きっとずっと続いて欲しいと切に願うものであると。


Garden brilliant.



 書類から顔を上げたスザクが柔らかな翠の瞳を向ける。引き寄せられるように、おそろいのマグを手にとって近寄った。向かいでなく、隣に座って身体を寄せる。腕にしがみつこうとする前に、大きなうでがユフィをくるりと囲みこんだ。
「コーネリア殿下にはお変わりなく?」
「はい。予定していたプランも議会を通ったようで少し落ち着いておられました」
 それは良かった、といってぽんぽんと小さな背中を叩く。大きな手のひらが温かくてユフィはずしりと身体が重くなった感じがした。お風呂上がり、サイズの合わないお気に入りのパジャマにくるまって、温かな紅茶で暖まり、ネコみたいに何もかも預けられるひとの隣でことんと身体を預ける安心感、暖かさと眠さが意識を落とそうとする。大きなパジャマと肩幅があわず身頃がずれているがユフィはスザクから借りたこのパジャマが一番好きだ。以前一度、スザクの通う学校の制服を着てみたい衝動に駆られてこっそりと実行したことに端を発する。ユーフェミアの決して届かない世界の象徴。ユフィが与えた、スザクとユフィの絶対交わらない世界。少しでも触れたいと思うことは多分、間違っている気がする。服一枚、ただそれだけ、大きな腕の中が居心地が良いと言うこと。
 それからじっと物欲しそうに見つめ続けたり、こっそりと全力でおねだりしたり、ユフィが心底疲れているときにはスザクはスザク自身にも大きめなパジャマを提供してくれる。
 高級な素材でも何でもない。ただのコットンの、浅葱色のパジャマだ。袖が長すぎてまくらなくちゃならないし、ズボンは腰がとまらないから諦めた。上着だけで、ワンピースみたいに膝の少し上までの丈。そのままスザクの腕のなか、暖かくて暖かくてふと、どうしてか涙が出そうになって、肩口に瞼を押しつけて目を閉じる。
「ユフィ?」
 囁くような声。ふわりとただ、しあわせが零れる様子でユフィがスザクに笑いかけると、花咲く微笑みを認めたスザクがどうしてかため息をつきながらユフィの頭を撫でた。ちらりと散らばる書類に視線を送ったあと、翠の瞳はもう一顧だにせず、手にしたマグをテーブルに置いた。小さな手からもマグを取り上げ、ソファに座るユフィの膝裏に手を入れて、背を支えて、抱きしめるようにユフィを抱き上げた。腕一本でユフィを座らせて支えられる、こんなに細く見えるのにスザクはやっぱり凄い。……細いというとしょんぼりするから秘密にするけれど。
 暖かな温もりにすり寄ると、しめったスザクのくせっ毛が柔らかに触れた。腕の中で丸まるユフィの体温に心が解ける。
 多分癒されているのは、どちらも。
 大きなベッドは一人用のはずだが大人五人は優に眠れる大きさだ。白いシーツは清潔で肌触りがよい。ベッドカバーの淵に流麗な鈴蘭のモチーフが刺繍されていた。
 その上にユフィをそっとおろす。そのまま髪をまとめていたタオルを取り去ると、花のにおいのする水気を含んだままの髪が柔らかに零れ落ちた。ふうとスザクがため息をつく。
「乾かしておこうとか、考えませんか?」
「報告が先です」
 今更相手に体裁を繕うよりは、寛いだ姿を互いに見せる方が余程楽であり、嬉しいとい互いに解っている姉妹である。貴婦人にあるまじきことではあるが、二人の間にだけそれは通じる常識だ。あと、ユフィにはもう一人の妹姫、ナナリーとも。でも、彼女はお姉さんという自覚はあるのか、お姉さんに見えるよう一応努力はしていると見受けられる。
 形式より実を取るときっぱり言い切ったユフィにため息をつく。責任感は無駄に強い。書類をプライベートにまで持ち込んだスザクに言えることではないが。
 プライベートといえば未だにまだ口調が戻っていない。少し彼女が頑なな、拗ねているような雰囲気なのはそのせいか。ふっと瞼を閉ざして息を吐くと翠の瞳が和んだ。
「……とにかく、冷える前に髪を乾かすから」
 口調と意識がかちりと切り替わる。皇族麾下騎士枢木スザクではなく、これで本当に、ただのスザクとユフィだ。どんなにスザクとユフィとして相対していても決してぬぐい去られることのない、主君と臣下の関係をそのままに、それでも互いの距離を更に縮める瞬間だ。
 ふわりとスザクが肩にかけていたタオルがユフィの頭の上にのる。自分の髪はわしゃわしゃと拭いてそれでお終いなのに、ユフィの髪を扱うスザクの手は酷く丁寧だ。スザクに髪をいじられるのはとても気持ちが良くて好きだ。眠気に拍車がかかってくる。
 眠いなら寝ても良いよ、と寄りかかってるスザクが言うが首を振る。ともすれば、濡れ髪のまま眠ろうとする、むしろ眠ってしまうユフィを気遣いつつもあてにせず、本人に任せないで甲斐甲斐しく乾きにくい長い、繊細な質のユフィの髪を、丁寧に乾かしてくれるのに、本人が寝てしまってどうするのか。
 それでももう、疲れとか、日々の積み重ねで削られた心とか、世界中の何処よりも安心する場所にいることとか、全部で満たされて満たされてユフィはそのまま眠りの世界に溺れていく。
 おしゃべりが好きなユフィが今日は何もしゃべらず静かにスザクに寄り添って抱き込まれるまま、明日の朝は何が食べたいですか?と小さく訊ねた。
 柔らかな髪から水分をぬぐいながら、目玉焼きは半熟でと答えると、無邪気に笑って、ことんと小さな首がスザクの胸の中に墜ちた。
 こんなに無防備な顔他の誰にも見せたら駄目だと、ため息に似た囁きが耳元で響いた気がしたような、それは曖昧な眠りの海に溶けてユフィの記憶には残らなかったけれど。  
 
 
 
 はるはあけぼの。
 そんな美しい言葉を思い出させるような清涼な空気が開け放った窓から流れてくる。凪いだ空気は洗いざらしの水と緑のにおいを含んでいた。
 薄く瞼を揺らしたユフィの眠気を柔らかく撫でるように花の色をした髪を梳いた。朝だと告げたけれど、もう少しと思う心は正直な行動を取らせ、スザクは自分に苦笑を漏らした。
 拙い日本語に笑って梳き分けた髪の毛をもう一度、柔らかに撫でてやる。腕の中で丸まったまま、ふわふわに乾いた髪がフローラルの香りを柔らかに零していた。頑張って乾かした甲斐があるというものだ。ユフィを抱きしめるとき、いつもネコを抱き上げるのはこんな感じかなと思うけれど、この花の香りは世界でただ一つに違いない。凍えた身体を温めて抱きしめて大きなベッドで二人丸まって眠ったあと、先に目が覚めたのはスザクで、腕の中でその気配に瞼を揺らしたのはユフィだ。
 海外への姉君曰く、出張は今日まで。中華連邦につながりのあるブリタニア本国の華僑相手に慣れない異国で、苦手なアルコールの出されるパーティで、彼女はとても頑張った。
「あけぼの、ですね」
 柔らかなすみれ色が腕の中で微睡みに身を浸しながら零す。いにしえの言葉で綴られた日記の言葉を知っているのだろう。以前、旧日本領の国立文化展覧会で五百年前に作られたという純金の百人一首を見たときから、ユフィは日本文化に興味を示し始めた。スザクも旧家の出である。礼儀作法、武芸全般、教養一般は憶えているが、習っていたのは戦争が始まる迄であったから、ユフィに教えられることは少ない。特に、身体で覚えたものと違って、教養一般は子どもの頃の記憶は印象に残るとはいえ圧倒的にユフィには劣るだろう。
 なら二人で紐解けばいいとばかりにユフィが最初に引っ張り出してきたのが何故か学生が使う帝国史の教科書と資料集だった。理系選択のスザクに縁のないものである。教科書は最初、ぱらりと目を通した瞬間ユフィがにっこりわらってぱたんと傍らに置いて閉じた。帝国史には帝国の尺度でものが書かれていて当然である。被ブリタニア臣民以外の扱いについても連綿と綴られているだろう。最初からそちらは当てにしていなかったのか、ぱらりと開いた資料集に、一番最初に飛び込んできたのは世界遺産に指定されている遺跡の数々、歴史にその名を刻んだ場所やその時代の人々の道具、暮らしを再現した絵、とりどりの写真やイラストが溢れていた。そうやってページをめくってめくってめくって、漸く顕れた、たった数ページの記載。ひとと国の価値は、ひとと国が決めるらしい。だが、その国とひととが培った歴史的価値や芸術とは偏見を越え、富の象徴として奪われるものである。ブリタニアが搾取してきた世界の芸術の結晶がこの高校生が使う帝国指定帝国史教科書に記載されている。勿論、世界の全てが搾取されたわけではないけれど。
 世界で一番始めに作られた恋物語の様々な場面を描かれた屏風や、金で作られた寺院。貴族の使った遊び道具、高名な武人が使った武具。古代の人々が集めた玉や鉄製の刃物。日本の一般教養が役に立ったのは初めてに近い。ユフィが解らないものだらけな数ページは、スザクの拙い説明であっという間に過ぎ去った。
 またお話をしてくれますか、と最後にユフィが小さく訊ねた。
 あなたを生み育んだ大地を私が愛しても許されるか、と問われた気がした。
 愛してくれれば嬉しい。無くなったもの、壊れたもの、沢山あるけれど、スザクは日本を愛している。日本を愛しているから、同じものを愛してくれると嬉しい。これほど恐々と自分にその資格があるのか、真摯に自分自身に常に問いかける彼女なら大切に愛してくれると解る。
 ふわふわとした寝心地にユフィがもう一度眠りそうになったときさらりとスザクの指が乱れた髪を耳にかけた。大きな手のひらに頬を寄せ、手を添えて笑うとおはようをもう一度繰り返す。
 幾度も幾度も、少しずつ、スザクが己の瑕疵と共に大切に心の奥にしまっている、優しく尊い記憶や知識を教えてくれるということが、何より嬉しかった。帝国の娘に故国を愛することを赦してくれた。ユフィ自身は己の資格を未だ問い続けているけれど心苦しい顔をするより、笑う方がスザクが嬉しいとユフィは知っていた。
 暖かさにすり寄りながら瞬いた翠の瞳が近くて嬉しい。こつんと額を会わせると互いにくすくすと笑った。その、スザクの肩越しに時計が見えて、紫の瞳がぱちりと瞬く。がばっとシーツをはねのけて起きあがるとスザクの腕と掛けた毛布がほっそりとした腰の辺りでまとわりついていた。
「あさごはん……!」
 眠気混じりの声をふにゃふにゃとさせながらも昨日の約束を必死に紡ぎ出した。
 勿論、そんなもの国賓がサーブする必要はない。しかし今朝はゆっくりと過ごすからと朝食を断ってくれた侍女や己の騎士の気遣いに、ユフィは深く感謝していた。慣れない土地の食べ物は興味深いし、勿論美味しい。しかし少女の身体に連日は辛い。作りつけのキッチンがあるので、本当に体調が悪いときは自分でユフィは食事を作る。一人分を作って一人で食べるのは寂しいという正論を盾にとり、主手ずからの料理にご相伴の栄誉を得た騎士は最初こそ自分がやると言って譲らなかったが、折半して二人で作ったときから諦めた。正直、自分では立ち向かえない。
 軍隊必修であり必須なものとは知力体力技術経験並びに勘と時の運、そして食事である。自炊は例え士官候補生であっても免れ得ないカリキュラムの一つであり、どんな貴族だろうと軍籍、またはそれに準ずる候補等であれば絶対に経験するものだ。ましてやスザクは下っ端。扱き使われない理由がない。
 しかし食事は生死に直結するものである、いかに忠誠を誓ったと言え、組織的に毒を盛ることができれば数百単位で人を殺せる。その為、名誉ブリタニア人には正規のブリタニア国籍を持つ軍人との演習はなく、イレブン同士での演習のみに限られたが、そこそこスザクも自炊は叩き込まれたのだ。
 ちなみにスザクは大雑把に料理するものほど美味しくできる。煮込み系。炒め系。総じて繊細さとは少々かけ離れる。
 その点、ユフィは意外なことに料理がうまい。姉が自分の宮にいてくれるときは毎日毎日、自分が作っていたから、料理の師である宮の料理長には嘆かれたものだ。流石に毎食作るというわけではないのだが一日に一回は必ず手作りの何かを出した。野菜とベーコンをたっぷりはさんだバゲット、スモークサーモンとチーズとトマトのサンドイッチ、こんがり焼いたアップルパイで庭園ランチを洒落込んだこともあれば、料理長に師事して、具だくさんな暖かいシチューにミートパイでディナーをしたこともある。ティーブレイクならスコーンやクッキー、料理長直伝のクロテッドクリームは隠し風味にハーブを使って爽やかで、姉妹のお気に入りだ。
 勿論、本職の料理人に及ぶものではないし、贅を尽くし凝ったものではない。全てブリタニアの家庭料理の範囲内である。だがちょっとしたことに手を入れて楽しむことが好きなユフィにそれはぴったりだった。
 無難に既製のルー仕様のシチューを選んだスザクの料理も美味しいと言ってくれたが、どうぞといわれて最初に食べた何の変哲もないオムレツが口の中でふんわりほろりととけた時の感動は正直忘れられない。でもまあ今は。
「まだ、早いよ」
 毛布に遮られてくぐもった声になった。細い腰を抱え込むまま、ぶかぶかななパジャマを着た小さな少女を腕の中にひっぱりこんで毛布にくるまる。
「スザク!?」
 ころんと猫の仔のように転がされるままふわふわのベッドに再び引っ張り込まれたユフィが吃驚してスザクを見上げた。すみれ色の瞳はまだ半分以上まどろみの中にある。それで健気にも食事を作ろうとしているのだが、頭も身体も良く回っていないのは明らかだ。
「今日は午後からだから」
「でも、昨日の夜」
 まどろみが色濃い響きの声で約束したのにと続けるユフィの顔に未だ疲労の色が残っているのにため息をつきたくなるのを我慢する。目一杯甘やかしてもどこか遠慮する困ったお姫様なら、スザクが我が儘になるしかない。午後からは最後の公務で遠出で、そのまま機上の人となり帰国の途につく。せめてもう少し休息を取らせておきたい。
「じゃあ、ブランチが食べたいかな」
 小さな肩に顔を埋めると柔らかな髪がふんわりスザクを受け止める。きっと世界で一番さわり心地の良い布団とか抱き枕よりも心地が良い。
 でも、とか、支度もあるのに、とかそんなことを言ってまだ腕の中から出ていこうと抵抗を試みじたばた暴れるるユフィの髪を柔らかく梳きながし、頬に触れて、頭を撫でて、背中をたたく。もう少し、と耳元でスザクが囁く頃になれば、やっぱり疲れのたまっていたお姫様はころんと丸まって、スザクの心臓の音を聞くように腕の中に収まりうとうとと瞼を閉じようとしていた。
 毛布をかぶり直して、柔らかな花を柔らかく胸の中に引っ張り込んで抱きしめて抱き込んで、スザクもユフィの髪に顔を埋めて固く目を閉じた。あけぼのも今は紫色の薄い光で毛布で遮れば宵闇のようだ。美しい曙光を毛布で遮って、二人きり、もう少しだけ夜の中に居る。
 この幸福をいつまでも護るのだと、この瞬間にいつだって彼は誓うのだ。
 次に目を開けたときに飛び込んでくるのが、薔薇色に頬を染めながらおはようといってくれる自分だけの花であることを願って、それをいつまでも現実のものにするために誓う。彼女の平穏がこの腕にあると確信していられるうちは、何に変えても守り抜く。それは己の平穏と同等であるから。
 誓いはどこか切なる願いにも似ている。
 目が覚めた頃、美しい陽光が雨に洗われた光さす庭に柔らかく降りていることだろう。そこで笑う少女を夢見るように彼女の騎士も彼だけの清らな花一輪、抱き込んで、瞼をおろした。

 
 
 
 
 


ブラウザバックプリーズ。