翻した刀は鮮やかに白く暉り、自身が撃ち落とした敵の首級が落ちるさまと、ざっくりと左に受け止めた刀の、残像。そして犬っころの様に走り出て一瞬大きな瞳をくしゃりと泣きそうにした娘の眼差し。
 鮮烈にやきついたのはそれだけだ。



轍鮒羽交



 俄に外が騒がしくなって千鶴ははっと顔を上げた。子犬の尻尾のようにぱっと艶やかな黒髪がうなじで跳ねる。
「――そちらの布は床の傍に置いてください」
 屯所から補填されたさらしを持ってきた隊士を見向きもしないで適切な指示を下してから、千鶴は止血帯を置いて板張りの床に指をつく。
 差配の手を休めて、千鶴はそのままの体制で耳を澄ました。僅かに聞こえる馬の嘶きと怒鳴り声。低く怒り狂う紫電のような激怒を感じて、千鶴はもう迷わなかった。
 板張りの床についた指先をとん、と跳ねさせ立ち上がり、袴の裾を払って膝を立て千鶴はぱっと戸口に向かって走り出す。翻る袂の裾がまるで花びらのようにはらりと鮮やかに波打った。しかし、刹那のあえかな様子など気にも留めないで、小さな背中は必死に隊士等の間をすり抜けて戸外へ走る。
 喧噪と馬の嘶きを聞きつけて他の隊士達も続々と戸外に注目を始める。戦場において鉄壁とも言える自分たちの副長が、たった今、激戦区を離れて負傷者として担ぎ込まれたのだ――未だ、信じられない者とて多かろう。千鶴だって同じだ。鬼神のように強いあの人がまさか、と。そう心の中で呟いてから、違う、と千鶴は胸の中で沸き出でた言葉をぎゅっと力任せに握りつぶした。
 信じられないのではない。信じたくないのだ。
 戸口に殺到する隊士等とざわめきのだんだんと大きくなる気配に不吉を感じて眉をしかめる。噛みしめた唇の痛みさえ感じない。
「すみません、通して――」
 戸口から佇んで、動く気配もない隊士等を漸う押しやって千鶴は外の土を踏んだ。血と薬草のにおいに倦んだ屋内から外の風を感じて自然ほっと息をつく。しかし、その吸った呼気すら濃厚な鉄のにおいを感じて、千鶴は僅かに目を見開いてゆるりと顔を上げた。
 蹄が土を噛む音。血のにおいと戦場の殺気立った空気に荒っぽく気を立てる騎馬。その馬の轡を取りに慌てて駆けていく付き添いの徒の隊士。その、馬上の人。
 空色をいっぱいに広げて薄く濃くしたような鮮やかな白と浅葱色のだんだらの、左肘の先から袂までが青黒く染まる。刀傷で裂けた袖から見える筋張った腕に幾筋も後を拭った跡が見えた。羽織が吸った血を力任せに絞ったのだろう、皺だらけの袂を止血帯の代わりにぐるりときつく巻き付けて圧迫し、その上からさらしできつくほどけないように結んでいる。血痕は袂だけでは収まらず、左の裾に袴もだんだんと染めていく。縛り上げた指の先から、ひとしずくどす黒い血の滴が滴って、落ちた。ぴとんと馬の首筋を濡らして伝い落ちていく。
 腕の下、左半身を深紅というより、赤黒く染め上げる。流れる血筋を煩わしそうに振り払うと、ぴしゃりと血の後が弧を描いて地面に跳ねた。顔にまで着いた血痕は秀麗な頬を拭った後で汚して、鉢金についた血はもう元の白さを取り戻すことは叶わないだろうというほど、堅く乾いていた。変わらないのはさらりと涼しげに揺れる長い黒髪だけだ。頬に土と血で髪を張り付かせたのをうっと惜しいといわんばかりに振り払い、轡を取った隊士に向かって口を開いた。
「てめえらはさっさと持ち場へ戻れ、こちらに伝令を欠かすな。必ず動きがあるはずだ、逐一状況を追って知らせろ!切り込みは斎藤に、別働隊は原田だ、沖田には決して局長の傍を離れず先走るなと伝えておけ」
 その言葉はいっそ静かで、ざわめきがしんと静かに奇妙な沈黙と場の緊張を伝えてくる。血塗れになりながらも、紫電のような怒りを孕ませてその声音はいっそ静かですらあった。
 手を貸そうとする隊士を一蹴するどころか、そんな者に見向きもせず片腕だけで軽々と手綱を繰って鐙から地面に降りる。僅かに揺らいだ体は瞬きの間にも及ばず、すぐにしゃんと立って戸口に向かって怒り狂う視線をぎらりと向けた。千鶴はその、最前列にいたはずだ。
 しかし視界に入らないかのように憤然と足を踏み出して乾いた右裾のだんだらを翻す。重く塗れた血塗れの羽織は無惨な血痕が張り付いていて固まっていた。はたり。またひとしずく、血塗れの左腕の指先から地面に落ちる。
 愕然とその姿を見て千鶴は目を見開いて息を止めた。
 僅かに唇が震える。
 毅然とした立ち姿に安堵を覚える隊員達もいる様であった、むしろその勘気を被ることを厭うような仕草を見せる者さえ居た。――ならば何故、高い鼻筋から脂汗が流れているのか。その出血の量は何事か。失血のための酷い目眩が土方をひっきりなしに襲っているはずなのに、何故しゃんと背筋を伸ばして立っているのだ。
 その出血で、何故、戦場に留まろうなどと考えたのだ――!
 ざっと土を踏む音に戸口が割れる。隊士等が凄絶な怒りを孕んだ副長へ、道を空けたのだ。しかし千鶴は動けなかった。目を見開いたまま、息を止めたまま、動けなかった。しかし、またひとしずく、地面にぽたりと明石ずくが落ちていく。視線はその腕に釘付けになった。
 周囲を見向きもせず道を空けられたまま悠然と歩き始めながらも、己の不明と戦場の離脱という状況に伏せた視線の下に激昂と怒号を秘めて。
「――土方さん!」
 紫にも見える眼光が鋭くあたりを睥睨した瞬間、黒髪がぱっと翻る。千鶴が揺らした花びらのような着物のたもとがふわりと揺れて走り出した主を追いかけた。
 近づく度に酷なる結集に目眩がしそう。凛と揺らがず立っているのが信じられない状況なのだと頭のどこかが冷静に状況を分析する。頭の片隅のどこかが、酷く冷静に、医師の娘として育った経験から、これは到底あり得ない状況であって、この出血では腕より何よりまず命が危ういと烈しく警笛を鳴らす。
 弾けるように駆け寄ってくる千鶴にぎり、と音でもしそうな裂帛の双眸を向けながら、土方はゆるりと千鶴を見た。
「お待ちしていました」
 ぎゅう、と手のひらを握りしめる。その眼光を受け止めながら、たったこれだけいうのにどれくらいの気力が必要だったことか。
「処置を行います、どうぞ此方へ」
 詰まりそうな言葉が突き刺さりそうな殺気に途切れそうになる。しかし、土方はちらりと千鶴を見ただけで後はもう見向きもせず歩き出した。
「雪村」
「はい」
 低く、底を這うような声。真っ暗な井戸の底から冷え冷えとした空気のような、怒りに染め抜かれた冷厳な声が千鶴の背を打つ。
「手早くしろ」
 さらりと横をすり抜ける長い黒髪と浅葱の色。いっそ静かであるからこそ、怒り狂った野生の獣のように恐ろしい。
「解っています」
 掠れそうな声で返事をして屋内に向かう土方の高い背を千鶴は必死で追いかけた。
 一歩が、こんなにも重く辛いものだなんて、初めて知った。
 ゆっくりと呼吸する。大丈夫。まだ、生きている。ぎゅっと唇を噛みしめた一瞬、俯けた顔に黒髪が掛り落ちる。その小作りな顔が泣き出しそうだったなんて、きっと誰も知らないはずだ。
 噛みしめた唇に力を込めると血の味がしたが、そんなものには構ってられない。千鶴は鬼だ、すぐに治る。そんな些事より、治したい、治すべき人が居るのだから。
 今度は力一杯歯を噛みしめてぱっと顔を上げる。黒髪が鮮やかに宙を舞った。晴天の空の元、斬撃と骸と血臭の折り重なるこの地で、千鶴が唯一出来ること。たっと突っかけた草履を蹴る。零れた赤い血を踏んで生臭い後が足下に痕を引いた。それに構わず、千鶴は土方の背を追い越して屋内に向かって声を張り上げる。
「奥の間へ。準備は終えています。皆さん、通してください」
 澄んだ声と黒々とした大きな瞳に爛と点る力強い光を見つけて、その双眸の前に自然副長の状態を確かめに走り出てきた隊士達が道をあけた。
「土方さん、此方です」
 視線も寄こさず歩き出す土方の、はたりと落ちる滴が血ばかりでなく、薄く滲んだ脂汗が色のないこめかみをあごに滑り落ちて言ったことをめざとく見つけて、千鶴は息を飲むのを何とか止めた。こんな衆目のある場所で動揺を示すようなことはしてはならない。隊士等に与える不安材料は少ないほど良い、何より激痛と目眩に倒れてもおかしくない土方が、矜持一つでしゃんと背筋を伸ばしているのだ。千鶴が土方の覚悟を曲げるわけにはいかない。決してしてはならない。
 急いでください、と、出かけた言葉を針を飲むような痛みを伴って押し殺した。何より焦燥を感じているのは千鶴ならば誰より憤りと焦りを感じているのは、目の前で炯々とした光を瞳に走らせるこの人なのだと、解っていた。
 千鶴は焦燥を噛み殺してねじ伏せる。他を圧する雰囲気に、誰もが声を掛けられなかった中を進み出た小柄な医師の息子が畏怖を感ているとは思わせぬ態度で自然に土方に呼びかけた。触れれば切れそうな雰囲気の土方が恐ろしくないわけがない。しかしそれ以上に、千鶴には打ち立てる覚悟がある。
 知らせに来てくれた隊士が、斎藤が、近藤が、今最前線で働いている血盟の同志が願っている。そして千鶴は決して損なわせないと誓っている。この命を損なわせないと。
 何があろうと、この人を生かすのだ。
 
 
 
 
「後方へ戻れと何度言ったら解る……!」
 苦汁をなめるような、深い焦燥と怒りを底に沈めた近藤の声に土方は涼しい顔で、にやと不敵に笑って目を伏せた。
「こんなかすり傷に貴重な薬剤やら人手やらを割かせるわけにはいかねえだろ?」
「副長」
 普段寡黙な斎藤の声が、振るう剣の鋭さそのままの鋭利さで、低く響いて土方の背に掛かるが、そんなことを今更気にするほど繊細な神経でもない。たった今早馬から届いた知らせに矢継ぎ早に指示を出して、土方は戦線を見渡す。一度最前線に出ている一番隊に帰陣させ、局長の守りを固めねばならなかった。その代わりに斎藤を切り込み隊長として全面に出す。守るべき玉は近藤勇ただ一人。これが取られれば盤上はあっけなくひっくり返る。――土方が脇を固めていた局長の守りを、土方自身が負傷したとあっては万に一つの間違いも許されない。激昂を押さえながら驚くべき冷静さで、新選組の最強を呼び寄せ万一に備えて王将の守りだけは鉄壁を敷く。其れが土方の考えだ。斎藤ならば最前線に出してもなんの憂いもない。
 その上で遊撃隊に身軽な原田を着け挟撃してくれる。
 問題は挟撃の機と沖田が退くときに、ここぞとばかりに迫り出してくるはずの敵部隊だ。しばしの黙考の後、土方は目を開く。主戦力は五分と五分。しかし沖田のことだ、もう敵の剣豪を幾人か屠っていることだろう。斎藤の腕を信じ、かつ敵戦力を冷静に推し量った上で、斎藤ならば任せても僅かの拮抗を縫って敵戦力を押し戻してくれるだろうと当たりを付けた。
「斎藤。沖田に代わって部隊を率いて最前線へ出ろ。沖田は局長の守りに戻す。入れ替わるときに敵が押し寄せてくるだろうがあまあ心配いらねえ。斬ってこい」
 僅かに険しい顔をした斎藤は、常ならば二つ返事で土方の指示に従うのにまだ動きを見せない。険を孕んだ双眸で、土方が顔を上げながら、斎藤を見た。その斎藤は、ぎゅうと絞った袂からはたはたと血糊が落ちていく土方の左腕のさまを見て、明らかに顔をしかめている。まだらに地面が染まっていくのを見ていた近藤は、きつく瞑目した後、今度こそ大きく息を吸い大音声を発した。
「退け!!」
 怒号された近藤の声が胸に重くのしかかる。わんと響いた怒号は空気を圧し、頭から地面に突き抜けるようだ。いつもは度量が広く鷹揚な近藤がこれほどまでに怒りを露わにするかの如く土方を圧するのは珍しい。
「おいおい、近藤さんよ。こんなかすり傷がそこまで重症患者に見えるってえのか?」
 幾度目かも知れないやりとりの後であった。しかし、土方は一歩も退く構えを見せず、近藤自身も考えを決して曲げない。渋面の近藤の前で土方は、笑いながら、袂を腕に巻き付けて手近なさらしで上から結ぶ。両腕は使えないから右腕一本。巻き付けたさらしの端を噛み、ぎゅうと縛り付ける。その双眸に後れを取った自分自身への怒りを漲らせ目を怒りにぎらつかせて。
 そのさらしを土方から取り上げて、ほどけないように更に結び目を固くしながら、近藤は傍に控えていた斎藤に馬を出せと指示をする。僅かに目を開いた土方が近藤の意を察するに難くない。
「すまないが馬の他にも他に護衛に良さそうな隊士を二名選別してくれ」
 馬上でさらしがほどけないようにきつく結び直したその意図を読めないほど、短くも、浅いつきあいもしていないのだ。
 土方の言葉に動かなかった斎藤が、近藤の言葉に頷くと寡黙に頭を下げすぐにも踵を返す。
「斎藤!」
 炯々とした双眸で腹の底から鋭い声を出すが、副長に忠誠を誓った信の置ける部下は全く見向きもしない。
「――巫山戯るな、俺はまだ戦える」
 手傷を負った野生の獣さながら、獰猛さを秘めた声音と言葉が今日幾度目か、他を圧して唸るように発された。しかしその声にかぶるように近藤が怒号する。
「トシ!」
 戦場だというのに、階級も何もかも薙ぎ払った声が大音声で頭の上から降ってくる。同時に胸ぐらを捕まれた。がくんと肩が揺れて左腕に鈍い激痛が走るが、それを顔に出すことは死んでもしない。至近距離で戦場の気迫に昂揚した互いの視線が殺意を籠めて交差した。
「馬鹿を言うな、自分の状態がわからんほど耄碌したか!」
「耄碌したのはあんただろう!!俺は残る、誰が退いてやるか、この戦線の向こう側から高見してる奴をあと少しで引っ張り出せる。それを解ってんだろうが近藤さんよ!」
 自由な右手が近藤の胸ぐらをつかみ返して一歩も退かずに苛烈な視線が近藤を射抜く。しかし近藤は、それ以上の気迫を持って土方に低く怒号した。
「己の不明で命を危うくするものなど戦場に必要ないと何度言ったら解る、それが新選組副長の器か」
「んだと……!」
 低く底を這う不吉な声が歯ぎしりとともに土方の腹の底から這い出てくる。しかし、撤回するつもりは微塵もないのか、用は済んだとばかりに近藤は土方の胸ぐらをわし掴む手から力を抜いて、踵を返そうとする。
「土方副長、自分の仕事をしろ」
 駄目押しに、己の役職と責任の所在を苛烈でありながら重い声音が土方に突きつけた。乱雑に、胸ぐらをつかむ土方の手を払って近藤は今度こそ踵を返した。
 仲間が、近藤が、新選組が、死地にいる、戦っている、この状況下で退くことが出来る性分ではない。今の自身の状態など心得ている、軽んじているわけではない、無理をすればこの場に留まることも可能だった。それだけの修羅場を土方は潜り抜けてきたのだ。確かにこの出血は放置しておけば死に至るであろう。しかし死なない。近藤を、新選組を置いて自分は死なない、そしてその決意の前に、戦場を退ける道理もない。
 しかも、山崎を含めた他にも何人もの人材を、内偵に内偵を重ねて今日の大がかりな出動に漕ぎ着けたのだ。中には囚われ、責め問いにあう前に自害した者もいる。そう言った部下達が、決して、新選組のしの字も漏らさなかったからこそ今の戦場があった。――どこに差配をした土方が退く道理があるというのだ。
 失血で頭がかすむ。僅かな目眩に眩む。したたり落ちる脂汗に鉢金が滑った。きつく噛みしめた唇が血の味を感じる。その血の味が、斬り殺した誰かか、首を落とした相手のものか、顔に跳ねた血糊を拭った時に感じた、左腕からの目眩がするほどに濃厚に香る血臭なのかすらも、もはや分からなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 


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