花を守る鬼の加護



花護



 珍しく極上の諸白を手配した。きれのある、しかし喉越しは仄かに甘い。きんと冷やして頂く。後味はさらりとしてしつこく残らず上品な残り香と風味がふうわりとあとを引く。
 並べられた馳走の采配を振るったのは千鶴であった。季節の刺身、とりどりの押し寿司、箸休めの総菜は京野菜を使って上品な味付けに努めた。
 千鶴本人が手掛けたものではないが、店に頼んで品を改め酒の席を見事に、ととのえてみせた。女性ならではの細やかな気配りの効いた御膳で、最後に土方に手配した店や料理の品目を改めてもらったが、一別しただけでなんの小言もなかったのは彼なりの最上の誉め言葉であろうと思う。
 それとも蒼白になりながら酒宴の手配を見事に仕切った千鶴になんの言葉もかけなかったのは、彼一流の気遣いだったのかもしれない。
 
 
 その酒宴は見事に盛況に終わった。途中危うい橋を渡りつつも、千鶴は何とか乗りきった。首尾は上々、いささかの失敗もなくことの全ては終えられた。
 他の雑事や上役との折衝、組の暗躍に追われ続けていた幹部たちの見えないところで千鶴は見事に大役を果たしたと言っていい。
 ……のち、この夜更けの惨劇を油小路の変と歴史は刻むことになる。
 
 
 
 
 猪口に、満たされたのはきんと冷えた酒だ。酒宴で振る舞いきれず余った酒。
 漆塗りの盆に徳利と転がる二つの猪口には並々とつがれる酒が途切れることがない。
 ただ黙々と酒を口に運びながら鬼を飼う局長と副長は静かに首尾の報告を待つ。順当に行けば伊東一派の狩り出しにはそれほど刻限を待つこともなくやりとげられるだろう。あとは待つことしか他に仕様がない。
 時折、少ない言葉を重ねながらまた杯を重ねていく近藤と土方の表情は下座に居る千鶴には見えない。灯のゆらぐ陰に、わずかに厳しい表情を滲ませるだけで、とくに土方は空気を読ませぬ端然としたたたずまいだった。目をふせ、千鶴は痛感した。今、己がこの人たちに出来ることは何もないのだと。酌をする必要も無く、かけるべき言葉も千鶴はもたない。
 座敷の下座からそっと立ち上がり、障子を開ける。桜も近い季節になったのに、今宵は冬に戻ったような花冷えだった。冷えきった空気が有明行灯の光すらかすかに揺らがす前に、音もなく冷たい板張りの縁にでて二人の背中に丁寧に一礼したあと静かに閉める。そのままきびすをかえして、千鶴はこの屋敷の女主人に炊事場と借りたく、またいくばくかの食材を頂きたい旨を申し出た。もう、寝間と客間の準備も終えたから、休むよう申し出に来ようとしていた女主人とちょうど行き交ったときに告げた、夜遅くの突然の千鶴の言葉に驚いた様子ながらも快く了承してくれた彼女に感謝しながら、千鶴は土間にある炊事場に向かう。
 冷たい板張りの廊下を歩きながら、きっと近藤だけを土方は休ませるのだろうと思う。監察方の報告を待つ、と言うこと以上にあの人は今日は眠らず、千鶴の手配した毒杯にも等しい極上の諸白を嗜みながら、独りで夜更けを過ごすのだろうと何となく千鶴には解っていた。
 しんと更けた夜更けに小さな明かり一つを灯すと着物のたもとをあげる。細い腕に花冷えの冷たい空気が痛い程だ。
 父を探して新選組に拐われるように保護されてもう幾度季節がめぐったことか。京の寒暖の差は殊更に堪える。毎年、京の冬にはいっかな慣れないと白い息をはいて苦笑するのも恒例になったのもすでに久しい。
 冷たい水にかじかむ掌をごまかしながら、賄いで出さずに残ったお豆腐をこっそりともらい、他にいくつかの材料を見繕う。
 水を張った小さな土鍋に昆布、沸騰したらこぶをとりだし、斜めにざくぎりにした青葱と豆腐、つみれを入れる。味付けは塩のみ。豆腐の味が生きるよう控え目にする。とった昆布は千切りにして青菜と護摩和えにした。醤油を効かせて濃いめの味に。
 暖まった豆腐とつみれをこばちにとる。一緒にゆでた葱を見栄え良く添え鰹節をぱらりと振りかけ、土鍋の火を落とした。足りないようなら白菜と干し椎茸、ご飯を卵でとじて雑炊にすればよい。
 何も、凝ったものは必要ない。夜も更けた刻限、酒宴のあとに更に上等の料理など腹がもたれるだけだ。遅くまで仕事につめている時などは、こう行った小腹を満たすようなものの方を土方は欲しがると、差入を繰り返すたびに千鶴はいつの頃か、心得るようになった。朱塗りのぼんに今しがた作った酒のあてをのせ、火の始末を手早く済ませると千鶴は湯豆腐がさめないうちにと早足で夜更けの回廊を戻った。
 
 
 
 静かな足音は明らかに女の体重の軽さを示していたから、そろそろ休めと客人に近藤の妾が勧めにきたのかもしれない。近藤はとうに土方と女に進められるままに休ませた。……新選組が「関わっていない」はずの元新選組参謀伊東惨殺の翌日、局長が自棄のように深酒を過ごしていたなどという事実は必要ない。
 監察からの知らせは土方が受けると言って追いやれば、漸く席を立ち上がる近藤の、土方の内面を切り込み、見透かし、苦しげに瞑目した様子が印象的だった。……この人はいつもそうだ。誰より慚愧に堪えぬ思いをしていながら、易々と女々しい内情を隠してみせる土方の心を思ってくれる。それでいい、それだけでいい。あとはなにも望んではいない。いや、それすらも望んではいない。苦笑しながら視線を落とす猪口に、酒が波打った。ただ近藤を高みに押し上げることが土方にとっては唯一の願いだ。
 しかし仮にも同胞だったものの生き血を浴びた日くらい酔いにまかせてみたくもなる。あまりにも卑劣な策謀を思い付く自分の醜悪さを嘲笑しつつも、冷徹に是としながら。そうして、また嘲笑いながら酔いにまかせきれない冷然とした理性が、このあとの更に胸が悪くなるような隠蔽工作などに策謀を巡らせている。どこまでも業の深いことだと、猪口の酒に写る切長の目が歪んで笑う。丁度そのとき、小さな足音が障子戸の外で止まった。ことん、と障子戸の外でわずかな物音。……今日は眠るつもりはないと近藤がさがるついでに告げておけばよかったか。溜め息をついた拍子に、おもいかけぬ声をきいた。
「……千鶴です、失礼して構いませんか?」
 近藤と杯を重ねていたとき、静かに下がっていったのには気付いていた。伊東を見送ったあと、見苦しくもなく、差し出がましくもなく、喧しくもせず静かに振る舞っていた娘の胆力に土方はわずかばかり感心していたが、流石に心身ともに疲れ果てただろうと、とうに休んだものとばかり思っていた娘の細い声に、瞬きのあいだ沈黙したのち、土方は口許の猪口をあおり、いらえた。
「入れ」
 その言葉に、からりと障子戸が鳴り、あとはすっと音もなく開く。ひとくくりにした艶やかな髪が肩におちて、小さな少女が敷居の向こうで一礼した。
「お邪魔してすみません……」
「何の用だ?」
 簡潔な言葉しか返らないのは分かっていたことだ。しかし、それが今の土方の心情を表しているようで千鶴は微かにうつ向いたまま目を閉じる。
 ……この人は、いつだって一人で血を被ろうとする。
 傍らの盆を引き寄せながら千鶴は物思いを遮り敷居を跨いで座敷に入るとそっと戸を閉めた。冷えた空気が遮断され、酒気と、今年の春はまだ冷えるからと出されたままにされている火鉢に暖められた空気に取り巻かれると、ずっと冷えたところにいたからだが無意識にほっとする。
 室内には思った通り近藤は居ない。土方独り。いつだって汚れるのも苦しいのも自分だけで良いと思う、そう言う人だ。それを見越して、酒のあても実は一人分しか用意していない。
 千鶴のほうを振り向かず、転がった猪口を見下ろしている漆塗りの盆の横に、湯気をあげる豆腐と辛めに味付けした和え物をのせた、二つの小鉢の並んだ朱塗りの盆をそっと差し出した。
 明らかに一人分だけよそわれた小さな小鉢。そこで目を細めた土方がはじめてゆるりと千鶴を見る。
「一晩中、お酒だけでは、体を壊しますから」
 おくちにあうようなら、どうぞ、と控え目に付け加える。
「足りないようなら他にもつくってきますよ」
「そんないらん気い回すな、餓鬼はとっとと休め」
「……眠れないのは土方さんだけじゃありません」
 何でもないようにさらりと口にし、袴の裾を丁寧な仕草で捌いてきちんと正座する、下座に端座した千鶴の膝の上、小さな拳がほんのわずかに震えていた。それを視界の端に収めながらくいと一献、土方は酒をあおる。千鶴は冷たく冷えた手を握りしめ震えを押し込め、それから開いたたおやかな手のひらで朱塗りの盆を勧めた。
「さめないうちにどうぞ」
 今日の采配をしたのは千鶴だ。極上の馳走と酒で死に至る毒を作る。暗躍の手配と普段の雑事諸々に追われた近藤と土方の手の回らないところまで、娘ながらの気配りを見せた。内情を明かせない近藤の妾にけどられぬよう、妾宅の女主人とともによく働いた。……医者の娘に惨いことをさせたとは今更。指示を下し、承諾したのは土方、千鶴双方だ。
 朱塗りの盆に行儀よく並ぶ箸に手を伸ばす。口にした、和え物の味付けにふと土方の眉が上がる。
「懐かしい味だな」
「私も、江戸っこですから」
 わずかながらに目を細めた土方に、千鶴は苦しげに微笑んで、けれど悲嘆を面に出すようなことは死んでもしないと誓っていた。何よりも重いものを背負っているのはこの人だ。
「……餓鬼に酒は早いか?」
「……御年賀のお屠蘇くらいなら」
 手酌で猪口を満たした土方は餓鬼の言い分にわずかに笑う。しかし、強がろうにもまったく強がる材料がない。そも、千鶴にとっては酒など未知の領域である。
 秀麗な眉を悪戯な小童のようにまげて土方が笑い、猪口をころんと差し出した。
「一献付き合え」
 大きな手のひらに猪口は玩具のように小さい。揺らぐ水面に障子越しの有明の月灯が沈んでいた。
「……一口だけですよ?」
 今宵の貴方は良く笑う。
 それが自分の魂を削るゆえに浮かぶ笑みと気付いていたから、千鶴は唇を噛み締めながらも何でもない素振りで吐息を落とし、土方が口につけていた猪口に酒を満たして差し出してくるのを、小さな両手を差し出して、丁寧な仕草で受け取った。
 
 
 からん。
 と、朱塗りの盆の上に猪口を転がす。銚子はさすがに空になった。もともと酒はたしなむ程度であり、試衛館の笊連中とは違う。
 千鶴の作った酒のあても綺麗に空。
 夜更け。仕事につめている土方のもとにぬくい茶とささやかな夜食を差し入れる、屯所でのいつもの夜を思い出した。いつの頃からは判然としないが仕事に明け暮れている土方の体を気遣うように千鶴が差し入れてくれる様々な。例えば、さり気無く出されるお茶や、添えられた暑気払いのあっさりとした胡瓜の酢の物やら冷奴、さりげなく盆のとなりに団扇がおかれていて笑った。秋月には渋めの茶に月餅、寒くなれば繕いあとの新しい暖かな綿入れを。そして花冷えには四月一日をした上掛けを。細やかに差し出される夜食や茶、足りない小物の類、繕われた縫い物、時には街に出て頂いたとか言う花まで。それらは、決してでしゃばったものではなかった。
 細々としたことに気の付く、千鶴ならではの気遣いは押しつけがましいものでなく、時折差し入れられる夜食は懐かしい江戸の味がした。
 ……監察方の報告を待ちながら策謀を巡らせていたはずが、いつの間にか栓の無いことを考えている。残酷と平静な激情を矛盾なく両立できる土方にしては珍しい。
 視線を細め、血に濡れた夜更けを見透かすように顔をあげると、障子戸にすける有明の月が細い。
 膝の上に転がる小さな体は薄明かりに照らされて仄かに影を刻むが何よりしんと冷えた季節には温かい。子どものような、熱いくらいの体温の上がり方は確実に酒精のためであろうが。
「猪口一杯でこのざまか」
 くつくつと飽きれ混じりに笑う声は密やかで低い。
 小さな耳も結い上げた髪がこぼれるうなじも真っ赤に染めて、穏やかな寝息を立てている千鶴は目をさます様子もない。
 手渡された猪口を勢いよくあおいだ、と思った次の瞬間には千鶴はくらりと頭ごと体をゆらがせ、こてんと胡座をかいた土方の膝の上に豪沈した。あまりのことに呆れより先に笑いが出た。なれていないと知っているのにこんな強い酒を飲ませた土方が一方的に悪い。だがいくら何でも予想外の弱さである。
 しかしたかだか猪口一杯、それも上等の諸白だ。悪酔いはしないだろう。
 膝の上で安らいだ吐息を繰り返す娘の薄く細い肩に、引き寄せた丹前をかけやる。眠る前に比べうるまでもなく、その吐息は穏やかだった。
 土方から、きちんと揃えた両手で、猪口を受け取ったその顔が忘れられない。
 千鶴にとってこの酒は人を死に至らしめた毒杯だ。
 こうでもしなければ今宵は土方に付き合って一晩中でも起きていただろう。無茶な飲ませ方をさせる気はなかったが、最初から潰すつもりだったので謝るつもりは毛頭無い。
「ぅ、ん……」
 寝苦しげに身をよじった千鶴が子どものように体を丸めた。その小さな頭を叩いて、肩に乱れる艶やかな髪の結元をはらりとほどいてやると、土方の膝の上になんの癖もない黒髪がしなやかにこぼれた。
 風に散る花のようだと不意に思うのはしんと冷えたる花冷えの夜の戯れ言か。なんとなく髪に指を絡ませればそれこそ桜木の散る様のように呆気なくほどけ落ちていく。
 さらと零れるまっすぐな髪と似た、千鶴の性根の素直さは血濡れた組織に否応なく組み込まれた頃と全く変わっていない。
 千鶴が土方に差し入れる、夜食や小間物などの様々な心遣も、今宵の宴の差杯も、仕様は同じ。結果だけが皮肉なほど真逆。心根の真直な娘は、きっと毒杯を差し出すより、心身を削ってでもさりげない心遣を差し出す方が似合いで、余程楽だろう。
 毒を作るより、毒杯と分かっていて杯を干す方が。傷付けるより傷付く方が。きっとこの性根には似合いであろうし、本人にも楽な生き方であろう。
 素直であるが一度決めたことを決して翻さず、貫き通す胆力と情の強さがこの細い体のどこにあるのか。……全く、と嘆息する。
「なりは餓鬼でも、こいつも一丁前に江戸の女ってえことか」
 生意気なと苦く笑う表情に比べて、小さな吐息に零れ揺れた髪をもう一度指で払ってやる仕草は酷く柔らかいことに土方は気が付かない。
 切れ長の双眸が静かに細められ、あどけない横顔をしんと見下ろした。
 ――情非ずという質の土方に躊躇いもなく差し出されるもの。ならば、差し出すままに受ける。
 血杯を作らせたことをすまないと思うことだけはしない。
 何か、何でもいいから。
 私に、出来ることを。
 ひたむきな千鶴から差し出された覚悟に、土方は相応しくあればよい。薄汚い仕事と知って尚申し出たのは千鶴だ。千鶴の覚悟を冒涜する真似だけは決してすまい。
 はらりと額とうなじにかかる髪を避けてやって小さな横顔をちらと見たあと、障子越しの有明の月を見上げた。わずかながらに灯りは薄い陰を生む。混迷を極める時代に暗渠を深く、刻み込むように。
 血臭のする腐った時代の中で差し出されたひたむきな覚悟に、せめてもの暖かな何かをらしくもなく見ている。何かとは、真心とか光とか希望とか唯一の何か、多分そんなものを。
 知性の狂った輩が跳梁する都で、無防備に差し出された優しいものを守るべく、鬼はまた明日から血に濡れる。
「……せめておめぇの血だけは流させねえよ」
 もう二度と。
 土方にあわせてあつらえた丹前は千鶴の肩に合わず畳に皺を刻んで、ほそいからだをすっぽりと覆っていた。その、肩に、あの夜のきずが残っていないとよい。……娘の柔肌には確実にあとが残るだろうと一瞥して解った傷であったが、得体の知れない連中が言う娘の血が、傷痕を奪えばよいと心底願った。千鶴が己の血統について、良く思おうと、悪く思おうと、望もうと望むまいと。
 せめてこの血だけは流させない。千鶴の差し出す無償の覚悟に、土方が返せるものはそれだけだ。
 からんと空の猪口が転がる。
 益体もない酒の夜。やがてその、返せると思ったものすら土方自身が奪うことになるなど土方もましてや千鶴すら、今は知る由も無く、たまはばきは今だけ憂いを払う。
 もう少しで桜も満開となる、有り明けの月が酒杯に沈むしんと冷えたる春の闇。
 鬼の膝の上で娘は目覚める気配もなく、穏やかに眠り、鬼は娘の眠りを密やかに守った。




 
 
 
 
 
 
 
 
 


next.