獣と姫君。 Without You. それは囁くような声で始まった。 いつもの訓練のマニュアルどおりに起動したランスロットの様子は、やっぱりいつもどおり。違和感を感じもしないし、至って良好。ラボの責任者不在の中の訓練だったが、問題は特になかったらしい。一通りシステムをチェックするために、片っ端からタスクを走らせる。この前積んだ新しい演算器はきちんと機能してくれているようで、少しだけ軽くなっていた。これなら戦闘の訓練値をもう少しあげても処理速度を落とすことなくできるかな、と思って居たときだ。 ぽーんと小さなピープ音。急に立ち上がったファイルに、え、と思わず声が出た。 スザクは何もいじっていない。搭乗者の意図しないところで始まった事態に、外部からの接触を疑ったが外の回線はいつもどおりだ。システムはオールグリーン。何事だと訝しんだ瞬間、真っ暗な画面に走ったSound Onlyの文字がぱっとスザクの顔を仄かに灯した。 「再生ファイル?」 止めようとキーパネルに指を走らせるが開いたファイルは強制終了のコマンドすら受け付けなかった。翠の目を瞬かせ眉を寄せる。いったいこれは何事なのだ。具合の悪いことにこのラボの責任者は留守にしているし、とキーを操作して何とか止めようとしていた、指は、小さく小さく響いた一音に、凍り付いたように止めらてしまった。 スザク。 全て、総て、総べて。他の何よりも深く心の奥底に静かに静かに、慟哭と共に沈めた声が、小さな搭乗機の中を密やかに走り始めた。最初は途惑うように、そして次第に囁くように、柔らかく柔らかく、彼に語りかける。 ――あの時、ランスロットから飛び出して、元気いっぱいに言ってくれた言葉は、万感の思いを込めて吐息のように囁かれて、スザクへの愛情ごと時を止めたまま、この中で眠っていた。一時間。スザクを思って彼だけを待っていたその間に、彼女はここにとつとつと言葉を残していた。ただ、来年の今のスザクにおめでとうと言うために。 一年後の彼へ届くようにプログラムされていたささやかで切実な、祈りの声はスザクに届いた。 もしもこの場にセシルか、或いはロイドが居たら、スザクが知らない間に除去されていたであろうプログラムはユフィの意志もスザクの意志も越えて届いた。彼らがここ数日をデスクワークに忙殺されていなければ、スザクの誕生日が今日であったことを思い出せれば。未だ心に血を流し続ける少年の魂を裂くような慟哭を何度も聞いてきた大人達は、静かに此の祈りの声を白き騎士の中、奥深くに封じただろう。 また、彼女も彼も、この声が、こんな状況の中で届けられるなんて一年前は想像もしなかったに違いない。お互い命の危険が傍にある日常だから、心のどこかにいつも覚悟はあっただろうし、人の世の無情さを子どもながらに解っている二人だ。亡国を踏みにじる帝国の娘と、踏みにじられた国の子どもだったから。 けれどまさか、こんな状況でこんな優しい声が、届けられるなんて子どもらには及びも付かなかったに違いなかった。 囁き声は続いている。非常灯が赤く点る暗い搭乗機の中で小さく囁く愛の言葉が、繰り返し繰り返しスザクの中で響いてく。 愛しさだけしか感じられない声が胸に届くたび、ひゅうひゅうと喉が鳴る。そのうち何も考えられなくなって、彼女の声の余韻だけを残して頭が真っ白になった。胸が痛くて背中を丸める。 手のひらが傷つくくらいに握りしめた鍵が痛い。でもそんなものより痛いのはこの心臓だ。かきむしってむしり取ってしまえたらきっと楽だ。助骨を力任せに折り取って内蔵を爪でかき分け、握りつぶしてしまえばいい。 この心臓ごと命を丸ごと彼女に分け与えられたら良かった。彼女が自分に生きていてもいいんだと言ってくれたように、スザクも彼女のために血だって肉だって心臓だって捧げてやる。命丸ごと彼女のものだっていい。――なのにどうして帰ってきてくれない。傍で笑ってと言ってくれたのにどうして。 「なんで、どう、……ぃ……フィ、ゅふぃユフィゆフィユフィ――!!」 押し殺された声が血を吐くように、音にならない呼吸が喘鳴のように、孤独な人間が命を削るように、ただ一つの魂を喚んでいた。 知らないうちに自分の息の根を止めるように呼吸を止めてた。それを体の反射が無理矢理正常に戻そうとしてむせる。限界まで抑圧された肺はがつがつんと激しく胸を叩いて、苦しく咳き込む。枯れ果てたと思えるほど流した涙がバカみたいにパイロットスーツの膝の上に墜ちていく。彼女の座っていた場所。肘をついてたコンソール。握っていた鍵。 堰を切ってしまえばもうユフィのことしか思い出せなくなった。春の色をした優しい微笑みが視界と思考を塗りつぶし、頑なに口にしなかった愛おしい名前がバカの一つ覚えみたいに後から後から溢れてく。 優しく笑った顔も、温かい手のひらも、少し拗ねた声も、スザクを見て幸せそうに瞬くすみれの瞳も、何もかもを呼吸をするより簡単に思い出せる。 少なくとも。 少なくとも自分より、自分の命よりユフィの命が大事だった。何よりも大切だなんて未熟な自分には口に出せる言葉ではなく、またそんな大きな器もない、狭量な人間だ。でも確実に解ることは自分よりユフィが大切だったことだ。 彼女との明日が何より欲しい。彼女が欲しいと言ってくれた自分ならいくらでもあげるから、お願いだから未来が欲しい。未だに。 大好きだなんて、生まれてきてくれてありがとうだなんて。そんな優しい言葉を誕生日に自分だって返したかった。一緒に居たかった。傍で笑ってて欲しいなんてそんなのきっとユフィより強く思ってた。どれほど欲しかったかなんてユフィは知らない。スザクがどれほどユフィのことをほしがっていたか、知らないまま。だってスザクは一度もユフィに、真実を言えなかった。彼女が内緒にしていたように、スザクにもユフィに内緒にしていたことがあって、それは照れくさいけれど暖かな言葉や気持ちだ。これから時間をかけて暖めていくはずだった、大切なものだ。 でももう出来ない。 伝えられない。 彼女は知らない。 凄く痛い、凄く悔しい、凄く苦しい、いやだいやだいやだ。息が出来ない。君が見えない。こんな言葉は聞きたくない。――何より欲しいから一時だけなんて与えないで欲しい。それがどれほど残酷か解っていない。一度だけ抱きしめてから離すなんて出来るわけ無いのに、どうしてこんなに優しい声で祈るんだ。 あなたのしあわせに、なんて。 小さな手のひらの幻影が見えた気がして闇の中で瞬くと涙がまたぼろぼろ零れていく。あなたを護って――そう、渡された小さな鍵を握りしめたとき、彼女の仄かな体温がうつって暖かかった。今はスザクの手のひらの熱だけ。悔しくて力任せに瞑った眼球の奥ががんがんと痛んだ。 小さな声が流れていたスピーカーからたまらなくなって目を逸らし閉ざす。ぎゅっと体を丸めて額にこぶしを押しつけて俯くと真っ暗な視界にさっき一度流れた少女の声がいっぱいに広がってたまらなくなった。 くらくらと酸欠の頭を振って指を伸ばす。パネルを叩く。 けれど電源ごと落としたOSは反応すらしなかった。真っ暗な画面は、先ほど突然開いたファイルをもう一度開けてくれない。無音の闇にキーを叩いた音だけが乾いてひび割れ、力なく手が落ちた。 でももしこの声がもう一度流れても、きっと同じ場所でスザクは切ってしまう。最後まで聞いたら足が崩れて、心が壊れて、二度と立っては歩けないだろう。 瓦解しそうな自分を支えてくれたのがユフィの思い出であるのと同じように、スザクを壊すことが出来るのも彼女の影だ。 ユフィと優しく、激しく、狂おしく、唇が何度も呟いて、呟いて、呟いて。 暗い闇の中でスザクは目を閉じた。何気ない彼女の仕草、傍にあった笑顔、吐息や、瞬き。彼女の全部がどれほど自分を支えていたか。出逢ってくれて嬉しいなんて何度言っても足りない。しゃんと背を伸ばして女性らしい仕草でドレスの裾をさばき礼を払う仕草にいつだって見とれた。一緒に歩く歩幅、好きな散歩の場所、スザクを見つけて、振り返ると嬉しそうに笑って名前を呼んで。 ここに座ってスザクのことを考えて笑って待っていてくれて幸せを祈ってくれて、スザクでいっぱいだったユーフェミアがスザクの傍にいないのはおかしいだろう。 「そんなの、おかしい。何処にも居ないなんて、うそだ。毎年言うって、傍にいるって、今。今言ってくれた……もういやだ」 全部知ってる。声も、形も、理想も、暖かな思いも、仄かな熱も、向けられる笑顔も。お願いだから、頼むから、縋れるならば何にだって縋るから、だから、傍に。 「かえしてくれ」 ――あの微笑みは、スザクのものだったのだから。 無彩色の暗闇の中で傷ついた獣が蹲っている。胸に燻るのは確かな殺意と仄かな理想だ。スザクの生い立ちに起因し、友の裏切りと、彼女の死が決定打になり、今のスザクを打ち立てるもの。ユフィが大好きで大切だったスザクを、決定的に変えてしまったのはユフィだった。今のスザクを見たらきっとユフィは悲しいだろう。 泣いてしまうかもしれない。人を殺すことに躊躇を覚えず、彼女を殺した人間については未だに存在の抹消を願ってやまない。それが彼女にとっても、まして自分にとっても大切な人間であったとしてもそんなこと関係ないほど何度だって殺してやりたい。 「ごめん、ユフィ、ごめん。僕は人を殺してく。俺のエゴで。ごめん。君のための剣を汚した。しあわせにってあんなに、あんなにいっててくれたのに、ごめん、本当にごめんユフィ、無力で、弱くて、ごめん」 もう彼女が居なくなってから幾度目ともしれないごめんを繰り返して、俯いた顔をぎりぎりと縮めて、身を潜めた。怨みと決意に仄かに底晃る暗い翠の瞳がうっすらと眇められた。 それでも立ち上がると決めた。だから立ち止まる気はない。顧みる気もない。どれほどの困難があろうと慟哭を丸ごと呑み込んでこの道を走りきってやる。 死よ、驕るなかれ。彼女の何もかもを呑み込めると思うとは何という傲慢か。その嘲笑ごと、喉笛に喰らいついてひきちぎってやる。 彼女の言葉、彼女の夢、全部此処に残ってる。一つ足りとて零したりせずずっとずっと抱きしめている。 お前が彼女をかえさないなら、自分は彼女を抱きしめたまま離さない。 Very happy barthday ! 暗闇の中、非常灯の赤にともされた翠が炯々と光って闇を睨んだ。 途切れた優しい囁きがスザクの胸の中にまた一つ、降り積もって、残った。 * 冒頭詩句 John DonneよりDeath be not proud. プリーズブラウザバック。 |