血の臭いを消すかのように。


Place.



 任務に否という権利など最初からありはしないのが職業軍人の在り方だ。一々命令に意義、否、疑問を唱えていたら即時即応の判断が必要な場面で命令系統は崩壊し、運が悪ければ味方ごと全滅だ。なればこそ、上官侮辱罪や敵前逃亡など指揮系統を乱さぬよう軍法がある。前戦においては軍事法廷など殆どあって無きものとなる、それほどに軍に属すると言うことは私を滅することで成り立っている。勿論、名誉ブリタニア人の号も剥奪されるだろう。下された命令は殲滅、指揮は絶対。それなのに、戦場では粗悪な煙草とアルコールが切れると、途端殲滅対象の組織から平然と薬入りの煙草が流通した。質は最悪、だが元手に比べて大漁に捌けるから実入りがいいのだろう。ブローカーは巧妙に軍内部に巣喰い、瞬く間に流行した煙草という名を借りたドラッグ。嗜好品なんて戦場では稀少品なのに、持っていない軍人を捜す方が困難だった。
「本当にあっという間に回りました。酒にも煙草にも多分何か入ってたと思います。純粋な酒も煙草もイレブンには高価たかすぎる。粗悪品ですらない、たぶん、そういうものだったと思います――それからはどんなにきつい煙草でも平気になりました。ここ数年、無理に勧めてくる人も居ないので吸わずに済んでいたんですけれど、久しぶりに吸ったら、凄くきつくて、仕草とか覚えてるのに、ああ、いつの間にか、時間が経ったんだなって」
 過ぎ去った時間の分重ねてきた過去。遠ざかったはずの戦場の幻影。なのに今、何の違和感もなくきついと言った煙草を吸っていた。結局は忘れられるはずもない過去だったと言うだけの話だ。
 キュウシュウで死地から帰還した後、少しだけ素直になった少年は苦しげに笑っていた。翠の瞳は影を落として、目を眇めて過ぎさった時間を眺めていた。
 それは常識という概念はあっても観念に欠けているロイドであろうとも、明らかに十七の少年が語る過去ではないと理解できた。確かに昔と割り切れるほどには時間が経ったのだろう。だが、現在十七のこの少年は当時幾つだったのだろう。ポケットに突っ込んだ手を握りしめる。スザクが背中を預けているトレーラーにロイドも立ったまま背中を預けて寄りかかり、いつもより深い色をした緑色から目を離して、彼の見つめる方向へ、遙か彼方の落日へ視線を送る。ただ同じ日暮れを眺めていた。
 所詮学者畑の己は戦場の火薬の臭いも血の臭いも汚泥も俘囚も経験したことなんて無くて、劣悪極まりない環境下にある兵士への肉体的、及び精神的摩耗についてなど机上の空論以上には語れない。遠い落日を見つめている少年の言葉を真実理解できるのは己ではなく、それは違う誰かの役目だった。
「で、どんな心境の変化?」
 ひょろりとした長身が首を曲げてスザクのつむじを覗き込む。突然の話題転換について行けなくて、懐古からいきなり引き戻されたスザクが面食らった顔をしたのに、ロイドは愉快そうに笑った。それで良い。振り回せるだけ振り回してしまえばいい。彼の唯一の君がそうしたように。そうやって一時でも血を流す慟哭に耳を塞がせればいい。彼を癒すのはロイドの得手ではない。役目でもない。きっとその為に、彼女は彼の傍にある。それぞれの足りないところを補うような二人、姫は騎士に権利と剣を与え騎士は信と剣を捧ぐ。天の配剤という言葉の妙を生まれて初めて信じてみた。
「へ?」
 間抜けな声に満足した。彼は今さっき感じていたことを全て、今一時でも忘れただろうから。
「だから、今もう年単位で吸ってなかったんでしょ?何で今更?」
 ロイドがからりと笑ってしまえば沈鬱な空気は紫煙と一緒に流れていく。ぱちりと翠の瞳を瞬かせ、スザクは面食らった。この人のこんな軽妙が不思議だと思う。何処までも果てしなく不真面目なくせに常に心裡と真理を目指す科学者なんてものを天職にする全く持ってつかめない人間。それでも、時折誰よりも人の真実を、科学者の業の通りに突き止める人だった。その矛盾はいつか自分を殺すだろう、その言葉をスザクははっきり覚えている。そしてそれを否定する言葉をスザクは持たない。真実は人を抉る、彼はそれを突きつける。それなのになぜか時折、酷く優しい人だ。その彼が突き止めようとする真実を考える。
 あの頃の、あの頃から今までのスザクの心境。拘泥に囚われながらの行軍。正直、自死を謀ろうとなどいくらでも思った。一度抜いた剣は何かを傷つけねば鞘に戻らぬと教えられた。ならせめて、何かを傷つけることでも、何かを為して傷と成す、その決意を伏して受けた身で、何も成さずに無為に死ぬことだけは出来なかった。己という害悪を消す手段で顎の下に銃口を向けては歯を食い縛って留まった。愛する祖国をこのまま残し、国の末路の責任を放棄し、独り死を選び楽になるのは、死ぬことよりも許せなくて、結局は撃てなくて、発狂しそうに苦しんだ。もしかしたらもう狂っていたかもしれない。己の精神が歪である可能性などとっくの昔に理解はしている。実感は薄いが諦観はしていた。それでも、己が簡単に命を捨てさせた父を思えば尚のこと何の意味もなく死ねなかった。そんな夜が幾晩も続いた、たった独りで獣のように踞る。軍隊に所属し、同胞を殺し、己の剣は何を傷つけ何を成そうとしているのか、闇を迷走するばかり。任務に服して息をつかずに体を動かしている時だけが思考から解放される一瞬で、もうあとは沈殿する闇に頭からつま先まで全身ひたされ、延々と侵されていった。
 枢木の名は軍内部でも特殊で、仲間のように接してくれる人はほぼ皆無で、孤独は孤独のまま幾晩も続く。それでも飛び抜けて年若いスザクに世事を教えてやろうと先輩風を吹かせるものは一人や二人くらいは、酔狂でもいるものだったらしく、縦社会の軍部では上官に逆らえるはずもなく、結局最後はいろいろと世間一般、人並みには悪いことを教えてもらった。その中の一つと一つが酒と煙草。現実から逃げたくなったら使えばいいと、とても穏やかな、年老いた声で言われた。その人もいつかのテロに巻き込まれて亡くなった。
 あの鎮圧のミッションが決行された頃ゲットーは本当にどうしようもなくテロリズムと薬に侵されていた。泥沼の名にふさわしいゲリラ戦が朝も昼も夜も関係なく続いた。破壊工作だけが日常だった。誰かが死んで、それが敵か味方かも解らなくて、そんな日ばかりが幾日も続いた。だからもう、本当にどうしようもない時、あまりに濃く染みついた血と硝煙の臭いをかき消すためだけに煙草を呑んだ。勿論イレブンに配給された、薬混じりの最悪な代物で、涙をにじませ咳き込みながら、こみ上げる吐き気に堪えながら、噎せ返るような血と臓物の臭いから焼け焦げる火薬の臭いから、一瞬でも構わない、遠ざかりたかった。己のした事に決して蓋はしない、未来永劫赦さない。全て、総て自分の中に、殺してきた人たちを納めてゆくから、その為だけに、少しの間だけ、血の臭いをかき消して、そしてやっと呑み込んだ――呑み込めたのだ。
 ……過去の心情など思い出しても全く益体もない。赦さぬ過去は決して忘れ得ぬ記憶として魂の底に灼きついている。かぶりを振り、それから今度は少し迷うように今現在の己の心の内を見直して首を傾げ、やはりこれだろうかと、少々自信なさげにスザクは眉を寄せた。
「――口寂しかったんです」
 いつも笑いかけてくれる声がないから。いつも沢山、話しかけてくれる人が居ないから。いつも一杯、名前を呼んでくれる人が居ないから。だから自分も笑いかけない。この声はいつもより言葉を紡がない。彼の人の、名を呼ばない。だから。
「――違うでしょ?」
 何を思いだしてかほんのり笑ったスザクの顔を満足げに眺めやった後、くしゃくしゃと頭に手を伸ばして茶色の髪をかき混ぜる。
「は?」
 ロイドの駄目出しに、くしゃくしゃの髪のまま、落日を追いかけていた視線が長身の人影を仰ぐ。ずばっと断言されてほけっとスザクがロイドを見上げた。
 にやにや笑って呆然とした翠の双眸を見返してくる眼鏡の奥の瞳が嫌な感じに細められ、スザクは思わず身構える。
「寂しかったんでしょ、ユーフェミア様、君を置いて出張行っちゃって」
「……は?」
 ぽけっと煙草を取り落としそうになりながら、ぱかっと目も口も開けたままスザクがぴたっと凍り付いた。いや、まあ、確かに、彼女が傍にいないから口を使わないなあと思ったけれど、ロイドの口調に籠められた響きがスザクを思いとどまらせた。
「ひとりぼっちでおるすばーん。……うーん、寂しいねえ?」
「そ、んな、こと。だって、今回はゲットーの動きが活性化しているし摘発が大々的に行われるのを警戒しているテロ組織も幾つかあるしナイトメアフレームを手に入れた組織があるって情報も流れているし今はいつ何が起こるか解らなくてだからランスロットはいつでもスタンバイしておかなくてはいけないからって仰られて確かにそれはそうでだから自分はここから離れるべきではないです、し。」
「し?」
「殿下も御公務をお休みになるわけにはいかない、大事な会議ですから――」
「から?」
「拗ねるとかそう言うのとは――」
「とは?」
 暫し押し黙るスザクが、ロイドにとってはだが、何とも言えない、とても面白い顔をした。
「で、結論は?」
 じりじりした沈黙がその場を満たした。居心地悪いというか、拗ねているというか、ひとり頭の中で問答を繰り広げているらしいスザクが押し黙ったまま息をぐぐっと詰め、何かに堪えるようにむむっと俯き、唇を引き結んで、それから瞑目して何かを諦め空を仰いでむくれるようにそっぽを向いた。
「――寂しいですよ。ちょっとだけ」
 その瞬間、ぱかっと目を見開いたロイドがラボの方を向き口に両手を添え即席メガホンを作成した。
「……ちょ、君……!セシルくーん!!今晩、おせきはーーーーーん!!」
「は、え、なんで!?お赤飯知ってるんですか?!っていうかセシルさん呼ばないでください今駄目です今は特に絶対に!」
 愕然とした表情をすぐさま翻し特派で一番偉い人はラボに向かって己の助手に絶叫しながら指示を与えたが、即座にデヴァイサーに遮られた。
「だって君ちょ、どうしたの何で空気読んでるのしかもなんか甘酸っぱいよ!?……っていうかセシル君呼んだら駄目なんだ?ん、ああ、それ?それねえ」
 確実に面白いおもちゃ扱いしながら心底楽しそうにスザクの手元をにやにやと実に愉快気に覗き込む。その手の中、大分短くなった煙草をじっと見つめている。ふわりふわりと紫煙が空へ向かって昇っていった。
「あっは、どうする?セシル君より心配しなくちゃいけない人居るでしょ、ユーフェミア様に嫌われちゃうかもよ?」
 事実の指摘に、マリアナ海溝より深い沈思と黙考の後に、スザクは姿勢を正し、セシルのみそ汁を飲み込んだときのような顔をしてロイドに何とか向き直った。
「あの、ええと、ごめんなさい秘密に、して、いただけませんか?」
「……嘘つくの嫌いなのに必死だねえ」
「黙っていることと嘘をつくことは違います……ということにしてください」
 そんなことを付け足す程度には罪悪感があるらしい。
 くつくつと、久しぶりに腹の底から笑いながら長い腕が伸ばされる。ロイドと話している間、立て膝の上に煙草を持った腕を置いていたスザクの手元から、火事の原因となりそうな物証をひょいと取り上げた。結局吸ったのは最初の少しの間だけで、上司の前では殆ど吸わない律儀さが礼儀正しいスザクらしい。ついでにジッポと煙草一箱も回収。
「じゃあ、没収、セシル君に怒られてくるんだね」
 ざあっとスザクの血の気がひいて、一気に音を立て青ざめた。ロイドの言葉は、何というか、上官に対する拳の愛情を間近でいつも拝んでいるため、スザクは逃げ出したくて仕方がないのだが。
「すみません、もう絶対にしませんから……!」
 顔を真っ青にしたスザクが上司にこれ以上なく全力で必死に頼み込むが、上司はとても無情だった。あの幻の左を知る身の上では同情はしても、それを軽く凌駕するくらいに、楽しいからなあ、と言う人でなしな思いが先立つほどにはこの枢木スザクという生き物はとてもいじっていて面白い。愉快な笑い声を上げながらロイドはとどめを刺すべく火の点いたままの煙草をスザクに示した。
「だあめ。それにね、枢木少佐?人は自分に相対する異性のにおいに敏感な生き物だよ。本能的なものだろうけれどね。特に女性にその傾向が強い。煙草なんて吸っちゃあ相手も喫煙者でない限りはよっぽどのことがない限りは一発でばれちゃうよ。僕が言うまでもなくね。それくらいならもう正直に暴露しちゃって謝罪入れた方がいいと思うよ、ねえ、セシル君?」
 ぱっと煙草が火の粉を巻き上げ地に墜ちる軌跡に一瞬の赤が燃え上がる。火の粉を零して、アスファルトの上に転がった吸い殻は無惨にロイドの靴に踏まれて火を消した。そのままゆるりと腕を組んで、ノッポの上司が振り返れば、そこには慎ましく軍服に袖を通した働くお姉さんの立ち姿。いつから居たのか、全く解らないが柔らかく微笑む佇まいに、スザクは一気に青ざめた。
「偶にはまともなこと言うんですね、あなたも」
「せ、セシル、さん、あの」
 ぴかっと笑った可愛いお姉さんは笑顔のままぐっと拳を握りしめた。
「スザク君、未成年者の、禁酒禁煙って、知っているかしら?」
 存じております。なんて言ってはいけない雰囲気だ。がくがく首を振りながら肯定の意だけを示すので精一杯。怖い。心底。
 よろしい、と鷹揚に頷くと、ロイドの隣に並んだセシルはこの上もなく優しく微笑んだ。
「さあ、あなたは今、何歳だったかしら?私に解るように、きちんと、教えてくれる?」
 デヴァイサーは究極的にはランスロットの部品の一つでしかない。優れた技術者というのは部品の性能一つ一つにまで精通し、理解が及び、尚かつそれを活用できるスキルとセンスと閃きを持つ者であるがセシルはまず間違いなくその一人に数えられるであろう。何しろ変人と名高い上官の色んな処で断絶してはぶっ飛ぶ思考回路に着いてきて、尚かつ、技術、開発、アイデア提供、論争、全てをサポートするのだから。そんな彼女にはデヴァイサーについてだって、身体測定から過去の履歴から精神鑑定の結果から知らないデータなど存在し得無い。それなのに改めて年齢を聞かれることがこんなに怖いだなんて何事だ。
「ご、ごめんなさい……!すみません!」
 がちっと固まったままだった躰が反射的に動き出す。座り込んでいた体制からバネに弾かれる勢いで一気に直立不動になって九十度にがばっと頭を下げる。上官に対する謝罪なら申し訳ありませんでしたマム、と共に敬礼になるのだろうが、無理だ。絶対に無理だ。悪いことをした子どもはごめんなさいと頭を下げるのが相場であるが、スザクは本能でその行動を取った。土下座を選択するか実はスザクの中では二択だったが、土下座という日本特有の文化を相手が知っているかどうかまで斟酌している余裕がなかったのでとにもかくにも誠意が伝わる方法を反射神経が選択したのだ。
 直角に頭を下げたスザクの癖毛のつむじをじっと見つめて、セシルはロイドから煙草とジッポをもぎとる。きゅっと唇を噛みしめ、腕を組み、思案する。悪い子にはお仕置きを与えねばなるまい。しかも喫煙というのは常習性がある。煙草を吸わないで得られるメリットより、煙草を吸うことでこれから起こるデメリットの方が確実にスザクの行動を縛るだろうとセシルは非情な決断を冷徹に下してにこりと笑った。
「次があったらユーフェミア様に注意していただきます」
 叩いたら音が響いて砕けそうなほどスザクが凍り付いた。
 それはつまりユーフェミアにまでこの話が行くということで、それだけは避けたい。どうしても避けたい。もう、何よりも、避けたい。
「ごめんなさい、僕が悪かったです、二度としませんからそれだけは本当にかんべんして、くださ……」
 スザクの言葉の最後の方はもうなんだか言葉にならなくてよろよろしていたが、ぷりぷり怒る不機嫌なセシルは見ていて可愛らしいし(身に染みて物騒だとしってるけれど)よろよろしているスザクは、彼の視てきた過去の地獄を思い出している、自分が傷ついていると知らないような目をしているときよりずっと、ロイドにとっては面白いし興味深いし、見ていて愉快で楽しい。そう言えば、心の底から馬鹿笑いすることが彼が来てから統計的に増えているなと換算しながら、第一発見者はけらけらと無責任に笑ったのだった。

 
 
 
 
 
 


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