他愛なき日々こそ尊く。



logs.


* 傍。



 いつものように、ことんと茶碗をおいてみる。白地に優美な縹色で伸びやかな季節の花が描かれた茶器は、一年のほとんどを冬に閉ざされているえぞの地にて、わずかながらも彩りを沿えているようであった。乾いたましろい雪原に立ったときの厳然たる、人を拒む厳しさとそれゆえのとうてつした美しさは千鶴の心を鷲掴みにしてあまりあった。
 こんなにも、厳しい地にて、背負わされた重荷を独りでかかえこみながら数ヵ月、千鶴の居ない間を土方は戦に明け暮れながら過ごしたのだ。
 その心境がいかほどであったかは千鶴の理解のほどを軽く越えていた。
 もちろん、土方においていかれた千鶴の心だって土方は性格には理解に到ってはいないと考えている。……この人はこのあとも幾度も危難をくぐりぬけて駆け抜けて、そのたびに千鶴を危険から遠ざけようとするのだろう。
「茶をたのんだおぼえはねぇぞ」
 いつもどおり、書類から顔もあげずに土方の決まり文句に僅かに唇を上げる。
「はい。頼まれていませんから」
 朗らかな娘の声に、にがむしをかみつぶした様に、秀麗な眉間に皺を刻んでようやく土方が顔を上げた。
 その鋭い眼光を前に畏縮せずに、にこやかに千鶴は盆を抱えて相対している。その無言の攻防の行方は、ふかぶかと溜め息をついた土方の敗北で決まるのがいつもの流れだ。
「……ったく、仕事もおちおち進ませられねぇ」
「京にいらしたときからいつもいつも無駄にお仕事をしすぎなんです、土方さんは。だから、わたしが邪魔をして、足を引っ張るくらいで釣り合いがとれるんですよ」
 不機嫌な声を華麗にやりすごして、華奢な指先がどうぞさめないうちに、と茶を勧める。
 もう一度、溜め息をついて土方は茶碗に手を伸ばした。土方の好みに入れられた渋さと温度、優美に描かれたさざんかの花びらの散る様に目を細める。
 まだ本州にいるころ、雪道に散るさざんかの赤い花びらの様に感嘆の吐息を漏らしてみいっていた千鶴の横顔をふと思い出した。
 あまりに見事にちりゆくものだからまるで桜の花びらのようだった。
 その様をたまたま土方が誉めた事がある。
 そんな細やかなことを幾度もつみあげ、丁寧に拾い上げ、あみこむように、千鶴は柔らかな心の欠片を無償に土方に差し出すのだ。幾度も、傷付けても、おいていかれても、なじっても、何度でも、柔らかに、心ごと、土方に向かって手を差し出すのだ。
「……過ぎた女だな」
 全く、と着いた溜め息が傾けた茶碗におとした呟きとともに消えていく。
「何かおっしゃいましたか?」
 不思議に首を傾げる千鶴の髪がはらりと落ちた。
「ああ、言ったが教えてやる義理はねえ」
「な、なんですか。そんなこと言われたら逆に気になるじゃあないですか……!」
 子犬の尻尾のように髪をゆらして噛みついてくるさまは、いっかな、あの頃と変わらない。
 なのに千鶴の心はこんなにのびやかに、しなやかに育った。こんなろくでもない男をひとり、まるごとかかえこめるように。
「土方さん?」
 じっと上目使いに大きな瞳が土方をにらみつけてくる。
「んな、気にすることでもねえよ」
「い、一度気になり出したらきがすまないものなんです…!」
 ぎゅっと盆を胸に抱き締めて断固抗議の構えの千鶴は、悪口でも言われたとでも思っているのだろう。
「教えてやろうか」
 ふと思い付いて口端を上げ、わざとらしく悪辣にわらってやれば、びくりと肩をすくめた千鶴が恐る恐るといった体で、疑わしさをいっぱいに瞳に宿して土方の顔をみる。
「え、遠慮した方がわたしのためになりますか?」
「そこら辺はてめえで判断するところだな」
「うぅっ」
 ことん、と茶碗を机に置くとそろりと千鶴が近付いてくる。土方の瞳の色をうかがうように。悠然と肘掛けに肘をつき、長い足をくんで秀麗な美貌と切長のそうぼうが笑みを刻む。
「……っなんでそんなに悪い人みたいな顔してるんですか!」
「心にやましいことがあるからそう見えるだけだろう」
「やましくないですよ!?」
 くるくる表情を変えて喰らい付いてくる千鶴にくつくつと笑いながら、唐突に土方の腕が延びた。あっというまもなく華奢な腕をとり、引き寄せる。
「ひ、ひじかたさん…っ?」
 うでのなか、すっぽり収まりながら固まった千鶴の小さな体。この細い体ひとつで、土方を支える。いつも、いつだって。支えられている。側に居ないと生きられない、体全体で叫ぶように土方を追い掛けてきた千鶴より、側におかないと文字通り死んでしまうのは土方の方だ。託された想いのありかはここにある。安らげる場所も。土方を守ろうと心も体も何もかもを与えようとする女も。……それを幸せと呼ばず、なんと呼ぶのだ。
「なんでもねえよ」
 林檎のように顔を染めてうつ向いた千鶴の様子に笑いながら、柔らかな体を抱き締めてさらりと落ちた髪からのぞく、真っ赤に染まったうなじに唇を寄せる。
「ひ、ひじかたさ…!」
 動揺で何がなんだか解らなくなっている千鶴の細い背をひとつぽんと叩くと、顔色は戻らないまでも、小さな額をことんと土方の肩に預けてくる。
「ひじかたさん」
 どうしたのか、とも、ただささやきかけるようとも、案ずるようにも聞こえる柔らかな声音。柔らかくまぶたを閉じるような響きに己の幸運を思う。
「体したことはいっちゃいねえよ、ただ当たり前のことを言っただけだ」
 ……ただ、土方には過ぎた女だと、そう言っただけである。
 雪の降る日の静かな部屋には、冷めた茶碗に、唇から額から感じる互いの鼓動。目を閉じれば感じるこの尊い熱を、この身くちるまで守るとこの僥幸に代えて、誓った。





 
* びーどろの残影。


「ぽとがらって凄いんですね…なんだか土方さんが有り得ない表情を浮かべて…」
「ほう、そんなに痛ぇ目にあいてぇか」
「いえいえいえいえ、そんなまさか!鬼だって十年に一度くらいはかくらんしますよね、はい!わかってますから!」
「命がいらないと見えるがきのせいか、俺の」
「きのせいですごめんなさい…」
「…ったくあほうなこと抜かしてねぇでお前もさっさと撮ってこい」
「……そのための女装でしたか。本当にあたらしもの好きですよね、以外に。……振袖なんて初めて着ましたよ、もう」
「ああ、初めてだな」
「え?」
「女の着るものなんざ真剣に選んだのは初めてだ」
「……だから」
「ん?」
「だから、笑ったんですか?」
「……は?」
「ぽとがらで」
「……千鶴?」
「これが最期だからって」
「……どうしてそう思った」
「わたしは、あのとき幸せなんていらないって言いました。だから。ご実家にお送りする分はわかります、でも、二回目のものはわたしにくれるためものでしょう?だから笑ってくれたんですか?私への、よすがに」
「……誰がんなこといった?」
「解りますよ、だって、土方さんのことですから。もう、何年。あなたのお側にいさせてもらっていると思ってるんですか、見くびらないで下さい。…あれは私だけに見せてくれる、土方さんのかおです」
「……お前は、いらんとこで目はしがきいて、強情なところはかわらんな」
「……見くびらないでくださいといったはずです!」
「せわしいのもかましいのもちょこまかと落ち着きがないのも」
「土方さん!」
「泣きっ面も変わらねえ。…昔からな」
「……土方さんの、せいです」
「ほう?」
「いつもいつもいつもいつも、苦しい。…………苦しくて、嬉しいから」
「千鶴」
「お願いです、優しくしないでください。桜の振袖もあなたの姿を写したものもいらない」
「俺の勝手に今更口を挟むたあいい度胸だな、むかしっから」
「そうです、変われません。何もいらない。わたしは、土方さんのそばにいられればいい。ぽとがらも振袖もかんざしもいりません」「ほう?」
「私のほしいもの、一つだけです。それで満足なんです。土方さんがいればそれで。お願いします、優しくなんてしなくていいんです…わたしはよすがにすがってあなたを偲ぶつもりはありません。優しさを形見にあなたのそばを離れることなんて絶対にしませんから」
「……俺が、優しかったことがあったか?お前に」
「はい。いつも。ずっと。優しかったですよ。土方さんの優しさを忘れた時はありません」
「…ったく…つくづく、奇特なやつだな、お前も。壬生狼の鬼副長に向かって」
「そんなことありません、ここにいる仲間はみんなそう思ってる。ここにいられなかった人たちも」
「……口の無い死者の言葉をかたるな。てめぇが死なせてきた同志を忘れた試しはいっときたりとてねぇよ」
「……はい。でも土方さんは、わたしに、優しかった。……優しくなかった時もてんこもりですけど」
「……ほぅ?」
「土方さん」
「なんでぇ?」
「優しくしないで」
「……」
「優しくしないでください。」
「理由は?」
「怖いからです」
「……随分な理由だな」
「違います」
「何がだ」
「もうすぐ、冬が終わる……だから」
「だから?」
「今、優しくしないでください。怖いんです。お願いします、お願いします」
「何」
「いかないでください」
「……無理難題をふっかけやがる」
「なく子も黙るしんせんぐみ鬼副長の御言葉ともおもえませんね。殺しても死なない人だとは思いますけれど」
「…千鶴」
「わたしをおいて、いかないでください」
「……ならお前も。なきやみやがれ。少なくとも今はお前の望みは叶っているだろうが。俺はここにいる」
「…でも」
「形見分けなんざ実家だけで十分だ。孫にも衣装に着飾ったこだぬきのぽとがらを持ってんのも話の種になるだろう」
「こだぬき……」
「試し取りした分はもともと捨てるつもりだ」
「捨てちゃうんですか?」
「処分は小姓にまかせる」
「……や、さしく、ないです」
「ほう?」
「私が、あなたの姿を、命令だからといって、処分できるはずないじゃないですか……!?」
「捨てようが捨てまいが処分は任せる。命令違反は士道不覚悟で切腹だな。あのぽとがらはおまえの裁量でどうとでもしろ。」
「土方さん…!!」
「いつまでもべそかいてんじゃねえよ、二割増しで不細工になるぞ」
「……っ!」
「笑え」
「わら…?」
「手本は見せた。お前は、ぽとがらとってる間俺に向かって笑うだけでいい。お前の願いは叶えてるだろうが、いま。次は俺だ。さっさと行ってこい」
「……優しいのか、優しくないのかわからないですよ?」
「んな大層なもんじゃあねえよ。惚れた女の晴れ姿をとっときたいと思って何が悪い」
「……こ、だぬきじゃなかったんですか?」
「知らねえのか?狸も女も化けるもんだ」
「化ける?」
「わからんうちはまだこだぬきだがな」
「……鬼よりたぬきのほうがまだましです!」
「分かったからさっさと行ってこい。さもなきゃ剥ぐぞ」
「……剥ぐ?」
「……こだぬきだな」
「優しくないです…」
「……今のこだぬきの言い分のほうが殺生だっつーことも分からんようじゃ優しくないのはどっちだかな」
「……土方さん?」
「何でもねえよ」
「でも」
「笑え。俺だけにな。……行ってこい」
「……はい」
 
 花のようにほほをそめ、ほんのりと微笑む少女の写真は、化けたなと土方を苦笑させるもので。女の怖さを改めて思い知ることになったと同時に、優しくしないでと泣いた千鶴の声ももはや子どもでは有り得ぬ願いであった。幸せなんていらないと慟哭した時そのままに、千鶴はただ穏やかに、優しく土方に寄り添うだけだ。向けられた、土方だけが千鶴に浮かべられえる笑みと共に。
 
 
 その年の五月、五稜郭にて千鶴のぽとがらは砕けた。戦線に向かう馬上の土方に被弾した弾の威力をわずかなりとも軽減し即死をまぬがれさせ、代謝に少女の微笑みをうつしとったびーどろは、永久に砕け散った。
 
 そのひとひらのびーどろを、史実は一片も語らない。ただ、のちに、時代の波から消えていった二人が、静かに、魂までも寄り添って、穏やかに暮らしていたことすら、時のかなたに忘れ去られて。
 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 


プリーズブラウザバック。