鮒の轍を羽を交わして救う鳥。 轍鮒羽交 「動か、ないで、ください」 「わあってるっつってんだろうが」 「だから、動かないでって――」 「動いちゃいねえだろうが」 「だって、土方さんが……こんななんて、しらなくって」 「自分で言い出したことだろうが、お前が」 「でも、だって……あっ、まだ、動かないでくださっ――」 「……もういい、お前は――!」 「駄目です、ちゃんと、かたく、しないとっ――」 「――千鶴!!」 「土方さん!!」 ぱちん! 音高く、裁ちばさみが鳴り響く。断ち切られた髪結い紐の端がはらりと零れ、縁側に腰掛けた土方が深々と腹の底からため息を漏らして肩を落とした。 「もう、動かないでくださいって何度も何度も言ったじゃないですか!」 はさみを手にしたまま髪結い道具をてきぱきと筺に仕舞っていく千鶴は脱力している土方の後ろでぷんぷんと頬を赤く染め怒っている。そのさまは少年と言うには無理がある可愛らしさを秘めているが、まごうことなく男装をしている華奢な姿は非常に倒錯的でもある。そのことに本人は幸か不幸か気づいていないが。 「てめえの面倒くらいてめえでみれると何度言ったら解るんだ、お前は!」 「そんな見事にばっさりと左腕怪我なさって、いったい何針塗ったと思ってるんですか!動かしたらいけないって何度言わなくちゃ解らないんですが土方さんは!」 誰もが萎縮する土方の怒声に、いつもなら千鶴も小さくなってしまっていただろう。 しかし千鶴は蘭方医の娘であり、蘭方医は外科も担当する。 斬った張ったが日常茶飯事の今ほどではないが、喧嘩っぱやい江戸の下町で父の元に担ぎ込まれてくる患者の世話を何度手伝ったことか、数える気もおきないくらいだ。そして医者とは無茶をする患者に対して手厳しく叱咤することに躊躇いを覚えぬ性情であり、千鶴の父も、殺傷沙汰の末に担ぎ込まれたやくざ者や、泥酔し怒鳴り散らす大男の酔漢相手に対してすら一歩も引かず、穏やかながらも厳しく患者を叱りつけ、節制させることに慣れきった腕利きだった。そんな父の背中を見て育った娘はいわんや、その質をよくよく受け継いでおり、また新選組に来て以来、数々の修羅場をくぐり抜けざるを得なかったことがますます彼女を打たれ強くした。 よく言えば我の強い、悪く言えば荒くれ者の隊士たちに日夜磨かれ、多少のことでは大の男相手の、しかも刃物傷に対してすら臆するどころか、一歩も引かない。間違いなく、彼女は人を生かすために患者を叱り飛ばす医者の腕利きに磨きをかけていた。 その負けん気の強さには、今や幹部連中まで憶し、制するともっぱらの評判だ。 そう、今現在左の手のひらから肘まですっぽりと、真っ白なさらしをきつく巻かれている土方さえ辟易するほどに。 「もう少し深ければ健に傷が付いたかもしれないんですよ?それとも何ですか、これ以上自分からわざわざ悪化させて、いざというときに屯所に籠もってお留守番する情けない有様で構わないんですか、それなら私は止めません」 結い紐をくるくるまとめて、はさみと一緒に櫛笥筺に納めてぱこんと蓋をする。そのあまりに遠慮のない言い分にぎろりと不穏な眼差しが後ろの千鶴を顧みたが、この時ばかりは千鶴は全く頓着しなかった。それどころか、言葉を強くして、振り返った土方の眼差しを真っ向から迎え撃つ。紫がかった瞳が物騒な気配を醸し出すのにもかまわずに、千鶴は匳箱に手を置いて、膝をついたまま土方を見上げて口を開いた。 「ご自分の不明で、万全でない体調で戦に出陣なさって、万全でない戦いをしたいですか?」 こんな怪我くらいどうとでもなると口を開きかけた土方の言葉を、全て奪い取った千鶴の言葉が、音になるはずだった土方の言い分を見事に片端から撃ち落としていく。 千鶴の声はいっそ静かで、故にこそ強く凛と響いた。 僅かに眉を寄せた土方は、苦々しい口調で口端を歪める。 「……だからって髪くらい自分で結える」 「……結えないから昨日まで下ろしっぱなしだったんでしょう」 もはや言い訳にすらなっていない言葉に、今度は千鶴が眉を寄せて深々と溜息を吐いた。 書状に向かうたび落ちてくる長い髪にいらいらしていたのは誰だったのかと雄弁に語る千鶴の眼差しは呵責無い。 「だいたい何でそんなさらさら髪なんですか。ぬばたまなんですか。結っても結っても結っても結っても落ちてきて。女の子に喧嘩売ってるんですか。お小遣い貯めて椿油を買って喜ぶ女の子の気持ち考えたことおありですか。いっそ太夫か天神にでもなるつもりですか」 「誰がなるか気色悪いことを言うな!」 そんな土方の怒声にも構わず、千鶴はもう一度、深々とため息をついた。何だか話が非常に逸れた感があるが、少女にとっては非常に深刻な台詞である。それどころか、ほとんど全ての女の子の嘆きを代弁したと行って差し支えないとさえ本人は思っているし、そこらを歩く町娘さんに聞いても同じ答えが返ってくるはずと確信している。 千鶴が触れた土方の髪質は癖が無く真っ直ぐだった。その苛烈な気性を表すようだとは思うが、それ以上に綺麗で痛みもない。むしろいっそ美しい。そしていっそ、清々しく憎らしい。 なかなか女の身では新選組において湯を使うこともままならない千鶴は、髪をこれ以上伸ばすことができない。洗う手間、乾かす手間、その間無防備に女をあらわにする危険を考えれば、これが限界なのだった。だから常々、土方の髪は羨ましくてこっそりいじってみたいと思っていたのだが、その願いが叶ったでなかなか複雑な思いにかられるとまでは思ってもいなかった。……そう言えば、お千ちゃんは同じくらい綺麗な髪をしていたなあとほんのりと可愛くて優しくて、茶目っ気溢れる京に出て唯一出来た大好きな女友達を羨ましく思う。 ふう、と軽く吐息して、埒もない思索に困ったように千鶴は目を細めた。千鶴が結った土方の黒髪は、濃紫の着流しと黒の羽織の上、広い背中に見事に流れている。 あの髪は血を浴びながら風のように白刃の中を駆け抜けるに違いない。千鶴の居ない、戦場で。 僅かに噛みしめた唇に、千鶴は物思いを振り払った。あの、息の止まりそうだった瞬間の思いごと。 「――そんな髪、片手で結えるはずもないでしょう?かなり硬く止めておきましたからもう落ちないと思いますけれど」 振り払った物思いは引きずらない。いつも通りの声音で千鶴が言うように、いつも通りに結われた土方の髪は、すとんと土方の背中に丁寧に梳かれて流れている。土方が自分でやるより確かにきっちりと結われた髪は、もう書状を見ていてもばさばさ落ちてくることはないだろう。 「痛かったり、きつかったりしたら仰ってくださいね?すぐに結い直しますから」 ――それはつまり何と言うか、その、また、先の例のやりとりを、再び繰り返すと言うことか。 「いや、これでかまわねえ……」 なにやら妙に疲れたような声で深々と肺の底から溜息を落とす土方に、不思議そうに首をかしげた千鶴はぱちっとした瞳を瞬かせ、とたん顔を曇らせた。 「……痛みますか?松本先生から頂いてあるお薬を持ってきましょうか?」 小さな指先が、そっと土方の左の袂に触れる。大きな瞳を僅かに揺らして千鶴は袖の下に隠れているはずの白い色を見たかのように、小作りな顔を微かに曇らせた。あの、確かに息の止まった瞬間を、今でも千鶴は、忘れない。ましろのさらしが真紅に染まる様を、血に汚れながら、幾度も幾度も血止めの布を取り替えたあの終わらないような時間の空白を。――その人の名を、聞いた瞬間を。 「場所を空けろ、幹部の負傷だ!」 第一報は疾風の如く。けが人の手当に使っている詰め所がにわかにざわめいた。今回の大捕物は薩摩の大物が裏から糸を引いているらしく、出陣の人選は、副長が直々に選び抜いた精鋭達だ。その精鋭をまとめる幹部が、傷を負ったというのだから、隊士等の動揺は当然であった。彼らは、幹部達の鬼のような強さを千鶴以上に、身を以て知っている。千鶴の行けない戦場で幾度も幾度も目の当たりにしてきたはずなのだから。 今回出ているのは一番隊、三番隊、十番隊。誰を脳裏に描いても、運び込まれるほどの怪我を負うなど考えられもしなかった。 そうして、第二報がまもなく届く。 「負傷したのは組長じゃない、副長だ!」 報せの早馬から飛び降りて手当の準備を指示していた千鶴の手の動きが一瞬止まった。ばっと振り返ると土と泥、血に汚れた鎧と羽織、汗に塗れた鉢金を巻いた隊士が早馬の報せの腕章を着けて、戸口を開け放ったまま肩で大きく息をしていた。 「まさか、土方副長!?」 「副長は!?」 言葉もなく、肩でぜいぜいと息を継ぐ隊士に竹筒の水を差し出しながら他の隊士が駆け寄った。崩れ落ちそうになりながら、何とか竹筒を受け取った報せの隊士は、ぐいと竹筒をあおり水を喉に流し込んでから、口元を乱雑に袖でぬぐって、乱れた息を無理矢理押し込めるように声をからした。 「未だ、戦場に居られる、まだ戦えるというから」 今度こそ、動きだけでなく千鶴の息が止まった。 誰も、その場にいた全員が言葉もなかった。早馬を使うような怪我と言うことは立っているのもやっとの有様のはずだ。隊士等の怪我を見ている千鶴だからこそ、この場に居る誰よりも一番に熟知している。早馬は戦局を左右する情報をもたらす重要な手駒だ。それを土方は非常に重要視しており、決してかすり傷程度で大切な手駒を使わせない。激戦区を行き来するえり抜きの乗馬の上手であり、単騎で駆け抜ける腕を持ち、的確な情報判断が下せる隊士は戦場において何よりも貴重なのだと、何かの折に土方が言っていたことを千鶴は良く覚えていた。 「局長と斎藤先生が説得なさっている。まもなく、帰陣させるとのことだ」 それは、まだ、土方が戦場に留まりたいと願い、近藤等が必死の説得を繰り返していると言うことに相違ないのではないか。 かた、と肩が震えた。見開いた大きな瞳が報せを持ってきた隊士を見ている。時が止まったのは一瞬だった。空貘の時間を千鶴は正確にはどれほどだったのか覚えていない。しかし、次の瞬間には傍にあった手拭いを乱暴に取り上げてその隊士の元へと結い上げた髪を散らせて駆け寄った。 傍らの桶に突っ込んで、綺麗な井戸水で手早く手拭いを濡らして固く絞ると、報せの隊士の汚れた頬を拭う。その手拭いを渡して、千鶴は足下に傅いた。 「顔と手と足を拭いてください。羽織を脱いで、此処では出来る限り清潔に。それから、左足を失礼します」 言うが早いか、袴の裾を絞った金具を手早くはずして膝までまくり上げる。思った通り、酷く擦りむけた痕があった。小石や砂が混ざり込み、破れた袴にはよくよく見ると血の痕が無惨にこびりついていた。――鬼の血に今、感謝する。医師の娘であったことに感謝する。隊士の袴は濃い色で、普通なら傷に気がつくのに遅れただろう。血のにおいにとても過敏になっていて、良かった。歩き方一つ見て、怪我をしているのだと解るような環境に小さな頃からあって、とても良かった。 驚いた隊士が千鶴を見下ろすがそれにかまわず、立ち上がった千鶴は踵を返した。たすき掛けした短い袂がひらりと花のように翻る。 「此方へ。手当をしますからどうか場所を空けてください」 その言葉を受けて、戸口に殺到しかけた動ける隊士等が我に返ったように慌てて動き出す。外に出た隊士が、報せの者が乗ってきた馬の轡を引き受けて簡易の厩舎へと戦場に気を立てた馬を宥めながら連れて行き、他の者は薬箱を持ってきて立ち上がり場所を空ける。報せの隊士を土間からの上がり框に腰掛けさせて、他の隊士に持ってきてもらった水とさらしを受け取ると、丁寧に、無惨にただれた傷口を無心に千鶴は清めた。 「良かった……かすり傷です。これなら薬を塗る必要もありません。水で洗うだけで良いです。あとは傷口を汚さないようにしてください。お湯を使うときも濡らさないで、乾燥させておけば早くかさぶたになります」 かすり傷、にしては大きく深い。けれど、千鶴の行った処置は適切で間違いがない。これなら数日も経たぬうちにかさぶたが出来るだろう。 「……すまない」 僅かに出た言葉に、いえ、と簡潔に笑って千鶴は首を振る。戦場に出て戦えない自分こそ、すまない。 だからせめて自分に出来ることを今。 「お名前を伺ってもよろしいですか?所属は?」 「高田だ、三番隊、斎藤先生の下に置いてもらっている」 頷いて、傍らで千鶴の処置を手伝っていた隊士に目配せすると、怪我人の帳簿を取り仕切っている隊士はわかり顔で頷いて、名前と所属、怪我の様子、千鶴の行った処置を書き留めていく。氏しか言わなかったのに名を聞かないところを見ると、高田と名乗った隊士とは既知なのかも知れなかった。 その間にも千鶴の処置は続く。 筋を痛めた形跡はない。きちんと足が動くことを確認してから、血止めの布を当てた上から手で押さえ、片手で包帯を器用に手に取る。 「わかりました。では、高田さん」 くるくると器用に、あて布をずらさぬよう、包帯に血を付けないように巻き付けながら千鶴は口を開いた。その間も、他の外傷を捜しながら小さな手は働くことを止めなかった。 「土方さん――副長のお怪我の様子をお話ししてください。解る限り、詳しく、全部」 凜、と上げた瞳が黒光りして大の男を憶することなく真っ直ぐ見上げる。見下ろしているのは此方なのに、その様に圧倒されるのは手当を受けた高田だけでなく、様子を伺っていた全ての隊士等もであった。 しかし、千鶴の言葉にはっとしたように、本来の役目を高田は取り戻した。頷くいとまもなく、当時の様子を詳細に述べていく。 傷は腕だ、と高田が言いきった瞬間、今度こそざわめきはどよめきと明らかな動揺に変わり、隊士達を大きくざわめかせた。 これで事実が明らかになったのだ。 新選組副長土方歳三、負傷。 その、隊を揺るがす報せが。 next. |