも、下ろせる咎はあるはずです……時代の」
 苦笑まじりに顔を歪めた土方の声音に、千鶴は時間を掛けて言葉を捜す。その声は今にも泣き出しそうな色彩に包まれていた。
「変遷を、背負うには。人にも鬼にも、無理なんだと思うんです。一人が背負えるようなものじゃない」
 ずっと新選組を傍らで見てきて感じた時代の急流。誰のせいでもない。誰が責任を負える代物でも、有り得ないのだと。
「私にも負うべき咎があります」
「千鶴」
 厳しい声が繋がれた指先まで響く。井上、山崎、鬼の襲撃で命を投げ打った人たち。羅殺に身を変えた土方。初めて誰かを殺したいと心の底から希ったあの瞬間を忘れない。
 千鶴がいなければ未来を生きていたかもしれないたくさんの命がそこにはあった。大切な人達があった。欠けていい人など一人とて居なかった。仇討ちなど千回繰り返したってまだ足りないと思った。あの鮮明で禍々しい感情の渦と、そこへ繋がる――奈落の底より尚暗く深い慟哭。ただただ悔しくて哀しい、己の矮小さと失われた大好きな尊い命に、声もなく後から後から涙が溢れてとまらなかったあの日。
 けれど。
「あなたは、それを負うなと言うかもしれない。みなさんの覚悟や信念を侮るなと。……そんなつもりは毛頭ありません。けれど、これは私が死ぬまで負っていくものなんです」
 千鶴が負うと宣言したものを正確に把握しながら土方は眉を寄せた。憎しみ、責任、罪悪感、記憶。灼きついて消えないものはこの娘の中にも必ずある。新選組に留め置き、最後の最後、この北の地までも解き放てなかった土方のせいで。
「違います」
 瞑黙した土方の白い瞼を華奢な指先が撫でた。薄く開いた土方の視界に真摯なひかりが映る。
「あなたの傍らにいると決めたのは私です。その覚悟と信念はあなたにだって覆させない。罪悪感なんかでひとくくりにしないでください」
 上気した頬に満面の笑みと誇らしさを籠めて千鶴が告げた。
「お前」
 瞠目した土方の言葉を遮るように延び上がった唇が頬に触れる。
 ね、と笑った千鶴が首まで真っ赤に染めて照れながら、それでも土方の双眸を真っ直ぐに見つめた。
「私も負っていくものがあります」
「……ああ」
「土方さんにも」
「ああ、そうだな」
 僅かに潤んだ眸が土方を見上げて柔らかく微笑する。
「私は弱いから、一人では背負い続けられないかもしれません」
 いや、と土方が今度は苦笑を重ねた。
「弱いなんてことはねえよ」
 ぱちりと瞬いた千鶴が、くしゃりと笑った。
「でも、疲れたらきっと一人で立てなくなっちゃいますから」
 そんなことはない。泣いて憎んで叫んで捨てられてそれでも自身の歩む道程を決して曲げなかった千鶴は死ぬまでそれを、負って行くのだろう。
 この言葉の向けられる先は千鶴の弱さへの吐露や贖罪ではなく、土方の心の暗渠に寄り添うものだ。
「私が死ぬまで負っていくものを、土方さんも手伝ってください」
 憎しみ、悔恨、憎悪、悲嘆。渦巻く負の感情と背中合わせの罪の意識。そこに自分が居なければ、と思ったことなど数え切れない。けれど背負ったこの咎や、悲嘆、憎悪を背中から下ろす気にはなれない。例え仇討ちを禁止されていたとしても、返り討ちにされたとしても、あの瞬間を繰り返す度に千鶴は同じように敵に向かって白刃を向けるだろう。土方が、視界の中で朽ちていく兵士の先陣を切って刀を振るい続けたように。
 か細い囁きが吐息まじりに、泪のようにほろりほろりと溢れていく。
「あなたの背負っていくものに、私も私が死ぬまでお付きあいしますから、分けて」
 いつの間にか触れた箇所から指先から繋がる体温が溶けていく。
「私にも、あなたが死ぬまで背負っていくものを、背負わせてください」
 溶ける体温に掌をはわせる。千鶴が触れる土方の頬の上の掌を一回り以上も大きな手が覆って絡めた。
 千鶴が負っていくもの。土方が負っていくもの。
 死ぬまで二人で背負っていくもの。
 吐息の絡む距離でゆっくりと土方が額をあわせた。滲む視界、近すぎて相手の輪郭も曖昧だ。でも伝わる呼吸も心音も体温も響く声もなりより鮮明。
「重てえぞ」
 響いた声の、言葉通りのその重さ。まさる、優しさと、安堵。
「……はい」
 思慕と一緒にこぼれた言葉が重ねた唇に絡め取られる。そのまま首筋の、鼓動の響く所まで下ろした唇が強く柔らかく噛みつく。
 びくりと敏感に震える肩を宥めるように唇をはわせながら、白い肌に刻み込むように、土方が言葉を紡いだ。その僅かな響きにすら千鶴が震えて、絡んだ指先にきゅっと力が籠められる。
「一つ以外は、頼む」
「……え?」
 疑問の声と再び上気し始めた吐息を塞いで飲み込み柔らかな舌ごと呼吸を絡めとる。耳に心地好い高く掠れる声を聞きながら絡めた指を強く強く、乱れた衣の上に縫い止めた。
 
 
 こんなろくでもない男の妻にしたことだけは、千鶴の覚悟も信念も関係なく、土方だけの負い目だ。後悔は死ぬほど深いのに快楽も幸福も独占欲もそれに勝る、その全て、土方だけが負っていく。天上無窮、他の誰だろうが譲る気はない。例え千鶴であっても。
 千鶴が傍らにあることを誇らかに信念を持って告げたように、それ以上の強さを持ってして桎梏する。いつ灰になるか解らない腕と体で惚れた女を抱き、妻にした業と幸福は誰にも死んでも譲らない。
 黒々と渦巻いていた禍々しいものは未だ胸の内にある。変わりゆく時代の変遷に離れたところに立って見つめているだけの自分と、未だ吹き出す血飛沫に塗れてふさがらない傷跡を抱えたまま、このまま燻って安穏としていて良いのかと喚く自分も。
 布告内容は事前に大鳥から知らせれていた物であったし、予測もしていた。それでも尚、敗北を識って戦っていた者達の覚悟をも貶めるような公布の内容は土方の逆鱗に触れかけた。あの場で、血を流しながら戦った部下達の誰一人も死んで良い人間など居なかったはずだ。己の信じた義によって戦い抜いた、恨み言も何もかも残さず最後まで殉じるものに尽くし続けてこの視界の中でどれだけの人間が死んでいったことか。それを愚かと言う者もいるのだろう。だが、自身を正義として錦の御旗を打ち立てて国を護り、変えることを信じて戦っていた新政府軍の義の在処は何処だ。戦はこの世界の何よりも残酷と汚れと怨みだ。解っていて幕軍を潰しに掛かったのはそれが日本のために必要だと覚悟を決めたからではないのか。にも関わらず、今更死を覚悟していた者達の報復を恐れるか。仲間割れの暗殺を恐れるか。仇を取るつもりなど鼻から無い。ただその矮小さが、狭量さが許せなかった。
 ――畢竟、何処に政権があろうとも人の怨みだけが未来永劫変わらないのかもしれない。
 その怨みの全てを飲み込んだり、雪いだり、背負ったり、耐えたり出来るのは、誰かが、ただ一人でもいい、誰かが、自分が要るから幸せだと言って側にいる事実だ。長い年月、土方にとっては近藤と新選組であった。担ぎ上げて、何処までも高いところまでと願った。何もかもを手放して遠くから諦観する立ち位置にきてからは、腕の中のただ一人だけで十分だった。それだけで、自分は何もかもを飲み込んで背負っていける。
 熱い熱と涙を溢してすがりつく妻の名を吐息で言葉にすれば、気付いて泣き濡れながら妻が幸せそうに笑顔を溢して激しさとは場違いな優しさで、こつんと額を合わせて笑う。溢れる涙を口で拭って絡めた指先ごと小さな体を抱き締めた。
 暖かい。
 死ぬまで負っていくものがある。
 この熱と、分かち合って生きていく。
 これからも、二人で。




 
 
 
 
 
 
 
 
 

良い夫婦の日だったので…。かっとなってやったけれど後悔はしてない。このくらいなら表でも、大丈夫、ですか……? 09/11/22 
 
 
 

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