幾度も見送った。幾度も戦場へとその背中を見送った。叶うことなら、浅黄のだんだらを羽織って、長い髪を翻し、風とともに戦場を駆け抜けるあの人達の背中に追いつきたいと思い始めたのは、痛切に思い始めたのは、いつからだっただろう?



轍鮒羽交



 鬼のように強い、といえば、沖田総司。抜き打ちになれば勝ち目はないといわれるのは斎藤一。槍を持たせればその穂先の届く全ての首を刎ね貫く原田。
 その彼らと競って負けない、とは言わない。しかし、戦場の新選組の鬼副長は誰よりも何よりも、強い。実戦でこそその真価は突出する。血風を纏いどんな手を使ってでも退治した相手の命を狩り取り容赦はしない、新選組副長土方歳三の剣は戦場でこそ、鋭利な獣となり刃を牙の如く振るい、鬼より強さを発揮する。
 土方歳三とは、戦場においてこそ真価を発揮する、苛烈な武士である。
 その事実を知り抜いている新選組の隊士等が副長の負傷に動揺しないはずがない。怒濤のような報せに沸き上がる怪我人の詰め所に、押さえきれない動揺が勢いよく波紋を描いていく。湖面にいくつもの大礫が落ちたかのように。――しかし、千鶴は戦場の土方を知らない。剣を振る土方を知っているのは、片手でたりるほどしか――。
 一度。出会い、真っ白な月光を背景に青い夜が深淵の影を闇に落とす、その闇を斬り割くましろき鋼。感じたのは月明かりの下の冷厳たる切れ長の、紫にも似た双眸の殺気。流れる浅黄のだんだらがはらり、風に揺れ、長い黒髪が流れて散った。千鶴を射抜く双眸と同じ温度を宿し、月光を弾く真っ白な大刀は、会津藩御預かりの刀鍛冶氏、ノ定の銘を切ることを許された刀匠に鍛えられた名高き名刀、和泉守兼定。宵闇を斬り割いて、千鶴を殺そうとした刀と、早春の冷えた風に揺らぐことなく凛と佇み、ただ鉢金の白い布きれと、浅黄の袂、そして夜の闇より深い漆黒の髪だけを靡かせたその人を、美しいと千鶴は、思った。
 二度目。蛤御門の変、あのころは、ただその誇りの理由もありかもわからず、圧倒されただけだった。思いの強さに、潔さに目を奪われただけだった。そして、刀を抜いた土方を、永倉とともに置いて千鶴は駆け抜けた。ただただ、信頼だけを残して。自分のしたことが正しかったと、土方が去り際に寄こしてくれた、僅かに笑った視線だけを信じて。
 三度目。将軍徳川家茂公上洛警護。そして鬼の襲撃。てめえ等はこの餓鬼に何の用がある。叫んだ激昂は普段の土方らしくない焦燥とともに冷徹な怒りを感じさせた。その時初めて、千鶴は土方の振るう、実戦での、あまりに苛烈な剣を見たのだ。鬼と名乗った男相手に一歩も引けを取らず、怒りを持って眼差しを殺気に変え、千鶴を背に一歩も退かずに相手の命を刈りにゆく、誇りを賭して。たなびく黒髪と白銀の残像が目に焼き付いて火花を散らす。それはしなやかな美しい獣のようだった。
 そして四度。鬼の襲撃。風間と名乗る鬼に体を固められた嫌悪と恐怖、自分が女なのだとあれほど恐ろしく思ったことはない。それでも鼓舞されたのは、あの紫の双眸がじっと獣のように機をうかがって居ると解ったからだ。なら、自分に出来ることは――生き足掻くことだ。土方が勝とうとしているのなら千鶴が諦めてはいけない。だから、抗った、瞬間に攫われた。剣劇の音。自分の目の前でひらめく白刃と肩を体を抱く硬い腕。初めて、土方の振るう刀を、土方と同じ目線で見ることが出来た瞬間だった。強く美しく、皓く、烈しい。最初の出会いで、千鶴に向けられた刀が、千鶴を抱き込んで千鶴の敵に向けられる。紫電の速さで輝る刀は確かに千鶴の命を救った。
 あの瞬間走った、峻烈な感情の名を、未だ己は知らない。
 だから。
 戦場で戦う土方を自分は知らない。あの強さだけを信じている。そして、勝とうとしている土方を、諦めぬと全身全霊で叫ぶ土方を前に、千鶴は最善を尽くすだけだ。常に。最善を全力で。信頼一つをその胸に。
 「それで、腕のどこを?」
 冷静な娘の声に、ざわついた場が僅かになりを潜める。皆が千鶴を見つめた、幾つもしたの子どもの姿を。しかし、その様は子どもと言い切れる様な気迫以上の何かが満ちていた。激昂し、激情し、それでも冷静を保つその双眸の必死さが見る隊士等を引きつける。
「どの程度の深さを?出血は?骨は?筋は?右ですか、左ですか?刀はもてていましたか、立っていらっしゃいましたか?」
 高田が息を飲んで、それから知る限りを並べ立て始めた。彼は己に課せられた隊務を決して忘れては居なかった。さすが斎藤さんの下にいるだけはある、と冷静に千鶴は思う。この人は信用して良い、斎藤だけでなく、土方が信用して早馬の伝令として使っているのだ。だからここから先は一言も聞き漏らしてはならない。
「左腕だったはずだ、刀は手放しておられなかったから。敵方を斬った直後斬り合いに割り込まれるように巻き込まれて、とっさに左小手で頭を庇ったのを見た。こう」
 言って、高田は左手を握り込み、腕を額と顔の上に掲げるようにして曲げる。その上から、右手が手の甲から、左肘の間接までをなぞっていった。
「斬られた」
 僅かに千鶴は戦慄した。それでは左腕の健が危うい、それから太い血管が。
「切られたのは内側ですか、外側ですか?」
「外側、手の甲の方だ。小手は普通此方に着ける。それに鎖を着込んでいらした。ただあの距離が問題だ、ほとんど真上から大上段で斬られた。あれは深いと思う。鎖の着込みを身につけていてもなお深い」
 心臓が聞く度に嫌な音を立て始める。凍り付くように身じろぎ一つせず、千鶴はただ高田の話を一つも漏らさず聞き入った。
「そのあと、斬られざまに刀を返して、右手で相手の首を取った。だが負傷したのが新選組の副長と知られて、薩摩の連中が群がってきて……」
 悔しげに唇を噛みしめながら、膝をつかむ。袴に刻まれた傷跡はもしかしたらそのときのものなのかも知れない。
 しかし、手負いの土方歳三の首級を狙って、敵が群がってきたというなら、或いは敵を討ちに来たとなれば、そううかうか点していられない状況だ。色めきだった隊士等は、高田をせかして話を続けさせた。
「斎藤先生が割って入られた。抜き打ちに二人が三人ずつ斬った。傷はそれだけのはずだ」
「後ろ傷は、無かったか……」
 ああ、と頷く応えに、幾人かが安堵の息をつく。しかし千鶴の聞きたいことはそれで終わるはずはない。
「高田さん、もう一度、良く角度を教えてください。私の腕を使ってくださってかまいません」
 そう言って無防備に差し出された細く白い腕は、袖を捲らずともたすき掛けをしてあって露わになっていた。思わずぎょっとした高田だが、千鶴の苛烈な視線が有無を言わせない。男とは思えない子どもの左手を取って、手の甲に返し、腕を上げ曲げさせて、自分の右手を刀に見立てて斬りつける真似事をする。
「こうだ。俺が見た角度からでは確かに」
 それを聞いて歯がみする。肘だけではすまない、きっと肘上も剣の切っ先が届いている。かっ斬られた刃物が出来れば京初めて人を斬った、鋭利な刃物であって欲しかった。
「相手の刀はご覧になりましたか?」
 その問いかけに僅かに顔をしかめたあと、いいや、と高田は首を振る。
「大刀だった。これしか解らなかった」
「何か、血の痕とか、刃こぼれとかは?」
 解らない、と応える高田の言葉に千鶴は心の中でほぞをかむ。出来たら綺麗な刀で斬られていたらいい、刃こぼれした刃物で傷を引き裂かれていたらと考えると、その腕は無事に動くのか、考えるだけで恐くなる。しかしそんな機微はかけらも表に出さないで、千鶴はこくんと頷いた。
「……解りました。あと、出血はどの程度でしたか、動かせていましたか?立っていらっしゃいましたか?意識ははっきりなさっておられましたか?」
 その質問には、僅かな間があった。しかし、僅かな逡巡を振り払って高田は重い口を開いた。
「立って歩いておられたし、意識もはっきりなさっておられた。その場で指揮を執り始めたのを斎藤先生がお止めしたんだ。確かだと思う」
 土方さんらしい、と意識の片隅で思ってしまう自分がおかしい。それでも意識に刻みつける言葉を一言たりとて漏らさない千鶴の双眸に、高田は何かを振り切ったかのように千鶴を見返した。
「動かせないのか、動かさなかったのかは解らない。ただ薩摩の連中に向かって鞘を払ったのは左腕だったから無理をすれば動くのだと思う。それ以外、副長が左を使ったのは見ていない。出血は」
 噛みしめた歯が軋む音を確かに聞いたような気がした。
「酷い。袂から羽織が浅黄じゃない。だんだらまで染みていた。それを見た局長が帰陣を命じたんだが……」
 僅かに蒼白になった千鶴の顔が初めて堅く凍り付いた。それはこの場にいる隊士等には解らないほどだったが。ほとんどが高田に注目している有様だったのも幸いしただろう。だが、その出血は危うい。長着も羽織も袂まで染みていくような傷は、危うすぎる。人は出血多量で簡単に死ねるのだ。出血が起きたらまず血を流しすぎないようにしなくてはいけない。急激に血を流せば流す分だけ、急速に死んでしまう様なことが多くなる。
「土方さんは、帰っていらっしゃいますね?」
 爛、と光った黒い双眸が強い言葉を発した。それが小娘の腹から出た者だとは誰も思うまい。ざわめいて誰彼かまわず高田に話を求めていた隊士等が、一瞬その言葉を収めて千鶴を見た。蘭方医の息子だという新選組副長土方付きの雪村の、腹の底からでた他を圧する、しかし静かで冷静な声は同時に激情を孕んで恐ろしいほど真っ直ぐだった。
「局長が、必ず帰らせると言った、俺はその先触れだ」
 その言葉に千鶴は瞑目した。近藤さん――近藤さん。土方さんを止めてください。お願いします。
 堅く片手を胸の前で握りしめ、空を仰いで瞑目する。その一瞬、千鶴の瞳が啓かれる。
「解りました。高田さん、どうもありがとうございました。また戻るまでの間、ゆっくりお休みください」
 きゅ、っと結んだ包帯の端を鋏で切り落とすと、ふわりと笑って千鶴は土間であるにも厭わず、ついていた膝を立たせ、土埃を払い高田の横に置いてあった手近な手桶に手を突っ込んで冷たい井戸水で手を洗う。
 そして高田がやってきたときに間口に駆けつけながら慌てて突っ込んだ草履から、足を抜くと上がり框に登り奥の上座を真っ直ぐ目指す。
「湯を沸かしてください。使い終わった包帯と止血帯、さらし、全てを煮沸消毒してすぐに天日に干してください。今日は幸い熱いですからすぐに乾くはずです。急いでいると言っても、消毒は必ずしっかりとしてください。あと、消毒がすんでいる布は全て此方に運んで。屯所からも持ってきてください、予備のものがあります。藤堂さんに聞いていただければすぐに幹部管理のものを出していただけるはずです。湯冷ましも。傷を洗うのに必要です。鋏も。そんな傷なら脱ぐより切り落とした方が早い。どうせ羽織も長着も使い物になりません。脱衣に体力を使って傷を動かす方が危うい」
 着物を切り刻んで怒られるなら、あとで自分で縫い目も解らぬほど美しく繕い直してやる、と意気込んで千鶴は奥にある長櫃を次々に開けていく。これまでの激戦を物語るように、残っているのは僅かな布ばかりだ。――足りない。血止めの薬なんて造血作用のある薬草なんて、その場しのぎにしか使えない。
 かき回す思考の中で唯一の道が繋がった。何をしているのだ、まずこれを頼まなくてはならなかったのに――!
「いいえ、まず、法眼に!松本先生にご連絡をお願いします、早馬は使えますか!?」
 次々と長櫃を確認し、片っ端から白い止血帯、さらし、包帯を用意し更に洗いたての着物まで持ち出し、箱の中身を空にしていく千鶴に周囲の隊士等がざわめくように動き出す。まず高田が飛び跳ねるように立ちあがった。足の傷を気にもせず、詰め所を出て行く。戸を潜りざま松本法眼の所へ向かうと叫びを一つ残して。
 そのあとを、弾けるように二、三の隊士等が追った。
「温存している馬を出せ!法眼には早駕籠を遣わせろ、先触れには自分が行く。道中の説明は出来る限りしておく」
 千鶴の意を汲んだかのような答えが返ってきて、千鶴は深々と高田に向かって頭を下げた。
「はい!よろしくお願いします――!」
 その横にいた、腕にさらしを巻いたままの隊士が立ち上がりざま室内に向かって怒号した。
「屯所に行ける者は着いてこい、荷運びに人が居る!」
「湯を沸かせ!裏庭の薪を惜しむな!」
「動ける怪我人は使い終わった布類をかき集めておけ、洗濯が出来るやつは着いてこい」
 弾けるように次々と隊士等が外へ出て行く。中へ残った隊士達も三々五々散っていく。動ける者は、動けない重症患者を奥へ安置させ場所を作り次々と布を拾い集めていく。――今から大釜に湯を沸かして洗濯して、煮沸して、どれほどの時間で布が出来るか。高田に様子を伺う限りでは、此処に今あるものでは心許なさ過ぎる。それを頼るよりは屯所からの物資の補給と、松本法眼からの物資を頼むしか他に方法がない。それに簡単な傷の縫合なら此処にある道具でもかろうじてすませられるが、千鶴にはその心得が如何にも不足であったし、何より重傷となればうかつに手を出すことも出来ない。
 しかし、一番心配なのはただでさえ戦場に部下を残してくることを嫌う土方の性情だった。一刻を争うことは解っている、それは斬り合いをする本人達が一番よく知っているはずだ。近藤も、斎藤も、そして何より、土方も。
 それでも無理を押し通し、彼は彼の道を妨げられることを決して許さない。何者にも譲らない、矜持の高さ、誇り高さ。決して退かぬと決めたなら、その答えを曲げられるのは他の誰でもない、たった一人しか千鶴は知らない。
 ――近藤さん……! 
 唇が震える、祈るようにはき出した吐息が、土方の盟友であり、主君である人の名前を霊斬るように痛切に叫んだ。どうかあの人を連れ帰ってくれと、殴ってでも引きずってでも、構わないから。
 頼むから無理をしてくれるな。今動かせば、その出血では腕どころか命が危うい。頼むから今だけは曲げてくれ。その鋼より堅い信念を。頼むから、何でもするから、だから。
「お願い」
 土方さん。
 己の軽率で剣を握れなくなったあなたをあなたの魂と誇りは未来永劫許さないでしょう。近藤さんを押し上げる、新選組を守り抜く、その志を持って戦場にあって駆け抜ける血風の中でこそ閃く白刃の刹那を、命の尊さを、誇りと矜持を知り抜いているあなたが二度と剣を握れないなんて私は決して認めない。
 ましてや、命を落とすなど天壌無窮、認められない。
 だから、頼むから、何でもするから。
 土方さん――!
 噛みしめた唇から血の味が広がる。顔を覆いそうになった手をとにかく働かせて、千鶴は祈りの代謝にたった一つの名を呼び続けた。
 声は音にならずに消えた。
 お願いだから、生かさせて、と、誰に聞こえることもなく。
 
 
 
 
 
 
 
 


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