他愛なき日々こそ尊く。


logs.


* 火護り人


       
 
 

 雪下ろしの雷のあと、紫電の光を舞わせながら雪雲が空を圧迫し、人里離れた廃村を冷たい雪で閉ざすのはあっという間だった。山に押された鈍色の雲は容赦なく世界を白銀に染め、冷徹で無慈悲な冬をもたらす。人の住まわなくなった鬼の里の、人の暮らす市へと行く道はあっさりと閉ざされ、冬越えの準備を怠ることは即座に死神の鎌に首を掛けることと同義であった。
 雪深い、山奥に暮らす経験は、二人ともほとんど持っていない。村が焼かれてから千鶴は自らの記憶を封印し、江戸で幼少期の四季を過ごした。当然雪のある田舎暮らしになれているはずもなく、たとえ冬であろうとも食品や生活に困らぬだけの糧は全て町中で手に入った。米、味噌、醤油、冬野菜、薪、炭、火鉢、火打ち石、綿入れ、雪駄、冬用の夜具。その全てが、朽ちた里では手に入れることは困難を極める。
 米はともかく、味噌はタネさえあれば自分で丹精できる。糠もあればおつけものも。問題は冬の間の糧食と燃料だ。
 市に降りたとき、親切な老婆が冬支度は進んでいるのか、とまだまだ若い夫婦を気遣いあれやこれやと教えてくれなければ、最初の冬は鬼の体力のみで乗り切ることになっていたかもしれない。最初に手に入れたのは二歳の驢馬。男手があるとはいえ一人。冬に備えての大支度には荷馬車がどうしても必要だ。馬でなくていいのか、と沖田が問えば、この地域の驢馬は、寒さと雪道に強く、剛健なため荷運びに重宝されているらしい。それと台車を一つ。芝刈りをするにしても、薪を取るにしても、今の時期から森に入っても、薪を乾燥させるには間に合わないから最初の年は燃料も買うと決めた。囲炉裏用には木炭より薪を選んだ。煙は出るが、食材を燻すことが出来るし、何より暖かさが段違いである。火鉢に使う木炭も仕入れた。囲炉裏と火鉢は手入れすれば使えるものが残っていたのは幸運だろう。
 雪村の家は名家だ。関東の鬼を統べ、様々な隠れ里とも密やかな交流があったと言われている。家には贅沢に木炭が使われ、食事も夜具も暖かで不足なく、千鶴はこの村で平穏に暮らしていた。それでも、集中豪雪ともなるとどの里からも道が閉ざされるため、薪の蓄えが途切れたことはなかったはずだ。山の木々は豊富にあるから、冬になる前に乾燥させた薪をたんと蓄えておくに困窮したことはなかっただろう。その証拠に、焼け落ちたどの家の裏庭にも薪小屋と思われる焼け跡があった。
 千鶴の生家は燃やし尽くされ、跡形もなかった。さとの主梁の屋敷だったから、幕府軍にとっては格好の標的とされたのであろう。焼け落ちた家を見れば、疾うの昔に薄れた記憶だと思っていたのに、どこに何があったか、解ることが寂しかった。薫や父も羅刹の研究と雪村復興の悲願のため、その象徴として、前の里長の屋敷を使っていたのだろう。所々に修繕のあとがあった。この家にする?訪ねられて、千鶴はいえ、と短く首を振った。
 「どうして?」
 いつも千鶴をからかい倒して遊ぶことこそ主上の命題としている節がある沖田が、腕を組み、斜に手を構えながら横目で千鶴を見下ろしていた。
 その視線を見返すことが出来かった。きっと自分の瞳は痛烈な感情で染め抜かれている。痛みかもしれない、激情かもしれない憎しみや憎悪かもしれない。今更隠し立てするような間柄ではなかったが、それでも醜い感情を恋い慕う人に見られることは耐えられなかった。
 「火が……追いかけてくるから」
  掠れた声で、それだけを答える。そう、と沖田は頷いて。
 じゃあ持ち出せるものだけ持ち出して、別のところに住もうか。
 十数年放置された廃屋と、ここ数年修繕され、人の住んでいた屋敷のどちらが住みやすいかなど問答の意味もない。それなのに沖田はあっさりと住みよい空間を放棄した。
 「っ……でも、今から他を修繕するのは」
 「村はずれにいい感じの家があるよ。立派なお屋敷じゃないけど、家畜小屋と畑がある。中もそう朽ちてない。此処にある最低限のものを持って行けば、二人で暮らすには十分な広さだけど?少なくとも屯所で雑魚寝よりは快適だね」
 君がいるし。
 くしゃっと。前髪をかき混ぜられて、泣きそうになった。それから、ゆっくりと、生活を回し始めた。夜にしか起きられない体は徐々に慣れていき、朝日の中をゆっくりと微睡む代わりに、穏やかな昼前の目覚め。星が降り、深夜もふける頃に床につく。鬼から人へ、生活する日常だけでも、体を戻していく作業は泣きたいほどに穏やかで穏やかで。
 そうして今、二度目の冬を迎えている。
 囲炉裏にの火種を掻き出して薪をくべる。火棚に向けて煙が上がる。燻しておいた薫製を手早く取り、糧食を保存しておく為の小屋に軋む戸を押し開けて向かった。
 粗末な小屋が半分雪に埋もれながら建っている。土間の一番奥で動物の鳴く声。
 「ごめんね、待った?セツ」
  愛嬌のある顔をして、足腰の強い驢馬は名前を呼ばれて嬉しそうに鼻面を寄せてきた。手早く薫製を桶にしまうと、隣の味噌樽の案配を見ておく。一緒に持ってきた壺に、しろい上澄みを掬い取ってから味噌を入れ、味噌樽をしまってことんと壺をその上におく。
  小屋の中は薄暗い。わずかな明かり取りがほんの少しだけ空いているだけで暗闇と大差ないが、鬼の血がそうさせるのか、羅刹の血がそうさせるのか特段の不自由は感じずに暗闇の中でも移動が出来る。――鬼の血と、羅刹の血が安定したからこそ、自然に力を使えるようになったのだろうか。
 力を使えば使うほど寿命を削るとは承知している。己の命を削ることを厭わない、といえばきっと沖田は千鶴を冷ややかに見つめ激高するだろう。けれど、自然に発現する力は千鶴には押さえがたかったし、何より、こうして日々を幸せに暮らしていって、そうして迎える死があるならば、それは寿命なのだろうと考えている。
 ただ、そのとき沖田が傍にいるか、いないか。
 千鶴にとってはその方がよほど重要だ。
 小屋の隅に転がっている桶を拾い上げて、小屋のすぐ傍にある井戸場に向かう。空は曇天の重い雲と、時折その狭間から見える薄い青空の高さの明暗が眩しかった。冷える空気に吐息が凍る。かじかむ手のひらで滑車を手繰り、水を持ち上げた。
 井戸の水は何故凍らないの、と小さな頃父に聞いたことがある。地温は一年を通して一定だから。難しいことを言われ、眉を寄せて千鶴が首をかしげると、父は笑って大きな手のひらで千鶴の頭を撫でた。
 土の中は暖かいんだ。土の中を通る水も温まる。それに、土の下の水は流れていて止まらないから、凍らない。流れるものは凍らないの?そうだよ、流れるものは留まらないんだよ、千鶴。世の中は無常だということと同じなんだよ、無くならないものはない。朽ちないものもない。……とおさま、それは千鶴には寂しく聞こえるの。そうだろう、そうだろう、でも、新しいものはいつだってどこかで生まれてくるんだよ。朽ちない人々の努力の影で言祝がれて、生まれるんだよ。
 父が、言祝いで、生まれることを願ったのは雪村の再興だった。千変万化の世の中で過去の復讐と安らぎに執着した。それは停滞なのか、努力なのか、解らないけれど、沖田と行きたいと願った千鶴にはどうしてもどうしても――受け入れられないものだった。
 からからからと滑車が廻る。ばしゃん、と釣瓶が井戸の底に落ちていった。あわててもう一度たぐり寄せ、滑車を回す。
 父様、朽ちないものはないんです。朽ちたあとから新しく始めることは出来るけれど、それは朽ちてしまったものと同じものではないの――。
 汲み終えた水を桶とたらいに分けて、桶を両手で持ち上げる。小屋に戻ると、まだまだ若い驢馬が黒い瞳で千鶴を見下ろしてきた。まだ?と鼻面を寄せて首をかしげる。戦場で散々馬にならされた経験から、大きな動物は怖くない。むしろ戦場を駆けた馬の賢く優しい瞳には感嘆したものだ。首筋をかき撫でてやりながら、飼い葉を餌箱にばらまき、水の入った桶をそのままどんとおく。冷たい水にもかかわらず、セツは嬉しそうに鼻面を突っ込んで渇きを癒し、飼い葉を食み始める。その間に古くなった寝藁を手早く集めて、新しい藁を敷いてやる。一通り作業を終わらせると、もう一度セツの首筋を撫でてやってから千鶴は小屋を出た。とたん、冷たい風が首筋を攫う。思わず綿入れをかき合わせると、後ろでくくった髪を下ろした。ぱさりと落ちる髪の毛の毛先だけ編み込み留めなおすと、首筋が隠れる。踏み固めた雪の小道を小さな足跡を残しながら裏の畑に廻ると、雪の中から埋めておいた大根と白菜をほり出し抱え込むと、千鶴は囲炉裏の煙を上げる茅葺きの家へと向かった。
 
 囲炉裏では、夜のうちに仕掛けておいた鍋に湯がすでに沸いていた。もうもうと白い湯気が室内を薪の明かりと一緒に暖めている。千鶴の子どもの頃使っていた屋敷は、襲撃を受けたときの火災が原因であろう、火棚や煙出しは大がかりな手入れなしに使えるような状態ではなかった。父や薫は炭や火鉢を多用していたらしい。此処近年、幸いにもことのほか暖かな冬が続いたせいもあったのだろう。
 沖田が見繕ってきた家は意外にも炉端、炊事場、火元や、囲炉裏しっかりした、使い勝手の良さそうな家屋であった。広くはないものの、囲炉裏の煙を分散させて段を屋内に広める火棚もしっかりとしており、すすを払うだけで使えたし、煙を逃す煙出しも広めに取ってあった。井戸にも近く、水は新鮮に今もわき出していたし、井戸場には水仕事が行えるだけの石造りの炊事場が草を生やしていたとはいえ、十分使える状態で整えられていた。
 畳だけはさすがに使い物にならないから、外から寝具とともに持ち込んだものだが。
 まさかこんなまっとうな選択を、沖田がするとはとうてい思えず、意外と驚愕を顔に大書して千鶴は沖田を見上げ、その顔ににっこりと笑った沖田に軽くしめられ数日間いじめられたことは思い出してはいけない新婚当時の暗黒史である(千鶴にとって一方的に)。
 「それほど裕福な生活をしていた訳じゃないしね」
  さらりと言われた言葉に、新撰組に入ってから今まで、激動のままに流されて、この人のことを、本当はほとんど知らないのではないかと千鶴は不意に思い知らされた。
 「そう、何ですか?」
 「うん、そう。武家とは言っても借財と貧乏には事欠かなかったし、口減らしに出された先が若先生――近藤先生のところだっただけで僕は満足だったけれど」
  腹も詰めさせてもらえなかったのか。
  斬首という処断。国のために信じた人は罪を着せられ断罪された。助命嘆願は全て一蹴されたと聞く。
  近藤さんのことをはなせるようになったのは、土方さんと大げんかして、私の因縁を断ち切ってくれる手伝いをしてくれて、そのあと、一緒に行きたいと願う想いが重なったから。そのころから沖田は穏やかになった。
  千鶴の傍で安らいで笑い、寛ぎ、時折何よりも好きだった人のことを大切に、千鶴に語ってくれる。悲しい思いでは決して癒えはしない。今も沖田の心をずたずたに切り裂く惨い傷跡だ。千鶴に出来るのは、その傷跡に寄り添うことだけ。……寄り添うことを許してくれたのが、泣くほど嬉しいなんて秘密だ。本当に、本当に、命より近藤さんのことが大事だった。その思い出に無遠慮に踏み入ることを絶対に許さないだろう沖田が、千鶴にだけは寄り添うことを許してくれる。それが幸せでなく、何だというのか。
 「幸福と」
  言うのだろうか。
  畑から取ってきた野菜を炊事場に置いて、さて、と腕を組む。沖田が起きるにはもう少し時間が掛かるはずだろう。出来るなら作りたてを食べてもらいたい。といっても、作れるのは質素な雑炊におつけもの、汁物くらいだが。うん、と頷いたあと、手早く千鶴は野菜を切り、乾し鮭をほぐす。塩気があるから、雑炊は味付けに注意しよう。あとはいくつかの雑穀を用意した。汁物には大根菜を使って、煮干しで出しを取っておみそ汁にしよう。とんとん拍子で下ごしらえをすませると、竈の火種もいいあんばいになったから、といでおいた米を炊く。その間に囲炉裏の五徳に乗せておいた鍋から湯をすくって小さな鍋に移し替えると冷めないように蓋をして、自在鉤に駆ける。食後の白湯にちょうど良い。
  台所の隅から引っ張り出してきたぬか漬けを切りそろえて、皿に並べる頃にはちょうど竈の米も、蒸すだけになった。冬場と冷え、火元で動いていると中々に熱い。囲炉裏と竈の火の様子を見て、少しだけなら離れて大丈夫だろうと目算を付けると千鶴はもう一度外へ出た。

 
 
  昼には少し早い。朝には少し遅い。常緑樹が茂る山の中で、葉を落とした樹木が寒々しそうに立っている。
  井戸場で千鶴は抱えていた洗濯物を、水を汲んでおいたたらいにえいやと突っ込んだ。
 「冷たっ…!」
  肺がすくむような冷たさに体の芯が一気に冷える。火元を熱かったときのまま、汗をかいたまま外に出たからか、急に体温が下がった気がした。それでも竦んでいられない。だいたい、京都の冬の寒さだって水の冷たさだって似たようなものだ。そう言い聞かせて、二人分の衣をせっせと洗い出す。大所帯だった頃に比べれば遙かに楽な作業だ。不意に陰った日差しに、千鶴は空を見上げた。
  緩やかに東風が吹いている。ああ、もうすぐ晴れ間がのぞきそうだ。なら、縁側にお布団や綿入れを出して干してしまうのもいいかもしれない。
  ぴしっとひび割れた小指の先がつんと痛むが、久方ぶりの晴れ間に千鶴の心は凪いでいた。積み上げた洗濯物の小山は火棚に掛けておけば明日には乾くだろう。ざぶんと井戸からくみ上げた水をたらいに換え移して、釣瓶を引き上げたあとがくっきりと滲んだ、かじかむ手のひらにほうっと息を吹きかけた。
 そのとき、再び空が陰る。雲が流れるのが早いのか、と思って上を見上げると気配もなく見知った夫の顔がひょこんと千鶴を上から見下ろしていた。
 「…………」
 「…………え、ぇ、うひゃあ!?」
 ばしゃんとたらいの中に手を突っ込んで仰け反った千鶴の肩を支えながら、綿入れの袂に手を突っ込んだ沖田が深々とため息をつく。
 「君、さ」
 「え?」
 「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど本当に馬鹿だったとは僕も嘆かわしいんだけどまあ馬鹿な子ほど可愛いって言うし」
  突然の物言いも、その無礼さも、慣れたものではあるがかちんと来ないわけもない。理由も無しに言われる言われもない。
 「……喧嘩売ってらっしゃいます?」
  買いますよ、と不穏な声を出した千鶴に向かってはっと肩をすくめると、猫が鼠をいたぶるような顔で沖田がにこりと笑った。
 「売ってるのは千鶴でしょ?」
 「は?」
  と、言った瞬間、ぐいと腰が捕まれる。腹に手を回されて、軽々と抱き上げられたと気づいたときには、千鶴は目をまん丸くして沖田の肩に縋るしかなかった。たくましい腕にちょこんと腰掛けるような格好で、背中をすっぽりと片腕に抱き込まれる。身動きも出来ない状態で、千鶴はとたん頬を真っ赤に耳まで染め上げた。
 「お、沖田さん!?ぬれちゃいます!」
  じわりと沖田の羽織った綿入れに千鶴の手からしずくがこぼれ落ち、色を濃くして染みを作る。
 「別にかまわないよそんなこと」
  そんなこととは何だ、洗濯物が増えるのはゆゆしき事態ではないか、とよほど言い換えしてやろうと思ったが、次の瞬間、少しだけ頭の位置が、抱き上げられて高くなった千鶴の視界に沖田が顔を寄せてくる。
 「は、ぇ。え!?」
  どんどん近づいてくる顔は吐息が掛かる距離。目前に迫る視線の強さに耐えきれなくなって、千鶴が思わずぎゅうっと手のひらで沖田の着物を握りしめ、きつく目を閉ざす。
  こつん、と優しく額がくっついたのはそのときだ。そのまま時間が止まったような感覚に、顔中の体温が上がる。唇と唇の距離の近さ、白く凍る吐息の暖かさ。瞬きする感触さえも解るほど。鼓動の音すら聞こえるような近くで、真っ赤に固まった千鶴は抱き上げられたまま身動きできない。
  しかし、その沈黙は長くは続かなかった。深々とため息をついた沖田が、くるりとその場できびすを返した。勿論千鶴は腕に持ったまま。
 「お、おきたさん?」
 「熱があるって自覚してる?酷くなったら看病するのは誰かって解ってる?」
 「……え?」
  熱?と、鸚鵡返しに千鶴がぽかんと沖田を見下ろすと、薄茶の瞳が心底あきれたとばかりに千鶴の背に回した手のひらを、頬に当て、首筋をなぞった。その温度がひんやりとちょうどいい暖かさで気持ちが良くて、とろんと気分が溶けそうになる。触られるのが気持ちいいだなんて、この人に出会って初めて知った。そして生涯、この人以外には思わないのだろう。遠慮したい気持ちよさも有り余るほど与えてくれる手のひらだけれど、皮肉混じりの言葉とは真逆に、今はただ、優しいだけの手のひらだった。
 「昨日、寒気がするって言ってたのは誰?それなのに朝から起きて何してたの」
 「お洗濯、とお料理と、あと水汲みとセツにご飯を」
 「全部禁止ね、今日一日」
 「でも沖田さん、まだお料理もお洗濯も途中で」
 「千鶴」
 ひやっとした声が、氷塊が。背中を滑り落ちていく音を聞いた気がして千鶴は硬直した。
 「……千鶴、もう一度僕の名前を呼んでくれる?」
 「……沖田さん?」
 「そう言ったら、お仕置きするって言ったよね?」
  やんわりと、しかし捉えられ動けないまま、うなじ事頭が固定される。覗き込まれる顔が悪辣に微笑んだ。弧を描く唇を千鶴が硬直したままで見つめる。目を閉じる暇もなく、雪に冷えた唇が押しつけられた。
 「おき、……んんっ……!」
 押しつけて、重ねて、重ねて、重ね直して呼吸すら許さない。ぺろりと千鶴の唇をなめるとつやを増した互いの瞳が一瞬絡んで閉ざされる。息も継げないほど重ねられてかたかたと千鶴がふるえ、細い指がきつく沖田の着物に皺を刻んだ。
 「ふは、ぁ」
  苦しくて熱くて朦朧としてくる思考回路が呼気を求めて唇を開かせる。その隙間をこじ開ける、悪辣な優しさと熱さが千鶴の脳髄を犯していく。こんな口づけは閨の中でするものだというのが、娘だった頃と変わらない千鶴の常識で、それでも誰もいないからなどと飄々と嘯く沖田にはいっかな通用したためしがない。やんわりと口の中を荒らされる、強引な優しさとやけどしそうな熱さで頭がくらくらする。放して欲しい、でも放さないで欲しい、頭がぐちゃぐちゃになってくる。ぬめる感触が卑猥に千鶴を絡め取り、吐息事全てを奪ってく。添えられたうなじの手が熱いのか、自分の膚が熱いのか、解らない。とろけた感触がわずかに離れて、ぁ、と千鶴が震えるのに、くつりと笑って沖田はゆっくりと瞬きしながら、その双眸で千鶴を絡め取るように覗き込んだ。
 「千鶴、僕の名前、呼べるよね?」
 蠱惑的な声が耳に直接響いてくる。耳朶をゆっくりと舐められると同時に、声と吐息が吹き込まれていく。
 「そ、…じ、さ」
  舌足らずな唇をぺろりとなめて、真っ直ぐ、視線をはずすことを許さずに沖田は千鶴に蠱惑的に微笑んだ。
 「千鶴?」
  ちゃんと呼べ。
  その意図が伝わったかのように、熱に浮かされ艶を増したぬばたまの瞳が、涙に潤みながら沖田を見つめて、絡み取られていた。いや、絡み取られているのは、本当は。
 「そうじさん……」
 吐息混じりの声に、満足げに口端を上げた沖田はゆっくりと瞳をすがめた。
 「いい子だね」
  ご褒美を、上げるよ。
 上がりすぎた熱に小さな口が苦しげに息を継ぐ。くらくらと明滅する視界に熱い意識がもうろうとしてくる。  融けていく記憶を最後に、また熱い口付けに絡め取られながら千鶴はゆっくりと、世界で一番安堵できる腕の中で、意識をとろけさせたまま手放した。
 
 
 しん、と耳に痛い程の感覚を覚えて千鶴はまどろみから浮上した。
 雨戸を開け放った障子戸の向こうからは、仄暗い陽光が斜めに降りてきている。ぼんやりとした気分でそれを見つめながら、千鶴は微睡みに抗えず再び目を閉ざした。ぱちりと囲炉裏の薪が爆ぜる。赤い火の粉が、燃え尽きて折れた薪からぱっと舞う。緩慢に瞬きを繰り返しながら、その光景を懐かしく、ただ懐かしく、千鶴は見つめていた。
 何の不足もなかった。永遠と続くと思っていた小さな頃のお伽噺。父が、母が、祖父母が、一族のみなが、何よりも兄が傍にいた。炉端で猫のようにまるまる千鶴の小さな体に、羽織るものをかけてくれた母の綺麗な手。優しく頭を撫でてくれる父の手。孫のいとけない姿を穏やかに見守る祖父と祖母。
 そして傍らで手を繋いでくれていた、自分と瓜二つの。
 面影。
 「起きた?」
 はらりといつの間にかほどかれていた髪の毛が、幾度も幾度も梳かれていることに気がついて千鶴は有り余る幸福感と、変わり果てた過去との残像にほほえみを浮かべた。
 「……はい」
 「うそつき」
  まだ眠いくせに。笑いながら、夫は穏やかに千鶴の髪を梳き撫でる。
 「まだ、昼前だからもう少し眠れば?」
  気まぐれで残酷で、千鶴には何より優しい声は心の中にゆっくりと降り積もる。けれどその言葉にむずがるように首を振って、眠りの縁から自我を無理矢理千鶴はたたき起こした。
 「おせんたくが……」
 「済んでたぶんは干しておいたから。あとは後回し。倒れたのに馬鹿なこと言うならたたっ斬るよ?それにこんな時くらい相手をしてくれてもいいでしょ」
 「あいて……」
 「遊び相手。僕が千鶴で遊ぶ」
 「けんかならかいます……」
 「熱が下がったらね」
 ねつ、と唇だけでつぶやいて、まだ判別としない記憶に千鶴は頭を振ろうとした。しかし、そのとたん頭が割れるような痛みが襲ってくる。
 「え、なに、これ」
  呆然としながら千鶴は自分の額に手をやって緩慢に瞬きを繰り返す。熱、頭痛、声が掠れて――これは何が原因かは考えない方がいい気がして本能的にさけたが、これは一般的に。
 「まさか、かぜ?」
 「以外の何だって言うの」
 嘘、と呟く千鶴に、あきれた沖田の声がかぶる。しかし、そんな言葉を聞いていないかのように呆然と目を見開いたまま、頭を振った。
 「だって、私、鬼で。かぜ、なんて、ほとんど、一度も――」
 「無かったから、といってこれからもないとは限らない」
  厳しさを孕んだ声に、千鶴は驚いて沖田の顔を見上げた。炉端に横になり、布団を掛けられて沖田の膝に頭を乗せているのだと漸く気がつく。あわてて頭を上げようとしたが、目眩と沖田の手に遮られ、再び膝の上に撃沈した。
 「でも、私は鬼で、かぜなんて――」
 「皹が治れ無くなったのはいつから?」
 思わず、押し黙った千鶴の手のひらを、大きな手が握る。鬼の治癒力の高さは尋常ではない。その治癒力の高さを凌駕するほど、山の冬は厳しいのだ。皹の残る手のひらを、沖田はゆっくりと撫でて指を絡めた。
 「綱道さんは蘭方医だった。医術の知識なんて一朝一夕で身に付くはずがない。昔から、千鶴が生まれる前から医学に通じていたんだろうね。こういうのは家が代々伝えていくものだし、おそらく、里で必要な役割だったんじゃない?それにこの里が無くなったのは千鶴の子どもの時、その無くなるときまで、誰一人風邪を引かず、病で身罷った人は居なかった、って断言できるの?」
  その言葉に、何も言えなくなって千鶴は押し黙った。しゅんしゅんと湯気を上げる炉端の鍋。湿った暖かい空気が乾いたのどに優しかった。
 「その上今の君の体には羅刹の血が入ってる。何が起こるか解っている僕以上に、何が起こるか解らないのは実は千鶴の方だよ」
 「総司さん!」
  激しく言葉を遮ったとたん、気管から乾いた咳が溢れてくる。口元を押さえ、背中を負って苦しげに咳を繰り返す千鶴の細い背中を沖田の手のひらがさする。
  その手のひらを引き寄せて、荒い息の下、無理矢理押さえつけた咳をのどの奥に飲み込んで、硬い手を腕事胸に抱きしめる。
  何が起こるか解っている沖田。逝く先は屍さえも残さぬ死だ。寒い、ふるえがいっそう収まらなくなる。考えまいとする未来と、覚悟しているという感情。強くあれと思う願い。きっと、つらいのは両方とも同じだ。残されるほう、残していくほう、どちらも辛い。どちらがどれだけ辛いかなんて解りようがない、計りようがない。
 「い、わないで」
  今だけは、お願いだから。いっそ自分の方が先に儚くなってしまいたいと、言うのを我慢しているというのに、そんなことを沖田が言うのは許さない。
  きつく握りしめた腕ごと手のひらに頬を押しつけて、必死に泣くなと心の中で絶叫する。
 「総司さん」
 「事実から目をそらしていても仕方ない」
 「でも」
 「でも、今幸福なのは真実だ」
  聞こえた言葉が信じられなくて、無防備な瞳が沖田を見上げた。皮肉げでもなく、いたずらをたくらむような顔でもなく、ただ穏やかに見せる笑み。千鶴と生きると言ってくれたときと同じ笑顔が、柔らかく千鶴を見下ろしてくれていた。
 「まあいいよ。僕が悪かった。病人には優しくしなきゃ寝覚めが悪いしね」
  あっさりと失言を認めながら、千鶴の前髪をさらりとかき分けてやり柔らかな顔で潤んだ瞳を手のひらで覆ってやる。堅い、手のひら。未だ剣を握る。この頃体調が思わしくないのに、沖田の生き方はいっかな変わらない。愛しくて歯がゆい。昨夜だって、千鶴より朝が辛そうだったから起きずに休んでいるように言って床を抜けてきたのだ。
  でもこの人から剣を取り上げたら、この人は沖田総司では無くなるのだろう。
 「鬼だろうと人だろうと、いつかは朽ちる、死ぬ。解る?」
 「……はい」
 「人より丈夫だろうから、怪我もしにくい、病気にもかかりにくい。結果的に長命。これも解る?」
 「はい」
 「でもそれを理由に己を過信して無理をするのは馬鹿のすることだよ」
  解るね、とやんわりとした言葉に、千鶴はこくんと頷いた。
 「君が思う以上にきっと僕は君を大事にしたい。……君で遊べなくなるのは、つまらないから」
  きつい言葉にこれほどの愛情を込められる声の主を千鶴は一人しか知らない。
 「わたし」
  小さな声が沖田の膝に響く。返事を返す代わりに、柔らかな黒髪を梳いてやった。
 「今の暮らしが好きです。出来るなら、ずっと此処でこうやって一緒に」
 「……そう」
 「そうじさん」
 「なに」
 そばにいて。
 眠りに落ちる前に、飲ませた薬が効いたのか、体力の限界が来たのか。ほろりと冷たい滴を零して千鶴の瞼が閉ざされる。
 解ってるよ、と言葉にならない優しい手が、千鶴の頬を柔らかく撫でてくれた。
 
 炎は恐ろしい。焼けただれた屋敷、父、母、祖父母、奪われた兄、家人、村人、仲の良かった子どもたち。全て一夜にして奪い尽くされ焼き尽くされた。思い出してから、本当は時折炎が怖い。けれど。
 ぱきんと薪が頽れる、爆ぜる火花。暖かな灯火。夕餉の明かり。
 目を閉じる瞬間、見える暖かな、けれど激しい火にも似た瞳に宿る、焦燥のような、焦がれる、自分を求めてくれる光、案じてくれる眼差しは熾火に似ている。高温で燻り続け決して絶えることのない炎。
 この火は、愛しい。
 柔らかなぬくもりに包まれながら、千鶴は暖かな闇の中に意識を融けこませた。傍にある炎が絶える日が来ても、この胸に移された熾火は決して消えることはないのだろうと思いながら。
 
 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 


プリーズブラウザバック。