And said "No chains shall sully thee,
Thou soul of love and brav'ry!
Thy songs were made for the pure and free,
They shall never sound in slavery!"

Torn perhaps in body ,


not in spirit.



 弾道から目測で狙撃手の位置をおおよそ把握したあとは防戦一方だった。オートマチック一挺にリボルバー一挺では長、中距離から獲物を狩る狙撃手に勝てる道理がない。狙撃ポイントを幾度か変えられるに至り、憶測で位置を計って威嚇発砲するのもついに諦めた。此方の位置を知らせるだけだ。
 迎撃を退けるために建物内に入れば、これ幸いと包囲網を狭められて囲まれる。ゲリラ戦を仕掛けられるにはとにかく人も火薬も足りない。もし正面突破になったとしても、なんとでもしてやるつもりだが、思ったより失血が激しく体力の消耗が早いのが痛かった。地理的にも物量的にも圧倒的に駆り立てる側が有利であった。
 その上、戦力外どころか足を引っ張るしかない少女一人を抱えての防戦は辛酸の一言に尽きる。負傷した自分のミスを殊更に責めながら、表に出さないようにスザクはユーフェミアを伴って人気のない路地を拡散するように縫ってひたすらに走った。
 ユーフェミアは今度こそ、一言も漏らさず蒼白な顔のままスザクの指事に従った。
 はたはたと腕を伝って流れる血が確実に体温を奪っていくのに舌打ちしたい気持ちを我慢する。ユーフェミアに心理的な負担をこれ以上かけたくない。
 狙撃が途切れた合間に、ユーフェミアが素早く傍の砕けたコンクリ片に、ハンカチを引っかけて思い切り引っ張った。文字通り絹の裂ける音がしてスザクは目を見張ったが、構うことなく彼女は即席の包帯で銃弾がかすめたスザクの上腕部に巻き付けてきつく縛る。止血点を的確に把握しているのは、ブリタニアというお国柄のおかげだろう。軍事や応急手当、自衛方法については一通り学んで修了しているといつか言っていたことがあった。大丈夫ですか。震える様な小さな声で、スザクの顔を覗き込んでくるのに何でもないように笑ってみせると、彼女はますます顔を曇らせたが、泣くことはなかった。そんなに泣きそうな顔をしているのに、どうして泣かないのだろうとふと、不思議に思った。
「これを」
 小さな声で、コートの中に隠してあった小拳銃の銃把をスザクへ差し出す。
「わたしよりも、あなたが持っていた方が戦力になります」
 護身用の小さな拳銃は、至近距離で相手の急所に正確に撃ち込めば、戦力を無力化できるだろうという華奢な銃だった。軍人ではなく、女性や老人などが護身用として持つモデルで、軍隊育ちのスザクが扱うには些か頼りないフォルムをしている。しかしこの場では重要な火力の一つだ。
 だが、スザクは首を振ってユーフェミアの申し出を固辞した。
 どうして、とすみれ色の瞳が焦燥を募らせる。傷ついた方の腕を持ち上げると痛覚の鈍った手のひらを、小さな銃ごとユーフェミアの手に重ねた。
「もしもの時のためにこれは持っていてください」
「……もしも?」
 息を止めて、スザクは真っ直ぐにユーフェミアの瞳を見つめた。
「自分が囮になって敵を撒くか、戦力にならないと判断したときには、なりふり構わず市街地へ。ここはゲットーが近いから常駐の警邏が多いはずです。見つけたら身分を明かして、匿ってもらうように」
 一息で言い切ったスザクにユーフェミアが絶句した。市民を巻き込まないためにわざわざ相手の地の利となると覚悟して、イレブンですら通りかからないようなゲットーの裏路地に逃げ込んだというのに、スザクはそんなことを構うなと言う。構うなといった命の中には、スザクの命ももちろん含まれている。
 一瞬戦慄いた唇が言葉を紡ぐ瞬間に、スザクは汚れた手でユーフェミアの小さな頬を包み込んだ。翠の瞳が歪んで、穏やかさを装った眼差しが炯々とユーフェミアを射抜いた。
「今ユフィは、ユフィの命だけを護って」
 
 
 制圧された車内から根刮ぎ引っつかんできた弾倉が尽き欠ける頃、やっと応援が到着した旨が無線に入った。無線の向こうで次々確保されていく襲撃者の報告を聞きながら、路地裏で、小さな身体を抱いて、満身創痍の騎士は、ずるずるとコンクリートの壁に背を預けて、安堵の溜息を吐いた。
 
 
 
 
 ぱちっと瞳を開くと白い天井が見えた。しかし、ぱちっと開けたのは心の中だけだったようで、泥のように眠り込んでいたのか、実際には中々目が開かない。今は何時だろうと鈍々首を動かしても、窓に掛かった遮光カーテンは室内を薄暗く保って、今が何時頃かも解らない。
 視界が利く範囲には時計が見あたらなくて、仕方ないからカーテンを開けに行こうとスザクは身を起こそうとした。だが、肩に走った鈍い痛みに眉を顰めてそのまま枕に撃沈する。手を動かそうとしたら、片方は激痛、片方には点滴がぶら下がっていて身動きが取れない。そこで自分が病院にいることを合点して、ようやく記憶が戻り始めた。
 応援に来てくれたのはユーフェミアの姉姫である、コーネリア所属の部隊で、スザクが襲撃時に入れた一報を把握するなり無線に仕掛けられたGPSを辿ってすっ飛んできたらしい。所属を訊ねれば何より安心してユーフェミアを預けられる部署の返事がはきはきと返ってきたのに安心したのがいけなかった。
 彼らにユーフェミアの身柄を預け、安全を確保した後、くらっと足下が揺れたあとから記憶が途切れている。流石に出血をしすぎたらしい。
 身体を動かすことは諦めて、溜息を吐いた。その途端、思い出すのは最後に目にしたユーフェミアの蒼白な顔色だ。
 彼女はどうなっただろうとか、心配をかけたかもしれないとか、考え始めるときりがない。
 室内には誰も居なかった。ただ点滴がぱたりぱたりと落ちていくのを眺めていた。――こうして個室を与えられるのも、きちんとした医療が受けられるのも自分が名誉ブリタニア人で、皇族の騎士であることと、関係があるに決まっていた。自分が無力化したテロリスト達は、余程重要な組織の幹部でもなければまともな医療すら受ける資格を持たない。
 イレブンと名誉ブリタニア人。同じ民族同士がこうやって諍いを続ける構図はなにも日本だけではなく、ブリタニアに制圧された国々で日常的に起こっているはずだった。
 そんな世界を変える可能性を持ったのが、自分の主君で、たった十六歳の、スザクより年下の女の子だと言うことが信じられない。
 理想の先にあるものを護り続けるにはどうしたって犠牲が必要なのがスザクの現実だ。そんな世界や理想に憧れて憧れてやまないから、スザクはユーフェミアを護る。
 大義名分は立っている。それでスザクは自分を護っている。自分の侵した罪への贖罪と信じて。
 ――なら、ただのユフィを傷つけられたくないからと言うエゴを持ってユフィを害する敵を討つのは、枢木スザクの罪だろうか。
 かたん、と小さな音がした。視線を向ける先には白いカーテンを引いた衝立がひとつ。その向こうのドアが小さな軋んだ音を立ててゆっくり開いた。そっと足を踏み入れてくる人影の、柔らかなフレグランスの香りに翠の瞳がゆっくりと瞬く。
 小さな頭が見慣れた帽子をかぶって、衝立の影からちょこんとのぞいた。カーネーションとかすみ草を一杯に生けた花瓶を持って足下に注意しながらベット脇のチェストを目指す。
 その視線がスザクに向けられて、帽子の下の大きな紫の瞳がぱちりと瞬いた。
「あっ……」
 荒げかけた声を押さえ込むように、胸に抱いた花瓶をぎゅっと強く抱きしめて、ユフィは唇を結んで目を伏せる。小さな足がぱたぱたとベット脇に走り寄っておざなりに花瓶を置くと、横たわるスザクの顔を覗き込みながらユフィはかぶっていた帽子を取り払った。ふわりとまとめて隠していた春の色をしたフローレンスピンクが流れるように背中に広がる。
「……ユフィ?」
 くしゃりとゆがんだ顔が俯いて、紫色の瞳をぎゅっと閉じて、言いたいことを何もかも呑み込むように一生懸命息を紡いだユフィが顔を上げた。ふわりとやさしい髪の毛が肩口から滑り落ちてスザクの頬を撫でる。潤んだすみれ色が精いっぱい笑っていた。
「おはようございます、スザク」
 小さな手のひらが癖のあるスザクの髪を優しく梳いた。こめかみをつたって、擦り傷の付いた硬い頬を労るように白い指先が撫でていく。
「御公務は――?」
「厳戒態勢に入りましたから、お休みです。本当は政庁にいるように言われたんですけれど自分の騎士を見舞うのになぜわたくしが遠慮する必要があるんですかって押し切っちゃいました」
 見ればふんわりとした白いプルオーバーのトップスに、シフォンのラベンダーのロングスカートの姿は何処に出もいる、普通の女の子みたいな格好だった。学園祭の時を思い出して少しほほえましく感じる。しかし、彼女の特徴である紫の瞳と長い髪を隠すために帽子をかぶっていたのだろうが、スザクがあの時に被せてやった帽子ではいかにも不釣り合いに思えた。
 両手で帽子をそっと持ち上げて、ユーフェミアは花瓶の隣にそっと置いた。
「目が覚めたら、返そうと思っていたの。待っていてくださいね、今先生を呼んできますから」
「ユフィ」
 なあに、と微笑んだユフィがくるりとスザクに向き直ってスザクの瞳を覗き込んだ。
「怪我はありませんでしか?」
 そんなことは身を挺して庇ったスザクが一番良く解っている。けれど、彼女の口から聞かなくてはどうしても安心できなくて思わず声にでてしまったのだ。
 途端、はっきりとユフィの瞳が揺らいだ。きゅっと握りしめられた両手の指先が色を失っていく。きゅっと一瞬眉を寄せた後、感情を押し込めるように目を閉じて、それから精いっぱい笑ってみせた。
「私は大丈夫。スザクが、護ってくれたから。もうお一人の大尉もご無事で、たいした怪我もないそうです。お礼を言いにお見舞いに伺ったら、逆に恐縮されてしまって」
 そんな必要ないのにとユフィは溜息をつくが、そうもいかないだろうと直接皇族に見舞われることになった相手の心境を思って苦笑いする。ヒエラルキーが絶対的な社会の前提になっているブリタニア帝国の、特に階級社会に従属している軍人にとって、皇族など雲よりも上の人間なのだ。
「だから、何も心配することはないですよ。早く、怪我を治して、それで」
 ふと、言葉が続かなくなって、ユフィは目を伏せた。言おうと思っていた言葉が喉につかえるのを無理矢理押し出そうとして呼吸を繰り返すと胸が痛くなる。
 ありがとう、と言いたくて、言わなければならなくて、口に出そうとして、ユフィの喉から嗚咽が零れた。ぎゅっと目を閉じて息を殺して涙が零れるのを必死で我慢する。
 ユーフェミアの身柄を応援の救助部隊に預けると、失血でくらりとスザクが傾いだのを、ユーフェミアはスザクより顔を色を悪くさせて支えようとした。気力だけで平静を保っていた状態だったのだろう。肩に一つ、腕に二つの銃創痕と出血多量で倒れた自分の騎士と引き離されて、事態が落ち着くまでユーフェミアは安全な場所に移送されそのまま隔離、状況が沈静化したあとは様々な事後処理が待っていた。合間合間に伝わってくるスザクの容体は、ユーフェミアが頼まなければきっと誰も伝えなかったはずだ。国籍という壁が憎いと思ったのはほとんど初めてだ。憂えていたのは事実だけれど、自分を守って倒れた人が単に生粋のブリタニア人ではなく、差別民族であると言うだけで、恩人の容体を気にかけることすら憚られる。ブリタニア人とその他の民族の間に、いったいどんな差異があるのだとなだれ込む雑務を次々に必死でこなしながら、ユフィは何度も唇を噛みしめた。
 なんとかそれをこなした後は対テロ対策の厳戒態勢が敷かれて、今度はどこに行くにも許可が要る始末。政庁から一歩もでるなと言わんばかりの圧力に、ユーフェミアは必死で耐えたが、イレブンごときにそんなにお気を遣われなくとも良いのですよとここぞとばかりにユフィの騎士と引き離しにかかろうとした何処ぞの政治家の言葉に、あっさり我慢の限界に達した。それならばわたくしの騎士の居る病院からわたくしは一歩もでません、その方が警護も容易いでしょう、と一息に言い切り、厳重に身分を伏せることを約して、全て押し切った。
 公人に許されない我が儘だと、本当は痛いほど解っている。だが、ユフィの受ける公務のほとんどはメディアや公に顔を出す類の、テロに標的にされやすい公務でもあり、予定の全ては厳戒態勢となってからキャンセルされた。もてあました時間を、何も考えたくないとばかりに、忙しさに追われるまま自分がなすべき事後の処理も果たした。今現在ユフィの可能な書類上の執務の決済も終えた。
 皇族が護られるのが義務というなら、自分を護って傷つき倒れた人を見舞う権利はないのかの反復したくなるのを、たった一人で居る間、彼女は必死に押さえ込んだ。名誉ブリタニア人云々を差し引いても、自身の無事さえ確保できれば、最高指揮決定権すら保持する皇族が一軍人の安否など気にかけ動揺するべきでない、と言う一面では正論でさえある言葉を返されるのがとても怖かった。
 実際ユフィを護って倒れた自分の騎士を見舞ったりするのに、ユーフェミアは変装までしなくてはならない。皇族が、例え己の騎士であろうと、一兵卒に特別な配慮を向けることは軍を統率するという一点において忌諱されねばならない事態だし、何よりもユーフェミアの安全を図るためには仕方がなかった。――そこまでして自分の命は護られねばならぬものなのだろうかと、自身の心に問いかけることは、誰にも、特に姉やスザクには絶対に聴かせることの出来ない繰り言にしかならず、余りにも辛かった。
 そしてユーフェミアの騎士の負傷を幸いとユーフェミアの親衛隊に新しい人員を送り込もうとする周囲の貴族や政治家、軍人官僚の思惑も気に入らない。ユーフェミアが決めた騎士は生涯スザク一人だ。
 顔を上げて、ユフィはスザクの横たわるベッドに向かって一歩を勧めた。点滴台のあるのは奥の方だから、スザクの傍らに寄り添うのに特に問題はなかった。出血のせいでいつもより顔色が悪い、入院着の下は肩から二の腕まで包帯が隙間無く覆っているはずだった。傷つけられたことが明らかな様子に、初めてこの病室に入ったユフィは怖じ気づいた。駆け寄って昏々と眠り続けるスザクの呼吸を確かめないと、不安で不安で仕方がなかった。今、上から覗き込んだ翠の瞳と、視線の位置が、いつもの身長差と逆転していて、少しだけ違和感を感じる。どうしてか自分でも解らない笑みを浮かべて、傍らのチェストの上に放ってあった小さなバッグを手元に引き寄せた。ぱちんと留め具を開けると、その中には人を殺せる凶器が間違いなく納まっていて、ほんの小さな口径だというのに、手に取るのを躊躇わせた。
「……ユフィ?」
 言葉を途切れさせて黙り込んでしまったユフィのすみれ色の瞳がはっきり揺れるのがスザクには解った。気遣いを含んだ声音に大丈夫、何でもないのと言って笑おうとして、笑顔になる前にそれは心の深淵に溶け落ちていく。
 一度、二度、呼吸を数えて。常に携帯を義務づけられている小さな拳銃を、ユフィはそっと取り出した。セーフティがかけられていることを確認するのはもはや日課だ。安全が確証されないときや外出時には、肌身離さず持っているようにと、言い含められているものだった。皇族にまでこのような意識を促すのは、ユーフェミアの祖国のお国柄、とも言える。
 スザク、と小さく声をかけて、仄かに揺らいだ双眸を躊躇うように、しかし強く瞑って、まぶたを開くと、真っ直ぐにすみれ色の瞳がスザクを見つめた。あの時、スザクに持てと言った銃が小さな手の中でいかにも無骨な存在感を放っている。
「……この銃は護身用です、けれど同時に私の命を絶つものです」
 とんでもないことを言い始めたユーフェミアに、スザクはぎょっとしてベットから身を起こそうとした。それをやんわりと片手で制止ながら、ユーフェミアはスザクの真上から、強い翠を見下ろした。さらりと雪崩れる春の色をした髪が、小さな肩から零れ落ちていく。
「皇族の身分や地位が利用されて、それが国益を損なうものであったとき、私たちブリタニア皇族には二つの道が残されています。一つは国から切り捨てられて殺されること、一つは利敵行為になる前に自害すること。後継者は山ほど居ますから、一人くらい切り捨てられても問題はないんです――実際に持ち始めたのは、身辺警戒が厳重になり始めたここ数ヶ月ですけれど」
 ブリタニアの皇族にとっては息をするより当たり前の本能みたいなものだ。砂糖菓子のようにふわふわと優しいユフィの中にも、皇族の血が識らせる当たり前の知識の一つでしかない。それでもやっぱり、銃は怖いし、撃つ覚悟はユフィにはない。もし自分が命を絶たなければいけない側面に立ったとして、自分を撃てるかすら、その時になってみないと解らない。
 冷たい銃把をそっと握りしめながら、黒い鉄のかたまりの凶器を不思議なくらい静かな瞳でユフィは見下ろしていた。
「きっと、引き金を引く間際に、躊躇うと思います。取り扱いは随分昔に叩き込まれて、慣れているはずなのに、こうして持っているだけで怖くて、やっぱり私には自分が誰かを撃てるとは思えないんです。どうしても。臆病で」
 小さな声で告白されていく言葉は、静かな声なのに泣いているようにスザクの耳には響いた。
「だからもしもの時、やっぱり私はこれをスザクに預けます。私には、死ぬつもりはありません。ましてあなたを見捨てる算段なんて毛頭ありません」
「……殿下」
「ユフィです。今は二人きりですよ?」
 鋭く返すユフィ言葉は、涙ににじんで掠れていた。
「あなたに私の引き金を預けます。卑怯で臆病なことだって、解ってる。けれど私の躊躇とか途惑いとか、臆病さが、決断が、あなたまで危険に巻き込むかもしれないのなら、どうか躊躇わないで撃ってください。あなたが引いた分の引き金の返り血を、私はちゃんとかぶりますから。最後の弾薬を使い切っても、生き足掻いてください。私も一緒に足掻きますから。何度だって言います。――生きていてって」
 凜とした声と壮絶な覚悟がスザクの背を打つ。スザクの世界を変える少女。そして、無慈悲に虐げられている人々の世界を変えるだろう少女。今、目の前にいるのは、何よりも守られる身でありながら決して誰かを切り捨てられない、傷つくことを容認できない、スザクより年下の臆病な、女の子だった。
 押さえられた華奢な腕に逆らって無理矢理頭を起こすととたんにくらくらとした。激しい目まいが暴力的に襲ってくる。血が足りていないのだ。
「スザク、まだ横に……っ」
 息を呑んだユフィが声を荒げて、傷ついていない方の肩を支えようと伸ばされた細い手ごと、小さな身体を動く片腕で抱きしめた。
 雪崩れ落ちる柔らかな髪が包帯の巻かれた腕に零れていく。
「ユフィ、心配かけてごめん、ありがとう」
 優しい花のかおりがした。いつも彼女が使っている花のにおいのフレグランスは爽やかなのに優しくて甘くて、ゆっくりとスザクがかぶった火薬の臭いや弾けた人脂、血臭の飛沫を拡散させていく。スザクはその香りに酷く安堵して、くらくらする視界に抗わないでゆっくりと両目を閉じた。
「僕は、君の剣で盾だから、君を護るために最善を尽くす。ユフィのぶんの引き金を託して貰えるほどの人間か解らないけれど、君を護るためになら頑張るから。それは僕の意志だから、ユフィだけがかぶる返り血じゃない」
 ふるりと腕の中でユフィが頭を振った。少なくともユフィが負う筈だった傷を負ってスザクが倒れたのは事実で、ユフィはスザクに痛いことや辛いことだけを押しつけてのうのうとして、その上銃が怖いと言うのだ。我が儘な自分を肯定されても嬉しくもないし、納得できるはずもない。けれど、包帯を巻かれた大きな手のひらがぽんぽんと背中を優しく叩くからユフィの意志は挫けそうになって、泣きそうな顔を見られないようにことりとスザクの肩に額を預けた。
「出来るだけ生き足掻くよ、でも。ユフィの臆病なところとか、卑怯なところとか、その思いが誰かが傷つくのが嫌だってことから来てるところとか、誰かを傷つけないように、誰かを助けようとして決断を躊躇ったり、銃を撃つ覚悟がないくせに無謀なくらい度胸の良いところか、僕は好きだけれど」
 いつか戦場で聞いた言葉の焼き増しのようだった。あの時はユフィがスザクに言った。
「人の言葉聴かないで、強引に押し切っちゃったり、騒ぎに巻き込んだり、そのくせちゃっかり良いとこと取りしちゃったり、あと猫と喋れちゃう訳の解らないところとか本当に凄いし羨ましいし」
「……それは褒めてませんよね?」
「褒めてる、すごーく褒めてますよ、殿下」
 微妙な声が肩口から響いてくるのに、笑いながら柔らかな髪に頬を寄せた。戦場の血臭の無い優しい香りはスザクが、この国に住む誰もが、世界中にいる色んな人たちが心の底から求めてやまない優しい香りだ。
「無理矢理変える必要はないよ。僕は好きだ。全部」
 ユフィのコンプレックスをあげつらって貶されているようにも思えるのに、耳朶に直接響く声は好きだと言ってくれる声と同じくらい、馬鹿みたいに優しくて、顔が火照って熱い。哀しいのか悔しいのか解らなくて、唇を噛みしめた。ほろりと零れた涙がぱたりとリネンの海に落ちていく。おどけるような口調と逆に、撫でてくれる手のひらが優しいから息が苦しくて仕方がなかった。
 だからせめて、言葉に出来ない感情で胸がいっぱいになる前に、涙のにじんだ声が精いっぱい囁く。それは吐息のように小さく響いた。
「……お願い、スザク、死なないで、生きていて。元気でいてね。それから、まもってくれてありがとう」
 死地で叫んだ声をもう一度口にした後で、あとは声にならないありがとうが何度も重なって連なってほろりほろりと零れ落ちてくる。ひとことひとこと、スザクの中に降り積もっていく。うん、ととても暖かな気持ちで肯きながら、泣きやまないユフィの小さな背をなで続けていた。この小さな、勇気があって、でも臆病で、優しい女の子を傷一つ無く、守れたことを誇らしく思いながら。自分なんかの無事を願ってくれる人を何より尊く想いながら。
 

 
 
 
 
 
 

冒頭詩句抜粋@Thomas Moore、The Minstrel Boyより。


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