獣が口付ける。掌を伝う真紅のしずくに、深紅の舌が絡み付く。
 小さな頭を胸に抱えこむ腕に力が籠った。決して娘が上を向かないように。浅ましく生き血をすする化け物の姿を瞳に写さないように。後悔は死ぬ程してる。その分だけ深い快楽を呼び覚ます。かつえた喉を潤せるのは一人しかいない。

 いっそ、一瞬の内に楽にしてくれともう、何度。








 薬の残りが少なくなったと、行李の蓋を開けてはじめて気付くなど千鶴にとっては珍しいことであった。
 こと、土方の苦しみを少しでも軽くするために、薬包の確認には余念がないからである。
 しかし、近頃昼夜の区別もなく幕臣との交渉に連日連夜狩り出されている土方の様子を気遣うことで自分には精一杯だったのだろう。戻らない土方を夜遅くまで待ちながらせめて湯と軽食、着物など身繕いに困らぬ程度には用意しておきたかった。
 しかし、今や新撰組の立場は砂上楼郭の様に揺れ動くばかり。それでなくとも使える手駒を失ったのは痛い、とあまりに重く語った土方に千鶴は痛切に瞼を閉ざすしかなかった。
 もう土方の信頼のおける試衛館以来の同志であった、千鶴にとっても優しい父を思い出させた源さんは居ない。土方の手足であった山崎も鬼の狂刃の前に倒れた。
 ……自分が鬼でなければ。せめて女鬼でなければ。新撰組は無用な危難に晒されず、二人とも今もきっと生きて……あの人が血に狂う苦しみを味わうこともなかったはずなのに。
 それを思うといても立ってもいられず、胸を一色に罪悪感が染めあげる。
 あの時千鶴が風間につけられた傷はもう痕も残らず消えていた。対価に奪われた命の重さと、土方の苦しみに、自分だけが依然として変わらずに日常を過ごせる現実は千鶴を打ちのめすには十二分であった。
 箱の中に転がった数包の薬。父の記録を引っ繰り返しながら懸命に精製した薬包の数を無意識の内に数える。
 自分が携帯している分、土方に外出の最中頼み込んで持っていてもらっている分。
 数日のうちにも足りなくなることは明白だった。不用意に見付からないように縹色の子風呂敷に手早く包むと、他のものの影になるよう工夫して仕舞い込み、行李の蓋を閉めた。
 今日も土方は遅くなるだろう。激務を終えて帰ってくるのは明け方も近い頃かもしれない。
 袴をすっかり慣れてしまった仕草で整えながら畳に手をつき立ち上がり、千鶴は土方の使う居室の障子戸をからりと開けた。
 薄い闇が迫る。たそかれ時。
 染まりながらも沈み行く、朱の残照に眩しげに千鶴は眸をすがめた。
 いっそ禍々しいまでに美しい、朱と血と紫影の夜の裳裾が西の空を覆い、東から差し込む赤い赤い光が、部屋の奥に長く影を伸ばして畳を染めた。
 一人での、特に日が沈んでからの外出は殊更に硬く止められている。けれど薬は足りない。叶うならすぐにでも補充すべきだ。
 後ろ髪ひかれる思いでがらんとした室内を見渡す。あるべき主は、今日はいつ時に帰ることができるのだろう。
 唇を噛み締めて、きびすを返す。ふわりと黒髪が弧を描いて、千鶴はたん!と障子戸を閉めた。
 向かうは生家。……薬の材料もあるのも、精製できるのも、千鶴をおいて他に誰もいないのだから。
 逢魔ヶ時の不吉すぎる美しい残照のなか、千鶴は手早く外出の支度を済ませると、門番に言付けを置き渡して釜屋の門扉を潜り抜けた。新撰組の幹部が名を変えて滞在する宿である。出入りする人間の身元の確認は厳重に行われていて、常に土方の傍にある千鶴であってもそれは例外ではない。釜屋の屋号と番号が墨で黒々と描かれた竹の旅券を手渡される。旅券は遅くに遊郭に出る旅客などに渡され、帰ったときに名乗り、手渡すことで初めて宿の中に戻ることが出来る。数が足りなければすぐに、誰が居ないのかが解る。長年使われたものなので年季が入っており複製も出来ないし、万一略奪され利用されるようなことがあっても、宿帳に記載された本人でなければ釜屋はその人物を絶対に上げない。
 ――単なる旅客改めの意味合いとして、多くの宿で行われていることではあるが、少々行き過ぎた帰来があるのは江戸における新撰組の立場はそれほどに微妙な証であった。それを思って千鶴は札を強く握りしめ、紐を首に掛け大切に懐にしまう。
 そのあとはもう、まなざしにも足取りにも迷いはなく、故に長く延びる陰が揺れる様が殊更に不吉であった。




 
 
 
 
 
 
 
 
 


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