取り立てて言うほどのことでもない。されど愛しい日々とは、


Garden brilliant.



モーニン朝だよ
 流暢なブリタニア国語とともにゆっくりと瞳を啓く。長い睫が振る振ると揮えて美しい。白い瞼の下からすみれの色をした双眸が顕れ、まどろみにたゆたいながらふんわりと愛しい顔がまろやかに微笑んだ。
「おはよう、ございます」
 かたことの、自分の故国の言葉に苦笑と、幸福の入り交じった微笑みを浮かべて落ちかかる花の色をした髪をかきやる。ふんわりと前髪を分けてやると、ねこのこのように目を閉じて気持ちよさそうにスザクの手片に体温を預けた。
 昨夜ユフィの公務が全てあけて、スザクの騎士としての仕事にも区切りがつき、あとはもう迎賓館に戻って寝るだけ、というときにうっかり土砂降りの雨に降られた。
 入り込んだ財界の人間との懇親会に心身共に疲労しきっていたユフィはとにかく眠くて仕方が無く、ふらふらと歩く有様だったが、スコールの勢いでバケツをひっくり返したような雨に降られてはそのままベッドに飛び込むことも出来ない。まず翌日には身体をこわす。
 スザクは自分の上着でユフィを庇ったが、懇親会の会場から送迎車へ移動するほんの数秒間にもう濡れに濡れた。スザクの髪は雨に降られたいぬかねこそのものだったし、ユフィのパンプスは歩くたびに靴の中で足が滑る。髪はしとどに水を含んで、要人専用の地下駐車場に入った途端、スザクの手に引かれる前にユフィは自分で車内から飛び降りて、もうっと言いながら自分の髪を鷲掴み、おおざっぱにぎゅぎゅっと絞った。それが酷く普通の女の子の仕草で、スザクは目のやり場に困る。特に顕わになった白い項とか。髪先まで一通り水気を絞るのに約一分。それでも髪を扱う仕草や細い指先の手つきは丁寧で、同じように学校で水泳部に所属している同級生を思い出す。シャーリーも濡れた髪を器用に絞ってくるっとひとまとめにしていたものだ。こんな長い髪なのに、何であんなに丁寧に扱えるのか女の子の七不思議である。
 とりあえずエスコートをと思って手を伸ばすと、ユフィが慌ててありがとうと礼を言い、手を取ろうと一歩踏み出した。とたん、濡れたパンプスの中で小さな足が滑りかくんと転びそうになる。慌ててユフィの脇下に手を入れて支えると情けないように眉を寄せてしょんぼりと上目遣いの紫がスザクを見上げ、小さく御免なさいと呟いた。濡れた髪を払う立ち姿は淑やかに、なのに髪を処すのは学校の女の子みたいに、それなのに今は子どもみたいに。くるくる変わる印象が可笑しくて思わず笑うと、ユフィが何か感づいたのかぽかんとスザクの胸を軽く叩いた。転びそうになったのを笑われたと感じたのだろう。少し唸って、ユフィはえいっとパンプスを脱ぐ。小さな裸足がコンクリートに降りたって満足げに肯いて、濡れたパンプスを指先に引っかけ、行きましょうとにっこり淑やかに笑うお姫様にスザクもにこりと外行きスマイル。騎士としてこれは許しておけない。
 委細構わず、ひょいとスザクはユフィを担ぐ。
「スザク!?」
 人払いのとっくに済んだ特別要人用の通路をすたすたと歩き始めるとじたばた暴れていたユフィがもーっとため息をついてぷいとそっぽを向いた。小さな手の中でパンプスだけが揺れている。スザクの腕の中ではスザクだけの花が濡れた裳裾をしっとりと揺らしている。
 学生だった頃の面影は抜けきらない、無垢な、けれど同時に皇族として姫としての顔を持つ少女。未だに不思議で仕方がない。彼女は一体幾つ顔を持っているのだろうか。
 事前に話を通してあったため侍女すら何処にもいない。あてがわれた部屋につく頃には、やはり疲れが勝り、暴れて更に体力を消耗したユフィがうとうとスザクの腕の中で青白い顔のまま眠ろうとしていた。真っ直ぐバスルームに向かって脱衣所に敷かれたクリーム色の清潔なふっかりとしたバスマットの上にそっとユフィをおろす。
 とりあえずシャワーだけでも良いから暖まれと言えば、起きているのか寝ているのか、解らないような仕草でこくんと肯いたのでスザクはため息をついた。仕方なく細い顎を持ち上げ、真っ直ぐにユフィの紫色を見つめる。そして口角をゆっくりと、密やかにつり上げた。
「脱がしてさしあげましょうか?殿下」
 一気に目が覚めたユフィがスザクに顎を捕らえられ逃げられないままわたわた暴れ、傍にあったバスタオルの換えを投げつける。とりあえず目は覚めたと確信して、しっかり暖まって、シャワーで寝ないようにと念を押し、外に出る。その間に堅苦しい服装を脱いでランドリーボックスに突っ込んだあと、楽な服装に改め、ユフィを置いてきたときに持ってきたバスタオルでわしゃわしゃと髪を拭いた。
 備え付けのキッチンを見回してお湯を沸かし、小さな紅茶缶が一杯に並んだ戸棚を覗き込む。軍隊育ちで一度見たものの形状記憶だけはとにかく自信があったため、似たような紅茶の中からユフィが好む黒い缶を一つ取り出す。美しい金の蔓草が淵を飾り、イタリックが瀟洒に描かれている。確かにこれだと確信して、火にかけたケトルをおろし、職場の働くお姉さん兼上司とお姫様に習ったやり方で丁寧にお茶を入れる。一度行動を叩き込めば身体が行為を忘れないのは自分の特技だと思う。
 茶葉を蒸らしている間にマグを二つ。瀟洒なティーセットのカトラリではなく、とにかく身体を温めるためにはまず量が入ることが重要である。幸い美しくしつらえられた食器棚に並ぶのはワイングラスや高級な茶器だけではないらしい。お金持ちだって普段は普通に生活をする、人間である以上利便性を選んで当然だ。まあスザクの考えるマグの通常価格でないことは何となく想像がつくが。
 其処に、紅茶缶と一緒に拝借しておいたブランデーを心持ち多めに。その上からふっくらと蒸らした紅茶を注ぐ。琥珀色の液体が混ざり合って豊穣な香りが辺り一杯に広がった。テーブルセットまで運ぶと、冷めないように布巾の上に二つ、マグを並べて置き、その上からティーコジーをかぱんとかぶせる。大雑把にも程があると笑われることを承知の上だ。ゴールデンルールで紅茶はしっかり淹れたのだから其処の辺りは勘弁して欲しい。今はすぐにも暖かいものを取って、暖まることが第一である。
 ぱたんとバスルームに続くドアを開けて、濡れ髪のユフィが丁度出てきた。振り返っておいでと仕草で呼ぶとちょっとの躊躇いを見せたあと小さな足がとたとたと近づく。ふんわり柔らかなラグに足を置いて、ソファに深く腰掛けると、そっと安堵したように深くユフィが息をついた。
 硝子テーブルの上にちょこんと鎮座ましますティーコジーにユフィが柔らかく目を細める。指を伸ばしておおいを取れば、足が綺麗に曲線を描くデザインの曇り一つ無い硝子テーブルの上にマグが二つ並んでいる。てっきりティーポットが洗われると思っていたユフィが、ティーコジーを手にしたままスザクを見上げ、ぽかんとしたあと無邪気に笑った。
 テーブルに直に置いたら冷めてしまうしお盆は見あたらなかったし、しかも天板は硝子で温度をただでさえ奪うし、と心の中で言い訳を並べ立てつつユフィにマグを手渡す。小さな手にはいつものように、きっと瀟洒なティーカップとソーサーが似合う、美しく千鳥や花の模様のついた。でもユフィはスザクに渡されたマグを酷く大切なものを受け取るように、嬉しそうに手に収めて眺めていた。小さな手には、いつも手に取る茶器よりとても大きく見えた。
 熱い湯気をそっと拭きさまし、そろそろとネコのように口付ける。マグの縁が熱かったのか、猫舌のユフィは怯んだが、意を決してこくんと一口。飲むとブランデーが強かったのか微かに眉を潜める。けれどふんわりと豊かな香りは微かにフルーティで、それほど嫌ではない。紅茶も、お酒も、自分を基準にスザクが選んでくれたのだと気が付いてユフィはマグを見つめながら、幸せが零れるように笑ってありがとう、と小さく口にした。
「スザクもシャワーを浴びてきて」
 ひと心地ついて満足そうなネコみたいなユフィを更に満足げに見ていた騎士は、見上げてきたすみれ色から微かに目をそらした。実は明日の警備体制のことについて変更箇所がある。ユフィの警備は事実上スザクの生命より優先される職務だ。それにこれはスザク自身が魂に刻んだ誓いなので、疎かにするつもりは毛頭無い。
 だが一瞬で主は騎士の頭の中を察知しぴしっと背筋を正し、ぴしっとバスルームを指さした。
「命じて欲しいですか?」
「……行って参ります」
 五分で上がろう。
「しっかり暖まってこなくちゃ駄目です」
 十分に譲歩。
 濡れ髪のままのスザクの髪をずっと気にしていたユフィは、スザクの譲歩に渋々ながら肯いた。スザクがユフィを優先するのは当然なのだ。それは解ってる。責任ある立場の人間が身体を疎かにしてはいけない。ユフィの地位を考えればましてや。そしてこのことについてはユフィの騎士であるスザクにも常に責任がついて回る。全ての災禍からユーフェミア姫を護り通すこと、それがスザクの騎士の誓い。心身も、彼女の誇りも、名誉も、何もかも。
 ぱたんとスザクがドアの向こうに消え、しばらくするとバスルームの水音が響き始めた。
 スザクがしていたように、スザクのカップの上にかぱんとティーコジーをかぶせて保温。その大雑把さが可笑しくてくすくすと笑った。
 柔らかなソファに身体を深々と沈めていると今日の疲れが一気に身に染みた。愛想笑いも、全身に気を配った所作も、生まれたってずっと見に染みついたもの。学生時代でさえ皇族としての品位を保つための最上級のマナーは必須だった。
 だが、今日の公務は財界の要人である老獪な人物であったため、精神的に酷く疲れていた。勧められ断り切れなかったワインも過ごしすぎた。兄たちはもっと大変だろう。女性はお酒を断ることを許される。
 濡れ髪をバスタオルでまとめて、一日中パンプスに押し込められて移動づめだったせいで少し痛む足をだましだまし、大きなデスクの前に移動する。手にしたマグをマホガニーの上に置いて椅子に座り、コンピュータにログイン、皇族専用のプライベート回線を開く。風呂上がりのあられもない格好のまま、だが気にしないことにした。
 軽やかなピープ音が相手の通信の受諾を知らせる。画面の向こうに鮮やかな紫。深い色合いのびろうどの薔薇の花びらに似ている。涼やかに切れ長な瞳がユフィを視て、ふわりと微笑み苦笑した。
「また、随分色っぽい格好をしているな」
「……はしたないですか?」
「いや、今日は狸親父の相手を任せてしまったからな。疲れたろう?ユフィ」
 いいえ、とユフィが笑うと、姉は労るように慈しむ視線をユフィに向けてくれた。
 事務的なやりとりを多少の雑談を交えながら幾つか済ます。こうして今は遠い姉との時間を過ごすのはユフィの日課だ。
「そちらはどのような様子ですか?」
「まあ、さしあたって問題はないな、ああ、それより今回あちらが出してきた懸案だが……」
「お姉様、そうではありません」
 ぷいと拗ねて見せて、ユフィは私物として持参した腕時計を画面に向かって突きつけた。公務員の終業時間はとっくの昔に過ぎている。超過勤務の特別職に就く人間だろうと今の時間は休んで良いと言える時間になっている。
 無言の主張はプライベートを強調していた。
「……」
「お姉様もギルフォード卿にもお変わりはありませんか?将軍は如何しています?侍女達も恙無く?今日のそちらのお天気は如何ですか?こちらは凄いスコールがきたんですよ。あんな風に降るなんて。外務次官の方にお聞きしていましたけれど、初めて。雨がふるというより、落ちてくるみたいでした」
 にこにこ微笑みながらユフィが立て続けに言うとため息を履いてこめかみに指をおしつけたコーネリアが参ったとばかりに目を閉じる。
 これが仕事から、プライベートに頭を切り換える際の姉のやり方だと、姉姫の騎士と妹のユフィは知っている。
「特に変わったことはない。ああ、ユフィに似合いのフレグランスを見繕ったな。帰ってきたら贈ろう。その国のスコールの話は聞いている。以前行った戦場だが、砂漠の方も凄いぞ。夜と昼とでは同じ場所かと疑いたくなるというものだったな」
 姉が駆け抜けてきた戦場、妹が行くことの出来ない『戦場』、ユフィにはユフィの戦場がある。
「ただ、空が青い。地平線の――何処までも青かった」
 踏みつぶして薙ぎ払った、それ以外の記憶はその青しかないと姉は言う。その心を少しでも慰撫できることを願い、ひたすらにユフィは姉を見つめ続けた。
「こちらは空気が綺麗です。昼間は少しほこりっぽかったのに、水が全部を洗い流すみたいに。空気が澄むという言葉の意味を初めて識りました」
 海を隔てて、他愛ない会話を繰り返し繰り返し。雨に濡れた話をすれば、枢木は何をしていたと本気の笑顔で怒りを見せる姉に、ユフィは笑って、紳士的に上着で庇ってくださいましたわと淑女のお手本のように答えて可笑しそうに笑った。
 通信自体はそうそう長くなかった。ユフィの疲労が色濃いことは姉には手に取るように解る。画面越しだろうと何だろうと。
 お休み、ユフィ。良い夢を。
 小さな頃と変わらない夜の挨拶。
 お休みなさい、おねえさま。
 姉妹の会話はそうして終わった。ぱちんとコンピュータを落としてしまうととたん、会話が抜け落ちたあとの静けさが忍び寄ってくる。寂しさに駆られて周りを見渡せば、いつの間にかスザクが戻ってきていた。ソファに座ってマグを傾けている。テーブルの上に散らかる書類。それが明日のユフィの公務に合わせた警備配置とスケジュールの変更点なのだろう。昨日スザク自身が訂正箇所を申請していた。ユフィも説明を受けていたから、スザクが見ている内容の概要は把握していた。

 
 
 
 
 
 


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