Now, to return to my place. Place. 怒りも欲情も憧憬も愛情も人間だから抱くもの。 そのような人間らしい感情を『自分のため』に抱くことなどまずあり得ないと思っていた。喜怒哀楽の分は勿論残っている。ただそれは幸福を享受するという人が持つ真っ当な機能のためには働くなって久しい。感情は総て作り上げた規範に従い沸き起こるものだ。 己の正義のために。 己のルールのために。 己の持つ価値観のために。 それすなわちエゴのために。 気が付いたらそれらが当たり前の自分の行動規範になっており、感情の起因となっていた。 その、代替作用としてなのか、反作用としてなのか、良く解らないが人が真っ当だと思うものを真っ当だと感じることは出来ても、『自分のために』真っ当に感じる機能はいつの間にか作り替えられ正常な機能を果たさなくなった。契機はいつだろうか。思い当たるだけでも片手では足りない。それだけ犯してきた罪の足跡。その一歩一歩の起源をたどっていけば、何とかたどり着く場所には喪失の二文字が必ず刻まれていた。決して消えない罪の刻印の如く。 父を殺したとき、日本という国が消えたとき、その二つの喪失を受け入れたとき、彼は自分が奪ったものの価値を正しく理解し、自分のためのちからを殺した。あの時、確かに枢木スザクは死んだのだろうと真実思った。 同胞の血に塗れた瞬間己の魂は地獄より深い場所へ堕ちたと思った。これ以上の罪深さももはやありはしないだろう。 闇の底、此処ぞ自分に相応しい場所であると信じ疑わなかった。 何より、この千年の闇から抜け出すことなど未来永劫望まなかった。 真っ当な人としての生き方など考えるだけで咎負うこの身に分不相応。 でもそれ以上に、考えもしなかったことが、一つだけあった。この永劫の闇から掬い上げられることなど本当に、全く、考えたことすら。祈ったことすら。 無かった。 皇族専用機から一歩出て、タラップを小さな足が踏みしめる。陽が差さぬ空間から青空の下に出た途端、眩しい陽光がユフィを照らした。まばゆさにくらりと一瞬頭と視界がかすむ。それを察したように、ユフィがこの世で一番信頼する人の手が差し伸べらた。必死に皇女を振る舞うユフィを理解しようと常に務めてくれる人の、暖かく、大きな手だ。 眩しい日差しの下、ユーフェミアは柔らかく微笑んで、この上なく優雅な所作で己の当然の権利に預かるために静かに繊手を、彼女の騎士に預けた。一瞬、タラップの一段下にいる己の騎士と視線を合わせ、翠の色を焼き付けた。久しぶりの翠は、日差しを複雑な光彩で弾く、変わらぬ美しさだった。離れていた時間などそんなに長い数日でもないのに懐かしく感じて少女は一瞬唇を噛む。そして瞬きの間目を閉じ、再びすみれの瞳を啓くと同時に頭が毅然と上げられた。例えお飾りとしての議会の列席であろうと、彼女は皇女として国の代表足る人間である限り昂然と顔を上げねばならない。そしてそんなことを感じさせもせず彼女は静かに微笑んだ。いとも優雅に細い項をなだれる髪が彩っていく。ふわりと舞う花の色。風に煽られるタラップから一段、足元も見ずに一歩を踏み出した。己の騎士は決して預けた手を離さない。姫君が膝下を気にする必要はない。 花のような姿の皇女は、出迎えの参列を前に小さな足を一歩踏み出す。真っ直ぐな背もあげた視線も決して揺るがず、しかし見事に典雅な所作で彼女は静かに歩いていく。その顔に微笑みを絶やさずに。 整然と整列した出迎えの最前列に並んでいるのに、影のように目立たぬよう、それでもユフィの傍に控えていた見慣れた翠の双眸は決して視線を下げぬ主君をいかなる災禍からも護るよう彼女に当然に手を伸ばしてくれた。どんな豪華な出迎えよりも、誰が其処で待っていていてくれるよりも、ユフィはその人が其処にいてくれた事が一番に嬉しい。タラップを降りきった一瞬ユーフェミアはスザクを見上げた。晴れ渡る空を背景に真摯な姿が其処にある。皇女として、主として、ユーフェミアは慎ましく騎士の気遣いを与り、いとも優美に微笑んだ。 姫君の騎士は向けられた微笑みに聡く気が付き、己の分を守って黙礼した。この騎士にはそれだけでよかった。ただの少女が必死に皇族として、国の号と業を持つ娘としてお飾りと言われようと課された名と役割を振る舞う姿を哀れにも心強くも、誇りにも思い、そして少女の飾り気のない、スザクに向けられたユフィの微笑みだけで、彼が護るために差し伸べた手も忠誠も、その想いすら、総て捧ぐに足るのだから。 数日にわたる地区の定例議会への列席を終えた後、皇女への出迎えの労を皆に労ると直ぐさま政庁に戻り、休息を取ることもせずその足で、第三皇女は即座に兄皇子と姉皇女の元へ馳せ参じ、まずは無事に帰還したことの挨拶を述べた。そして今議会の要件に関する数点の結果と今後の方針、及び要点について型どおりに、だが粛々と全ての報告を済ませると、彼女の傍らに控えた書記官の公式文書を奏上し、漸く数日にわたる彼女の公務を無事終えたのだった。 「ただいま戻りました」 服装を盛装から正し、楽なドレスに改め私室で騎士と対面するいつもと変わらぬ姫君の微笑みは花の如く。数日ぶりに見た主の前に己の騎士は変わらぬ忠誠と共に静かに傅き頭を垂れる。 「ご無事のお戻り、何よりでございます」 「こちらも我が騎士の活躍すべき事態には及ばなかったと聞きました。戦勲を立てるのは名誉なことですが、そのような事態が起こらないことこそ一番です。――ランスロットにはご不満ですか?」 「いいえ。騎士としては恥ずかしい言い分とは思われましょうが、我が剣の活躍する場のないことこそが何よりの誉れでございましょう」 「ありがとう、そう言ってくださると思っていました。さあ、顔を見せてください、わたくしの騎士」 許しを受けて頭を上げると、鉱石の翠の瞳が淡いすみれの紫を捕らえて、途端ふわりと柔らかく和んだ。傅いたまま顔を上げた騎士を見下ろすあるじの顔も、やはり柔らかな笑顔であった。 静かに衣擦れの音がしてユーフェミアの繊手がふわりと振るわれ、立ちなさいと仕草で言葉無く促される。細い手首を彩るレースが繊細に波打ち翻った。命ぜられたまま隙のない身のこなしでスザクが立ち上がると、互いの視線の位置が入れ替わる。その顔をつかの間、じっとお互いに見つめ合い、かちり、と秒針が動く音を幾つか数える間、二人共が固まった。けれどぱちりと二人が同時に瞬きした瞬間、真っ正面で相対していた少年と少女の笑い声が室内に弾けた。 その途端躊躇無く少女は小さな靴でとんっと床を蹴り己だけの騎士に飛びついた。 細い腕がスザクの首元に回され、飛び跳ねた勢いのまま抱きつくと、勢いそのままくるりと一回転。それでもスザクは危なげなく少女を抱き留めて、揺らぐことなく支えてみせた。転ぶことも倒れることもなく、そんな危険など始めから頭にもなかったユフィはとんと床に、小さなつま先をおろした。 「ただいまかえりました、スザク」 「お帰り、ユフィ」 苦笑しながら、満面に咲く花の笑顔にスザクは応えた。 主君と臣下の境目は、それが必要な場所と時ならば、いついかなる時でもけじめを付ける。それが例え形式的、形骸化したものであろうと社会的責任を伴う身分を持つ人間には必要なものだ。公と私を区別すると言うこと。ユフィは私情からでなくスザクが騎士たるに相応しい人物であることを認め騎士就任の人事を皇族として行ったと衆目に毅然と胸を張るために、スザクは主君足るユーフェミアに些かの瑕疵も許さず皇族麾下に相応しき騎士として傍らで控えるために、ただのスザクとユフィとして出逢った二人にとってこういった特に改まったやりとりは、特別なけじめのようなものだ。だが、ユフィとして、スザクとして、ただ過ごしていいと互いに許した時間に、こういったやりとりを検めるのはなんだか可笑しい。お芝居をしているみたいだ。 皇女としての意識を持つことは勿論大切で、でもスザクの前ではユーフェミアはいつもどこかでただのユフィを出してしまう。初めての出会いのが少々特殊だったためかもしれないと思いながら、すみれの瞳を眇めて翠の瞳を覗き込んだ。見慣れた翠はいつも見ていたとおりに優しくて綺麗だったから嬉しくなって思わず微笑む。 美しく結い上げたシニヨンも髪飾りも取り去っていつもより緩やかに結い流した髪、豪奢な盛装でも、副総督としてのかっちりとした正装でもない、ふわりと足を流れる白いレースの花のモチーフを重ね、淡い日だまりの色でグラデーションを付けたなめらかな衣裳、裾のふくらまないすとんと細い足に絡むドレス。豪奢な飾りを落とすだけで皇女は少女に戻り、皇女としての強制規範を取り払えばスザクのたったひとりの姫君になり、そしてただのユフィになる。それを嬉しいと想うのは傲慢だろうか。飛び跳ねたせいで乱れ零れた髪を一房すくいあげると、ユフィは嬉しそうに、でもくすぐったそうに肩をすくめた。 「スザクが拗ねてるといけないから、急いで帰ってきたんですよ」 銀の鈴を転がすような声で、何が楽しいのかユフィが可愛らしく口元を抑えてくすくすと笑った。 「……拗ねてませんよ?」 些か間を置いた応えに、再びこらえきれずに可愛らしい笑い声がはじけて零れた。 「いいえ、構ってもらえなくてそっぽを向いたアーサーそっくり」 言い切って真っ直ぐ覗き込み、微笑みかける紫の瞳はいつも優しくスザクを見ている。こんな風にどんなに態度を取り繕ってみせても、ユフィはスザクをあっさり乗り越えてきてしまう。ある意味、容赦のないユフィにスザクは僅かに眉根を寄せてみせた。 「それなら、今度からは警護から自分をはずさないでください」 その声が存外深刻だったから、今度はユフィがほろ苦い顔をして寂しく顔を伏せて笑った。 「ランスロットは特別です」 スザクの首から肩に手を置いて、とんと靴の踵をおろす。細い体を抱き留め支えるスザクの腕に惜しげもなく花の色の髪がなだれた。 戦況をたった一騎で覆す皇女殿下の白き騎士、その立ち位置は常に特殊だ。戦時下では主君であるユーフェミアの命令により、主君たるユーフェミアより戦況への参加を優先させられる前代未聞の皇族の騎士。その所属は正式には第二皇子シュナイゼルが軍籍を与っていることとなる特別派遣嚮導技術部に在籍する。それだけでも皇女麾下の騎士として異例だというのに、第7世代ナイトメアフレーム、ランスロットデヴァイサーの名はブリタニア軍にもイレブンの間にも既に音高く、名声だろうが悪名だろうが轟く勢いで名を上げている。スザクとランスロットの揮う力が如何に桁外れなのかは、彼らが踏破してきた戦場に刻み込まれていた。軍内部でのランスロットの戦力、立場、位置、特殊性、スザクも良く解っている。そして今回ゲットーが不穏な動きを見せていたことも、ユフィの行く議会が開かれる地域はエリアイレブンでも特別治安の良い租界であったことも、皇女の専属護衛の任が姉姫直属の将軍に拝命が下ったことも解っていた。だが、それでも、この人を護ると決めたのは他の他人ではなく、スザク自身だ。 「でも、次は連れて行ってもらうから」 柔らかに波打つ前髪をそっとかき上げると、すみれ色の瞳が少しだけ苦しそうに、寂しそうに、困ったように瞬いた。――それは約束できることではないとユフィは心得ている。スザクも勿論心得ている。けれど肯いて欲しい。こんな顔を何よりさせたくないと願っているのも真実だけれど、肯いて欲しい。 命なんてものは、簡単に喪える、奪えるものなのだから。スザクがこの手で大勢の人間を屠ってきたように、この腕の中にある命を死ぬほど奪いたいと願う人間が確かにいるのだ。彼女の危難は世界を変える。スザクの世界も、極東の情勢も、ブリタニアの情勢すらも変えかねない。その価値のみを視て、第三皇女を狙うものなど掃いて捨てるほどいるだろう。 そんなことさせてたまるか。 翠の瞳が伏せられる。一瞬獰猛な光を孕んでかき消す。姫君に垣間見られるその前に。 魂を。 最低の場所まで一度己の手で突き堕として、すくい上げられた。彼方の光を示されて、知らないこととはいえ血に染まった真っ赤な手を、躊躇無く握ってもらった。一緒に行こうと光さす場所へスザクを引っ張っていってくれた。誰からも得られなかった、得ようとすらしなかったスザクに、この理想の行く先と、感情をくれた人。 「――今度は将軍に頼み込んで絶対代わってもらいますから」 実はかなり本気のこもった言葉だったのだが、聞き分けのない子どものような言い分には変わらず、ぱちっと大きな瞳を瞬かせたユフィが思わずといったようにくすくすと笑い声を零した。可笑しそうに口元に手を当てて小さく笑うユフィのもう片手はスザクの肩に乗ったままでほんのり暖かい。スザクはユフィを抱き止めた姿勢のままとても近い距離で優しい声が当たり前に笑っていること、腕の中にこの熱があってこの人が居ることを漸く現実として噛みしめる。 今はもう、導の光を失ってしまえば自分がどうなってしまうかなんて考えたくもない。 ふわりと流れる髪を一房すくって指に絡めればさらさら零れ落ちていく。零れ落ちていく端から勿体ないなと思いながら、花の色した柔らかな流れに唇を落としてすみれの瞳を覗き込むと、翠の双眸が一瞬孕んだ深い色を、確かに捕らえたユフィが零れる笑いを苦笑に変えた。 「スザク、やっぱり拗ねてます」 笑い声をおさめ困ったように眉を寄せて仄かに微笑むユフィに、色んな感情を呑み込んだスザクが今度は笑いかけ、白い額にも唇を落とした。そんな顔をさせたい訳じゃない。いつだって、笑っていて欲しい。 ユフィが大人しく目を閉じて、その柔らかに白いまぶたの上に一つ。 笑って笑って笑って笑って、どうかいつも平穏であって欲しいと祈りを籠めて口付ける。その平穏を護るものは常に己自身であれと心得ながら。 そしてスザクが願うとおりに、いつだって柔らかに笑う柔らかい唇にまた一つ。ふっと色違いの瞳が薄く開いて一瞬互いの視線が結ばれ、翠の瞳をゆるりと伏せながら僅かな距離をスザクが縮めた。なめらかに線を描く頬からあごを、大きな手のひらが掬い上げる。抗う抵抗は抵抗にならない。かがみ込むように体重をかければ小さくユフィが喉の奥で息を殺した。 そのまま深く侵る。角度を変えて苦しげに零れる呼気まで貪る。幾度も深く重ねて深く絡めて深く浸る。 ――口寂しかったのは本当だ。喋れない、名前を呼べない、そして、触れられず貪れなかったこの数日どんなに餓えていたか。 小さな拳がとんとスザクの軍服の胸を叩いた。息継ぎなんてスザクだけの都合で、ユフィの肺活量なんて考えもしない。そんなことに構わず小さな頭と項にかけてを手のひらで押さえて逃がさない。 幾度も吐息を重ねて、絡めて、ふあ、とユフィがあえぐ声すら閉じ込めて飲み込んだ。数えることも忘れた頃にスザクの首元にぐいっとかなり強く負荷がかかる。くちゅりと水音をさせて唇を解放すれば、絡んだ舌がまだ柔らかすぎる感触をほしがって餓えていた。 「すざく……?」 かがみ込んだ栗色の髪が柔らかにユフィの額をくすぐった。あがる呼気も濡れた瞳も唇もそのまま、くたりと腕の中の細い躰と声からいつの間にか力が抜けてたけれどユフィの躰を支える腕は些かも揺らぐことはない。 「何?」 優しく聞けば潤んだすみれ色が涙を弾いて瞬いた。 言葉にかぶせるように、もう一度唇を重ねると、またそれに抗議するように首元に負荷がかかる。それに構わずに続けていると、とぎれとぎれに舌足らずな声が零れ落ちていった。ん、と小さな吐息と声が零れて、スザクに呑み込まれた。 「すざく、にがい」 頬を真っ赤にしながら小さな唇を開いて息を継ぎ継ぎユフィが言う。言われて初めて、煙草を喫った後の口づけだったことにスザクが気が付く。 「ああ……ごめん、ちょっとね」 ぐいと華奢な手に引っ張られても構わずにいたせいで、ユフィの抗議に使われたクラバットはとっくにスザクの首元で乱れていた。僅かに離れて、首に感じた負荷はこれが引っ張られたせいだったらしいと漸く気が付く。そんなことはスザクにとっては些末事で、乱れたクラバットに構うことなく濡れた唇を親指でぬぐう。されるがままにユフィはスザクの胸元に抱き込まれた。ふわりと香るのは煙草の臭い。すみれの瞳が驚いたように開かれてスザクの栗色の髪を見上げた。 「シガレット?どうして……?」 普段煙草など吸わないスザクの髪から香るのは紛れもなく煙草の残り香だった。 だが本当のことなんて言えるわけもなく、ロイドの言葉が正しかったこと悟る。天を仰いだままスザクは心中で唸って、正直な告白をした。 「……構ってもらえなくて口寂しくて拗ねてたってこと。だから次は一緒に行く」 「スザク?」 困惑の色を乗せた潤んだすみれ色が柔らかな光で瞬いた。腕の中で小さくユフィが首を傾げる仕草の無邪気さに笑みがこぼれた。まるい線を描く頬も貝殻のような耳朶も首筋まで真っ赤だ。 この無垢な姫君は人が死ぬという意味の酷薄を識らない。特に殺人で喪われるそれはあっけないほど容易く簡単な、そして未来永劫に渡って取り返しの付かないことなのであるとまだ、知らない。知らないままで居て欲しい。彼女の立場はその無知を許さないだろうけれど、それが少しでもこのたった十六歳で、私を滅し皇族として、独り真っ直ぐ立つ責任を負うこととなった姫君にとって遠くあればいい、例えユフィ自身が皇族としての道を歩くことを望んだのだとしても、あの底無しの虚無を知る日が遠ければいい。でも、お願いだから自分がどれだけ危ない立場にあるのかを解って欲しい、彼女を殺せば世界が変わるという人間が万といて、それを虎視眈々と狙っている人間が大勢いるのだとも解って欲しい。きっと彼女は、解っていますと反論するだろうけれど、実際スザクが危惧するよりも彼女は彼女自身のことを確実に軽く見ている。能のない皇族一人、しかも皇位継承権を持つと雖も皇統の継承権は二十位近く。更に自分が死んでも素晴らしい姉や兄が居るとまで、彼女の血族の血は、彼女に、当たり前に、覚悟を強いているだろうとスザクは確信している。だが、そんなもの度外視してこの女の子を大切に思う人はスザクを含めて確かにいるのだ。もし、ユフィ自身がどれだけ深く、本当に大切に思われているのか解らないなら、せめて自分を傍らに置いて欲しいと、切に願う。 彼は彼女が同じように思っていることをまだ良く解っては居なかったが、騎士が姫君に向ける心は総て真実であった。 「……ごめん」 小さな声が消えそうな謝罪を口にする。一瞬紫の瞳が寂しげに揺れて、どうして謝るのと柔らかに語りかけてくる。その声に応える術も、分不相応な優しさを享受することが赦されるかさえ解らない、だから上手に返す言葉をスザクは持たない。 父を殺したとき、日本という国が消えたとき、枢木スザクは死んだのだと真実思った。 同胞の血に塗れた瞬間己の価値は地獄より深い場所へ堕ちたと思った。 其処こそが自分に相応しい場所であると信じて疑わなかった。 何より、この千年の闇から抜け出すことなど未来永劫望まなかった。 でもそれ以上に、その闇から掬い上げられることなど本当に考えたことすら、無かった。 好きになると言ってくれた人、好きという感情にとっくに許しが与えられていることを教えてくれた人、こんな風に人として当たり前の感情を感じたことなど何年ぶりか。 彼女の無邪気さ、無防備さ、優しさ全て。 怒りも欲情も憧憬も愛情も人間だから抱くもの。人間以下の場所へ魂を堕とした自分を、人間に立ち戻した彼女に抱く心のすべて。 「ごめん、今だけ」 一言だけ残して惹かれるままに再び傾けた頭を落とす。それだけでスザクと、呼びかけた小さな口を塞ぐのは簡単だった。細い項も小さな頭も簡単にスザクの手に収まった。華奢な腰に腕を回して、動かないように離れないように抱きしめられるだけ抱きしめる。目をきつく閉ざして苦しさに僅かにあえいだユフィの吐息は零れる端から呑み込んだ。いつの間にかクラバットを皺になるほど握っていたユフィの細い指先がずり落ちて、真っ白になるほど、スザクの服を掴んでいるのを口付けたままうっすら開いた視界の端で見つけた。その指先が酷く大切なものに感じられ再び強く目を閉じる。 この腕の中の存在丸ごと、大切で仕方ないのに苦しいだけみたいな口づけを重ねるのを赦して欲しかった。離れていた間をとにかく埋めるように貪れるだけ、深く幾度も侵入り絡めて重ねる。どうか赦して欲しい。今だけ。苦いけれど、いくさばの記憶の、煙草の味のする口づけを。 「ユフィ」 吐息のように呼ぶ声が掠れる。戦場でない、噎せ返る血臭も無い、スザクにだけに与えられた花の名を呼ぶ、此の場所でどうか。 ブラウザバックプリーズ。 * |